7 第2次上海事変で日本軍に戦闘を仕掛けたのはドイツ式軍服と装備の中華民国国民革命軍

1936年11月、日独防共協定の締結により日本とドイツが接近したことは知られているが、ドイツ軍事顧問団の中華民国への派遣は1928年から続いており、華独関係は日独関係よりもはるかに強固であった。中華民国の国民革命軍の蒋介石直属部隊には、ドイツ式軍服と装備で固めた精鋭部隊があったこと、この部隊が1937年8月13日第2次上海事変の口火を切ったことはあまり知られていない。
第1次世界大戦のパリ講和条約に署名しなかった(日本がドイツの青島租借地を承継したことが不満たった。)中華民国北京政府(ドイツと戦闘はしなかったが宣戦布告したことで戦勝国となっていた。)は、1921年、ドイツが北京議定書や治外法権、山東半島の租借地の権利を放棄することを条件に、ドイツと無賠償の単独講和条約を北京政府と締結した。その結果、中国では親独気運が高まり貿易が盛んになり、1928年、ドイツから最初の軍事顧問団が南京政府に派遣された。
1930年代に入り、ドイツの重化学工業が、中国のレアメタルに依存するようになったことから一層中国関係は重視され、1934年ヒトラーは、中華民国蒋介石主席の要請に基づき、ゼークト将軍、ファルケンハウゼン中将をドイツ軍事顧問団として中華民国に派遣した。1936年のベルリンオリンピックでは中華民国は日本を上回る大選手団を派遣しており、独中の友好関係は続いていた。
軍事顧問団の指導の下、国民革命軍の中に、ナチスドイツ陸軍の最新兵器と軍服で武装した精鋭部隊が組織された。そしてファルケンハウゼン中将は、中国共産党よりも日本軍とまず戦うべきだと蒋介石に進言した。(中将は第1次世界大戦の日本参戦を恨む反日主義者でかつ、反ナチ主義であった。)
上海ではファルケンハウゼン中将の指導の下で、上海から南京にかけてトーチカ群の建設が急ピッチにすすめられていた。(第1次世界大戦のドイツ防衛線に因んでヒンデンブルグラインと呼んだ。)
8月9日、蒋介石直属の国民革命軍精鋭部隊10個師団が上海に結集、居留民保護のため駐屯していた日本海軍特別陸戦隊を、海軍大山中尉と運転手を惨殺し挑発、8月13日にドイツ製の最新の武器と軍服を装備した8万人の国民革命軍陸軍が4千人の日本海軍特別陸戦隊に対し戦闘を開始し、第2次上海事変がおこった。上海共同租界地を戦場に選んだのは、蒋介石とファルケンハウゼン中将である。
なお1937年11月に日独伊防共協定を締結したリッペントロップ外務大臣が、ドイツ軍事顧問団の引き揚げを命令する。同年8月に中ソ不可侵条約が締結されたからである。
しかし蒋介石重慶政権への武器売却はドイツの1941年汪兆銘南京政権承認まで続いた。
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