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22 対華21箇条要求は、条約交渉の過程で日本側が出した最大限の要望であってそれを非難するのは筋違い、締結した2条約13交換公文になぜ言及しない

 1915年、大隈重信内閣(加藤高明外務大臣)と袁世凱北京政府との間で、合意締結した2条約13交換公文は、

①日本が第1次世界大戦当初の1914年に占領したドイツの青島租借地を日本が承継する条約(山東省に関する条約)


②満州の遼東半島の租借地等の期間を延長する内容の条約(南満洲及東部内蒙古に関する条約及び旅順大連の租借期限並に南満洲鉄道及安奉鉄道の期限等に関する交換公文)の2つに大きく分かれる。

 5.4運動で強く非難された①の青島租借地については結局、日本は1922年、返還に応じている。
 一方、②の満州の遼東半島租借地や鉄道付属地の租借期間延長は、日本政府にとっては死活問題で、譲ることのできない条約であった。

②の満州租借地期間延長問題を、歴史的経緯から紐解いてみる。


 ロシアは1898年、清と条約を締結し、遼東半島の南端の旅順・大連の25年間の租借権と、東清鉄道と大連を結ぶ支線(南満州支線)の鉄道敷設権(36年後の1934年に清はロシアから鉄道を買い取る権利が与えられた。)を得た。

 日露戦争の結果は、1905年9月に講和条約であるポーツマス条約が締結され、日本は、遼東半島租借地、東清鉄道南満州支線の経営権と鉄道付属地の譲渡等を得る。1905年12月、小村寿太郎外務大臣は清国と満州善後条約を締結し、ポーツマス条約の内容について清国に了解させた。

 ロシアから譲り受けた遼東半島の租借地の権利は、1898年から25年間であり、1923年末をもって、租借地を返還しなければならなかった。
 しかし、日露戦争では日本国は戦費の多くを外債で調達したが、ポーツマス条約で賠償金を得られなかったため、80年かけて外債を償還しなければならなかった。
(日本政府は1986年にやっと完済)

 日露戦争の借金の返済が終わらないうちに、租借地を中国に返還することを、日本国民の誰もが許さないであろうことは、日本政府にとって明らかであった。

 日本政府は何としても、中国(北京政府)と交渉して、清国と交わした満州善後条約の承認および租借期間延長、さらに租借地以外でも満州内の日本人の居住、営業の自由を勝ち取らなければならなかった。(当時の日本では、中国人を含めた外国人は日本の土地の権利を取得でき、日本国内で移動、営業の自由が認められていたのであるから、この条約要求は相互主義的であり、不平等条約的な要求ではない。)

 ところが、思いもかけず、第1次世界大戦で、日本はドイツに宣戦布告、山東半島のドイツの租借地(青島及び山東鉄道(青島~済南))を1914年11月占領した。
 このとき、中国は自国が戦場になっているのに、中立の立場であった(1918年になって、日本政府(寺内内閣)の勧めで徐世昌大総統、段祺瑞執政の北京政府がドイツに対して戦線布告した。西部戦線に兵士の代わりに労働者約14万人を送り込んだ。)

 大隈重信内閣(加藤高明外務大臣)は中立の立場の袁世凱に対して、ドイツの山東半島の租借権の日本への譲渡について承認を求めるが、併せてかねてからの念願であった清朝時代の満州善後条約(1905年)の確認と租借期間の延長(遼東半島の租借地及び東清鉄道南満州支線の鉄道付属地の租借・権益期間をロシアの条約締結(1898年)から99年間に延長し、1997年までにする。)及び南満州及び東部内蒙古における日本人の土地取得、移動・営業の自由を要求した。
この結果締結された南満州および東部内蒙古に関する条約によって、租借期間は1997年まで延長されたほか、はじめて南満州及び東部内蒙古における日本人の居住の自由、在住者の土地の賃借、所有が認められた。(それまでは日本人は租借地と鉄道付属地にしか住めなかった)
  そのため、農業目的の入植者が、特に朝鮮併合後の朝鮮半島から増大した。(間島問題
4 満州事変の原因は張学良が、日本と袁世凱との条約を破棄したから|CRAFT TOOLS

 1919年、パリ講和会議のベルサイユ条約で、中国は戦勝国にもかかわらず、山東半島のドイツ租借地の中国返還が認められなかったことに対して、北京の学生たちが抗議をはじめた。それをきっかけに5.4運動に発展し、1915年の対華21か条の要求批判に拡大した。(英米新聞が排日・日貨排斥の宣伝を始め、それが中国の新聞に伝染した。)(ウィルソン米大統領が、日本の人種差別禁止条項を盛り込む提案を「全会一致でないため提案は不成立である」との理由で否決した日からわずか二十二日後)5.4運動は北京政府内部の直隷派による安徽派打倒運動でもあった。

 日本の援助(西原借款)を受ける段祺瑞率いる安徽派の北京政府での立場が悪くなり、アメリカが支持する直隷派との間で軍事紛争に発展(1920年7月安直戦争)した。奉天派の張作霖が直隷派を支援し、大軍を投入したことで安徽派段祺瑞は失脚、直隷派の曹錕(そうこん)・呉佩孚(ごはいふ)と奉天派の連立政権が生まれる。1922年、奉天派と直隷派は決裂し、第1次奉直戦争が発生、奉天派は敗北し、直隷派曹錕(そうこん)・呉佩孚(ごはいふ)が中国北京政府を握る。直隷派に敗退した張作霖は同年、奉天政権の満州東三省(奉天省、吉林省、黒竜江省)の独立を宣言する。

 そのときアメリカで開催されていたワシントン会議の終了時の
1922年、幣原外務大臣(加藤友三郎内閣)青島の租借地を返還、山東鉄道を売却する山東還付条約を締結し、1923年返還、中国側に譲歩をして誠意を示した。

 なお、同じ1922年、ソ連は露清密約(1896年)を公開した。日本国民は、ロシアの満州占領が清との密約のもとに行われたことを知り、「日本人の十万の英霊、二十億の国帑(こくへい」を費やしてロシアから譲り受けた満蒙の権益を拡大することに、中国に遠慮する必要はないと強く感じた。

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