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MVP ARCHIVE HISTORY | Nazi Germany : Nazi Party|Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei / ナチ党 - 一つの小さな政党が、なぜドイツを支配したのか

Nazi Party|Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei / ナチ党 - 一つの小さな政党が、なぜドイツを支配したのか

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ナチ党

一つの小さな政党が、なぜドイツを支配したのか

第一次世界大戦後のドイツで生まれた、一つの小さな政治運動。
それが後に国家権力を掌握し、ドイツ唯一の合法政党となった。
国家社会主義ドイツ労働者党 Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei( NSDAP )通称、ナチ党( Nazi Party )

ナチ党 は、1919年に成立した小規模な政治団体から出発し、1920年代には選挙でほとんど支持を得られない時期も経験している。
しかし 第一次世界大戦 後の混乱、ヴェルサイユ体制 への反発、政治的不安定、そして1929年以降の世界恐慌の中で急速に支持を拡大した。

1933年、アドルフ・ヒトラー が首相に就任。
そこから ナチ党 は、議会政治の中に存在する一政党から、国家そのものと深く結びついた巨大な政治組織へ変化していく。

1919年|ドイツ労働者党

第一次世界大戦 は1918年、ドイツの敗北によって終わった。
ドイツ帝国は崩壊し、皇帝ヴィルヘルム2世は退位。

新たに成立した ワイマール共和国 は、革命、政治的暴力、経済混乱、左右両派の対立などを抱えながら出発した。
1919年1月、ミュンヘンで、ドイツ労働者党 Deutsche Arbeiterpartei DAP)が結成された。

創設者の中心となったのは アントン・ドレクスラー らである。
同年、ドイツ軍の任務で政治集会を調査していた アドルフ・ヒトラー が DAP の集会に参加し、その後党へ加入した。
演説能力を持つ ヒトラー は、次第に党内で存在感を強めていく。

1920年|NSDAP

1920年2月、党は名称を 国家社会主義ドイツ労働者党 Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei へ変更した、略称はNSDAP

同時期に、党の政治的要求をまとめた「 25カ条綱領 」が発表された。
そこには、ヴェルサイユ条約 体制 への反対、民族共同体の形成、領土拡大要求、反ユダヤ主義、強力な中央権力、など、後の ナチ党 を特徴づける要素がすでに含まれていた。

鉤十字( Swastika )を用いた党旗も採用され、党は独自の政治運動として姿を整えていく。

ヒトラーと党組織

ヒトラー は演説と大規模集会を利用し、党の支持拡大を進めた。
1921年には党内で主導的地位を確立し、ナチ党 の指導者となる。
同じ時期、党の集会警備や政治的対立者との街頭闘争などを担う組織として、突撃隊 Sturmabteilung( SA )が発展した。

ナチ党 は議会活動だけを行う政党ではなかった。
政治集会、宣伝、新聞、街頭活動、制服、旗、行進、準軍事組織などを組み合わせながら、大衆政治運動を形成していった。

1923年|ミュンヘン一揆

1923年、フランスとベルギーによるルール地方占領、ハイパーインフレーション、政治的不安定、こうした状況の中、ヒトラー と ナチ党 はバイエルン州ミュンヘンで政権奪取を試みた。

ミュンヘン一揆 Beer Hall Putsch である。
1923年11月8日から9日にかけて実行された一揆は失敗。
ヒトラー は逮捕され、反逆罪で有罪判決を受け、
ナチ党 も活動を禁止された。

政権獲得方法の転換

収監中、ヒトラー は後に『 我が闘争( Mein Kampf )』として出版される文章を執筆した。
1924年末に釈放されると、1925年に ナチ党 を再建。
この時期以降、党は武力による直接的な政権奪取ではなく、選挙と既存の政治制度を利用して権力へ接近する 方向へ戦略を転換していく。

全国各地に地方組織を整備し、党員を増やし、宣伝組織を強化した。
親衛隊、Schutzstaffel(SS) も1925年に成立し、当初は ヒトラー の護衛組織として活動した。

1928年|まだ小さな政党

党組織は拡大していたものの、1920年代後半の ナチ党 はまだドイツ政治の中心ではなかった。
1928年5月の国会選挙、ナチ党 の得票率は、約2.6%、獲得議席は12議席。
ドイツ経済が比較的安定していた時期、ナチ党 の支持は限定的だった。

1929年|世界恐慌

転機となったのが、1929年に始まった 世界恐慌 だった。
アメリカ資本への依存が大きかったドイツ経済は深刻な打撃を受ける。
既存政党による安定した政権形成も困難になっていった。

ナチ党 はこうした状況の中で、失業問題への対応、ヴェルサイユ体制 の打破、強い国家の再建、反共主義、民族共同体、などを訴え、支持を急速に拡大した。

1930年|18.3%

1930年9月の国会選挙、ナチ党 は、得票率 約18.3% 107議席 を獲得。
国会第二党へ急伸、わずか2年前の2.6%から、大きな変化だった。

1932年|ドイツ最大政党

政治・経済危機が続く中、ナチ党 の支持はさらに拡大した。
1932年7月の国会選挙では、得票率 約37.3% 230議席 を獲得。
ナチ党は国会最大政党となったが、過半数には達していない。

さらに同年11月の選挙では、約33.1% 196議席 へ後退した。
ナチ党 は最大政党ではあったが、単独で政権を成立させられる議席を持っていたわけではなかった。

1933年1月30日

ヒトラー首相就任

1933年1月30日、大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク は、アドルフ・ヒトラー をドイツ首相に任命した。
これは ナチ党 が選挙で過半数を獲得した結果ではない。
保守政治家や大統領周辺を含む当時の政治交渉の結果として、ヒトラー を首相とする連立政権が成立した。

ナチ党 はここで初めて国家政府の中心へ入った。
そして、その後の数か月でドイツの政治制度は急速に変化する。

国会議事堂放火事件

1933年2月27日、ベルリンの国会議事堂が炎上した。
翌28日、ヒンデンブルク大統領は ヒトラー 内閣 の要請を受け、「 国民と国家を保護するための大統領令 」を発令した。

これによって言論、出版、集会、通信の秘密など、ワイマール憲法 が保障していた基本的権利の多くが停止された。
共産党員をはじめ、多数の政治的反対者が逮捕された。

1933年3月23日

全権委任法

1933年3月23日、国会は、「 民族および国家の苦境を除去するための法律 」いわゆる 全権委任法 Enabling Act を可決した。
これによって政府は、国会の通常の立法手続きを経ずに法律を制定できるようになり、ヒトラー政権 による独裁体制形成の決定的な制度的基盤となる。

強制的同質化

ナチ政権 は、ドイツ社会の様々な組織を政権の統制下へ組み込んでいった。
この過程は、Gleichschaltung 強制的同質化 と呼ばれる。
社会の各領域が、次第にナチ政権の支配構造へ統合されていった。

1933年5月には自由労働組合が解体され、その機能は ナチ党 系の ドイツ労働戦線( DAF )へ置き換えられ、他の政党も解散または禁止された。
そして1933年7月14日、「 政党新設禁止法 」が制定された。
ナチ党 はドイツで唯一の合法政党となった。

一つの政党から国家へ

1933年以前の ナチ党 は、国家の外側から権力を求める政治組織だった。
しかし政権獲得後、その位置は変化する。
党組織と国家機構は互いに重なりながら拡大していった。
党は政治だけではなく、労働、教育、青年活動、文化、社会生活へ広範囲に入り込んでいった。

宣伝と大衆政治

ナチ党 の特徴の一つが、大規模な政治宣伝だった。
ヨーゼフ・ゲッベルス が率いた宣伝機構は、さまざまなものを政治活動に利用し、ニュルンベルクで開催された党大会では、巨大な会場に多数の党員を集め、統一された視覚表現と演出によってナチ党の政治的世界観を提示した。

1934年|党内部の粛清

ナチ党 内部にも権力闘争が存在した。
SA は エルンスト・レーム のもとで巨大化し、数百万人規模の組織となり、その存在は国軍や保守層との対立要因となる。

1934年6月末から7月初め、ヒトラー は SS などを利用してレームを含む SA幹部 やその他の政治的敵対者を殺害した、「 長いナイフの夜 」である。
これによってSAの政治的影響力は低下し、SSがさらに重要な組織へ成長していく。

Führer

1934年8月2日、ヒンデンブルク大統領が死去した。
その直前に制定された法律に基づき、大統領職と首相職の権限が統合され、ヒトラー は、Führer und Reichskanzler 総統兼首相 として国家の最高指導者となった。

軍人も国家や憲法ではなく、ヒトラー 個人への忠誠宣誓を行うようになり、1919年に小さな政治団体として始まった運動は、15年ほどで国家権力の中心へ到達した。

人種思想と国家

ナチ党 の政治思想では、人間は平等な個人としてではなく、人種や民族によって分類され、その中心に置かれたのが、ドイツ民族を優越的な共同体として捉える思想と、強い反ユダヤ主義だった。

1933年以降、ユダヤ人を職業や社会生活から排除する政策が次々に導入され、1935年9月15日、ニュルンベルク法 Nuremberg Laws が制定された。
人種思想による区別が、市民資格や婚姻を規定する国家法として制度化され、この後の ユダヤ人迫害 と ホロコースト については、ナチ党 そのものの歴史とは別の流れとして扱う必要がある。

戦争とナチ党

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻、第二次世界大戦 が始まる。
戦争の拡大とともに、ナチ党とその関連組織は占領地域にも活動範囲を広げ、SS と警察機構は占領政策、強制移住、強制労働、収容所、大量殺害などに深く関与する。
党の人種思想と領土拡張思想は、戦時体制の中で国家政策として実行されていった。

1945年|崩壊

1945年春、連合国軍がドイツ本土へ進攻し、ソ連軍はベルリンへ到達、4月30日、ヒトラー はベルリンの地下壕で自殺。
5月8日、ドイツ軍は無条件降伏した。

ナチ政権 は崩壊、ナチ党 も事実上消滅し、連合国によって禁止・解体され、党の財産は没収、ナチ組織 をドイツ社会から除去する 非ナチ化 ( Denazification )が進められた。

ニュルンベルク裁判

1945年11月から、ナチ政権 の主要指導者を裁く 国際軍事裁判 が ニュルンベルク で開催された。
裁判では個人だけでなく、ナチ体制 を構成した複数の組織についても犯罪組織であるかが審理された。

SS や ゲシュタポ などとともに、一定範囲の ナチ党指導部( Leadership Corps )も犯罪組織と認定された。
ここから、ナチ党 の歴史は戦後国際秩序の形成へ接続していく。

Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei / ナチ党 - 一つの小さな政党が、なぜドイツを支配したのか
Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei / ナチ党 - 一つの小さな政党が、なぜドイツを支配したのか

Basic Data

正式名称| 国家社会主義ドイツ労働者党
German| Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei
略称| NSDAP
通称| Nazi Party / ナチ党
前身| ドイツ労働者党(DAP)
DAP結成| 1919年
NSDAPへの改称| 1920年
再結成| 1925年
指導者| Adolf Hitler
政権参加| 1933年1月30日
唯一の合法政党化| 1933年7月14日
崩壊| 1945年
主要組織| SA・SS・Hitler Youth ほか
主要思想| 極端な民族主義・人種主義・反ユダヤ主義・反共主義・指導者原理・領土拡張

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