MVP ARCHIVE PEOPLE | Military : Hermann Göring 1893–1946 / ヘルマン・ゲーリング - 空を制し、国家を動かし、世界を略奪した男

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ヘルマン・ゲーリング
空を制し、国家を動かし、世界を略奪した男
空軍、経済、国家権力を握ったナチス政権の有力者
ヘルマン・ゲーリング は、ナチス・ドイツ の空軍総司令官であり、ヒトラー政権 の中枢を担った政治指導者である。
第一次世界大戦 では戦闘機操縦士として知られ、戦後は ナチ党 に参加。
ヒトラー の政権掌握後は、プロイセン内相、空軍総司令官、四カ年計画の責任者などを歴任し、軍事・警察・経済にまたがる権限を獲得した。
1940年には、ドイツ軍で唯一の 国家元帥 に任命される。
しかし、戦争後半には空軍の敗北と軍需生産上の問題によって影響力を失い、1945年のドイツ敗戦後、ニュルンベルク国際軍事裁判 で死刑判決を受けた。
ゲーリング の生涯は、ナチス政権 において政治的な権力が、軍事組織や国家経済とどのように結びついていたのかを示している。
第一次世界大戦の戦闘機操縦士
ゲーリング は1893年1月12日、ドイツ帝国のローゼンハイムに生まれ、軍人として教育を受け、第一次世界大戦 ではドイツ陸軍に従軍した後、航空部隊へ転属した。
戦闘機操縦士として戦果を挙げ、1918年には、かつてマンフレート・フォン・リヒトホーフェンが率いたことで知られる第1戦闘航空団の指揮官となった。
戦争末期には、ドイツ軍の高位勲章であるプール・ル・メリット勲章を授与され、1918年の敗戦後、ドイツ軍は ヴェルサイユ条約 によって大幅に縮小され、軍用航空も厳しく制限された。
ゲーリング は軍を離れ、民間の航空関係の仕事などを経て、1920年代初めに ナチ党 へ接近する。
ナチ党への参加
1922年、ゲーリング は アドルフ・ヒトラー と出会い、ナチ党 に入党した。
第一次世界大戦 の著名な航空将校だった ゲーリング は、党にとって知名度と社会的な信用を持つ人物でもあった。
ヒトラー は彼を突撃隊( SA )の指揮官に任命、1923年11月、ナチ党はミュンヘンで政権奪取を試みた、Beer Hall Putsch ミュンヘン一揆。
この一揆は失敗し、ゲーリング は銃撃によって負傷した。
その後、国外へ逃れ、オーストリアやイタリアなどで生活した。
負傷の治療に伴ってモルヒネへの依存が生じ、後年まで健康上の問題を抱えることになった。
1927年、ゲーリング はドイツへ戻り、ナチ党 の政治活動に復帰する。
議会政治から政権中枢へ
1928年、ゲーリング は ナチ党 の国会議員に選出された。
1932年には国会議長となる。
この時期、ナチ党 は世界恐慌による経済危機と ワイマール共和国 の政治的不安定を背景に、議席を大きく増やしていた。
ゲーリング は、ナチ党 と保守派の政治家、財界、既存の権力層との接触において重要な役割を果たした。
1933年1月30日、ヒトラー が首相に任命される。
ゲーリング は無任所大臣となり、プロイセン内相などの地位を通じて、ドイツ最大の州であるプロイセンの警察機構に強い影響力を持つようになった。
警察権力と独裁体制の成立
1933年、ゲーリング は プロイセンの警察組織 を ナチス政権 の支配下へ組み込んでいった。
同年2月には、プロイセン警察に対して政治的反対勢力への強硬な対応を指示し、ナチ党 の突撃隊や親衛隊の隊員を補助警察として動員した。
2月27日の国会議事堂放火事件後、政府は緊急令によって基本的権利を制限し、共産党員をはじめとする政治的反対者の大量逮捕を進めた。
ゲーリング は、この弾圧を実行する警察権力の中心にいた。
また、1933年にはプロイセンの 秘密国家警察、ゲシュタポ の創設に関与し、その後、ゲシュタポを含む警察機構の権限は、ヒムラー と ハイドリヒ の側へ移っていく。
ゲーリング の初期の権力は、ナチ党 の政治的地位と、国家の警察機構を結びつけることで拡大した。
空軍の創設
第一次世界大戦 後、ヴェルサイユ条約 によってドイツの軍用航空は制限されていたが、ナチス政権 は再軍備を進め、1935年にドイツ空軍の存在を公表した、Luftwaffe ドイツ空軍 ゲーリング は空軍総司令官となる。
空軍は、戦闘機、爆撃機、偵察機、輸送機、対空砲部隊などを含む大規模な軍事組織へ発展した。
ゲーリング は航空機の生産、部隊の整備、人事、軍事予算などに大きな権限を持ち、ドイツ再軍備の中心人物の一人となった。
四カ年計画と戦時経済
1936年、ヒトラー はドイツの経済と軍備を戦争に備えた体制へ転換するため、四カ年計画を開始した、Four Year Plan 四カ年計画。
ゲーリング はその責任者に任命された。
計画の目的は、軍備の拡張と、戦争に必要な資源・工業生産の確保だった。
ドイツは、石油、天然ゴム、鉄鉱石などの重要資源を海外に依存しており、長期戦や海上封鎖に備える必要があった。
四カ年計画では、合成燃料、合成ゴム、鉄鋼、化学工業などの生産拡大が進められた。
ゲーリング は軍事指導者であると同時に、国家経済の資源配分や工業政策に介入する権限を持つようになった。
この権限は、既存の経済官僚や軍需産業との間に複雑な調整と競合を生むことにもなった。
戦争初期の空軍
1939年9月、ドイツ軍は ポーランドへ侵攻、空軍は地上軍と連携し、敵航空戦力への攻撃、交通網の破壊、地上部隊の支援などを行った。
1940年の フランス侵攻 でも、空軍はドイツ軍の機動作戦を支える重要な役割を担い、フランス降伏後、ゲーリング は国家元帥に任命された。
Reichsmarschall 国家元帥。
これは ゲーリング のために設けられた特別な階級であり、彼の政権内での地位を示すもので、当時、ゲーリングは ヒトラー の後継者としても位置づけられていた。
バトル・オブ・ブリテン
1940年夏、ドイツはイギリスへの侵攻を検討し、その前提としてイギリス空軍の制圧を目指した、Battle of Britain バトル・オブ・ブリテン。
ドイツ空軍はイギリスの飛行場、レーダー施設、航空機工場、都市などを攻撃、しかし、イギリス空軍はレーダー、地上の管制網、戦闘機部隊を組み合わせた防空体制によって抵抗を続けた。
ドイツ空軍は制空権を確保できず、イギリス本土侵攻は実施されなかった。
この戦いは、ドイツ空軍が戦争初期に示した優勢の限界を明らかにした。
東部戦線とスターリングラード
1941年6月、ドイツはソ連へ侵攻した。
空軍は地上軍の進撃を支援したが、戦線の拡大と長期化によって、航空機、燃料、整備、補給に大きな負担がかかるようになった。
1942年末、スターリングラード でドイツ第6軍がソ連軍に包囲される。
ゲーリング は、空軍によって包囲された部隊へ必要な物資を補給できると主張した。
しかし、実際の空輸能力は必要量を大きく下回った。
悪天候、ソ連軍の攻撃、飛行場の喪失、輸送機の不足などによって補給は困難となり、1943年2月、第6軍は降伏、スターリングラード の敗北は、ドイツ軍にとって戦争の大きな転換点となった。
ドイツ本土への爆撃
戦争後半、イギリスとアメリカの空軍はドイツ本土への戦略爆撃を拡大、工業都市、軍需工場、交通網、石油関連施設などが攻撃対象となり、ドイツの生産と輸送に深刻な影響を与えた。
ドイツ空軍は戦闘機や対空砲によって防空を続けたが、連合軍の航空機生産力、長距離護衛戦闘機、燃料供給、搭乗員の訓練能力などの差が拡大した。
1944年以降、ドイツは本土上空の制空権を次第に失っていく。
空軍総司令官 である ゲーリング の威信と政治的影響力も低下した。
占領地での略奪と迫害
ゲーリング は、軍事・経済政策だけでなく、ナチス政権 による迫害と占領地の略奪にも深く関与した。
1938年11月の 水晶の夜 の後、ゲーリング はユダヤ人に対する経済的制裁や財産の収奪を進める会議を主導した。
ユダヤ人の企業や財産を強制的に移転させる「 アーリア化 」政策にも関与した。
戦争中は占領地から美術品や文化財を大量に収奪し、自身の収集品とした。
また、1941年7月31日、ゲーリング は ハイドリヒ に対し、ドイツの勢力圏における「ユ ダヤ人問題の最終的解決 」に必要な準備を進めるよう命じる文書に署名した。
この文書は、ホロコースト の政策形成と組織化を示す重要な史料の一つ。
ヒムラーとの権力関係
ゲーリング と ヒムラー は、ともに ヒトラー政権 の中枢を担ったが、その権力基盤は異なっていた。
ゲーリング は、空軍、四カ年計画、国家の経済・行政機構を通じて権限を拡大、ヒムラー は、親衛隊、警察、強制収容所、保安機構を通じて権力を拡大した。
両者の権限は一部で重なり、警察や占領地政策、経済資源などをめぐって競合することもあった。
ナチス政権では、ヒトラー を頂点としながら、複数の有力者がそれぞれの組織を拡大し、権限を争う構造が存在していた。
権力の衰退と逮捕
1945年4月、ソ連軍がベルリンへ迫る中、ゲーリング は ヒトラー の後継者としての地位を根拠に、国家指導権の移行について問い合わせる電報を送ったが、ヒトラー はこれを権力奪取の試みと受け取り、ゲーリング の地位を剥奪し、逮捕を命じた。
その後、ゲーリング は親衛隊による拘束から解放され、1945年5月にアメリカ軍へ投降、ナチス政権 の中で長く後継者とされてきた人物は、政権崩壊の直前にその地位を失った。
ニュルンベルク裁判
戦後、ゲーリング は ニュルンベルク国際軍事裁判 の主要被告の一人となり、裁判では、侵略戦争の計画・遂行、戦争犯罪、人道に対する罪などが審理された。
ゲーリング は、ナチス政権 の政治・軍事・経済政策における自身の役割について証言した。
1946年10月1日、裁判所は ゲーリング に死刑判決を言い渡した。
しかし、処刑前日の10月15日、ゲーリング は拘置所内で青酸カリを服用して自殺、享年53歳だった。
ゲーリングが示す権力構造
ゲーリング は、第一次世界大戦 の航空将校から、ナチ党 の政治指導者、空軍総司令官、国家経済の責任者へと地位を拡大、その権限は、軍事組織だけでなく、警察、産業、資源、占領地政策にまで及んだ。
一方、戦争の長期化と軍事的敗北によって、空軍の優勢と経済動員を基盤とした彼の影響力は低下していった。
ゲーリング の生涯をたどることで、ナチス・ドイツ の権力が、個人の地位、軍事組織、国家経済、そして ヒトラー との関係によってどのように形成され、変化したのかを確認できる。
KEY POINT
Hermann Göring / ヘルマン・ゲーリング
1893年 : ドイツ帝国に生まれる。
第一次世界大戦で戦闘機操縦士として従軍。
1922年 : ナチ党に入党。
1923年 : ミュンヘン一揆で負傷し、国外へ逃れる。
1932年 : 国会議長に就任。
1933年 : ヒトラー政権の成立後、プロイセンの警察機構を掌握。
1935年 : ドイツ空軍総司令官となる。
1936年 : 四カ年計画の責任者に任命される。
1940年 : 国家元帥に任命される。
1941年 : ハイドリヒに「 ユダヤ人問題の最終的解決 」の準備を命じる文書に署名。
1945年 : アメリカ軍へ投降。
1946年 : ニュルンベルク国際軍事裁判 で死刑判決を受け処刑前日に自殺。
ゲーリング は、ナチス政権 において空軍、経済、政治権力を結びつけた中心人物であり、その権力の拡大と衰退は、第三帝国の成立から崩壊までの構造を示している。



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