日中近代史再整理Ⅱ
日中関係が何かと話題となる昨今、明治から遡って要点のみを抽出し再整理しました。すると満州事変から語られる歴史とは全く違った姿が見えてきます。Ⅰの続編です。日中近代史再整理1|CRAFT TOOLS
当時の日中の政治家、軍人がどのような動機で行動していたのか、精査しながら、歴史を復元してみたいと思います。
16 張作霖爆殺1928年6月
北京陥落に続いて、北伐軍の奉天侵攻が予想された。そこで、1928年5月18日、関東軍は北伐軍と奉天軍の戦闘が満州まで及ぶ場合、治安維持出動を辞さない旨、声明を出す。(この声明は、田中内閣が幣原外交の見直しのため開催した東方会議の方針に沿うものである。)
張作霖は6月4日北京から鉄道で戻る途上で爆殺される。同月8日、蒋介石は北京に無血入城を果たす。爆破の現場写真では客車が爆破されたように見え、客車に爆弾が仕掛けられたという説(ソ連犯行説:1926年張作霖は北京のソ連公館を強制捜査、間接侵略の証拠として文書を押収し、多数の職員を逮捕した。ソ連にも張作霖殺害の動機は十分ある。なお張学良(部下)犯行説も最近出ている。(後述))
一方、河本大佐の証言のとおり、線路が立体交差している箇所の鉄橋の付け根が爆破されており、下を走る張作霖の乗車している客車は落下した鉄橋に押しつぶされたという見方もある。
張作霖が、莫大な資金を満州から調達し、満鉄の平行鉄道の建設を推し進めていたことから(国民党(袁世凱北京政府)との間で1915年締結された2条約(山東省に関する条約、南満洲及東部内蒙古に関する条約)及び13交換公文のうちの「南満洲及東部内蒙古に於ける鉄道又は各種税課に対する借款に関する交換公文」に違反している。)、関東軍が言うことを聞かなくなった張作霖を爆殺したと日本では当時から信じられており、この事件(満州某重大事件)の責任を取って田中内閣が倒れた。田中内閣は辞任直前に蒋介石率いる国民党を中華民国代表として承認した。しかし張作霖爆殺が田中首相の指示だったはずはない。(かつて馬賊のボスだった張作霖を、辛亥革命後、無政府状態だった満州の指導者に育てたのは若いころの田中首相だった。)
張作霖爆殺は、張作霖を切り捨て北伐に協力したほうが満蒙問題は解決すると、訪日時、田中首相に述べた蒋介石の言葉通りに、関東軍の河本大佐が独断で実行したものと考えられる。馮玉祥国民軍を満州に侵攻させないために、張作霖を排除し、反共でしかも日本の立場に一定の理解がある蒋介石と若い張学良に手を組ませ、速やかに中国統一させたほうが、結果的に日本の国益に叶うと考えた犯行だったと考えると、張作霖の死後、蒋介石に急接近した張学良の行動とも辻褄は合う。
奉天軍には北洋軍閥由来の将軍が多くいる。大きな陰謀がなければ、色とアヘンに溺れた28歳の反日青年張学良に、奉天軍のトップの座が当然のように「相続」されることに違和感しかない。
ところで張学良は、東三省講武堂の教官だった郭松齢を尊敬していたが、郭松齢は1925年、馮玉祥にそそのかされ、張作霖に対し反乱を起こした結果、張作霖に惨殺された。
郭松齢は、1925年張作霖殺害後、張学良を擁立して北京政府、満州東三省政府を、広東国民政府に合流させようとしたという説がある。
すると1925年の時点で既に張学良と講武堂時代の同期の士官らは、郭松齢とのつながりで、広東政府と通じ、密かに国民党員になっていたと考えられ、張学良や取り巻き士官グループにも張作霖殺害の動機はあったことになる。
そこで張作霖爆殺の犯人は、鉄橋に爆弾を仕掛けた河本大佐のほかに、客車に爆弾を仕掛けた者がおり、2グループの共同作業だったという説も成り立つ。
いずれにせよ、張作霖を関東軍が支えていたら、満州に北伐軍が侵攻し、関東軍は北伐軍と戦闘になっていた。それを考えると、河本大佐を責めるのは酷であろう。
結果として張作霖爆殺後の満州は、張学良の易幟で南京政府に形だけ統一されながら、実際は独立状態は維持されたことで、蒋介石と日本の両方のメンツが立ち、北伐軍と関東軍は戦わずに済んだ。
17 満州、張作霖暗殺後、ソ連侵攻
張学良は、蒋介石に対し恭順の意を電報で伝え、張作霖の東三省政府宣言を取り消し、北京政府の五色旗から国民党の青天白日旗を奉天等の都市に掲げ(易幟えきし)た。
すると蒋介石から国民革命軍東北辺防軍総司令に1928年12月任命され、張学良は、28歳の若さで張作霖の後継者として満州を支配する奉天軍(東北軍)の総司令となり、実質的に満州を統治した。
張学良は「相続」して張作霖の後継者になったのではなく、講武堂時代の同期の士官ら国民党員グループと蒋介石の力によって、東北辺防軍総司令に就任したのである。
張学良は、常蔭槐(じょういんかい)を張作霖殺害の犯人として処刑、さらに張作霖の有力な側近だった親日派楊宇霆(よううてい)が地方独立派の軍閥新広西派と提携しようとしたとして殺害した。
張学良は、かねてから建設中の満鉄の平行鉄道の建設と奉天軍の軍拡を一層推進した(抗議した関東軍に対して南京政府に外交権を返上したことを理由に、話し合いを拒否した。)ばかりか、日本人(朝鮮人含む)を満州から追放するため、日本居留民や日本企業、南満州鉄道にテロやデモを仕掛けた(排日、侮日政策)。このとき日本は国際協調派の幣原が外務大臣に復帰しており、蒋介石は日本との軍事衝突を避け、善隣外交による不平等条約改正や租借地返還を目指していたのであるから、暴力的な排日侮日外交は、張学良の短絡的で無分別な考えによるものであり、河本大佐も想定外であろう。張学良の革命外交は、善隣外交を是とする蒋介石への反抗にも見える。
さらに張学良は、中東鉄道(かつての東支鉄道、1924年9月奉ソ協定でソ奉共同管理が決められていた。)を清ロ条約の1934年の買い取り期限を待たず、些細な奉ソ協定違反を理由に武力接収しようとした。それに対してソ連は1929年7月、満州に軍事侵攻し、奉天軍の武力接収を阻止、12月ハバロフスク議定書が結ばれた。この中ソ紛争は、不戦条約(ケロック・ブリアン条約、1928年パリで英米、ドイツ、日本(外務大臣幣原喜重郎)を含む15カ国が調印、ソ連も遅れて批准)違反第1号とされる(出典 北岡伸一 日本の近代5 中央公論新社 1999年 120ページ)が、中ソともに批判を受けていない。(ソ連は自衛戦争と主張し、米は了解した。)
18 蒋介石主席の国民党を承認
1928年、国民党政府主席となった蒋介石の基本政策は反共、対日、対英米善隣外交による不平等条約解消、租借地返還、自主関税権の回復である。これに呼応し、1928年英米は、蒋介石主席の国民党を中国代表として承認、1929年5月末山東半島から日本軍撤退、退陣1か月前の6月に田中内閣も蒋介石国民党を中国代表として承認した。また同年、ベルギーが天津租界返還、イギリスが鎮江租界返還、1930年厦門、威海衛の租界も返還する。さらに同年、浜口内閣、幣原外務大臣は、日華関税協定を締結し、国民党は日本に対する関税自主権を回復した。ところが、北伐完成後、蒋介石が各国と外交交渉を行っているすきに、各地で反蒋介石の軍閥の反乱が起きた。
19 中原の戦い1930
北伐当時、軍閥の正規軍だけで、蒋介石国民革命軍35万、馮玉祥国民軍40万、閻錫山(えんしゃくざん)20万、李宗仁30万、張学良奉天軍45万等がある。このように北伐完成後も中国にはなお10以上の軍閥や地方軍閥、併せて200万人以上の陸軍があると推定された。蒋介石は各軍閥に軍縮を提案したが、猛反発が起きた。
蒋介石が李宗仁新広西派と戦争(蒋桂戦争)になったところ、同じく軍縮に反対した閻錫山(えんしゃくざん)山西派、馮玉祥(ふうぎょくしょう)国民軍、呉佩孚が反蒋介石側に加わり、1930年3月、中国最大の内戦であるが中原の戦いが始まった。一時は北平(北京)に閻錫山が政府を立てたが、親子で満州を搾取し続け中国中でもっとも金持ちの軍閥(空軍まであった。)となった張学良は、戦争の行方を見極めてから蒋介石側に付いて参戦し、奉天省、吉林省、黒竜江省ばかりでなく、河北省、山東省、山西省、河南四省を勢力下に入れた。(このことから奉天軍は蒋介石から完全に独立した勢力であることがわかる。)。蒋介石は張学良を味方につけたことで一応の勝利をおさめた。馮玉祥は下野(国民軍は第29軍として宋哲元が引き継ぐ。)閻錫山も一時、山西省に引きこもる(両名とも日中戦争時は幹部士官として復帰する)。
しかし山東では韓復榘(蒋介石に従ったが日本と通じていた)、広州では李宗仁が健在であり、中原の戦いの結果、南京政府の下に完全に支配されているものは、わずかに江蘇省(こうそしょう)、浙江省(せっこうしょう)、江西省の3省にすぎなくなった。しかも中原の戦いだけで30万人以上、北伐開始から中原の戦いの終結までの7年間の内戦で、2千万人以上が死んだ。
中原の戦いの後、国民党財政部長の宋子文(宋姉妹の長男)は、軍閥の地方関税である釐金撤廃を宣言した。さらに関税自主権を手に入れた蒋介石は、日貨排斥、自国産業保護と税収確保のため、高関税政策を採用した。
また上海に中央銀行が設立され、宋子文が総裁に就任した。
一方、日本では1930年10月ロンドン軍縮条約の批准にあたり、海軍艦隊派は日本が不利になる軍縮条約は、統帥権干犯で憲法違反であると問題化した。
ところで1931年5月広東では汪兆銘、陳済棠、李宗仁、唐生智らが、蒋介石の独裁に反対して、広州国民政府(第5次広東政府)を立ち上げた。
一方、蒋介石は、1932年1月1日以降、一切の治外法権を取り消す旨、宣言した。(列強各国から無視された。)
1931年8月、宋慶鈴は、ソ連から帰国し、治外法権の上海のフランス租界の高級住宅街に邸宅を構える。(中国共産党幹部と連絡を取り合い、エドガー・スノーを中国共産党に紹介、その後、彼は反日プロパガンダを欧米で広め、米と中国共産党を繋ぐ重要な役割をする。)
20 満州事変1931 第1次上海事変1932
張学良は、軍拡のため満州経済を混乱させ(5年分を一度に徴収する等法外な税を課し、また裏付けのない通貨を大量に発行し軍閥の収入にし、その収入の85%を軍事費に充てていた。)、さらに一方的に条約(特に南満州および東部内蒙古に関する条約)や協定を無視する、いわゆる懲弁国賊条例を公布し、遼東半島の租借地は1923年で既に期間満了となったとして即時返還を要求、満州在住日本人(朝鮮人も含む)の土地賃借権を奪って追放するよう迫害を扇動、特に朝鮮人を逮捕する等、危害を加えた(万宝事件)。関東軍は、張学良奉天軍の一方的な条約破棄と排日行為を重大な侵害行為と判断して、反撃の機会を計画した。1931年9月に柳条湖付近の線路爆破を理由に治安維持出動し、満州事変が起きた。関東軍1万5千人は北平(北京)にいた張学良の意表を突いた。奉天軍は錦州に結集した(35万人)。
満州の住民は、張学良と奉天軍の圧政から解放され喝采した。
同月、満州各地の将軍たちが張学良や蒋介石からの独立を宣言、満州各地の代表者が天津を訪れ、宣統帝溥儀の助力を懇請した。
10月、関東軍石原参謀は奉天軍の拠点となっていた錦州を偵察、地上から射撃されたので、偵察機から手で爆弾を投下した。12月、装甲列車に乗って北上する奉天軍と関東軍が衝突した。この錦州攻撃に対して、アメリカのスティムソン長官は不戦条約違反であると日本を批判した。(前任のケロッグ長官は、アメリカの中南米での軍事行動は不戦条約に該当しないと米議会に説明しているように、不戦条約で放棄される戦争の解釈は各々の国に委ねられており、関東軍は奉天軍に反撃した自衛的な軍事行動なので条約違反にはあたらないと解釈していた。)
同年11月、毛沢東は江西省瑞金で中華ソビエト共和国建国宣言を行い、1932年4月26日に日本に宣戦布告した。(中国共産党は蒋介石ら討伐軍との戦闘の最中であり、日本とは戦闘はしていない。蒋介石軍に対して、日本軍との戦争を扇動するため宣戦布告したのである。中国共産党はこの宣戦布告から終戦までを日中15年戦争(1932年4月から1945年8月までの期間であるから実質14年間だが)と称している。)
1931年9月に蒋介石は、国際連盟に提訴していたが、アメリカ、イギリスの動きは鈍かった。ソ連は満州事変の影響なく東支鉄道の経営を続けており、同年12月に不介入を宣言する。12月国際連盟では、中華民国に同情した各国の賛成でリットン調査団が設置された。
1931年12月10日国際連盟対支共同調査委員会理事会において、「これ以上の事態拡大禁止」と「日本軍の鉄道付属地への撤退」を基本とする決議が採択されたが、日本側が提案した匪賊討伐権の留保が承認された。これにより日本人迫害に対する自衛措置のため関東軍の警察権が、租借地及び鉄道付属地以外でも存在していたことが確認された。
一方、汪兆銘、陳済棠、李宗仁、唐生智らの広州国民政府(第5次広東政府)は、満州事変を期に張学良の仲介で、蒋介石は南京政府の主席の職を辞職することで、広州国民政府と和解した(その後も広州国民政府は1936年に南京政府に統合されるまで存在した。)。唐生智(第2次南京事件の責任者)はこのときに南京国民政府の軍事委員会委員になった。
なお、蒋介石が南京政府の主席を下野し、林森が後任の主席に就任した1か月後、汪兆銘が南京政府の行政院長に就任、2か月後には蒋介石は軍事委員会委員長に復帰している。なお1943年8月、蒋介石が国民政府主席に再就任するまで、林森がずっと主席だった。
日本では、1931年12月若槻内閣が総辞職し、犬養内閣が成立する。中国通の犬養首相は、満州の主権を中国に残す自治政府案を密かに蒋介石側に提示した。しかし中国側からの返事を森恪内閣書記官長が握り潰したので、返事を知らないまま犬養首相は5・15事件で殺害される。(犬養自治政府案は後に蒋介石経由で、リットン調査団に伝えらえたのかもしれない。)
1932年1月、関東軍は錦州を占領し、居留民を保護した。奉天軍は北平に遁走した。
同年2月、奉天において張景恵、煕洽、馬占山、湯玉麟の諸将らほか満州の有力者が組織した東北行政委員会において満州独立が宣言され、満場一致で溥儀を執政(元首)に選んだ。五族協和(和、朝、満、蒙、漢)、王道楽土を掲げる政府の建設を目指し1932年3月、東三省と熱河省に満州国が建国された。(日本は9月に満州国を承認し、日満議定書を締結、満州国の防衛は、関東軍と満州軍が共同であたることとした。1934年3月溥儀は満州国皇帝に即位した。)
1932年1月、錦州占領をきっかけに上海において排日のデモと日本人僧侶暴行致傷致死事件が発生し、28日上海工部局(租界地の自治行政機関)が戒厳令を布告、上海を防衛していた英米仏伊日各軍隊が受け持ち地域の守備についたところ、国民党軍19路軍が、前年11月の中華ソビエト共和国建国と抗日扇動に呼応して3万人以上の兵で、日本海軍陸戦隊1000人に対して攻撃を行った(第1次上海事変)。日本は、海軍が近代化改装前の3段空母加賀の派遣、陸軍が三個師団を派兵する。日本軍の死傷者は満州事変では1200人ほどであったが、上海事件では1か月余りで3000人を超えた。
4月米英仏伊の仲介により上海停戦協定が成立した。このとき重光駐華公使、野村海軍大将は、上海虹口公園(ほんきゅうこうえん)で起きた爆弾事件で重傷を負う。(上海天長節爆弾事件))。
一方、日本では1932年5月15日、犬養首相は、ロンドン軍縮条約に不満な海軍青年将校らにより暗殺される。
蒋介石は、停戦後19路軍を福建省に移動し瑞金の紅軍討伐を命じた。(なお福建省の19路軍は、その後、紅軍の間で反日反蒋の協定を結び、蒋介石打倒の反乱に立ち上がり中華共和国の成立を宣言したが、蒋介石と広州国民政府(第5次広東政府)の陳済棠によって鎮圧される。(福建事変)。)
日本では、上海事変は満州事変から列強の目をそらすために田中隆吉日本陸軍駐在武官が仕組んだとする陰謀説が通説になっている。たとえ日本人僧侶暴行致傷致死事件が仕組まれたものだとしても、海軍陸戦隊千人しかいない上海で日本人居留民2万5千人の生命財産を危険にさらしてまで、日本側から、わざわざ武力衝突を仕掛けるわけがないであろう。目をそらすどころか、全世界が蒋介石の期待どおり満州に注目することになった。
1932年3月国際連盟では、イギリスが、満州国建国の日本の動きに対して不承認を提案した。リットン調査団は調査を開始し、中国国民党の外交官顧維均(北京政府の外交官だったため、南京政府から逮捕状が出ていたが、張学良の仲介で蒋介石と和解し南京政府の外交官となった。)からは聞き取りをした。日本でも調査を行った後、10月に報告書が発表される。報告書によると、「当夜の日本側の軍事行動は正当防衛の措置と認め得ないが、自衛のための誤想防衛という仮説を排除し得ない」とした。また「満洲に日本が持つ条約上の権益、居住権、商権は尊重されるべきである。国際社会や日本は支那政府の近代化に貢献できるのであり、居留民の安全を目的とした治外法権はその成果により見直せばよい。一方が武力を、他方が「不買運動」という経済的武力や挑発を行使している限り、平和は訪れない。」とし、「満洲には、支那の主権下に自治政府を樹立する。この自治政権は国際連盟が派遣する外国人顧問の指導の下、充分な行政権を持つものとする。満洲は非武装地帯とし、国際連盟の助言を受けた特別警察機構が治安の維持を担う。日支両国は「不可侵条約」「通商条約」を結ぶ。ソ連がこれに参加を求めるのであれば、別途三国条約を締結する。」と提言した。
報告書では、国際連盟が関与する満州自治政府が日ソの既得権を保護することを提案していることから、革命外交の中国人が納得する内容ではない(多くの怒った中国国民から国際連盟脱退の要請が政府にあった。また国民党は軍を満州の手前まで進軍させた。)が、国際連盟の関与以外は、かつての犬養首相の案に近かった。しかし満州国を既に承認していた日本政府は報告書を拒否した。(斎藤内閣・内田外務大臣の焦土演説)
そんな中、張作霖の部下で、ケシの生産地である熱河省を任されていた湯玉麟はいったん満州国建国に賛同し、満州国に参加したが、北平にいた張学良と奉天軍は熱河省に侵攻してきたので、湯玉麟は張学良に寝返り、満州国を離脱した。関東軍は1933年2月に、熱河省の張学良と奉天軍を撃退(熱河作戦)、熱河省を満州国に再編入した。日本は1933年3月、国際連盟脱退を表明した。
万里の長城を超えてきた国民革命軍と関内作戦を戦い撃退(撃退するため関東軍は一時的に長城を超えた。)し、汪兆銘ら南京政府が停戦を求めたため、1933年5月塘沽停戦協定(たんくう)が成立、これにより満州国の国境を画定させ、中国軍は延慶、昌平、高麗営、順義、通州、香河、宝坻、林亭口、寧河、蘆台を通する線以西及以南の地区に一律に撤退し、今後、同線を越えて前進してはならないとされ、中国軍が駐屯できない非武装地帯が設定された。
そこで同年6月、非武装地帯とその以南、以西を緩衝地帯として国民党は、河北、チャハル、山東、山西、綏遠5省北平(北京)天津2市を統治する北平政務整理委員会を設置し、黄 郛(こう ふ)を委員長に任命した。(汪兆銘と蒋介石は、中国共産党討伐を優先し、当面日本との和平を望んでいた(安内攘外)が、1935年11月汪兆銘は抗日派に銃で撃たれ、銃弾3発を受ける。)
(張学良は国民革命軍東北辺防軍総司令を解任され、1年以上ヨーロッパ等に滞在し豪遊し(密かにソ連関係者と接触していた可能性がある。)、帰国後(雇ったお抱えのイタリア人パイロットの操縦により、欧州で購入した飛行機に乗って帰国した。)は、東北軍(旧奉天軍)総司令に復帰し、蒋介石の指示により陝西省(せんせいしょう)で、陝西省の呉起鎮を拠点にした中国共産党紅軍を追撃する任務を任されたが敗けてばかりであった。)
一方、日本海軍は、1933年9月、軍令部令を改正、海軍省が持っていた兵力量決定権を軍令部に移し、伏見宮博恭王軍令部長を軍令部総長に名称変更した。さらに国際連盟脱退を受けて、委任統治領の南洋諸島トラック島に軍港を作る。(4カ国条約違反)(1934年12月、ワシントン海軍軍縮条約の破棄を通告(岡田内閣・廣田外務大臣)、2年後の1936年12月、同条約は失効した。1936年1月(岡田内閣・廣田外務大臣)にロンドン海軍軍縮条約も脱退した。)
第2次斎藤内閣、岡田内閣の大角海軍大臣(大角人事で有名)は、伏見宮博恭王を祭り上げる海軍軍令部の言いなりだったと考えられる。
21 満州国建国1932、華北自治政府1935
張学良と奉天軍の非道な支配から解放された満州は、国民党の高関税政策の影響も受けず経済が安定し、満州国首都新京(旧・現、長春)の都市計画に基づく日本の国費による街づくりや日本からの自動車、重化学工業の投資で著しい発展をした。すると大量の中国難民が満州国に押し寄せた。清朝最後の皇帝、溥儀を元首とする満州国に対し、イタリア、スペイン、ドイツ、ポーランド、ハンガリー、スロバキア、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、クロアチア、タイ、デンマーク、バチカン等の国が承認し、ソ連は在満ロシア人のために公館を設置した。1932年満鉄は、満州国が譲り受け、満州国国有鉄道になった。満州国は満鉄平行線も接収、さらに1933年ソ連から東支鉄道の買い取り申し出を受けて1935年買い取った。(1898年の清とロシアの条約では1934年に清はロシアから東清鉄道を買い取ることが認められていた。)そして線路を広軌から標準軌に改修し満州国国有鉄道に統合した。
1934年4月天羽外務省情報部長(斎藤内閣)が廣田外務大臣重光次官の意向に沿い定例記者会見の非公式談話で語った「天羽声明」は、英米によって日本が中国市場を独占する宣言(東亜モンロー主義)と受け取られ、英米の反発を招いた。
また、1933年の塘沽停戦協定(たんくう)によって北平・河北省の一部が国民党軍の立入禁止となっていたが、日本人や親日中国人を狙った藍衣社(らんいしゃ、蒋介石が組織した青シャツ隊・親衛隊)によるテロが頻発したことから、1935年、テロ事件の防止に関して日本(北支駐屯軍(天津軍))と国民党北平責任者の何応欽将軍(かおうきん)との間で梅津・何応欽協定が締結され、国民革命軍および排日団体を緩衝地帯の河北省全土から撤退するよう要求した。しかし宋哲元が指揮する第29軍は、もとは馮玉祥の国民軍であり、軍閥ということで緩衝地帯からの撤退対象にならなかった。
そこで、奉天特務機関長土肥原少将は、土肥原秦徳純協定で内蒙古チャハルから宋哲元(馮玉祥の元部下)軍は撤退するよう要求した。国民党は宋哲元をチャハル省主席から罷免したが、第29軍はチャハル省から撤退しなかった。
蒋介石は英の支援のもとで法幣発行し、中国国内で流通している銀貨を新紙幣に強制的に交換させ、その銀を国際市場で売却し蒋介石らは巨額の富を得た。これにより蒋介石一族(浙江財閥、特に孔祥熙、宋三姉妹の長女宋靄齢(そうあいれい)の夫)は私腹を肥やしたとされ、蒋介石一族の独裁政権に対する国民の反発が起こった。
河北省東部では、白堅武など元北京政府関係者による自治政府を目指す動きが高まり、関東軍土肥原特務機関長と南京国民政府の承認のもとで、冀東地区の通州市(北平市の東隣)に冀東防共自治政府((きとうぼうきょう)(殷汝耕を委員長とする冀東防共委員会)が設立される。(ただし、南京国民政府の同意は、続いて発足する北平(北京)の冀察政務委員会への合流が前提の同意であったが、殷汝耕は合流を拒んだ。)
蒋介石は、北平政務整理委員会を解散し、第29軍の司令官宋哲元を委員長に任命し、12月に北平(北京)に冀察政務委員会を設置し、河北省、チャハル省を受け持たせた。
冀東防共自治政府は、中華民国が定めた高い関税を半分の税率に変更したため、日本からの物資が大量に入り、それを域外移出することにより経済的繁栄をし、東洋のデンマークなどと言われた。
しかし天津、通州などの大都市から関税が蒋介石国民党に入らなくなり、関税収入を鉄道借款の担保にしていた英米は怒った。英米が扇動したのか、12月に北平(北京)で大規模な学生の反日デモが発生した。
しかし残念なことに関東軍の山海関特務機関が冀東防共自治政府を、麻薬等の密輸の隠れ蓑に利用したため、誤解を生んでしまった。
そのころ、蒋介石は何応欽将軍とともに中国共産党討伐に忙しく、中国共産党は、国民党の討伐に耐え切れず、拠点の江西省瑞金を1934年10月に放棄し、陝西省の呉起鎮まで移動し、1937年には延安に拠点を移す。(長征)
1935年2月、蒋介石は反日行動抑制談話が南京の新聞に報道され、国民政府の有力外交官王寵恵が来日し、岡田総理と面談、9月には、いわゆる廣田三原則(排日取締り、満州国黙認、共同防共)に歩み寄る形で、上海停戦協定、塘沽停戦協定の廃棄を条件に満州国の独立を承認、共同防共の交渉に応じる姿勢を明らかにした。(しかし翌年、2.26事件が発生し、日中交渉は中断、1937年7月盧溝橋事件が起きたことで、国民党の対日融和政策は正式に放棄された。)
1935年7~8月のコミンテルン第7回総会において対日戦争を要求された中国共産党は、「対日戦争宣言抗日救国のために全同胞に告げる」8.1宣言を行い、対日戦争を中国国内に呼びかけた。
蒋介石は11月、抗日に傾く「最後の関頭」演説を行う。
22 2.26事件、西安事件1936
日本では1936年1月にロンドン海軍軍縮条約を脱退した。また2・26事件後、粛軍が廣田内閣の課題であったが、予備役編入された皇道派荒木貞夫、真崎甚三郎を陸軍大臣に復活できなくするため、大正時代に山本権兵衛内閣よって廃止されていた軍部大臣現役制を閣議で復活させた。この失策のため、広田内閣総辞職後、総理の後任に推挙された予備役陸軍大将の宇垣一成は陸軍大臣を兼任するという方法が封じられ、陸軍の反対で内閣組閣ができずに流産してしまった。また1936年12月、ワシントン海軍軍縮条約は失効した。(1934年12月に破棄を通告していた。)
このころコミンテルンの抗日運動指導は排日扇動から対日戦争準備に入っており、1935年11月に起きた中山水兵射殺事件、1936年には8月24日に成都事件、9月3日に北海事件、9月19日に漢口邦人巡査射殺事件、9月23日には上海日本人水兵狙撃事件など日本人、日本軍人、親日中国人の暗殺が日常化した。
内モンゴルの綏遠省では1936年10月、徳王が関東軍支援のもと、蒙古自治政府建設を目指したが、徳王の軍は、もともと中国共産党紅軍と戦うために結集していた国民党軍主力部隊と交戦し敗北した。
11月、コミンテルンからの共同防衛を謳った日独防共協定がベルリンで締結された。
一方中国では、共産軍との戦いを放棄していた東北軍張学良と西北軍楊 虎城(よう こじょう)は、督戦にきた蒋介石を1936年12月陝西省西安で拘束し、中国共産党幹部(周恩来)と引き合わした。(西安事件)
張学良に身柄を拘束された蒋介石(脱出しようとして転倒、入れ歯を失ったまま捕まる。)を救うため、妻宋美齢は姉の宋慶鈴と連絡を取り、身代金と蒋介石の入れ歯を持って飛行機で西安に出向く。西安では中国共産党の周恩来が蒋介石と面談、蒋介石は解放の条件として、中国共産党への攻撃は中止すること、日本と戦うこと、そのためにソ連から軍事援助と軍事顧問団の指導を受けることを約束させられた。(蒋介石は西安事件後、張学良を反逆罪で逮捕し軟禁、楊虎城 を殺害した。張学良は軟禁中、受け取った身代金を使って上海で豪遊していたらしい。しかし1949年には台湾に身柄が移送され、軟禁状態は継続、1975年の蒋介石の事故死後、李登輝の時代になって軟禁が解かれ、1991年に90歳になってハワイに移住、2001年、百歳で亡くなった。)
23 日中戦争(日華事変)、第2次国共合作1937
ドイツは、ソ連軍事顧問団が撤退後、1934年蒋介石の国民党南京政府(以下「中華民国」という。)の要請に基づきドイツ軍事顧問団(ゼークト将軍、ファルケンハウゼン中将)を派遣していた。派遣はヒトラーが政権を取った後で、1936年のベルリンオリンピックでは中華民国は日本を上回る大選手団を派遣しており、独中の友好関係は続いていた。
軍事顧問団の指導の元、中華民国軍の中に、ナチスドイツ陸軍の最新兵器と軍服で武装した精鋭部隊を組織する。そして顧問団は、かねてから中国共産党よりも日本軍と戦うべきだと蒋介石に進言していた。
第1次上海事変の際に日中で締結された上海停戦協定に違反し、上海ではファルケンハウゼン中将の指導の下で、上海市内でトーチカ群の建設がすすめられていた。トーチカによる防衛線はヒンデンブルグラインと称された。
1937年7月7日、犯人は不明である(抗日戦争と国共合作をしぶる蒋介石を追い込むため、中国共産党の劉少奇が部下に撃たせたという説がある、翌日、中国共産党から蒋介石側に抗日戦争督促と戦争協力を申し出ている。)が、天津軍に発砲する事件が北京(北平)で起きる(盧溝橋事件)。誰の発砲かわからないまま、冀察政務委員会の第29軍と天津軍との間で小競り合いが起きるが、7月11日、29路軍の現地指揮官と松井大佐の休戦協定締結で、現地解決するかに見えた。しかし南京政府は4個師団の北部派遣を決定。29路軍は迫撃砲による攻撃を開始し、北平、河北には20万近い中国軍が集結する。
同じ7月11日、近衛総理大臣は、陸軍3個師団を中国に派兵する「北支派兵声明」をマスコミに発表した。陸軍参謀本部石原莞爾作戦部長は将来のソ連との戦争に備えて中国派兵には反対であったが、武藤章作戦課長は、北平・天津在住の日本人居留民約1万2千人の保護のため、派兵が必要と主張していた。
7月13日第29路軍司令官でもある宋哲元(冀察政務委員会政務委員会委員長)は天津軍中将と面談し、現地解決を模索していたところ、7月17日、蒋介石は廬山談話「最後の関頭」演説で、抗日を鼓舞し、南京政府の承諾のない現地解決を否定した。7月29日、冀東防共自治政府区域内の通州市において、自治政府保安隊の犯行による日本人虐殺事件(200人以上殺害)が発生した。自治政府保安隊の裏切りは、戦争拡大を図る中国共産党や親日中国人を暗殺する藍衣社の脅迫と扇動によるものと思われる(通州事件)。
宋哲元は北京を去り、冀察政務委員会は8月19日解散する。
外務省の石射猪太郎東亜局長は、1.塘沽停戦協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定の解消。2.盧溝橋付近の非武装地帯の設定。3.冀察政務委員会・冀東防共自治政府の解消と国府の任意行政。4.増派日本軍の引揚げ。とする停戦条件案を船津元上海総領事に託し、南京政府関係者と和平交渉を開始したが、上海情勢が悪化し、交渉は終了してしまう。(船津和平工作)
8月9日、蒋介石直属の中華民国軍精鋭部隊10個師団が上海に結集(これも上海停戦協定違反)、日本海軍特別陸戦隊(上海停戦協定で上海日本居留地防衛の日本軍は4000人と定められていた。)と戦闘する準備を整える中、海軍大山中尉と運転手を惨殺し日本軍を挑発、8月13日にドイツの最新兵器と軍服を装備した8万人の中華民国陸軍が4千人の日本海軍特別陸戦隊に対し戦闘を開始し、第2次上海事変がおこる。8月14日には上海に停泊していた日本海軍の『出雲』が攻撃を受けた。同日、中華民国空軍の爆撃機(ノースロップA17)が、共同租界にあるキャセイホテルやパレスホテル等の租界地中心街を複数回爆撃、欧米人たちを約500人以上死傷させ、それを日本軍の仕業にしようとした。(中華民国軍の仕業だとばれると、日本の艦船を狙った誤爆だと言い訳をしている。)
旗艦出雲への攻撃に怒った米内光政海軍大臣は、8月15日長崎や台湾から南京、杭州の飛行場などへの渡洋爆撃開始し、上海へ空母加賀(近代化改装後)を含む艦隊を派遣した。
8月21日中ソ不可侵条約が締結され、12月までにソ連から航空義勇隊(40機のツポレフSB2双発爆撃機、同数のポリカルポフI16戦闘機、指揮官ルイチャゴフ少将、兵員数約1000人)が派遣され、漢口(1926年漢口、武昌、漢陽が合併し武漢市となるが、1929年分割され元に戻る。)及び南昌を基地にした。しかし、ソ連陸軍義勇軍の中国派兵はなかった。スターリン粛清の影響という説もある。(なお1938年T-26が82両、その他車両や重火器がソ連から供与された。)
8月23日に日本から派遣軍2個師団が上海黄浦の呉淞(ウースン)、羅店方面に敵前上陸し(呉淞では日本陸軍の装甲(AB艇)が活躍した。)、戦場は共同租界(日本)地から揚子江沿岸に移った。日本側が態勢を立て直すと一進一退の戦いとなった。10月下旬には上海四行倉庫の攻防、大場鎮攻略があった。また11月、米退役軍人シェンノートが米仏パイロット義勇軍爆撃隊を漢口で組織し、実戦に投入された。(翌1938年3月、パイロットたちが辞め解散する。)
9月10日、国際連盟総会では顧維均代表の一方的な主張を信じて、日本に対して無差別爆撃を非難、不戦条約と9カ国条約違反の決議を採択した。また、中ソが流したデマである田中上奏文をスティムソン元国務長官から吹き込まれたルーズベルト大統領は、10月5日シカゴにおいて無法国家は隔離されるべきであるとする隔離演説を行うが、外国の紛争に介入することを嫌う多くの米国民からは、反応はなかった。
蒋介石は国共合作に消極的であったが、9月22日、共産党中央委員会の「国共合作に関する宣言」が発表され、9月23日、蔣介石の「国共両党の第二次合作に関する談話」が発表された。この9月23日に第2次国共合作が成立したとされる。なお8月に周恩来と蒋介石が会って協定を交わし、中国共産党の兵数に応じた金銭と軍服の支給と作戦情報を国民党から共産党に提供することになった。(そのほか、1938年3月に第三勢力の「政治諸党派と中国共産党とともに蒋介石を議長とする国民参政会を設置した。)
蒋介石は、紅軍を八路軍(約1.5万人)に改名したが、八路軍(総司令官は朱徳将軍)で国民革命軍との共同作戦は1937年9月華北で第八路軍が関東軍の補給部隊を攻撃した平型関の戦いのみである。
中国共産党第八路軍は、延安から黄河を東へ渡り、山西省で遊撃作戦を展開し9月に平型関の戦いで、関東軍の補給部隊を攻撃した。一方南部では、10月に南部8省の紅軍遊撃隊が第四軍に統一されるが、上海、南京の戦闘はもちろん、それ以降も徐州、武漢等、日本軍との会戦には参加していない。主に日本軍占領地内でのゲリラ戦と拠点建設に力を注いでいた。
中国共産党は、蒋介石に日本との戦争をけしかけておいて、さらに国共合作(兵員数に応じて資金面で共産党を援助することになった。)までさせておきながら、日本軍との戦闘は避けて紅軍の兵力を温存・増強し、蒋介石側の兵力の消耗を待って、軍事的に打倒する計略だった。(砕氷船理論)
日本陸軍の北支那派遣軍(7個師団)は、7月から10月までの間に北平(北京)、天津、保定、石家荘を占領、12月に済南を占領する。(天津軍は、8月末に北支那派遣軍第1軍に編入される。)また、河北省の関東軍は8月下旬、チャハル、山西省に進み、太原を占領する。10月に正定事件が発生、カトリック司教9人が殺害された。日本では当初から日本兵に成りすました中国兵による犯行と思われていたが、欧米の新聞が日本軍の犯行と報道した。しかし反共という点で日本とバチカンの利害は一致していた(バチカンは満州国承認もした。)ので、日本がカソリックを敵に回すことをするはずはなく、中国共産党の活動拠点でもあることから共産軍の偽装工作の可能性が高い。(この事件は、2013年になって中華人民共和国とオランダによって日本軍による慰安婦強制連行および抵抗した神父の殺害事件に作り替えられ、カソリックを反日に向かわせる工作に利用される。)
近衛内閣は1937年9月の第72回帝国議会で臨時軍事費特別会計を設け(それまでは宣戦布告した戦争でしか設置しなかった。)合計で25億円計上し、前年度一年の予算に相当する額をこの事変の戦費につぎ込んだ。これは近衛文麿の軍に対する圧力であったと考えられる。
また臨時資金調整法、輸出入品等臨時措置法、軍需工業動員法の適用に関する法律という3つの重大な法律が成立した。10月、戦争の長期化に備えて企画院(マルクス経済学者の巣窟となり、後に企画院事件が起きる。)を設置し、物資動員計画の作成に着手する。戦争の長期化は参謀本部ではなく、マスコミの暴支膺懲の扇動報道に乗った近衛内閣が主導した。
第10軍(約9個師団)の中支那派遣軍が、11月、中華民国軍の背後をつく形で杭州に上陸、11月11日には上海を制圧し、上海に居留する6000人以上の日本人を救った。11月20日、日露戦争以来の大本営が設置され、政府と大本営の間に大本営政府連絡会が設けられる。この時からラジオで大本営発表の放送が日本中を流れる。
ドイツ政府は日本と前年に日独防共協定を締結していた関係で、広田外務大臣の要請を受け、1937年11月ドイツ政府は和平仲介を申出する(トラウトマン和平工作)。(トラウトマンは駐華大使だが、実際は軍事顧問団と近く、中国に肩入れしている。)
近衛内閣はドイツに日本側の和平条件(容共、抗日を捨て日満防共、経済協力協定を結ぶこと、非武装地帯を設けること)を示したが、中華民国は、国共合作して中国共産党の了解なしに講和できないので、回答を引き延ばした。
中華民国の要請で緊急招集されたブリュセルの9カ国条約会議(日本はこの会議には欠席した。)では、中華民国は日本糾弾を期待したが、イタリアが日本を擁護し中国を批判、コミンテルンに対する防共協定参加を表明し、イギリスも日本の侵略を認めなかったため、会議の結論が出ないまま終了した。
11月、国民政府は首都を南京から漢口に移転することを決定し、南京市内の首都機能や工場の移転を急ぐ。
日本では参謀本部はドイツの仲介による早期終結を目指していたが、日本の新聞は南京攻略を煽り、南京に撤退する中華民国軍への派遣軍の追撃は止まらなかった。しかし中華民国軍は鉄道や道路を破壊しながら撤退したので、日本軍は迂回ルートで南京に進軍した。
12月7日10万の兵士を置き去りにしたまま蔣介石夫妻はアメリカ人パイロットの操縦するドイツ製の大型単葉機で南京を脱出、唐生智司令官は南京から船で漢口に脱出した。
12月13日、日本陸軍中支那方面軍は南京を陥落させた。ドイツ軍需産業のシーメンスの中華民国駐在員でナチ党員のラーベ(ドイツ軍事顧問団と立場的に同じ。)も南京を翌年2月にドイツに帰国している。(ラーベの日記)中華民国の将校らに置き去りにされ組織的降伏ができない兵士は、漢口に逃れるため長江(揚子江)の船を奪い合い、船に乗れなかった兵士は、木の板を寄せ集めた筏で対岸に渡ろうとし、多くは溺死した。さらに揚子江では日本海軍艦艇が中国兵を乗せた船舶を攻撃した。北門を守る督戦隊は逃亡する兵士を大量に射殺したため、門が死体で塞がった。徒歩で逃げるしかない兵士で城内の道が渋滞した。そのうち日本陸軍が南京市に入城したときには、軍服を脱ぎ捨てた兵士(便衣兵)らによる略奪行為で混乱した状態であった。日本軍は城内制圧後、市民のために安全地帯を設置し、食事の提供をしていたが、そこで多数の武器を隠し持った便衣兵が見つかり、便衣兵は見つけ次第、処刑したであろうことは想像に難くない。その数は多くても数千人程度と思われる。一方、日本軍の想定を超えた2万人近い中国兵が捕虜になったの一部は帰還を許された者もいるが、収容所の食料の確保が見込めず処刑された者も多い。(北村稔 「南京事件」の探求)
殺気だった日本軍の統制も十分ではなかったとされるが、なぜなら中華民国軍に降伏した日本兵の無残な遺体を多数見てきた日本兵は、中国兵の残虐さに恐怖していたからだ。
中華民国政府は、南京の虐殺事件について南京陥落時、記者発表をしなかったが、18日のニューヨークタイムズでは南京市で数千人が殺されたと報道をした。しかしこれ以外の12月の英米の中国のニュースは、パネー号事件、レディーバード号事件一色だった。
パネー号は、中華民国空軍の航空燃料を運ぶアメリカのタンカーを護衛していために攻撃されたということである。(日華両国が宣戦布告していない以上、アメリカに中立義務はないので貿易は自由である。日本側はいずれの事件も謝罪、賠償している。)
1938年、イギリス系の記者ティンパーリーが、「戦争とはなにか、日本軍のテロ」という本で南京市民30万人を生きたまま埋めるか、ガソリンをまいて焼き殺した、女性を2万人強姦した」と書いた。香港から漢口に行き取材したとされるティンパーリー記者の本は、武漢政府の特務機関がゴーストライターとして全面協力しており、完全なプロパガンダであるが、当時の多くの欧米人は信じた。
「中国の赤い星」で注目されたアメリカ人ジャーナリストエドガー・スノーに、日中戦争に関する本の執筆の注文が入った。その結果上梓されたのが、1941年出版の「アジアの戦争」であり、その中で南京市民虐殺数4万2千人と書いてあり、ローズベルト大統領も読んだ。
この4万2千人は、ラーベの見積もりに合わせたものと考えられるが、本の内容はティンパーレーの「日本軍のテロ」を参考にしたと思われる。ところが、東京裁判で20万人虐殺事件(原爆死傷者数に合わせた数字)の汚名を着せられ、南京攻略戦の指揮官松井石根大将は、B級戦犯として死刑になった。
一方、中華民国の戦場では日本人捕虜は残忍な拷問を受けて殺されており、日本兵は捕虜になることを恐れて自決するようになる。1929年日本は捕虜に関するジュネーブ条約を締結したが、中華民国はこの条約を批准していないので、中国と戦うときに日本が一方的に不利になるとして、陸軍省と枢密院は条約の批准を止めた。
南京陥落後、漢口に脱出していた蒋介石は、12月17日「我軍退出南京告国民書」を公表した。
簡単に要約すれば「いたずらに一時の勝負に拘泥せず、持久戦を最後まで行い、勝利の信念を持つべきである。日本の中国侵略は世界侵略の開始である。民族独立のために戦い、国際平和と正義のために戦う。」と中国国民だけでなく、米英等の列強諸国に呼びかけているのである。これはかつて田中上奏文というフェイク文書で日本を貶めたプロパガンダを再び世界中に広め、国際的同情と支援を受けて、どこまでも持久戦を戦うという、その後の国民党の戦略がこのとき公表されたのである。
近衛内閣はドイツ仲介の和平条件に賠償支払いを追加したが、中華民国政府は、英米の介入を期待して、ドイツの和平仲介を断った。(和平に中国共産党が同意するはずがない。)
12月北京(このとき北平市の呼称が日本によって正式に北京市に戻された。)では、王克敏を首班とする中華民国臨時政府が、北支那派遣軍の支援のもとで誕生し、冀東防共自治政府を吸収する。
一方、翌年3月南京(南京市復興までは上海で)では梁鴻志を首班とする中華民国維新政府が中支那派遣軍支援のもとで成立する。南京市内や上海、南京間の鉄道や道路は中華民国軍が撤退の際に破壊したため、復旧し維新政府本部を南京市に移すのに6か月かかった。戦闘中の揚子江の外国船航行禁止をそのまま継続していたが、イギリスの抗議により解除する。
宋慶鈴は香港に拠点を移し、半年後、エドガー・スノーも香港に移動した。
占領地の自治政府による間接統治方式を、近衛総理、広田外務大臣は支持した。日本では朝日新聞らが南京陥落を祝い、祝賀提灯行列を主要都市で開催した。
近衛内閣は1938年1月16日、「国民政府を対手せず」声明を発表し、南京から首都機能を移転した漢口・武昌、漢陽(旧武漢市)政府と断絶する。参謀本部は宣言に反対したが、総理大臣と陸軍省が押し切った。
1月、山東半島では、日本海軍陸戦隊が青島に上陸し、山東鉄道を再占領した。(北平(北京)までの既存の路線と山東鉄道を接続し、1939年には日本の国策会社華北交通がこれらの鉄道を運営する。)
一方、1938年2月、中華民国軍のマークをつけたソ連義勇航空隊は南昌を飛び立ち、台湾の台北市を攻撃した。(松山空襲)
3月下旬~4月上旬、北支那派遣軍は、参謀本部の停戦指示を聞かず、徐州を目指して南下し、李宗仁に台児荘の戦いで敗北する。
蒋介石は武漢もいずれ陥落するのでそのときは重慶に首都を移転させることを想定した。しかし、揚子江を日本海軍によって封鎖され物流を止められる恐れがあるため、重慶までの道路建設を計画した。そこで中立の立場をとっている英仏に対し雲南省の鉱山利権の代償に、イギリスには植民地ビルマから四川省を通るビルマルートの建設を、フランスには北部仏印ルートの建設を急がせた。
日本陸軍は4月徐州作戦を開始する。これは黄河一体を占領してきた北支那派遣軍が、津浦線及び平漢線沿いを南下し、揚子江沿岸の中支那派遣軍に合流する作戦である。5月、蒋介石は徐州を放棄、日本陸軍は徐州を制圧した。
5月孔祥熙(宋三姉妹の長女宋靄齢(そうあいれい)の夫)が軍需品調達のため欧米を訪問していたときに、中国の中原の要衝の地宿縣が日本軍によって陥落したが、蒋介石は、中国軍優勢のニュースをでっち上げ、宿縣陥落のニュースをもみ消した。
これが中国空軍機6機による大阪爆撃(人道上の配慮から爆弾の代わりにチラシを投下した)というニュースである。実際は爆弾を積んだのでは重すぎて日本まで到達できないので、爆弾の代わりにチラシを積んだ2機のマーチンB10爆撃機(輸出機139WC)が重慶から漢口、寧波(1941年4月まで日本に占領されなかった。)を経由して日本の熊本、宮崎にビラ(伝単)を投下しただけである。
近衛は内閣を改造し杉山陸軍大臣と広田外務大臣を罷免、板垣征四郎を陸軍大臣に、宇垣一成を外相に、荒木貞夫を文相に起用した。宇垣外相は不拡大方針であり、「国民政府を対手せず」声明を取り消し蒋介石国民政府と交渉を開始したが、日本側が蒋介石の下野を要求したことから交渉は行き詰った。交渉中の6月に日本陸海軍共同作戦で、臨時首都である漢口・武昌、漢陽(旧武漢市)の攻略を開始する。結局8月に交渉は打ち切られた。
蒋介石の指示で中華民国軍は、開封から鄭州へ進軍する日本軍を妨害するため焦土作戦を実施した。6月黄河を決壊させ、漢口・武昌、漢陽(旧武漢市)陥落後は重慶に移動する途上、11月毛沢東生誕地の長沙市焼き払い(いずれも日本軍の仕業にしようとした。)などが中華民国軍によって焦土作戦が実行され、黄河決壊では480万人の中国人が被災した。日本軍は行軍を中断して被災者救助、堤防修復を行っている。
呉海軍陸戦隊が、プロペラボートで漢口に突入し、占領した。
10月、漢口・武昌、漢陽(旧武漢市)を陥落させた。
中華民国は南京市陥落後、首都機能を漢口・武昌に移して10か月足らずで、首都を重慶に遷都する。
日本では朝日新聞らメディアは漢口・武昌陥落を祝い、南京陥落に続けて2年連続で祝賀提灯行列を主要都市において開催した。
漢口を占領した日本陸軍は、ソ連の航空基地跡を日本陸軍航空隊基地に作り替え、その後、海軍共用となる。
1938年7月、ソ連軍の進軍によって、満州国(朝鮮軍)の国境紛争(張鼓峰事件(ソ連側ではハーサン湖戦争)が発生するが、宇垣外相の努力により、ソ連軍側の主張する国境線で8月停戦協定が成立する。
1938年、日独伊防共協定を締結したリッペントロップ外務大臣は、ドイツ軍事顧問団の引き上げを指示する。
24 国家総動員法、電力国家管理法1938(第1次近衛内閣)
近衛文麿は、京大でマルクス主義を学び、学生時代から米英仏蘭葡のアジア植民地支配を批判しており、米英仏蘭葡をアジアから排除した東亜新秩序を構想していた。近衛文麿のブレーンである昭和研究会(主要メンバー 風見章、尾崎秀実、三木清等、戦時体制を利用して計画経済を導入し、ソ連型全体主義に日本を改造(革命)することをもくろむ。)と朝日新聞等の新聞メディアは南京占領後も戦争継続を扇動していた。
近衛内閣は1938年1月16日、「国民政府を対手せず」声明を発表した一週間後の1月23日に国家総動員法の法案要綱を公表、2月19日に第73回帝国議会衆議院に提出した。
近衛文麿は、悲願の国家総動員法を国会に上程するため、日中戦争の終結を阻止する必要があった。そこでこのような声明を発表したと考えられる。しかも貴族院ではこの法律は支那事変に適用しないと答弁しながら、5月5日に施行している。
元老西園寺公望は、この法律案は大日本帝国憲法に違反していると指摘していた。
1938年4月、統制経済導入に、議会の参与が不要となる国家総動員法が成立する。(大日本帝国憲法では内閣が国民に権利を付与し、または義務を課す法律を制定するときは国会の参与が必要であったが、この法律により、内閣の勅令だけで国民の権利の制限、義務の賦課が可能になった。)
広田内閣時代から、軍部統制派は準戦時体制の研究と準備をしていたが、近衛文麿と昭和研究会は、軍の準備をはるかに超え、ナチスドイツの全権委任法に匹敵する、委任立法による戦時統制経済を実現した。
さらに電力国家管理法施行に伴い火力発電所は国内の発電、送電を担う特殊会社日本発送電に統合され、さらに電力開発のため、黒部川に高熱隧道で有名な黒部第三ダムの建設が着手される。(さらに1941年、水力発電所も日本発送電に統合される。)
この第73回帝国議会衆議院では、社会大衆党は、社会主義への一歩前進とうけとり、国会で賛成演説に立った西尾末広は、「近衛首相はムッソリーニのごとく、ヒトラーのごとく、スターリンのごとく勇敢に政治せよ」と演説した。「スターリンのごとく」という発言が問題視され、西尾氏は除名された。
歴史家が述べるような、意志薄弱な近衛文麿が軍部に強いられたというのは近衛文麿と取り巻きが共産主義者であった事実を無視している。
近衛文麿は自分の意志で、戦時統制経済体制を構築したのである。
1938年10月、武漢陥落と同時期に、香港経由で入る米英の物資を遮断するため、日本陸海軍共同で広東を占領、英国艦隊と一触即発の状態になる。
1938年11月近衛内閣は「東亜新秩序声明」(第2次近衛声明)を発表し、戦争目的は新たな領土や賠償、中国市場の独占を求めるものではなく、東亜安定のための新秩序建設であるとしており、国民政府といえども拒否するものではないとした。このとき有田八郎外相は米国に対し、門戸開放原則はもはや指導的原則ではない、と文書を送っている。
それに反発したアメリカは12月に、重慶政府に9か国条約に違反して、単独でドル借款を与えた。
日本軍は陸路による重慶攻略を断念し、日本陸海軍共同で漢口、武昌基地から発進する陸上攻撃機(爆撃機)による重慶爆撃を1938年12月から開始し、1941年9月まで実施する。(1940年秋には陸上攻撃機に随行可能な戦闘機として零戦が初めて実戦に投入される。それまでは重慶まで飛べる戦闘機がなかったので重慶上空では護衛戦闘機の随行がなかった。)
日本が中華民国の太平洋沿岸の主要都市を占領した状態で、戦争が膠着状態となる。日本陸軍主導で占領地の行政のために12月、興亜院を設置する。興亜院は、アヘンの製造販売を専売品として独占管理し、中国国内のアヘンの総消費量を減らす施策を実施した。この施策は既に台湾において実施済みであり、台湾のアヘン撲滅に成功している。アヘンの売り上げは各自治政府の収入となった。
ただ、供給量確保の過程で、日本の特務機関里見機関が中国のアヘンを牛耳る裏組織幇会(紅幇(ホンパン)、青幇(チンパン))と接点を深めることになった。
なお、日中の和平交渉を任されていた外務大臣の宇垣一成は、交渉の妨げになる興亜院の設置に強く反対し、宇垣大臣辞任の一因と言われている。また近衛内閣の呼びかけに応じて重慶脱出してきた汪兆銘に対して、冷や水を浴びせるような政策となった。
近衛文麿の独裁政党結成への動きは、すでに第1次内閣の1938年にあった。戦後の社会党の前身である社会大衆党が、「大日本党」を結成し、近衛文麿を党首に迎え入れる計画があったが、近衛文麿は既成政党の解散の機は熟していないと判断し、見送った。
25 汪兆銘、重慶脱出1938年12月(近衛内閣)
汪兆銘は、蒋介石の焦土作戦を強く非難し、近衛内閣の東亜新秩序の呼びかけに応じて、日本との講和に前向きな反共政権の樹立を目指し12月18日、重慶を脱出した。12月22日、第三次近衛声明を発表した。日支新関係調整方針を盛り込み、善隣友好、共同防共、経済提携、満州国承認、華北や内蒙古の特殊地帯化を主張しながら、領土非併合、無賠償の立場を述べた。その後、興亜院の設置を決定したまま、理由をはっきり言わないまま1939年1月4日、総理大臣を辞任する。(平沼内閣では無任所大臣というポストで残る。)。
しかし第三次近衛声明は、英米からは東亜モンロー主義と受け止められ問題視された。アメリカはそれまで消極的だった重慶政府支援をついに決定する。
1939年3月米英仏政府は金銭や物資を、日本軍には手が出せないハノイルートとビルマルート経由で重慶政府に供与した。
重慶ではソ連軍事顧問団(ソ連からの支援ルートも存在した。)と中国共産党の周恩来が駐在しており、蒋介石が日本と講和しないよう監視していた。
1939年春、ハノイの援蒋ルートけん制のため、帝国海軍の主導で、陸海共同作戦の海南島上陸作戦が実施された。
一方、汪兆銘は重慶脱出後ハノイ滞在したが、蒋介石の刺客に狙われ身代わりの命を引き換えに助かる。ハノイから上海まで日本軍が護衛した。
汪兆銘が政権樹立すると、陸軍は、自治政府による間接統治方式の見直しが必要となるので、汪兆銘に対する反応は冷たかった。対日和平派であった高宗武と陶希聖も和平条件が苛酷であることを批判し、そこから離脱してしまった。
26 天津封鎖・ノモンハン、南京国民政府樹立1939(平沼内閣、阿部内閣、1940米内内閣)
1939年4月、華北政権である中華民国臨時政府の程委員が英租界で暗殺され、犯人は国民党工作員と特定されたが、英が租界に潜伏する犯人の引き渡しを拒む事件が発生した。6月、抗日分子の拠点である天津英仏租界を日本軍が封鎖したが、英米との関係が決定的に悪化し、米国から7月、日米通商条約の廃棄通告(1940年1月破棄)を受け、日本は最恵国待遇を失う。
中国では日本軍による南昌作戦が展開していたが、同年5月にはノモンハン事件(ソ連側呼称ハルハ河戦争)がソ連の衛星国家モンゴル共和国のモンゴル軍の越境によって発生する。関東軍が満州国境線まで押し戻したが、後半になって、ソ連はシベリア鉄道で満州に移動させた戦車部隊と航空機をジューコフ指揮のもとで投入したことで優勢となり、日本の主張する満州国境線を突破し、ソ連主張線のさらに奥に浸食した。しかし同年8月に独ソ不可侵条約締結し(ソ連の牽制を期待していた日本が同盟に応じないので痺れをきらしたヒトラーと、国力がつくまで大きな戦争を避けたいスターリンの利害が一致した。)、9月に独ソがポーランドに侵攻し第2次世界大戦がはじまったことで、二正面作戦を避けたいソ連は停戦を急ぎ、日本側も第23師団が壊滅状態に陥ったので、ソ連側が従来から主張する線を満州国境線とする停戦協定が成立しノモンハン事件は収束する。ソ連は主力戦車部隊を投入したが、BT7戦車はガソリン駆動のため、日本兵の火炎瓶攻撃で甚大な被害を受けていた。また、第2次世界大戦勃発したため、ソ連の義勇航空隊は本国に引き上げる。
ところで、日本、イタリアと防共協定を結んでいるドイツがソ連と不可侵条約を締結したことで、反ソの平沼総理などの皇道派はナチスドイツに対する不信感をいだくことになる。
1939年12月、援蒋ルート遮断のため広西省で崑崙関の戦い(こんろんかんのたたかい)が発生、ここで国民党軍はソ連供与のT26軽戦車を投入したが、日本側の圧勝となる。
日本陸軍の今井武夫や影佐禎昭は汪政権の樹立に力を尽くすと同時に蔣介石の重慶政権との和平こそが最終的な日中和平につながるとみて、1939年12月末、蔣介石夫人宋美齢の弟・宋子良との接触を非公式に開始した。(桐工作)重慶政府内で懸案となっているのは満洲国承認と日本軍の駐兵問題であり、この点について日本が譲歩する以外、和平実現の見込みはないと宋子良は明言した。ところが、「宋子良」を名乗った人物は偽物であることが判明し、交渉は暗礁に乗り上げた。
1940年2月、齋藤隆夫代議士は、帝国議会において、近衛声明を非難し、新たな領土や賠償を求めない聖戦を継続することは、日本国民にとって何の利益になるのか、崇高な使命を説いても犠牲を払っている国民は納得できるのか、汪兆銘を交渉相手にして和平は実現できるか疑問である、等の反軍演説を行い、国会議員を除名された。
1940年3月25日には聖戦貫徹議員連盟が結成され、5月26日には近衞文麿が木戸幸一や有馬頼寧(よりやす)と共に、「新党樹立に関する覚書」を作成した。再度、ソ連共産党やナチス党をモデルにした独裁政党の結成を目指した。
ところが、1940年のヨーロッパでは、英仏連合軍がドイツに敗北し、フランス・オランダは降伏し、6月パリがドイツ軍に占領された。英仏連合軍敗北の情報を受けて、重慶の蒋介石は前途を悲観、和平交渉に期待ししだした。この和平ムードを壊すため、中国共産党八路軍は1940年8月、華北の日本の交通線と鉱山などの生産拠点に対し、大規模な攻撃を加えた。(百団会戦)
アメリカは1940年5月太平洋艦隊の本拠地をサンディエゴからハワイに移転、7月アメリカは両洋艦隊法を成立させた。
ヨーロッパの戦争ではドイツはイギリスと交戦状態(バトルオブブリテン)であったので、ドイツびいきの陸軍統制派は、イギリスが降伏する前に、日本はドイツとの同盟に踏み切らないと、ドイツに敗北した国のアジアの植民地はすべてドイツのものになると煽った。
米内内閣は、対英米戦争を危惧し、日独伊三国同盟に反対であったが、陸軍の倒閣運動(畑陸軍大臣辞任)で米内内閣は退陣する。
近衛文麿は6月24日に、日本の議会制民主主義を終わらせ、一党独裁体制を目指す、「新体制声明」を発表する。
近衛文麿らの推薦で内大臣に就任した木戸幸一らは、米内総理の後任として、近衛文麿を総理大臣に奏挙した。(最後の元老西園寺公望は死の床に伏していた。西園寺は近衛文麿の総理大臣奏挙に反対したが、木戸内大臣から無視された。)
1940年7月ヘンリー・スティムソンが陸軍長官として復帰した。
27 日独伊三国同盟、北部仏印進駐1940(第2次近衛内閣)
近衛文麿は組閣前、邸宅の荻外荘で米内内閣残留の吉田善吾海相、東条英樹陸相予定者、松岡洋右外相予定者と会談(荻窪会談)し、東亜新秩序のための独伊同盟とソ連との中立条約締結、英仏蘭葡のアジア植民地の積極処理、米国の排除を確認した。組閣後、「基本国策要綱」を決定した。要綱にはこれまでの公文書にはなかった聖戦、皇国、八紘一宇の文字が並び、全体主義の思想性を帯びており、昭和研究会(革命を改造と呼び変えるなど、治安維持法対策のため右翼を偽装している。)の影響が強く出ている。
組閣後早速、ハノイの援蒋ルート封鎖のため日本陸軍はビシー政権フランス植民地軍と軍事協定を締結し、1940年9月上旬北部仏印進駐を行う。ところが、反ビシー派の一部フランス軍と交戦となった。
英米が北部仏印進駐に強く反発すると、英米をけん制するために近衛内閣は、日独伊三国同盟の速やかな締結を検討する。英米の反発を心配する吉田海軍大臣と後任の及川海軍大臣は、松岡外務大臣に、英国の降伏は近いので英国との戦争はない、むしろアメリカの参戦を防ぐために、日独伊三国同盟が効果的であると説得され、しぶしぶ条約に賛成、1940年9月27日条約が締結される。
米国は10月くず鉄及び航空用燃料の輸出を止め、英国はドイツに降伏しなかった。前吉田海軍大臣は、日独伊三国同盟の成立に責任を感じ、自殺を図る。
汪兆銘工作と併行して桐工作が行われていたが、7月に第2次近衛内閣には、汪兆銘政権の承認よりも重慶政府との和平交渉を、優先した。
このような蒋介石の和平への期待を打ち砕くため、中国共産党は珍しく、大規模な抗日攻勢に打って出た。1940年8月、八路軍総司令官朱徳と副総司令官彭徳懐は、華北の日本の交通線と鉱山などの生産拠点に対し、大規模な攻撃を加えた。百団会戦という。
結局、蒋介石は米ソの対日参戦に期待し和平交渉で日本軍の即時完全撤退を要求し、日本側とは平行線のまま9月に交渉は打ち切られ、近衛内閣は1940年11月汪兆銘政権を承認し、汪兆銘の南京国民政府と日華協定を締結した。
日華協定は、不平等条約を改正する一方、治安維持目的の中国国内の日本軍進駐を認める内容である。また同時に日満華共同宣言を発し、南京政府は満州国を承認し、日本は南京政府を承認した。1937年7月から占領してきた中国の沿岸部主要都市、地域をまとめて汪兆銘南京政府に引き渡した上で、条約に基づき日本軍が駐留するという形を整えた。この段階で中国は、日本が後ろ盾の汪兆銘の南京政府、米英ソが後ろ盾の蒋介石の重慶政府、コミンテルンが後ろ盾の毛沢東の延安政府の3つに整理された。1937年12月から存在していた北京にある中華民国臨時政府と南京の中華民国維新政府は、汪兆銘の南京国民政府に統合された。しかし、華北区域はそのまま新たに設立された華北政務委員会に統治が委任され、また、1939年に成立していたチャハル(察哈爾省)、綏遠省からなる内モンゴル自治区(徳王主席)は、1940年に蒙古連合自治政府に改称した。北京政府の有力な元官僚や実務家がこれらの自治政府委員会の委員等に取り込まれた。なお占領地は北志那派遣軍、中志那派遣軍が駐留を続けたし、日本の占領政策官庁である興亜院もそのままであった。
そのころ企画院調査官が多数、治安維持法違反で検挙、起訴される事件が起きる。企画院に対しては、小林一三商工大臣は「赤化」、平沼麒一郎内務大臣は「国体と相容れない」として非難していたが、陸軍統制派からは支持されていた。検挙された者の約半分は昭和研究会のメンバーであった。平沼内務大臣が、近衛ブレーンの昭和研究会のメンバーの多くが共産主義者であることを問題視したので、近衛は追及をかわすため、昭和研究会を解散した。
1940年11月、最後の元老西園寺公望は90歳で亡くなる。
28 大政翼賛会1940(第2次近衛内閣)
近衛文麿は、1940年当初から新体制運動として、すべての政党解散と議会を休止させ、ナチスのような一党独裁(大政翼賛会)をめざしていたが、平沼麒一郎ら皇道派から、大政翼賛会は大日本帝国憲法違反であり、日本の国体にそぐわないと反対された。これに対して東大法学部教授の宮沢俊義は、「憲法に抵触せず、むしろその精神の発揚である。」と大政翼賛会を明確に擁護した。一党独裁を目指す「新体制声明」に応じて、革新系政党主導で7月に日本革新党・社会大衆党・政友会久原派、ついで政友会鳩山派・民政党永井派、8月に民政党が解散した。東方会の参加したがすぐ離脱した。
大政翼賛会は10月発足したが、既成政党の国会議員の寄せ集めにすぎなかった。
一党独裁に賛成の革新系政党以外は、前向きに賛成というわけではないが、そのような議員をすべて排除することも、国会を永久解散することも、大日本憲法改正しないとできないことは明白であった。しかも2・26事件の際、断固たる鎮圧を下命した天皇陛下が、そのような憲法改正をお認めになるはずはなかった。結局、近衛文麿は、天皇陛下との決定的対立を避けた。
1941年9月には329人の議員によって翼賛議員同盟(翼同)が結成された。しかし大政翼賛会は憲法違反であるとして参加を拒否した鳩山一郎グループおよび革新系政党グループの3つ会派に分かれてしまった。大政翼賛会総裁には、近衛、東条などそのときの総理大臣が就任し、国会は大日本帝国憲法どおりに運営された。
しかし大政翼賛会は、内務省の補助機関として、町内会、隣組を組織、国民に対する上意下達の総動員体制を構築し、国民の言論を相互監視と密告で取り締まるソ連のような全体主義体制を作ることに成功した。
(この上意下達の町内会システムは戦後、GHQによって「日本民主化」に利用される。)
(1941年の第21回衆議院総選挙は戦争で延期はされるが、1942年に実施されている。非推薦議員も立候補でき、鳩山一郎等85人が当選している。反軍演説で除名された齋藤隆夫も内務省の選挙妨害に苦労しながら再当選した。また国家総動員法の賛成演説で「スターリンのごとく」発言をし除名された西尾末広も非推薦議員で立候補、当選した。)
1941年3月アメリカはレンドリース法を成立させ、4月にはこの政策が中国にも適用された。
29 日ソ中立条約 1941年4月(第2次近衛内閣)
松岡外務大臣は、日独伊三国同盟に続き、アメリカをけん制するためには、日ソ中立条約でソ連を枢軸側に引き込む必要があると主張した。皇道派の敵であるソ連と中立を約束することに平沼内務大臣は反対した。近衛の本心は、日本陸軍の北進の可能性をなくし、南進に固めたかったと思われる。松岡外務大臣はドイツのソ連侵攻計画を知らないまま、モスクワで条約を締結した。ゾルゲ情報でドイツのソ連侵攻を予期していたソ連陸軍は、満州国国境を守っていた戦車部隊を、シベリア鉄道でモスクワに移送する。(スターリンはゾルゲ情報には半信半疑であったが)
その後、6月にドイツのソ連侵攻を知った松岡外務大臣は、南進に反対し、北進を近衛首相に進言したため、近衛は松岡外務大臣を更迭し、アメリカが激怒することを承知のうえで、南部仏印進駐を急がせる、南部仏印進駐について海軍の反対はなかった。
関東軍は特別大演習を行い、ソ連侵攻(北進)を選択肢として残していた(陸軍の仮想敵はソ連)のであるから、近衛の南進決定は、対英米戦争になることを承知の上で北進を阻止しソ連を救った重大な決断といえる。(アメリカ陸軍将官のウェデマイヤーは、著書「第二次世界大戦に勝者なし」の中で、このとき日本は北進しておれば、戦勝国になるチャンスはあったと記している。)
そのころ、近衛の側近である元昭和研究会のメンバーたちは、日本の敗戦革命をもくろんでおり、日本が英米と衝突する公算が高い南進を歓迎していた。
なお、ソ連は日ソ中立条約締結後、重慶から軍事顧問団を引き上げ、重慶政府への軍事援助を縮小した。すると蒋介石国民党は、第2次国共合作時の中国共産党との約束を反故にし、中国共産党への資金、軍服、弾薬の援助はすべて打ち切った。さらに1941年1月、国民党軍が、安徽省内の中国共産党第四軍を攻撃する事件(皖南事変)がおきた。同年5月から6月にかけて山西省で北支那方面軍と蒋介石国民党軍との会戦が勃発した。(中条山会戦(中原会戦))苦戦する蒋介石国民党軍は第八路軍の救援を求めたが、中国共産党は、日ソ中立条約の成立を理由に、第八路軍を動かさなかった。
しかも蒋介石国民党軍が撤退した村落を拠点に、中国共産党は勢力を急速に拡大していき、それを日本軍は黙認した。
このような中国共産党と日本軍との平和共存が成立した結果、日本軍占領地の拡大にあわせて中国共産党の拠点も拡大していった。
30 南部仏印進駐1941年7月(第3次近衛内閣)
1941年7月ドイツは汪兆銘政権を承認し、南京政府と断絶する。同じ7月の南部仏印進駐の結果、アメリカは石油の禁輸、在米資産凍結する。在米資産凍結の結果、アメリカの銀行に預金している日本の銀行、商社の貿易の決済資金がすべて凍結されたため、日本はバーター貿易しかできなくなる。
このころ、日中戦争の死傷者は日露戦争を超え、尾崎秀実らの書く新聞記事等に煽られ、日本の世論は、日米開戦止む無しに傾いていた。
続く
日中近代史再整理Ⅲ|CRAFT TOOLS
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コリン・ロス 日中戦争見聞記1939年のアジア
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