イラン革命は何を取り戻そうとしたのか?王政・石油・対外依存への反発
ペトロダラーの表と裏:第7回
前回見た石油危機では、産油国が石油の価格と収益の主導権を、自分たちの側へ引き寄せようとしたことが見えてきた。
では、石油の主導権だけでなく、国家の向きそのものを外から決められたくないと考えたとき、何が起きるのか。
その問いを最も強く突きつけたのが、1979年のイラン革命だった。
この革命は、しばしば「親米王政が倒れ、宗教国家が生まれた事件」として語られる。
もちろん、それは間違いではない。
だが、それだけでは足りない。
この回では、イラン革命を宗教国家成立の事件としてだけではなく、
外から決められる秩序への拒否として読んでみたい。
そうすると、その後にペルシャ湾が、単なる産油地帯ではなく、米国が軍事的に「守る」と公言する地域へ変わっていく流れも見えやすくなる。
シャー体制とは何だったのか
イラン革命を考える前に、まず「シャー体制」とは何だったのかを押さえておきたい。
ここでいう「シャー」とは、当時のイラン国王、モハンマド・レザー・パフラヴィーのことだ。
革命前のイランは、この王政のもとにあった。
シャー体制は、単純に「古い王政」だったわけではない。
むしろ、自らを近代化の担い手として演出していた。工業化を進め、国家を強くし、西側との結びつきを深め、イランを現代的な国家へ変えていこうとした。外から見ると、それは一種の発展モデルのようにも映ったかもしれない。
けれど、その近代化は、多くの人びとにとって「自分たちで選び取った変化」というより、上から押し進められる変化として映っていた。
しかもその体制は、反対派を強く抑え込み、政治的な自由を狭めてもいた。
つまりシャー体制は、近代化と秩序の象徴であると同時に、抑圧と息苦しさの象徴でもあった。
ここでさらに重要なのは、この王政が国内の問題だけでは完結していなかったことだ。
シャー体制は、多くのイラン人にとって、単に「王が強すぎる」というだけでなく、西側、とくにアメリカとの強い結びつきの中で成り立っている体制にも見えていた。
だから不満は、王政そのものだけでなく、「この国の向きが、自分たちではなく外の力に引かれているのではないか」という感覚とも結びついていった。
この視点を置いておかないと、後の革命がなぜそこまで大きなうねりになったのかが見えにくい。
革命は、単に宗教的熱狂が爆発した出来事ではなく、長く積み重なった政治的不満と、従属への違和感が噴き出した出来事でもあった。
革命は、何への反発だったのか
この前提に立つと、イラン革命は単純な宗教反乱ではなかったことが見えてくる。
Britannica も、その背景として、シャーの専制的支配、西側の干渉、経済的困難、そして社会的・政治的抑圧を挙げている。
つまり革命は、単に「宗教勢力が立ち上がった」出来事ではなく、王政のあり方そのものへの反発の上に生まれていた。
ここで大事なのは、「西側干渉」という言葉を軽く流さないことだ。
イランにとって近代化や国家建設の問題は、つねに「自分たちで決めているのか、それとも外の力の中で決めさせられているのか」という問いと重なっていた。
その感覚は、モサデグの国有化の挫折と、その後の王政強化の記憶とも無関係ではない。
前回見たように、モサデグの石油国有化は、単なる経済政策ではなく、資源主権を取り戻そうとする要求だった。
だが、その試みは挫折し、その後のイランは、外部勢力と強く結びついた王政のもとへ戻っていく。
この記憶が残っているかぎり、王政への反発は、単なる国内政治への不満にとどまらない。
それは、「また自分たちの国のかたちが、外との力関係の中で決められているのではないか」という疑いとも結びついていく。
だから革命の怒りは、シャー個人だけに向いていたわけではなかった。
その背後にある、従属を含んだ秩序全体にも向いていたのである。
イラン革命を理解するうえで重要なのは、それが「自由化を求める運動」だっただけでなく、外から決められる国家の形そのものへの反発でもあったことだ。
この視点がないと、革命後の反米性も、後の湾岸秩序の軍事化も、ただの感情的対立のように見えてしまう。
つまり、革命が拒んだのは、単に一人の王ではなかった。
王政の背後にある抑圧の構造であり、外と結びついた支配のあり方であり、自分たちの国の向きを自分たちで決められないという感覚そのものだった。
そこまで見えて初めて、イラン革命は、宗教の噴出という一枚絵ではなく、主権をめぐる歴史の延長線上にある出来事として見えてくる。
ホメイニは、何を象徴していたのか
イラン革命の中心に立ったのが、ホメイニだった。
Britannica によれば、彼は長年シャー政権を批判し、そのために1964年に追放され、イラク、のちにフランスから反体制運動を支えた。
そして1979年、亡命先から帰国し、革命後のイランで最終的な政治的・宗教的権威となった。
ここで注意したいのは、ホメイニを単なる宗教指導者としてだけ見ると、彼の象徴性を見誤ることだ。
彼は、王政への反対だけでなく、王政を支えてきた外部依存の秩序への拒否をも象徴していた。
だからこそ、彼は単なる政権批判者ではなく、「別の国家の論理」を代表する人物として支持を集めた。
もちろん、その“別の論理”がその後どういう統治を生んだかは、別の問題である。
革命はしばしば、拒否の局面では広く支持されても、その後の体制化の局面では抑圧や排除を伴う。
Britannica の事後史でも、革命後に革命防衛隊や聖職者勢力が他の政治勢力を抑え込み、反西側感情を体制の正統性に組み込んでいったことが確認できる。
それでも第7回で押さえたいのは、ホメイニが何を象徴していたかである。
彼は、王政の否定であると同時に、従属の否定の象徴でもあった。
このことが、後のイランの自立志向を理解する出発点になる。

Ruhollah Khomeini 【出典】Encyclopædia Britannica
イラン革命は、石油秩序も揺らした
イラン革命は、思想や体制の事件であるだけではなかった。
それは、石油秩序そのものを揺るがす事件でもあった。
Federal Reserve History によれば、革命に伴ってイランの原油生産は急減し、1979年1月までに日量480万バレル減、当時の世界生産の約7%に達した。
しかも重要なのは、単なる供給減そのものだけではない。
さらなる混乱への不安と投機的な買い溜めが、価格上昇をいっそう加速させたとされる。
ここで見えてくるのは、革命が「国内政変」にとどまらないということだ。
石油を大量に生産する国で政体そのものが崩れるとき、その衝撃は国内政治だけで終わらない。
原油供給の不安定化として、世界市場全体へ波及する。
だからイラン革命は、体制転換であると同時に、石油秩序の危機でもあった。
この点は、第6回の石油危機との接続でも重要だ。
OPECと石油危機を通じて、産油国はすでに値決めと収益の主導権を押し広げていた。
そこへ今度は、産油国の内部で体制そのものが転覆し、しかもその新体制が外から決められる秩序を拒否する。
それは、消費国側から見れば、価格の問題を超えて、秩序の不確実性そのものを意味した。

May 9, 1979: Cars line up outside a filling station on the first day of gas rationing imposed on nine California counties following the revolution in Iran that caused a shortage of crude oil. (Bettmann/Bettmann/Getty Images)【出典】FEDERAL RESERVE HISTORY
湾岸は、なぜ「守るべき地域」になったのか
こうして、革命の衝撃は湾岸全体の安全保障問題へつながっていく。
そしてそこに、1979年のイラン人質事件と、同年末のソ連によるアフガニスタン侵攻が重なった。
米国務省の FRUS 文書を見ると、この二つの出来事を受けて、カーター政権がペルシャ湾地域に対する新たな政策を形づくり始めていたことが確認できる。
その帰結として、1980年の一般教書演説でカーターは、ペルシャ湾地域を支配しようとする外部勢力の試みを、米国の死活的利益への攻撃とみなし、必要であれば軍事力を含むあらゆる手段で撃退すると宣言した。
これが後に、カーター・ドクトリンと呼ばれる。
ここで、話はさらに一段進む。
石油をめぐる問題は、ここで明確に軍事の言葉で語られ始める。
価格や供給だけではない。
ある地域が「世界経済にとって重要な産油地帯」だからという理由で、そこを軍事的に守ることが国家戦略として明文化される。
つまり、湾岸はここで、単なる市場でも外交の舞台でもなく、軍事的に防衛されるべき地域へと変わっていく。
これは、イラン革命をどう見るかにもかかわる。
革命側から見れば、それは外から決められる秩序への拒否だった。
だが外から見れば、それは石油供給と地域秩序の不安定化だった。
その結果、革命国家の“自立”要求は、外部世界ではしばしば軍事的管理の対象として読み替えられていく。
ここに、石油と主権の問題が、安全保障と不可分になっていく構図がある。
“自立”は、どこから軍事秩序の問題になるのか
この回で見たいのは、まさにこの点である。
イラン革命は、単に王政が倒れた事件ではなかった。
それは、国家の進路を自分たちで決めたいという強い主張でもあった。
その主張の中には、宗教的な正統性、反王政、反西側支配、反従属の感覚が重なっていた。
だが、石油と海上輸送と湾岸秩序が世界経済にとって重要である以上、その“自立”要求は外部からは別の顔を持つ。
それは、価格の上昇、供給の不安定化、同盟秩序の揺らぎ、そしてソ連を含む地政学的競争のリスクとして読まれる。
すると、自立要求はすぐに「地域の不安定化」と結びつけられ、やがて軍事秩序の問題へ変わっていく。
ここで初めて、これまでの連載の流れが一つに重なる。
イラン革命は、国家の向きそのものを外から決められたくないと問うた
その結果、石油をめぐる主権の問題は、ついに軍事秩序の問題へ達する。
これが、第7回で見えるいちばん大きな変化だ。
ここまでを、いったん整理しておく
イラン革命は、王政の崩壊と宗教国家の成立だけではなかった。
それは、外から決められる秩序を拒み、自前の論理で国家を立て直そうとする試みでもあった。
その背景には、シャーの専制、西側干渉、経済的困難、社会的抑圧が重なっていた。
そしてこの革命は、思想の事件であるだけでなく、石油秩序を揺さぶる事件でもあった。
原油生産は急減し、世界市場は不安定化した。
そのうえ、人質事件とソ連のアフガニスタン侵攻が重なり、米国は湾岸を軍事力を含む必要な手段で守るべき、自国の死活的利益の地域だと公言するに至った。
ここまで来ると、石油と主権の問題は、いよいよ海の上で現れる。
次回は、その軍事化がどのように海の「配管」の問題として現れたのか、タンカー戦争を見ていきたい。
連載一覧
関連マガジン
情報源
Office of the Historian / FRUS, Carter Doctrine related documents
Britannica, additional Iranian Revolution aftermath/background pages
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