見出し画像

MVP ARCHIVE HISTORY | Nazi Germany : The Holocaust|1933–1945 / ホロコースト - 人間が国家によっていないものとされた時

The Holocaust|1933–1945 / ホロコースト - 人間が国家によっていないものとされた時

MVP ARCHIVE HISTORY > Nazi Germany > The Holocaust|1933–1945 / ホロコースト - 人間が国家によっていないものとされた時

ホロコースト

人間が国家によっていないものとされた時

約600万人、ナチ・ドイツとその協力者によって殺害された、
ヨーロッパのユダヤ人の推定人数である。

その中には、約150万人の子どもが含まれていたと推定されている。
しかし、1933年1月30日にヒトラーが首相になった瞬間から、600万人の殺害計画がそのまま実行され始めたわけではない。

1933|排除

1933年1月30日、アドルフ・ヒトラー がドイツ首相に就任、その約2か月後、4月1日、ナチ政権 は、ユダヤ人が経営する商店や事業所などを対象とした全国的なボイコットを実施、4月7日には、職業官吏再建法 が制定される。

ユダヤ人や政治的に信頼できないとされた人物を、公務から排除する仕組みが作られ、職業団体の規則などによって、ユダヤ人を社会から排除する政策が拡大していく。

1935|分類

1935年9月15日、ニュルンベルク法 が制定された。
中心となったのは、帝国市民法 と、ドイツ人の血と名誉を守るための法律。

国家は、誰を完全な政治的権利を持つ市民とするのかを、血統を基準として区別する制度を作った。

同年11月の施行令では、祖父母の出自などによって、誰を法律上の「 ユダヤ人 」とするのかが具体化され、反ユダヤ主義は、単なる思想や宣伝ではなく、行政が処理できる法的カテゴリー へ変わっていった。

1938|公然たる暴力

1938年11月9日から10日、水晶の夜 Kristallnachtドイツ、オーストリア、
ズデーテン地方などで、シナゴーグ、ユダヤ人商店、住宅などが大規模に襲撃され、1,400を超えるシナゴーグや祈祷所が破壊または損傷し、約7,500の商店が破壊・略奪された。

約3万人のユダヤ人男性が拘束され、ダッハウ、ブーヘンヴァルト、ザクセンハウゼンなどの強制収容所へ送られた。

事件後、ユダヤ人社会には10億ライヒスマルクの負担が課され、経済活動からの排除と財産の移転もさらに加速した。
法律による分類と排除が、公然たる大規模暴力へ接続した。

この時点では、まだ大量絶滅政策ではなかった

1938年まで、ナチ政権 の重要な政策の一つは、ユダヤ人をドイツ社会から排除し、国外へ移住させることだった。

迫害によって、数十万人のユダヤ人がドイツやオーストリアから国外へ脱出したが、移住先を見つけることは次第に困難になっていた。

1938年7月、フランスのエヴィアンで、ユダヤ人難民問題を話し合う国際会議が開催され、多くの国が参加したが、受け入れ枠を大幅に拡大する国はほとんどなかった。

1939|戦争

1939年9月1日、ドイツがポーランドへ侵攻する。
ここで、ユダヤ人迫害を取り巻く条件が大きく変化した。
戦前のドイツ国内にいたユダヤ人より、はるかに多くのユダヤ人が暮らす地域が、ドイツの支配下に入った。

ポーランドには、戦前約330万人のユダヤ人が暮らしていた。
ドイツの占領によって、ナチ政権 はこれまでとは比較にならない規模のユダヤ人人口を、直接支配することになった。

占領政策

ポーランド西部の一部は、ドイツへ直接編入された。
中央部には、ポーランド総督府 Generalgouvernement が設置された。

ドイツ軍の後方では、SS、警察、治安部隊などが活動した。
ユダヤ人だけではなく、ポーランドの政治指導層、知識人、聖職者なども、逮捕、追放、殺害の対象となった。

ゲットー

占領下のポーランドでは、ユダヤ人を特定地域へ強制的に集める政策が進んだ、ゲットー Ghetto である。

1940年、ウッチ・ゲットーが封鎖され、同年11月、ワルシャワ・ゲットーも封鎖、ワルシャワでは、最盛期に40万人を超えるユダヤ人が、狭い区域へ押し込められた。

ゲットーは、外部社会から隔離された空間となり、飢餓と病気によって、多数の人々が死亡した。

人を集める

1933年には、ユダヤ人を社会から 外へ出そうとして、占領下では、ユダヤ人を特定の場所へ 集めるようになった。
行政機構によって、人々が管理可能な集団としてまとめられ、後に大量移送が始まったとき、この仕組みは別の目的へ利用されることになる。

1941|独ソ戦

1941年6月22日、ドイツ軍がソビエト連邦へ侵攻した、バルバロッサ作戦。
ドイツ軍は、巨大な地域を急速に占領、その後方を、特殊部隊が進んだ。
Einsatzgruppen アインザッツグルッペン SSと警察を中心とする部隊で、彼らは、ユダヤ人、共産党関係者、ソ連国家の関係者などを、組織的な殺害対象とした。

銃殺

占領された町や村で、ユダヤ人住民が集められ、
そこで、集団銃殺が行われた。
これは、後のガス室とは異なる形の大量殺害だった。

バビ・ヤール

1941年9月、ドイツ軍がウクライナのキーウを占領、9月29日から30日、キーウ近郊のバビ・ヤール渓谷 で、ユダヤ人住民が集団銃殺された。
二日間で 33,771人 が殺害されたと、ドイツ側の報告書に記録されている。
殺害を実行した側の行政記録そのものに人数が残されている ことである。

殺害が巨大化する

独ソ戦の開始以降、占領地域での大量銃殺は急速に拡大した。
アインザッツグルッペンだけではなく、秩序警察、武装SS、その他のドイツ部隊、そして地域によっては現地協力者も殺害に関与した。

1941年秋

1941年になると、ドイツ国内などから東方へのユダヤ人移送も始まる。
一方、ナチ政権 内部では、ユダヤ人をヨーロッパからどのように排除するのかという問題が、戦争によって新しい局面へ入っていた。
1941年後半までに、政策は組織的大量殺害へと急速に移行していく。

殺害施設

ナチ政権 は、より組織的に大量の人々を殺害できる方法、ガス を使用するようになる。
固定された殺害施設、鉄道による大量輸送、殺害そのものが、より大規模な行政・輸送システムへ組み込まれていった。

ヘウムノ

1941年12月、占領下ポーランドの ヘウムノ Chełmno で殺害が始まった。
ここでは、ガス車 が使用され、密閉された車両の内部へ、エンジンの排気ガスを送り込み、乗せられた人々を殺害した。

1942|ヴァンゼー会議

1942年1月20日、ベルリン郊外、ヴァンゼー湖畔の邸宅に、ナチ党 とドイツ政府の高官15人が集まった。

会議を主宰したのは、国家保安本部長官 ラインハルト・ハイドリヒ。
議題は、「 ユダヤ人問題の最終的解決 」Final Solution of the Jewish Question だった。

会議で殺害が始まったわけではない

ヴァンゼー会議 以前に、すでに数十万人のユダヤ人が東部占領地域で殺害されており、ヘウムノでも、殺害施設が稼働していた。

大量殺害そのものは、ヴァンゼー会議以前から始まっていた。
ヴァンゼー会議 で重要なのは、ヨーロッパ全域のユダヤ人を対象とする政策について、政府各省庁とSSの間で、移送と行政協力を調整したことである。
議事録には、ヨーロッパ各国のユダヤ人人口として、約1,100万人 が一覧化されている。

ラインハルト作戦

1942年、占領下ポーランドで、ユダヤ人の大量殺害がさらに拡大する。
Aktion Reinhard ラインハルト作戦。

主な殺害施設は、ベウジェツ・ソビボル・トレブリンカ だった。
これらは、通常の強制収容所とは異なり、大量殺害を主要目的として建設された施設だった。
列車で到着した人々の多くは、到着後短時間のうちに殺害された。

アウシュヴィッツ

ホロコースト を象徴する場所となったのが、Auschwitz-Birkenau
アウシュヴィッツ=ビルケナウ
である。
複数の収容所から構成された巨大な収容所複合体で、その中の アウシュヴィッツII・ビルケナウ は、大量殺害の中心地の一つとなった。

ガス室

アウシュヴィッツ=ビルケナウ では、殺害に ツィクロンB が使用された。
人々は、シャワー室などと説明され、密閉された室内へ入れられた。
殺害後、遺体は焼却炉などで処理された。

犠牲者の所有物も回収され、分類され、利用された。
人間の殺害と、その財産の処理までが、一つの巨大なシステムの中に組み込まれていた。

強制収容所と絶滅収容所

強制収容所 Concentration Camp と、絶滅収容所 / 殺害センター Killing Center は、同じものではない。
ダッハウなどの強制収容所は、当初、政治犯などを拘束する施設として設置された。

一方、ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカなどは、大量殺害を主要目的として設置され、アウシュヴィッツ は、強制収容、強制労働、大量殺害という複数の機能を持っていた。

ユダヤ人だけではなかった

ナチ政権 は、ユダヤ人以外の多数の人々も迫害し、殺害した。
体制によって敵または排除対象とされた人々、特に、障害者などを対象とした 「 T4 」殺害計画 では、ホロコースト 以前からガスによる殺害が行われていた。

そこで得られた人員や殺害技術の一部は、後の殺害センターにも接続した。
ただし、ホロコーストという言葉を狭義に用いる場合、中心となるのは、ヨーロッパのユダヤ人を組織的に迫害・殺害した政策である。

ワルシャワ・ゲットー蜂起

1943年4月19日、ドイツ側がワルシャワ・ゲットーの最終的な解体を開始すると、ユダヤ人地下組織が武装抵抗を開始した。
ワルシャワ・ゲットー蜂起。

武器も弾薬も、ドイツ側とは比較にならないほど少なかった。
それでも抵抗は数週間続き、ドイツ軍はゲットーを破壊しながら制圧した。

記録を残す

ワルシャワ・ゲットーでは、歴史家 エマヌエル・リンゲルブルム を中心とする Oneg Shabbat オネグ・シャバット の地下記録活動が行われた。

ゲットーで何が起きているのかを記録し、箱やミルク缶に入れて地下へ埋め、その一部は、戦後発見された。
殺害される側の人々自身が、自分たちに何が起きたのかを未来へ残そうとしていた。

1944|ハンガリー

戦争末期になっても、大量移送は続いた。
1944年3月、ドイツ軍がハンガリーを占領、同年5月から7月、約44万人のハンガリー系ユダヤ人が、主として アウシュヴィッツ=ビルケナウ へ移送され、その多くが、到着後に殺害された。

この時点で、ドイツ軍は東部戦線で後退、連合軍も西からヨーロッパへ進攻していたが、大量移送と殺害は続けられた。

1944–1945|証拠を消す

ソ連軍が東から接近すると、ナチ政権 は一部の殺害施設を解体し、証拠を隠そうとした。
集団墓地を掘り返し、遺体を焼却する作業も行われ、収容者は、西方の収容所へ移動させられた。

1945|解放

1944年から1945年にかけて、ソ連軍、アメリカ軍、イギリス軍などが、各地の収容所を解放していった。
1945年1月27日、ソ連軍が、アウシュヴィッツ へ到達した。

連合軍が各地の収容所へ到達するにつれ、ナチ体制 が行っていた迫害と大量殺害の規模が、世界へ明らかになっていった。

約600万人

ホロコースト によって、約600万人のユダヤ人が殺害された。
これは、戦前ヨーロッパに暮らしていたユダヤ人の およそ3分の2 に相当。

一つの命令だけでは説明できない

ホロコースト を理解するとき、「 誰が殺害を命令したのか 」という問いは重要である。
しかし、それだけでは、約600万人という規模の殺害が、どのように実行可能になったのか までは説明できない。
巨大な国家と社会の仕組みが、段階的に迫害と大量殺害へ接続していった。

ホロコースト

さまざまな過程の中で、それまで存在していた選択肢は次第に失われ、それは国家主導の組織的な大虐殺に行きつく。

約600万人という結果だけを見るのではなく、そこへ至るまでに、何が一つずつ可能になっていったのか。
ホロコースト の歴史は、その過程そのものを記録している。

The Holocaust|1933–1945 / ホロコースト 失われた命、残された記録

MVP ARCHIVE HISTORY > Nazi Germany > The Holocaust|1933–1945 / ホロコースト - 人間が国家によっていないものとされた時


いいなと思ったら応援しよう!