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サダム・フセインは何を誇示しようとしたのか・・・イラクはなぜ「脱ドル」を掲げたのか?

ペトロダラーの表と裏:第9回

前回見たタンカー戦争では、石油の秩序が海の上で実際に攻撃されうることが見えた。
では、その秩序に対して、通貨や象徴政治のレベルから揺さぶりをかけようとした指導者たちは、何を誇示しようとしたのか。

その最初の本格事例として見ておきたいのが、サダム・フセインのイラクである。
ただし、この話は非常に誤解されやすい。
「フセインはドルに逆らったから潰された」というかたちで、一気に単純化されやすいからだ。

けれど、この問題はそんなに簡単ではない。
むしろ重要なのは、何が実際に起きたのかをまず確認し、そのうえで、その行為がどこまで実務で、どこからが象徴政治だったのかを切り分けることだ。
第9回では、その順番を崩さずに見ていきたい。


本当に「ユーロ建て」はあったのか

結論から言えば、これは事実である。
国連安保理文書 S/2000/1132 では、2000年11月7日の時点で、イラクの原油販売が米ドルではなくユーロで行われていると確認されている。
つまり、「フセインがユーロ建てに切り替えた」という話そのものは、陰謀論でも作り話でもない。まずはそこを冷静に押さえておく必要がある。

しかも、これは単なる口先の宣言ではなかった。
国連の Office of the Iraq Programme の資料では、Oil-for-Food の管理口座にユーロ建てで収入が計上されていたことが確認できる。
つまり、実務の上でも一定の切替は実際に行われていたと言ってよい。

ここで大事なのは、最初の一歩をあいまいにしないことだ。
第9回の出発点は、
「本当にユーロ建てはあったのか」
という問いに対して、
「あった」
と答えるところから始まる。
この確認がないまま話を進めると、以後の議論が全部ぼやける。

2000年11月時点で、国連文書はイラクの原油販売が米ドルではなくユーロで行われていると記している。第9回の出発点は、まずこの事実である。 【出典】S/2000/1132

ユーロ建て転換は自由な市場挑戦ではなかった

しかし、ここで話を大きくしすぎると、すぐに見誤る。
なぜなら、そのユーロ建て転換は、完全に自由な市場環境の中で行われたわけではなかったからだ。

当時のイラクは、国連制裁下にあり、原油輸出は Oil-for-Food プログラムの管理下で行われていた。
つまり、イラクが自由に世界市場で石油を売り、その通貨を好きなように選べる状況だったわけではない。
あくまで、国連が監督する限定された枠組みの中で、販売通貨がユーロへ切り替えられたのである。

この点はとても重要だ。
ここを飛ばしてしまうと、
「イラクは世界石油市場で全面的にドル秩序へ挑戦した」
という、実態以上に大きな話になってしまう。
実際には、かなり制約された条件の中での通貨変更だった。

だから、第9回でははっきり書いておきたい。
イラクのユーロ建て転換は事実だが、それは制裁下・国連管理下の限定的な枠組みの中で行われたものであり、いきなり「ドル秩序を実務的に覆した」とまでは言えない。

それでも、なぜフセインは取引通貨を変えたのか

では、そこまで限定された枠組みの中で、なぜわざわざ通貨を変えたのか。
ここで見えてくるのが、実務だけでは説明しきれない象徴政治の側面である。

国連の会見記録でも、この通貨切替は単なる会計処理ではなく、“Iraq Euro Switch” として明示的に取り上げられていた。
つまり、それは周囲から見ても、ただの事務的な変更としてではなく、政治的意味を帯びた動きとして受け止められていた。

ここでフセインがやろうとしていたのは、おそらく二重のことだった。
一つは実務上の通貨変更である。
もう一つは、それ以上に、
「自分はドル以外でも石油を売れる」
というかたちで、対米的な主権誇示を演出することだった。

もちろん、それでドル秩序そのものを揺るがせるほどの力があったわけではない。
けれど、象徴としての意味はある。
通貨は、単なる決済手段であると同時に、秩序への服従や距離の取り方を示す記号にもなる。
その意味で、ユーロ建て転換は、フセインにとって
経済実務であると同時に、反米的な主権誇示のジェスチャー
でもあったと読むのが自然だ。

サダム・フセインにとって通貨変更は、経済実務であると同時に、対米的な主権誇示のジェスチャーでもあったと読める。
Saddam Hussein 【出典】Encyclopædia Britannica

2003年開戦と、どこまで結びつけてよいのか

ここで、どうしても出てくる疑問がある。
それは、
「では、フセインは脱ドルをしたから潰されたのか」
という問いだ。

この問いに対しても、慎重でなければならない。
少なくとも、今回確認した標準的な資料の範囲では、2003年開戦の主説明は、大量破壊兵器疑惑、対フセイン政策、9.11後の対テロ戦争の文脈などで整理されており、ユーロ建て転換が主因として位置づけられてはいない。

だから、第9回では、
「ユーロ建てだったから開戦になった」
とは書かない。
それは、少なくとも今ある公的・標準的整理の範囲では、根拠が足りないからだ。

ただし同時に、こうも言える。
フセインの通貨変更は、実務上の効果以上に、象徴として非常に目立つ行為だった。
後から振り返った人々がそこに意味を読み込むのは、ある意味で当然でもある。
なぜなら、石油とドルの秩序に対して、目に見えるかたちで「別の選択肢」を掲げたからだ。

つまり、第9回でいちばん大事なのは、
この事実を過小評価しないこと

この事実だけで歴史全体を説明しないこと
の両方である。

フセインは何を誇示しようとしたのか

ここまでを踏まえると、フセインが誇示しようとしたものが少し見えてくる。

それは、実務としての「新しい国際通貨秩序」を本格的に作る力ではなかった。
Oil-for-Food の枠組みに縛られたイラクに、そこまでの自由はなかった。
だが、それでも彼は、通貨を使って
「自分は米国中心の秩序にそのまま従うだけではない」
という政治的メッセージを発することはできた。

ここで重要なのは、フセインを理想化しないことだ。
彼は民主主義の象徴でも、純粋な解放の旗手としても扱われていない。
しかし、それでも、通貨変更という行為を通じて
主権の誇示
を演出しようとしたとは言える。
このとき通貨は、単なるお金ではなく、秩序に対する距離の取り方を示す象徴になっていた。

この意味で、イラクのユーロ建て転換は、実務的な市場革命ではなく、
象徴としての脱ドル
だったとまとめるのがもっとも妥当だろう。
実務としては限定的。
だが象徴としては大きい。
この二重性を崩さずに読むことが、第9回では重要になる。

ここまでを、いったん整理しておく

サダム・フセインのイラクがユーロ建てへ切り替えたことは事実だ。
国連文書も、それを明確に確認している。
だが、その転換は制裁下・国連管理下の限定的な枠組みの中で行われたもので、直ちに「ドル秩序を実務的に覆した」とまでは言えない。

それでもなお、この行為は政治的意味を持った。
フセインにとって通貨変更は、単なる会計処理ではなく、対米的・主権的な誇示として機能していたと読める。
だから第9回で大切なのは、
事実を否定しないこと

その事実だけで全てを説明しないこと
である。

ここまで来ると、次の問いが自然に出てくる。
では、同じように通貨や資源主権の象徴政治を、もっと大きな地域構想や文明圏の自立と結びつけて語った人物はどうだったのか。
次回は、カダフィと「アフリカ自立」の夢を見ていきたい。


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