日中近代史再整理1
日中関係が何かと話題となる昨今、明治から遡って要点のみを抽出し再整理しました。すると満州事変から語られる歴史とは全く違った姿が見えてきます。日清、日露戦争から遡って検証すると、日本がそれまで締結してきた条約や協定を、1930年に入って革命外交を推し進める中国政府がすべて無効だと宣言して、中国にいる日本人、日本企業を攻撃してきたので、自衛のため合法的に駐留する日本軍が反撃したということがわかります。結局、中国に展開した居留民や企業の安全保障の問題、すなわち高市早苗首相が25年前に朝までテレビで、日中戦争は日本側のセキュリティーの失敗だったと語ったことが思い出されます。
1 万里の長城より北は、元来、漢人の土地ではない。
明の第17代皇帝崇禎帝は1644年、流賊から台頭した李自成の軍の包囲を前に自殺し、漢人最後の王朝である明が滅亡した。同年、清が李自成軍を破って北京を占領、清の首都を盛京(瀋陽)から北京に遷都し、女真族は北京に移住、漢地の各省に八旗軍を配置し直接統治、一方、モンゴル、ウィグル、チベットは間接統治する形で、女真族の王朝、清帝国が成立した。
清は、女真族の故地である満州に、漢人の進入を禁止する満州封禁策を採った。
2 アヘン戦争、太平天国の乱、日清修好条規、日朝修好条規
アヘン戦争の結果、1842年、南京条約で香港をイギリスに割譲、イギリス人の広州、厦門、福州、寧波、上海の居住権の承認とこれら5港の開港が認められた。1858年の第2次アヘン戦争(アロー号事件)の結果、英、仏、米、露との間で天津条約が締結、牛荘(満州)、登州(山東)、漢口(長江沿岸)、九江(長江沿岸)、鎮江(長江沿岸)、台南(台湾)、淡水(台湾)、潮州(広東省東部、後に同地方の汕頭に変更)、瓊州(海南島)、南京(長江沿岸)の10港を開港外交官の北京駐在、領事裁判権、中国国内の旅行、貿易の自由、揚子江の航行の自由、キリスト教布教の自由と宣教師の保護が定められた。さらに1860年、英仏露との北京条約では、天津の開港、英国へ九竜半島の南部九竜司地方(香港島に接する部分)の割譲等が定められた。
太平天国の乱(スローガン滅満興漢、なお(宮脇淳子「満州国から見た近現代史の真実」徳間書店)ではそれは嘘だと断定しているが)では、清朝は、太平天国軍の鎮圧に直属の八旗軍が失敗し、1851年上海を占領される。清朝は打開策として、漢人の将軍たちに出身地で私兵の軍隊を組織することを認め、さらに軍の費用に充てるため、関税(釐金(りきん))などを自由に徴税することも認めた。それが軍閥の起源である。1853年、李鴻章は朝廷の命令を受けて郷里の安徽省で淮軍を組織し、幾度も太平天国軍と戦った。1864年太平天国の乱が鎮められたが、その後も各地の軍閥は解散することなく存在し続けた。
また、イギリス人は上海居留地を太平天国軍から守るため、条約を結ぶことなく、租借地として治外法権化し、イギリス軍が駐留することになる。
1867年、アメリカはミッドウェイ島の領有を宣言する。
1871年、日清の間で、両国は相互に領事裁判権を認め、内地通商を禁止し、最恵国待遇を求めないとする、対等な主権国同士の条約の形式をとり、相互主義的ではあるが、欧米の考える通商条約とは真逆の日清修好条規が締結された。一方朝鮮の開国をめざしたアメリカは、朝鮮がアメリカを拒否をすること見越して、日本が朝鮮の最初の条約締結国になることを求めてきた。1876年、日本は朝鮮と日朝修好条規を清朝の北洋大臣李鴻章の了承を得て締結したが、この条約は日本の領事裁判権を認め、朝鮮の関税自主権を制限する内容の非相互主義的な欧米型の開国条約であった。(米国は日本の仲介で、日本と同じ内容の条約を朝鮮と締結しようとしたが、条文に朝鮮が清朝の属国であることを明記するよう清朝の北洋大臣李鴻章が求めてきた。しかしアメリカは拒否し調整に時間を要したため、1882年の締結となった。)
3 日清戦争1894
プロシア軍から派遣された日本陸軍大学校兵学教官のメッケル少佐(小メッケル・最終少将)は、朝鮮半島は大陸国が日本を侵略するための橋頭保としての役割を果たす(朝鮮半島は日本に突き付けられた匕首(あいくち))ことを指摘した。日本は、朝鮮半島を大陸国の支配から自律した独立国にすることが、最大の外交目標となる。
しかし清朝の李鴻章は朝鮮に対する支配を強化するため、1882年、北洋大臣と朝鮮国王は同格と定めた条約を締結し、朝鮮に北洋大臣として袁世凱を派遣した。清は1885年清仏戦争に敗戦し、朝貢国のベトナムはフランスに領有され、残された朝貢国は朝鮮だけになってしまった。朝鮮半島において1894年東学の乱(甲午農民戦争)が発生し、鎮圧のため清は出兵したが、日本政府は、清が日本に無断で出兵したことは日清修好条規に違反したとして、対抗上、1882年に清国同意のもとで朝鮮と締結した済物浦条約5条の日本軍駐留権に基づき朝鮮出兵した。乱が収まった後も、清軍は撤兵せずそのまま朝鮮に居座ったことから、日清間の緊張が高まり、日清間で軍事衝突が起こった。日本軍は李鴻章率いる淮軍(のちの北洋軍閥)の陸軍と海軍(北洋艦隊の戦艦定遠、鎮遠はドイツ製)と戦った。旅順陥落の際、日本軍が住民虐殺を行ったとする旅順虐殺事件が欧米の新聞で報道された。日本政府はすぐに事実ではないと打消し、誤報に対応した。
下関講和条約の結果、日本に、遼東半島(満州と朝鮮半島の間を流れる鴨緑江の西)、台湾(清朝は1683年に併合してから200年もの間、港湾都市を支配していただけであり、奥地は化外の地とし踏み入れようとはしなかった。台湾を正式な省にしたのは、清仏戦争でフランスによる基隆の占領、台南、高雄の海上封鎖でその重要性に気が付いた1885年のことである。孫文は台湾に関して日本に返還を求める発言がなく、蒋介石も1942年まで台湾返還に言及したことはない。)及び澎湖列島が割譲された。また揚子江航行権を取得、天津には、日本人居留地が作られた。
欧州におけるロシアとフランスの接近を警戒したドイツのウィルヘルム二世は、ロシア、フランスを誘って日本に三国干渉を仕掛け、遼東半島を清に返還させた。ドイツのウィルヘルム二世はこの前から既に太平洋進出に乗り出しており、サモア、ニューギニア北東部、ビスマルク諸島を併合していたが、三国干渉直後、マリアナ諸島、カロリン諸島、パラオ諸島をスペインから買収した。さらにロシアの誘いに乗って中国進出の野望を抱いた。
清朝は賠償金を支払うため、ロシア、フランスの銀行から借り入れをしたが、それをきっかけに1896年モスクワにおいて財務大臣ヴィッテと欽差大臣(全権委任)李鴻章との間に、露清密約(日本に対する共同防衛が目的)が交わされた。日本から返還された遼東半島(旅順、大連)をロシアへの租借し、ウラジオストクを終点とする東清鉄道の満州での敷設権(東清鉄道、線路の幅は広軌)と鉄道付属地の防衛のためのロシア軍の駐留及び自由な軍隊の鉄道移動及び港湾の自由使用等を清がロシアに約束する内容であった。
三国干渉に屈した日本を見た李氏朝鮮は、親露派が勢力を盛り返し、1896年2月、ソウルにあるロシア公使館に高宗は居所を移した(露館播遷ろはんばんきょ)。さらにロシアと同じ広軌の鉄道を外国の資金、技術で建設しようと計画し入札を行ったが、日本は、シベリア鉄道、東清鉄道と仁川、ソウル、プサンが同じ広軌の鉄道で直結することは、日本の安全保障上の危機と考え、渋沢栄一らが応札、ロシア、フランスは朝鮮側の資金不足を理由に辞退したため、日本が落札し、標準軌の鉄道敷設を行った。李王朝は、清の宗主権が消滅したことを明確にするため、1897年国号を大韓帝国に変更した。
ロシアは1898年、清と正式に条約を締結し、遼東半島の南端の旅順・大連の25年間の租借権と、東清鉄道と大連を結ぶ支線(南満州支線)の鉄道敷設権(36年後の1934年に清はロシアから鉄道を買い取る権利が与えられた。)を得た。ロシアが日本との戦争に備えて要塞化した旅順は、東洋のジブラルタルと言われた。
1899年、ロシアは馬山浦の割譲を大韓帝国政府に要求したが、日本が急遽土地を買収し、ロシア単独の租界地設置及び軍港築港を阻止した。それでも日本との共同租界として日露戦争までロシア租界地が存在した。(馬山浦事件)
一方、清国では、漢人による外国人殺害が相次いだため、各国は居留民保護のため軍を派遣した。ドイツは1897年宣教師殺害を理由に山東半島南側の膠州湾(その湾頭の青島を含む)を占領し、98年に租借(99年間)に切り替え、東洋艦隊の軍港に整備した。ドイツは鉄道敷設権や鉱山採掘権などの権益も認めさせ、山東省を勢力圏としていった。ロシア、ドイツが北京の玄関口の渤海湾を囲むように押さえたため、イギリスは慌てて山東省東部の威海衛を租借した。
1898年、アメリカはハワイを併合する。また同年、スペイン戦争の勝利の結果、フィリピン、グアム島がアメリカに譲渡される。
4 義和団事件1900
清では、ドイツの進出がきっかけで欧米諸国に対して反発が大きくなった。義和団(スローガン扶清滅洋(ふしんめつよう))は、外国人排斥に立ち上がり、天津を出発、北京は占領される。清朝は義和団に同調し、8か国(米、英、仏、日、露、独、伊、オーストリアに宣戦布告する(北清事変)。8か国連合軍が、北京の外交官たちを救出するため、1900年北京に突入し(北京の55日)、外交官らを救出する。満州にも漢人の暴動は飛び火し、鉄道の組織的破壊が行われた。ロシアは、満州に敷設した鉄道をテロから守るために満州に侵攻し、満州全域を占領する。その過程で、アムール河岸に住む中国人住民5千人を無差別に殺害し、アムール河に死体を流した。また義和団にドイツ公使を殺されたドイツ軍は、北京到着が遅れたが、ウィルヘルム二世から中国人に教訓を与えよと訓示(フン族演説)されたとおり、北京周囲の村々に遠征をおこない、非戦闘員殺戮を行った。
北清事変の戦後処理のため北京で締結された条約(北京議定書)で、各国は、自国民の安全のため、北京、天津に軍隊を無期限に駐留する権利が認められる。日本は帝国陸軍の駐屯軍は北京、天津に駐留し、本部は天津にあったので天津軍とも呼ばれた。
清朝は北清事変の賠償金に充てるため、それまで公式には漢人に満蒙の入植を禁じていた満州の土地を、国策として大規模に漢人に売り、地主となった漢人が、入植する漢人等に農地を貸す形態で、組織的で合法的な満州入植がはじまる。
ロシアは満州にそのまま居座り、むしろ森林伐採等で朝鮮国境を侵犯する。1903年東清鉄道が完成し、シベリア鉄道(バイカル湖は連絡船)は暫定的に開通(ハバロフスク経由は建設中)、不凍港を求めて南下するロシアの進出に脅威を覚えたイギリスと日本は1902年日英同盟を締結する。
5 日露戦争1905
ロシアは日本に対し、39度線以北の朝鮮半島の中立化を要求してきた。日本はロシアを朝鮮半島から遠ざけるため、満州を主戦場にして日露戦争を戦った。シベリア鉄道はバイカル湖が輸送のネックになった。砕氷連絡船を導入したが、真冬は役に立たず、仕方がなく湖面の氷上に鉄道を強引に走らせた(氷が割れて貨車が水没、多数の死者を出した。)。
清は戦場が自国領土でありながら、中立宣言する一方、満州を占領するロシア軍に密約に基づき協力していた。また中立のはずのドイツもバルチック艦隊の補給を支援した。
日露戦争の結果は、日露の講和条約であるポーツマス条約が1905年9月に締結され、日本は、南樺太割譲、遼東半島租借地(1898年に締結した条約でロシアが清国から25年間の期限で租借したもの)、東清鉄道南満州支線の経営権と鉄道付属地(1934年に清はロシアから鉄道を買い取れる条件が付いている。)の譲渡等を得る。そして、遼東半島租借地のある関東州に、関東軍の前身となる行政府と鉄道守備隊(ポーツマス条約で鉄道1キロにつき15人以下に人数を制限)を持つ関東都督府を設置した。1905年12月、小村寿太郎外務大臣は清国と満州善後条約を締結し、ポーツマス条約の内容について清国に了解させた。
なお北満州の東清鉄道(長春以南を除く)と鉄道付属地は依然としてロシアの権益である。1905年にバイカル湖岸鉄道が完成する。
大韓帝国では、親露派が勢力を増していることから、ロシア側に取り込まれることを日英米は警戒した。そこで英米の了解のもと、日露戦争開戦1904年2月、日本軍はロシアの朝鮮侵略を予防するため、朝鮮半島に進駐開始した。日朝間で同年8月第1次日韓協約、1905年第2次日韓協約が締結され、大韓帝国は外交権が剥奪され保護国化された。同年、朝鮮半島とフィリピンについて、ポーツマスで日露戦争の講和条約交渉中の日米が相互に勢力圏を確認した桂タフト協定が締結された。高宗はなおもロシアに接近しようとし、1907年ハーグ密使事件を起こした。その結果、同年第三次日韓協約 締結、韓国軍は解散し、日本軍が継続して駐留することになった。1908年11月、高平・ルート協定が締結され、日米で領土の現状を相互に承認しあった。さらに1909年伊藤博文暗殺、1910年日韓併合となる。日韓併合により、朝鮮人は大日本帝国臣民となった。
1907年第1次日露協約で満州を分界線として両国の特殊利益を地域的に確定する協約が締結されたが、アメリカが提案した満州における鉄道中立化案が日露両国の接近をもたらし、さらに1911年の第3次日露協約では満蒙が分界線となった。
なお、日本帝国海軍は、米国を仮想敵国として1907年、帝国国防方針を決定し、海軍を増強する。
清は、満州に東三省総督府を1907年に設置(1912年まで存続、ちなみに初代総督は徐世昌)
6 辛亥革命1911(第1革命)「武昌起義」
湖北省武昌で、軍事蜂起(革命軍司令官黎元洪(れいげんこう)元清軍人、黄興(こうこう)、章炳麟(しょうへいりん))があり、日本留学帰国組の八旗軍リーダーも合流、清朝正規軍の八旗軍を敗退させた。このとき革命軍は孫文のスローガンの駆逐韃虜(たつりょ)を実行し、満州族を500人以上殺害した。18省のうち南部14省が独立を宣言、孫文がイギリスから帰国し、広東で国民党政権樹立を宣言、14省のリーダーの投票で、孫文を臨時総統に選出した。実効支配は広東だけの政権だが、清朝に代わる政府であることを宣言して北伐を開始、その過程で満州族2~3万人が殺害された。満州族に対する殺戮と八旗軍の無力に驚いた清朝は、西太后の死後失脚(1908年)していた袁世凱(失脚前は李鴻章没(1901年)後、北洋大臣として北洋軍を指揮していた。)に国民党軍(革命軍)の鎮圧を依頼する。袁世凱は、部下の段祺瑞、馮国璋を討伐に向かわせる一方、イギリスの仲介で孫文と北京で休戦交渉し、孫文から、皇帝を退位させたら、袁世凱に国民党臨時総統の地位を譲渡するという約束を取り付ける。袁世凱は清朝と交渉し、皇帝溥儀の退位を条件に、退位協定(溥儀の外国元首としての地位と皇族、宮廷役人の紫禁城での生活を保障し、その費用を国民党政府が全額負担する内容。清室優待条件(皇室、皇族の待遇、満蒙回蔵各族待遇条件(満蒙回蔵各族共和に賛同するに因り中華民国は左の待遇をなす。)(すなわち漢族を合わせて5族共和すること))を清朝と締結、溥儀を1912年2月、退位させ、清朝から満州、蒙古、チベット、ウイグルの領土も含めて中華民国に禅譲された体裁をとることに成功する。孫文は約束どおり国民党臨時総統の地位を袁世凱に譲った。同年3月、議会の承認の下、中華民国大総統となった袁世凱は、武漢出身の革命軍司令官黎元洪を副総裁に取り込み、漢人による南北統一政権である国民党北京政権を樹立する。さらに袁世凱は1913年、内モンゴルの独立を、軍を派遣し阻止した。(外モンゴルは独立した。)また袁世凱は議院内閣制、連邦制を唱える国民党の宋教仁を暗殺した。すると孫文たちは袁世凱に反旗を翻し、同年蜂起(第2革命)するも9月、袁世凱の命を受けた張勲に鎮圧(1913年南京事件)され失敗、黄興とともに日本に亡命する。日本では、孫文を支援する民間人が多くいたが、孫文は資金集めのため満州の売却等を三井物産の森恪や日本海軍参謀の秋山真之(さねゆき)に提案したという話がある。そもそも辛亥革命以降、無政府状態になっていた満州は、もともと万里の長城の北側の化外の地で漢地ではないので、あり得る話である。
1913年10月6日、日本は中華民国を承認した。
ところで、孫文は日本滞在中に秘書として中国から連れてきた宋慶鈴(浙江財閥の宋姉妹の次女)と結婚する。
7 第1次世界大戦(21か条の要求等)1914
青島を拠点に太平洋に展開しているドイツ東洋艦隊を警戒する英の要請を受け、日本はドイツに宣戦布告、山東半島のドイツの租借地(青島及び山東鉄道(青島~済南))を1914年11月占領する(青島攻撃には英軍も参加している)。
日本の大隈内閣(加東高明外務大臣)は日本軍がドイツ租借地や鉄道を占領したことを受けて、ドイツとの講和条約まで待てずに(単独講和は禁止されている。)、袁世凱に対して、ドイツの山東半島の租借地(99年間)の日本への譲渡の承認を求める(1号)。それと同時に、清朝時代の満州善後条約(1905年)の確認と租借期間の延長(遼東半島の租借地及び東清鉄道南満州支線の鉄道付属地の租借・権益期間をロシアの条約締結(1898年)から99年間に延長し、1997年までにする。)及び南満州及び東部内蒙古における日本人の土地取得、移動・営業の自由を要求(2号)した。中華民国最大の製鉄会社の日中合弁化(3号)、沿岸の港湾・島嶼を外国に譲与・貸与しないこと(4号)、さらにその後問題となる「中国政府に顧問として日本人官吏、軍人の登用、日本製兵器の使用、日本人警察官の採用、日本の病院・寺院・学校の中国全土での土地取得、日本人の布教の自由を要望する」第5号(日本の特殊権益を定めた秘密条項)を内容とする21か条の要求、要望を行った。国民党(袁世凱北京政府)との間で1915年、第5号は棚上げされ、2条約(山東省に関する条約、南満洲及東部内蒙古に関する条約)及び13交換公文(旅順大連の租借期限並に南満洲鉄道及安奉鉄道の期限等に関する交換公文等)という形で、条約等が締結される。(加藤外務大臣は袁世凱に頼まれて、元老らには相談せず最後通牒の形で要求書を交付した。反袁世凱勢力にこのことを条約に対する攻撃材料につかわれ、日中関係を悪くしたため、加藤高明は元老から嫌われ総理大臣になるのが遅かった。)
このうち南満州および東部内蒙古に関する条約によって、はじめて南満州及び東部内蒙古における日本人の居住の自由、在住者の土地の賃借、所有が認められた。(それまでは日本人は租借地と鉄道付属地にしか住めなかった)そのため、農業目的の入植者が、特に朝鮮併合後の朝鮮半島から増大した。(間島問題)(この南満州および東部内蒙古に関する条約を張学良が1931年一方的に破棄し、日本人(朝鮮人を含む)を満州から追放しようとしたことが、満州事変の原因である。)
一方で袁世凱は、大総統令で土地を外国人に貸したり売ったりした者を罰する懲弁国賊条例を1915年発布したが、袁世凱死後、取り消された。
8 袁世凱死去後の政変1916
袁世凱は権力強化のため議会を解散し、1916年1月自ら洪憲皇帝を称し、国号を中華帝国に改めた。しかし蔡鍔(さいがく)が反発し、護法戦争(黄 郛(こう ふ)らによる第3革命)が発生、北京政府軍を撃破した。また陸 栄廷(りく えいてい)が広西派を立ち上げ独立を宣言(このころ黄興病死)、日本(大隈内閣)も帝政には反対したことから袁世凱は帝政を撤回し、1916年6月、失意のうちに死去する。袁世凱没後、黎元洪(れいげんこう)が大総統に、帝政に反対した段祺瑞が総理に就任し、解散していた国会を回復した。日本(寺内内閣)は中国北京政府に第1次世界大戦への参戦を呼びかけるが、黎元洪(れいげんこう)と段祺瑞は中国がドイツに宣戦布告するか否かで対立し、府院の争いが発生した。段祺瑞は参戦を主張したが、黎元洪と国会は参戦を保留した。
黎元洪は、段祺瑞を牽制するために1916年10月に直隷派馮国璋(ふうこくしょう)を大総統代理に任命する。しかし翌年7月の清国再興を目指す張勲(ちようくん)が北京に入城(張勲復辟)し、黎元洪(れいげんこう)は大総統の座を引きずり降ろされ、日本大使館に逃亡する。(その後、天津で暮らす。)しかし直隷派馮国璋が張勲を撃破し、馮国璋が新たに大総統となる。
一方、1917年9月に孫文は広東軍政府(護法軍政府、1920年広東政府)を組織(大元帥は孫文)して中華民国からの独立を宣言すると、その対応で北京政府の国論が二分する。国務総理の段祺瑞は武力征伐を主張し、大総統の馮国璋は武力行使に反対した。段祺瑞は、満州を1918年に纏め上げた張作霖率いる奉天派と連合して南征を強行、さらに新国会(安福国会)での多数派工作にも成功して、直隷派馮国璋を大総統の地位から総統に降格し、日本との関係が深い徐世昌(じょせいこう)を形だけの大総統にした。
新政府はドイツに宣戦布告し、第1次世界大戦最後の年に西部戦線に兵士の代わりに労働者約14万人を送り込んだ(兵は送らなかった)。
袁世凱の後継者となった段祺瑞北京政府は山東半島のドイツ租借地の日本移譲を承認し、引き換えに日本(寺内内閣)は鉄道敷設資金として西原借款(当時の金額で金額2億7千万円)を無担保で実行した。
一方、孫文の広東軍政府は、どの国からも承認されなかった。
日米では、ウィルソン大統領の国務長官ランシングと石井大使は1917年、米の門戸開放、機会均等要求と中国(満州)における日本の特殊利益について話し合い、石井ランシング協定が締結された。
9 第1次世界大戦(シベリア干渉戦争)1917
1916年、アムール川鉄橋完成により、ハバロフスク経由のシベリア鉄道が開通。1917年ロシア革命でソ連が成立。ソ連は、シベリアなど、旧ロシア領全域に領土保全のため赤軍を進軍させる。それを受けて南満州をソ連から防衛するため関東州の関東都督府の鉄道守備隊を関東軍に独立させる。
チェコ(ロシアに協力していた反ドイツ派チェコ人グループが、英米に合流するため、シベリア、ウラジオストック経由でヨーロッパ戦線に向かう途中で、ロシア革命が発生、赤軍と敵対関係になったためシベリアで孤立した。)軍を救出するため、1918年8月、日本をはじめ米英連合軍が、シベリアに出兵。1920年1月、アメリカは単独撤退。日本軍は共産主義が満州、朝鮮へ波及するのを防ぐ目的で、反ソのザバイカル共和国を支援するが、1920年3月、ニコラエフスクにおいてソ連赤軍が日本兵士や居留民を虐殺する尼港事件が発生した。またアメリカ大統領ウィルソンに領土的野心を警戒され、やむを得ず撤退する(原内閣の東方会議)。
なお、シベリアに抑留されていたポーランドの家族、特に子供たちを日本軍が保護し、しばらく日本に滞在させ、ロシア帝国、オーストラリア帝国解体後、独立したポーランドに帰国した。
ソ連は、ロシア帝国が清と締結した不平等条約の即時・無条件撤廃を宣言した(カラハン宣言)。ただし、東清鉄道の権利は放棄しなかった。またソ連は外モンゴルの内紛に介入し、1921年のソ連の支援でモンゴル共和国が建国された。
10 パリ講和会議1919年
ドイツに対して宣戦布告したことで軍隊を出さずに戦勝国となった中国北京政府に対し、パリ講和会議に米国在住の顧維均(こいきん)を代表として出席させるようアメリカが要請した。北京政府(安徽派)の代表であるが、ウィルソン大統領を信奉する顧維均は、21か条の要求の第5号(日本の特殊権益を要望した秘密条項(保留中))を暴露し、米国の圧力を利用して、日本が占領している山東半島租借地の中国返還を画策した。しかしイギリスが日本を擁護し、会議では返還要求は認められなかった。反発した中国は、アメリカの示唆により、ベルサイユ条約の調印を拒否した。なお、オーストリアとのサン=ジェルマン条約(第一条に国際連盟への加盟条項がある)に調印したので、中国は国際連盟に加盟できた。
日本は、国際連盟から旧ドイツ領の南洋群島(ミクロネシアの赤道以北、グアム島(グアム島はすでに1898年米西戦争の結果、フィリピン等とともにアメリカに割譲されている。)を除くマリアナ・カロリン・マーシャル群島)を「C式委任統治」領として任された(占領地の割譲は米国が反対した。)。なお赤道以南のビスマルク諸島はオーストラリア、ソロモン諸島の統治はイギリスに委任された。
11 5.4運動1919,安直戦争1920、満州独立1922
中国北京政府では、1919年に直隷派総統馮国璋は亡くなったが、引き続き安徽派の徐世昌(じょせいこう)が形だけの大総統を務め、執政は段祺瑞が行っていた。
パリ講和会議の結果、山東半島のドイツ租借地は戦勝国の中国に返還されなかったことに対して北京の学生たちが抗議をはじめた。それをきっかけに、ドイツ租借地だけでなく、満州(遼東半島租借地、東清鉄道付属地等)に関する条約も含む21か条の要求に関わるすべての条約や協定(1915年締結)の撤回要求に拡大し、天安門広場を学生が埋め尽くす5.4運動に発展する。(英米新聞が排日・日貨排斥の宣伝を始め、それが支那新聞に伝染した。)(ウィルソン米大統領が、日本の人種差別禁止条項を盛り込む提案を「全会一致でないため提案は不成立である」との理由で否決した日からわずか二十二日後)
日本の援助を受ける段祺瑞率いる安徽派の北京政府での立場が悪くなり、アメリカが支持する直隷派との間で軍事紛争に発展(1920年7月安直戦争)した。奉天派の張作霖が直隷派を支援し、大軍を投入したことで安徽派段祺瑞は失脚、直隷派の曹錕(そうこん)・呉佩孚(ごはいふ)と奉天派の連立政権が生まれる。
1921年中華民国北京政府とドイツは、ドイツが山東半島放棄および治外法権を放棄することを条件に無賠償の単独講和条約を締結した。その結果、中国では親独気運が高まり、通商が盛んになる。特にドイツの重化学工業は、タングステンやアンチモンを中国に依存するようになった。
1922年、奉天派と直隷派は決裂し、第1次奉直戦争が発生、奉天派は敗北し、直隷派曹錕(そうこん)・呉佩孚(ごはいふ)が国民党北京政権を握る。この結果、安徽派段祺瑞に対して行った日本の西原借款が回収困難になり、回収できたのは、当時の金額で2億7千万円のうち、5千万円だけであった。
直隷派に敗退した張作霖は同年、奉天政権の満州東三省(奉天省、吉林省、黒竜江省)の北京政府からの独立を宣言する。(国旗は北京政府のままであるが、独自の外交権を主張する。)
12 ワシントン会議と9か国条約1921~1922
ワシントン会議は、米国(ハーディング大統領(共和党))が、ドイツに代わり山東半島や太平洋の南洋諸島に進出してきた日本を標的にした国際会議(日本からは全権幣原外務大臣が出席)である。パリ条約は、米国議会が批准しなかったため、アメリカは第1次大戦の戦後処理を改めてしなければならなかった。アメリカの示唆でパリ条約の調印を拒否した中国(北京政府)も参加し、この会議でも中国代表として国民党北京政府(直隷派)外交団として米国在住の顧維均が出席したほか、王正廷らが派遣された。
清国を承継し中国全土を代表する中華民国政府は存在するが、どの政府が代表かについては最終的に中国人が決めることである、という前提にたって、条約交渉が進められる。中国主権の尊重・不干渉主義・中国市場参入の機会均等などを掲げ、8国のいずれかが中国の政治に干渉し、中国市場を独占することを防ぐ目的で9カ国条約(米、英、日(外務大臣幣原喜重郎)、仏、伊、ベルギー、オランダ、ポルトガル、中国(ソ連、ドイツ、墺は加わっていない。)が結ばれる。中国政府の義務規定はなく、中国政府への融資は4か国(米英日仏)の協調融資以外は原則禁止された。また国際連盟の委任統治領となった太平洋諸島の要塞・沿岸防備のステータスクオー(現状維持・強化禁止)を定めたワシントン海軍軍縮条約(5カ国条約(米英日仏伊)、4カ国条約(米英日仏)も締結された。(千島列島、沖縄、硫黄島、台湾、グアム、ミッドウエイ等が現状維持に含まれ、ハワイ、シンガポールが除かれた。)
アメリカの太平洋上の植民地の安全保障のため、日本の南洋諸島は基地化、防衛強化が禁止された。
さらにワシントン会議終了後、アメリカは日本と「ヤップ島等赤道以北の委任統治領に関する日米条約」を締結し、ヤップ島等の赤道以北の南洋諸島日本委任統治領において、アメリカ人の居住、財産権、布教の自由を認めさせられた。
1922年、幣原外務大臣(加藤友三郎内閣)は、21か条の要求等うち第5号を正式に撤回するとともに、青島の租借地を返還、山東鉄道を売却する山東還付条約を締結し、1923年返還、中国側に譲歩をして誠意を示した。
しかしそんな日本側の誠意は全く通じず、北京政府がこれまで締結してきた条約、協定を守る気のない国民党広東政府、中国共産党は、その後も武力による帝国主義打倒、不平等条約破棄、租借地返還、自主関税権回復を主張し、軍備増強を続け、9か国条約締結時でさえ100万以上いた中国の正規軍は、その後も増え続け10年後には200万人以上になった。9か国条約締結から数年後には、各国の居留民の安全とその財産が国民党広東政府や中国共産党の軍隊に脅かされるという、条約締結時に想定していない事態になった。また、ソ連、ドイツは9カ国条約に加盟していないので、合法的に中国共産党や国民党広東政府に対して軍事、経済的援助ができた。
1922年、ソ連は露清密約(1896年)を公開した。日本国民は、ロシアの満州占領が清との密約のもとに行われたことを知り、「日本人の十万の英霊、二十億の国帑(こくへい」を費やしてロシアから譲り受けた満蒙の特殊権益をさらに拡大していくことに、中国に遠慮する必要はないと強く感じた。
また、1923年アメリカの要望を受けて幣原外務大臣は、何の躊躇もなく日英同盟の終了に同意し、日米の石井ランシング協定も破棄された。
13 中国共産党結党1921、黎元洪再び中華民国大総統になる1922
1921年、中国共産党が陳独秀、李漢俊らによって、治外法権の上海等で結党される。彼らは治外法権撤廃を叫びながら、治外法権の租界地を利用して勢力拡大していった。
1922年、直隷派曹錕(そうこん)と孫伝芳は大総統の徐世昌を引きずり下ろし、広東国民政府が反対しないという理由で黎元洪(れいげんこう)を再び大総統にする。
大総統の黎元洪(れいげんこう)は、旧知の仲の広東国民政府(元広東軍政府)の孫文に和解を呼びかけるが、孫文は北京政府を傀儡政権となじり、決裂する。
ソ連は1924年、北満州の東清鉄道(長春以南を除く)と鉄道付属地の旧ロシア権益を回収するため、北京政府(直隷派)と交渉し中ソ協定を締結した。しかし張作霖はソ連に対して、満州は東三省政府に属しているので、東清鉄道に関しては北京政府ではなく、東三省政府と交渉するべきであると抗議しソ連は了解、ソ連と東三省政府(張作霖)との間でもソ奉協定が同年締結され、東清鉄道は中(奉)ソ合弁企業となり、中東鉄道に名称が変更された。
14 第2次奉直戦争、北京政変1924、郭松齢の反乱1925
直隷派曹錕(そうこん)は、1923年に大総統の黎元洪(れいげんこう)を辞任させ、自ら大総統に就任した(国会議員の買収で地位を入手した)。曹錕が1924年10月、奉天派を討伐(第二次奉直戦争)しようとした際、直隷派だった馮玉祥(ふうぎょくしょう)(クリスチャン将軍)が曹錕を裏切り、奉天派に寝返り、直隷派は敗北した。(戦火を満州に波及させないため、関東軍の土肥原中佐が、謀略で馮玉祥を裏切らせたと宇垣日記に記されているが、後付けの自慢話にしか聞こえない。馮玉祥は米系プロテスタントの反日主義者であり、裏切ったのは単に曹錕が嫌いだったからではないか。曹錕のことを「袁世凱の馬引き」と馬鹿にしていた。)
北京政府の実権は奉天派へと移行し、大総統曹錕は北京で軟禁された。段祺瑞が張作霖の奉天派に担がれて、再び段祺瑞執政の政権が復活した。
このとき馮玉祥(ふうぎょくしょう)(国民軍を名乗る)は、ソ連の指示(1921年外モンゴルに進駐、1924年にソ連の衛星国モンゴル人民共和国が成立したので、ソ連にとってモンゴルの旧宗主である清王朝の溥儀の存在は目障りとなったため。)(北村稔「中国の正体」PHP文庫39ページ参照)により北京の紫禁城を武力で制圧、退位協定を破棄し、先帝溥儀と宮廷官僚を紫禁城から追い出した。溥儀は、漢人に命を狙われるため、天津の日本居留地に逃れる。(北京政変)
1925年上海では5.30事件が発生したが、北京ではその年の11月、段祺瑞執政北京政府がワシントン会議で開催が予定されていた北京関税特別会議を開催、中国の関税自主権回復について、米は賛同、日本は態度保留であったが、イギリスが、(南京条約に基づき貿易港の関税を管理していた。)軍閥の地方関税である釐金(りきん)が解消されていないこと、広東政府を無視できないことを理由に、直ちに北京政府に関税自主権を承認することに難色を示したが、下記事件により会議は中断し、その後、自然解消した。
1925年11月、北京政府では、広東政府と通じていた郭松齢(かくしょうれい)が、馮玉祥(ふうぎょくしょう)と手を組み奉天で軍事行動を起こし、張作霖を追い詰めた(郭松齢は張作霖を殺害し、張学良を擁立して国共合作中の広東国民政府に合流しようとしたという説がある。張学良は郭松齢に近しかった。)。しかし関東軍が満州鉄道沿線での戦闘を禁止したことで張作霖が挽回し、郭松齢は殺され、馮玉祥はソ連に逃亡した。残された馮玉祥国民軍はソ連の指導を受け、奉天軍との間で反奉戦争が継続する。戦火が天津港に及んだところで、北京議定書に署名していた8カ国の大使から段祺瑞あて奉天軍に有利な休戦圧力がかかった。翌年3月18日(3.18事件)、北京において段祺瑞を非難するデモが発生、段祺瑞が武力弾圧した。結局、1926年、段祺瑞が失脚し引退、北京に軟禁されていた大総統の曹錕も引退し、残された総司令張作霖が、東三省政府および北京政府の代表(影響力が増してきた国民党広東政府との関係を配慮して大総統ではなく、国民党大元帥を名乗る。)として、広東政府の北伐軍に立ち向った。
(1927年3月に北伐途上の国民革命軍が南京で日米英の大使館に乱入に大使館員や外国人を拉致、虐殺する事件が起きた(南京事件)。)
南京事件の北京への波及を恐れた列強は、南京事件の背後に中国共産党とソ連の策動があるとして、日英米仏など七カ国外交団が厳重かつ然るべき措置をとることを北京政府総司令部に勧告した。その結果、同年4月6日、張作霖の軍警は武装して北京の公使館区域内に乗り込み、ソ連大使館官舎を家宅捜索し、ロシア人・中国人80名以上を検挙、武器及び宣伝ビラ多数などを押収した。この影響を受けて、4月に蒋介石は上海クーデタを決起し、共産主義者を粛清する。
15 第1次国共合作1924及び北伐1926
中国代表として北京政府が国際的に認知されている状況に失望していた広東国民政府の孫文と、北京政府に拒絶されたソ連の外交官ヨッフェが接近した。ヨッフェは、国共合作を条件に広東国民政府に金銭的、軍事的支援を約束する。1924年、中国共産党との間で第1次国共合作が成立、広東政府の国民党に大挙、共産党員が入党する。また孫文の若い妻、宋慶鈴は、ソ連に共鳴し共産主義者になる。11月、孫文は神戸で頭山満と会談した翌日に行った「大アジア主義」の講演を行った。
一方1925年日本とソ連は、日ソ国交基本条約を締結し、ポーツマス条約の有効性が確認された。広田駐ソ大使が推し進め、幣原外務大臣が承認した。(ソ連は、軍事力が相手を凌駕するまでは友好を装い、その裏でコミンテルンを使って反日暴動を扇動していた。)
1925年5月15日、上海の日系紡績工場で共産党員が工場設備を破壊する事件が発生し、共産党員は死亡した。これが発端となり、大規模な抗議運動が発生、青島にも波及し北京政府が鎮圧、各地の租界地ではイギリスも強硬に対応したことから、ゼネストに発展する事件(5.30事件)が起きる。
ソ連の軍事顧問団を受け入れた国民党は、清朝、北京政府がこれまで外国と締結した条約をすべて不平等条約として破棄し、租借地回収、自主関税権を宣言するも、1925年孫文が「革命いまだならず」と遺言を残し、会議のため訪れていた北京で客死した。1926年3月、中山艦事件で蒋介石は共産党員を処分した。その後、広東政府国民党軍事委員長の蒋介石は孫文の遺志を受け継ぎ、国民革命軍を組織し総司令に就任、北伐の開始を宣言する。国民革命軍は広東から武昌、漢口に侵攻し漢口租界でイギリス現地軍と武力衝突した。(1927年イギリスは漢口租界、九江租界の返還に応じた。これが初の中国租界返還となる。)また、1926年8月、四川省万県(現在の重慶)では、英商船の拿捕に端を発し、英側が砲艦2隻を派遣し、町に砲撃を加えて破壊する事件が起きた。(万県事件)
1926年漢口、武昌、漢陽が合併し武漢市となった。広東政府(左派)は武漢に政府を移し、フランス亡命中の汪兆銘を呼び戻し、総統に選出した。北伐を迎え撃つため南方に侵攻した北京政府軍の呉佩孚は武漢で、孫伝芳は南京で国民革命軍に敗れる。
北伐の途上、1927年に国民革命軍が南京で日米英の大使館に乱入に大使館員や外国人を拉致、虐殺する事件が起きた(南京事件)。英米は揚子江からの砲艦の艦砲射撃で国民革命軍を攻撃した。この時、日本の幣原外務大臣はイギリスから共同作戦の誘いを受けたが、9か国条約の不干渉主義に忠実であろうとし(幣原外交)、攻撃に参加しなかった。その結果、イギリスとの間に溝ができ、その後の満州事変でイギリスに積極的に擁護してもらえない遠因となる。一方中国は日本の弱腰外交を侮るようになり、漢口で共産党の扇動による日本人襲撃事件(漢口事件)が発生した。日本国内では、居留民を守れない幣原外交に対して批判がおこり、若槻内閣は倒れ、政友会田中内閣(外務大臣は総理が兼務、外務政務次官は森恪)が成立する。
蒋介石は、南京事件が国民党内に潜入した共産党員によるものであり、共産党員を追放しソ連の影響を排除しなければ各国と外交交渉ができないと考えた。北京政府で1927年4月6日、張作霖が北京の公使館区域内に乗り込み、ソ連大使館官舎を家宅捜索し、ロシア人・中国人80名以上を検挙、武器及び宣伝ビラ多数などを押収した。その直後の同月に蒋介石は上海クーデターを実行、共産党員を粛清し、南京に政府(浙江財閥で要職を固めた議会の存在しない一党独裁政権)をおいた。(このときから日本は居留民保護のために、上海に海軍陸戦隊を常駐させる。米仏も同様、なお英は太平天国の乱のときから)
日本政府は南京事件の対応を反省し、居留民の保護のため山東に出兵(1937年5月)する。しかし6月に国民革命軍が北京政府軍に敗北し、北伐は中止となったため、日本軍はほどなく山東省から撤退した。
武漢政府の汪兆銘は、1927年4月、共産党の中心人物陳独秀と共同宣言したが、コミンテルンの秘密訓令(国民党幹部を駆除し、党を乗っ取り、国民党軍を共産軍に再編する。)を知り、7月国共合作を破棄、ソ連軍事顧問団を退去させる。1927年9月、武漢政府は南京政府に吸収される形で消滅した(蒋介石が総司令の職を辞したことがきっかけとなった)。武漢にいた孫文未亡人の宋慶鈴は汪兆銘と蒋介石を批判し、モスクワに出国した。武漢を追放された共産党員らは、南昌を占領し(南昌起義)紅軍を結成、広東でも暴動を起こす。その後毛沢東と紅軍は、井岡山(せいごうさん)に籠り、地元の勢力を粛清し、自給自足の解放区を設置した。
汪兆銘は広州蜂起への関与を疑われ下野し、フランスへ旅立った。
田中内閣は、幣原外交の見直しのため1927年6月~7月東方会議を開催し、国民党支持、中国共産党鎮圧、満州については日本の特殊権益を守り、日本人迫害に対しては自衛措置を辞さない方針が決まる。(中国、ソ連は、この会議において日本が中国を征服し、中国人を使って世界を征服することが決定されたとして、田中上奏文の名で世界にデマが広げた。)
1927年6月の北伐軍敗北を理由に蒋介石は総司令の職と辞し、宋美齢(上海の浙江財閥の宋三姉妹の次女)の母(神戸在住)に結婚(再婚)の許しを得るため訪日した。11月には日本で田中首相と面談している。田中首相は、北伐を焦らず、まず南方の統一に専念するべきと述べたのに対して、蒋介石は、日本は張作霖の援助をやめ、北伐達成に協力すれば、満蒙問題は容易に解決すると述べた。
会談の直後、総司令への復帰を要請され帰国し、第2次北伐の準備にとりかかる。
1928年4月7日、蒋介石国民革命軍総司令兼第1 集団軍総司令, 馮玉祥第2 集団軍総司令, 閻錫山第3 集団軍総司令という布陣で一時中断となった北伐を再開した. これにやや遅れて李宗仁を総司令とする第4 集団軍も加えられたが、広西省が拠点の李宗仁は北伐に熱心ではなかった。山西省が拠点の閻錫山ともともと北京政府に関わっていた馮玉祥が北京市への侵攻を競い合っていた。
1928年4月20日日本政府は(参謀本部は反対したが森恪次官が推し進めた。)山東に第2次出兵(6千人)した(北京政府軍が済南市を撤退した後の居留民の保護が目的で、北伐を妨害する意図はなかった。)。蒋介石直隷の第1集団軍は、済南市から津浦線を利用し天津に進軍し、そこから北京に侵攻する計画であった。そこで南京政府の外交部長が親日派の黄 郛(こう ふ)は、済南市に駐留している日本軍と衝突を回避して津浦線を利用できるよう、日本に申し入れをした。
するとそのような蒋介石の日本に対する弱腰に猛反発する勢力があった。1928年5月3日済南事件(中国名五三惨案)が発生。多数の日本人居留民が中国革命軍によって惨殺された。
日本軍を騙して、突然、馮玉祥および賀耀組麾下の国民革命軍が、済南市の日本人居留地に乱入し、日本人を手当たり次第に惨殺したのである。
日本は国民革命軍と望まぬ戦闘になってしまったが、増援のため第三次出兵を行い、戦闘は収束する。
蒋介石は日本政府の抗議を受けて、自分の部下の賀耀組を形だけ第3軍司令から解任した。しかし第2軍(国民軍)は蒋介石指揮下の軍隊ではないので、処分できなかった。日本軍が山東に居座ったことから中国国内では猛反発が起き、南京政府の外交部長が親日派の黄 郛(こう ふ)から反日の王正廷に交代した。
1928年5月、蒋介石国民革命軍と馮玉祥国民軍、閻錫山(えんしゃくざん)山西軍が奉天軍を撃破、6月3日張作霖は北京から満州に撤退(翌日爆殺)、同月8日蒋介石国民革命軍が北京に入城した。(そのとき蒋介石は北京を北平に、直隷省を河北省に改名する。また西太后の墳墓の財宝が国民党兵士に略奪され(東陵盗掘事件)、それを知って激怒した溥儀は皇帝復位を決意し、自らの意志で天津市の日本領事館を訪問した。)
1928年10月、蒋介石は、国民党政府主席となる。(北伐(北京政府打倒)を成功させたとはいえ、蒋介石と北伐に協力した軍閥との関係は安定しておらず、その後の軍閥の軍縮、釐金廃止をめぐり対立が発生、反蒋を宣言する軍閥や中立を宣言する軍閥が割拠する事態となって、1930年、最大の内戦、中原の戦いに発展する。)
日中近代史再整理Ⅱ|CRAFT TOOLS
日中近代史再整理Ⅲ|CRAFT TOOLS
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ジョージ・ブロンソン・リー 満州国建国の正当性を弁護する
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コリン・ロス 日中戦争見聞記1939年のアジア
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