19 抗日民族統一戦線を世界にアピールしたいだけの実体のない第2次国共合作
1924年の第1次国共合作では、孫文の広東国民政府は党勢拡大のため、ソ連からの援助の見返りに、共産党員の身分のままで国民党への入党を認めた。(しかし1927年、汪兆銘はコミンテルンの秘密訓令(国民党幹部を駆除し、党を乗っ取り、国民党軍を共産軍に再編する。)を知り、国共合作を破棄した。)
一方、1937年の第2次国共合作は、党の合体ではなく、単なる宣言、談話にすぎず、しかも中国共産党の戦力では、蒋介石の助けにならないことは明らかなうえ、日本との講和ができなくなるデメリットが大きく、英米仏から歓迎されることはない。意味があるとすれば、抗日統一民族戦線をソ連やスペインで活動する国際義勇軍にアピールすることだけだ。
1937年盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争の危機が高まる状況になると、蒋介石は、西安事件での約束どおり、上海居留地の日本海軍特別陸戦隊をドイツ軍事顧問団に鍛えらえた精鋭部隊をもって攻撃し、決定的に戦争をエスカレートさせた。しかし、共産党ばかりが得をする国共合作については、西安事件後も、蒋介石は消極的であった。第2次上海事変がはじまって1か月経過して、国民革命軍が消耗し、短期決戦の目論見が怪しくなってから、国共合作が世界に発表された。
9月22日、共産党中央委員会の「国共合作に関する宣言」が発表され、9月23日、蔣介石の「国共両党の第二次合作に関する談話」が発表された。この9月23日に第2次国共合作が成立したとされる。なお8月21日、中ソ不可侵条約が締結されたタイミングで、周恩来と蒋介石が南京市で話し合ったとされる合意内容については、遠藤誉の「毛沢東」新潮新書 2015年によると、国民党は、中国共産党に対し、兵員数に応じた資金と軍服の支給などの援助、国民党の作戦情報の提供を約束したようである。
そのほか、1938年3月、第三勢力の「政治諸党派」と中国共産党とともに蒋介石を議長とする国民参政会が設置された。(反蒋介石の第3の政党「全国各界救国連合会」が1945年、中国共産党に取り込まれるまで存在していた。)
しかし国民党と共産党が連携した作戦は、1937年9月華北で第八路軍が関東軍の補給部隊を攻撃した平型関の戦い以外になかった。
第八路軍は、延安から黄河を東へ渡り、山岳地で関東軍や北支那派遣軍相手に遊撃作戦を展開していた。また南部8省の紅軍遊撃隊が第4軍に統一されるが、いずれも上海、南京の戦闘はもちろん、それ以降の徐州、武漢等、日本軍との会戦には参加していない。共産党の軍はどちらの部隊も日本軍占領地内でのゲリラ戦と拠点拡大に力を注いでいた。
毛沢東は、潘漢年というスパイを使い、日本軍に国民党の作戦情報を横流し、金銭を受け取っていた疑惑がある。遠藤誉の「毛沢東」新潮新書に詳しく書いている。国民党に消耗を強いるためなら、日本とも手を組む。第1次国共合作がヤドカリ作戦ならば、第2次国共合作は砕氷船作戦そのものである。共産党は対日戦争を呼びかけるだけで、実際に日本と戦うのは国民党ばかりなのだ。そして講和には反対する(大団会戦)。
中国共産党は、毛沢東の方針として、日本軍との大きな戦闘は避けて紅軍の兵力を温存、日本占領地内の村を拠点にして勢力域を拡大しながら、兵力を増強し、蒋介石側の兵力の消耗を待って、最後に軍事的に国民党を打倒する計画だった。(毛沢東の計画には党内から反発があったが、1942年の延安整風運動で党内の反対派を粛清した。)
どうしてこんなにもメリットのない国共合作に蒋介石は応じたのか。
1937年、蒋介石が、ヨーロッパで起きていたスペイン内戦の人民戦線方式を意識して、抗日民族統一戦線の結成を大きく宣伝し、ソ連をはじめ、国際義勇軍(地上軍)の参戦を期待していたから、と考えるほかはない。
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義勇軍については、ソ連空軍義勇軍(40機のツポレフSB2双発爆撃機、同数のポリカルポフI16戦闘機、指揮官ルイチャゴフ少将、兵員数約1000人)以外ではわずかに、1937年11月、米退役軍人シェンノートが米仏パイロット義勇軍爆撃隊(B10爆撃機)を漢口で組織し、実戦に投入された。しかし翌年3月、パイロットたちはやめ、解散した。九州ビラまき作戦のような九州への渡洋爆撃を強要されそうになったからではないか。
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国共合作したがソ連地上軍がこないまま敗北を重ねた蒋介石は、ソ英米仏の資金と援蒋ルートの物資で政権を維持していた。日本が英米と戦争をしなければ、ずっと重慶に閉じこもったままであったろう。(日本は重慶の国民党に対して宣戦布告しないまま終戦になった。)
1941年6月ドイツがソ連に侵攻、12月に日本がアメリカを攻撃したことで、ソ連が米英の同盟関係になると、第2次国共合作していたことが、メリットになった。なぜなら、国民党一党独裁の中華民国は、議会の存在しない独裁国家で、いかなる基準からも民主主義国に含まれなかったからだ。
中国(国民党)は1941年12月9日、日本に対して宣戦布告し、1942年1月ソ連、英米と同盟国になることができた。
しかし、ローズベルト大統領は、1944年に入って、国民党と共産党を天秤にかけ出した。米軍将官を7月、延安に派遣して、中国共産党と直接、接触した。
蒋介石は、たまたまアメリカのお陰で日本に対し戦勝国になれたが、国共内戦ではアメリカに見限られ、国共内戦の敗北後、今度は台湾に引きこもった。
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