MVP ARCHIVE HISTORY | Nazi Germany : Weimar Republic 1919–1933 / ワイマール共和国 - 破壊のあとに築かれたもう一つのドイツ

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ワイマール共和国
破壊のあとに築かれたもう一つのドイツ
第一次世界大戦 に敗れ、皇帝が退位したドイツに成立した共和政。
1919年から1933年まで続いた ワイマール共和国 は、革命、ヴェルサイユ条約、政治的暴力、ハイパーインフレーション、世界恐慌 という巨大な危機に直面した。
そして1933年、アドルフ・ヒトラー が首相に任命される。
しかし、ワイマール共和国 の14年間を、「 ナチス・ドイツへ向かって崩壊していった時代 」としてだけ見ると、その歴史の重要な部分が抜け落ちる。
共和国には危機だけでなく安定した時期もあり、選挙が行われ、政権が交代し、文化・科学・芸術が発展した時期もあった。
1933年という結末は、1919年の時点で決まっていたわけではない。
帝政ドイツの終わり
1918年秋。
第一次世界大戦 でドイツの敗北が決定的になると、国内では戦争継続への不満と社会的混乱が急速に拡大した。
1918年11月、キール軍港の水兵反乱を契機として革命運動が各地へ広がる。
11月9日、ドイツ皇帝 ヴィルヘルム2世 の退位が発表され、ベルリンでは共和政が宣言された。
翌11月10日、ヴィルヘルム2世 はオランダへ亡命。
11月11日には休戦協定が締結され、第一次世界大戦 におけるドイツの戦闘は終わり、1871年以来続いた ドイツ帝国 は崩壊し、新しい政治体制を作る必要が生まれた。
ワイマールで作られた共和国
1919年1月、制憲国民議会選挙 が行われた。
混乱が続くベルリンを避け、国民議会は中部ドイツの都市ワイマールで開催、ここから後世、この共和国は、Weimar Republic ワイマール共和国 と呼ばれるようになる。
ただし「 ワイマール共和国 」は後世一般化した名称であり、国家の正式名称そのものは帝政期から引き続き、Deutsches Reich ドイツ国 だった。
1919年8月11日、フリードリヒ・エーベルト大統領 が新憲法に署名。
8月14日に施行された。
ワイマール憲法
ワイマール憲法 は、当時としては広範な民主的制度を備えていた。
国会議員は普通・平等・直接・秘密選挙によって選ばれ、女性にも国政選挙の選挙権と被選挙権が認められた。
国家元首として大統領を置き、国民による直接選挙で選出。
政府は首相と閣僚によって構成され、議会政治と大統領制の要素が組み合わされ、後の政治史で非常に重要になる規定も存在した。
第48条
Article 48 公共の安全と秩序が重大に脅かされた場合、大統領に非常措置を認める規定だった。
本来は非常事態に対応するための制度だったが、共和国末期には議会による通常の立法を迂回する大統領緊急令が頻繁に利用されるようになる。
後にナチ政権も、この非常権限を利用することになる。
ヴェルサイユ条約
新共和国が成立する一方、ドイツは 第一次世界大戦 の講和条件を突きつけられ、1919年6月28日、ドイツ代表団は、Treaty of Versailles ヴェルサイユ条約 に署名した。
ドイツは領土を失い、軍備を大幅に制限され、賠償義務を負った。
さらに条約第231条は、ドイツおよびその同盟国の責任を賠償の法的根拠として規定した。
条約への反発はドイツ国内で広く存在した。
重要なのは、この条約を締結したのが帝政ではなく、戦後に成立した新しい共和国だったことであり、自ら始めたわけではない戦争の敗北と講和条件を引き受けた状態から出発した。
「背後からの一突き」
敗戦後のドイツでは、Dolchstoßlegende 背後からの一突き伝説 が広がり、
これは、「 ドイツ軍は戦場で完全に敗北したのではなく、国内の革命家、社会主義者、ユダヤ人などによって背後から裏切られた 」という政治的神話だった。
実際には1918年秋の時点でドイツ軍の軍事状況は極めて深刻で、軍指導部自身が休戦を求める必要性を認識していた。
しかし敗戦の責任を共和政や特定集団へ転嫁する物語は、その後もドイツ政治に残り、ナチ党も後にこの言説を積極的に利用する。
左右からの政治的暴力
共和国初期のドイツでは政治的暴力が続いた。
1919年1月にはベルリンで スパルタクス団 を中心とする武装蜂起が発生。
政府は軍人・元軍人を中心とする義勇軍、Freikorps フライコール を利用して鎮圧した。
共産主義運動の指導者 ローザ・ルクセンブルク と カール・リープクネヒト は殺害された。
1920年には右派勢力による、Kapp Putsch カップ一揆 が発生。
政府は一時ベルリンから退避したが、労働組合などによるゼネストによって一揆は崩壊した。
左派革命運動、右派クーデター、政治的暗殺、準軍事組織。
共和国は成立直後から、議会の外側でも激しい政治闘争にさらされていた。
1923年危機
賠償問題をめぐり、フランスとベルギー軍がドイツの主要工業地域、Ruhr
ルール地方 を占領した。
ドイツ政府は労働者に消極的抵抗を呼びかけ、その費用を支えるため通貨発行を拡大、すでに進行していた インフレーション は制御不能となった。
German Hyperinflation
ドイツ・ハイパーインフレーション、紙幣の価値は急速に失われた。
ミュンヘンでは アドルフ・ヒトラー と ナチ党が 政権奪取を試みる。
Beer Hall Putsch ミュンヘン一揆 一揆は失敗し、ヒトラー は逮捕された。
安定へ
グスタフ・シュトレーゼマン政権は消極的抵抗を終了。
新通貨、Rentenmark レンテンマルク が導入され、通貨の安定化が進めた。
1924年には、Dawes Plan ドーズ案 によって賠償支払いが再編され、アメリカ資本がドイツ経済へ大量に流入する。
外交面でもドイツは国際社会へ復帰し、1925年、Locarno Treaties ロカルノ条約、1926年、ドイツは、League of Nations 国際連盟 へ加盟した。
第一次世界大戦 後に孤立していたドイツは、ヨーロッパ国際秩序へ再び組み込まれていく。
「黄金の20年代」
1924年頃から1929年頃までの時期は、Golden Twenties 黄金の20年代
と呼ばれることがある。
経済は一定の安定を取り戻し、政治的暴力も共和国初期と比較して沈静化し、ベルリンを中心に、映画、演劇、建築、美術、音楽、文学などが発展。
ワイマール期 のドイツは、政治的危機だけでなく、20世紀文化史の重要な舞台でもあった。
ただし安定には弱点もあり、経済回復の一部はアメリカから流入する短期資本に依存していた。
ナチ党はまだ小さかった
1928年5月の国会選挙、ナチ党 の得票率は、約2.6% 獲得議席は12。
後にドイツを独裁支配する政党は、この時点では国政の中心から遠い小政党だった。
1928年の結果だけを見れば、1933年に ヒトラー がドイツ首相になる未来は、政治的必然には見えない。
1929
1929年10月、アメリカの株式市場が暴落、Great Depression 世界恐慌
が始まった。
アメリカ資本への依存度が高かったドイツ経済は深刻な影響を受ける。
外国資本が引き揚げられ、企業倒産が増加。
銀行危機も発生し、失業者は急増した。
1932年には登録失業者が600万人前後に達する。
議会政治の機能不全
1930年、社会民主党を中心とする大連立政権が崩壊。
ハインリヒ・ブリューニング が首相となる。
しかし安定した議会多数を確保できず、政府は次第に、議会で法律を成立させる通常の政治よりも、大統領緊急令 に依存するようになる。
ワイマール憲法 第48条 が、共和国の日常政治へ入り始めた。
議会制民主主義そのものが形式上消滅したわけではない。
選挙も続いている。
しかし政治の重心は、議会多数派による政府から、大統領とその周辺による統治へ移動していった。
ナチ党の急拡大
世界恐慌 後、政治勢力図は急速に変化する。
1928年には約2.6%だったナチ党の得票率は、1930年9月、18.3%、1932年7月、37.3% まで上昇した。
1932年7月選挙でナチ党は230議席を獲得し、国会最大政党となる。
さらに同年11月の選挙では、33.1%へ得票率を落とし、議席も196へ減少、
ナチ党 の政権獲得が選挙結果によって自動的に決定したわけではなかった。
1932年の政治
この時期のドイツ政治では、選挙だけではなく、大統領と保守政治家による政治交渉が大きな意味を持つようになっていた。
大統領は、Paul von Hindenburg パウル・フォン・ヒンデンブルク 首相は短期間に、フランツ・フォン・パーペンへ、クルト・フォン・シュライヒャー へとと交代する。
安定した議会多数派による政府を形成できない状態が続いた。
その中で、ナチ党 を政府へ取り込み、ヒトラー を利用しながら保守勢力が実権を維持できるという構想が浮上する。
1933年1月30日
1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領は、Adolf Hitler アドルフ・ヒトラー をドイツ首相に任命した。
これは、ナチ党 が選挙で過半数を獲得した結果ではない。
ヒトラー内閣成 立時、ナチ党 員が内閣のすべてを占めていたわけでもなく、保守政治家たちは、ヒトラー を政権内部へ入れることで彼を制御できると考えていた。
しかし、この首相任命によって ナチ党 は初めて国家権力の中枢へ入った。
ワイマール共和国 の歴史は、ここから急速に次の段階へ移っていく。
ワイマール共和国はなぜ重要なのか
ワイマール共和国 は、1919年、革命と敗戦の中で共和国が成立した。
ヴェルサイユ条約 を受け入れた。
そして1929年、世界恐慌によって経済と政治の条件が大きく変わる。
議会政治は弱まり、大統領緊急令への依存が強まった。
1933年1月30日、選挙だけでは決まらなかった政治状況の中で、ヒンデンブルク は ヒトラー を首相に任命した。
第一次世界大戦 後のドイツが、新しい政治体制を作り、危機を経験し、一度は安定し、そして再び巨大な危機の中へ入っていった14年間そのものであり、その歴史の先に、1933年1月30日 がある。
そして ヒトラー の首相就任もまた、まだ ナチ独裁体制 の完成ではない。
次に起きるのは、国会議事堂放火事件、基本権の停止、全権委任法。
共和国から独裁体制への転換は、さらに続いていく。

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