MVP ARCHIVE CIVILIZATION | INTERNATIONAL ORDER : Treaty of Versailles 1919 / ヴェルサイユ条約 - 戦争のあと世界はどうつくられたのか

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ヴェルサイユ条約
戦争のあと世界はどうつくられたのか
1919年6月28日、第一次世界大戦 の終結から約7か月後、フランスの ヴェルサイユ宮殿 で、連合国と ドイツとの講和条約 が調印された。
Treaty of Versailles|ヴェルサイユ条約 。
第一次世界大戦を終わらせるための条約である。
しかし、この条約が決めたのは「 戦争を終わらせること 」だけではない。
ドイツの国境、軍事力、植民地、賠償、国際連盟。
そして、第一次世界大戦 後のヨーロッパ秩序。
1919年の ヴェルサイユ では、戦争の後に、どのような世界をつくるのか
という巨大な再設計が行われ、戦間期のヨーロッパが始まる。
1918年11月11日
1918年秋、ドイツ軍は西部戦線で後退を続け、国内でも政治的混乱が拡大、11月9日、皇帝ヴィルヘルム2世が退位、ドイツ帝国は崩壊した。
1918年11月11日、ドイツと連合国の間で休戦協定が成立する。
第一次世界大戦 の戦闘は停止した。
戦争を正式に終わらせ、戦後の国境や賠償、軍備などを決めるためには、新しい国際交渉が必要だった。
Paris Peace Conference
パリ講和会議
1919年1月、戦後秩序を決めるため、Paris Peace Conference|パリ講和会議 が始まった。
Woodrow Wilson|ウッドロウ・ウィルソン : アメリカ大統領
Georges Clemenceau|ジョルジュ・クレマンソー : フランス首相
David Lloyd George|デイヴィッド・ロイド・ジョージ : イギリス首相
Vittorio Orlando|ヴィットリオ・オルランド : イタリア首相
しかし、それぞれの国が求める戦後秩序は同じではなかった。
Wilson
十四か条
アメリカ大統領 ウッドロウ・ウィルソンは、戦争中の1918年1月、Fourteen Points|十四か条 を発表していた。
そして、League of Nations|国際連盟 の設立。
ウィルソンは、勢力均衡だけに依存する国際政治から、国家間の協力によって戦争を防ぐ新しい秩序へ移行しようとした。
ドイツ側も、休戦から講和へ進む過程で 十四か条 を重要な基準として認識していたが、実際の講和交渉では、十四か条 だけで戦後秩序が決められたわけではなかった。
France
戦争の主要な戦場の一つとなったフランス北東部では、都市、村、工場、鉄道、農地などが大きな被害を受け、さらに、1870〜71年の普仏戦争でもドイツに敗北している。
フランス政府にとって重要だったのは、ドイツが再びフランスを攻撃できる状態に戻らないこと だった。
そのためフランスは、ドイツ軍事力の制限、ラインラントの安全保障、戦争被害への賠償、などを強く要求した。
ヴェルサイユ条約には、新しい国際秩序をつくるという構想 と、ドイツの再軍備を抑えるという安全保障上の要求 が同時に存在していた。
Germany
講和条件は1919年5月7日、ドイツ代表団へ提示された。
しかしドイツは、講和条件を決める主要交渉には参加していなかった。
提示された条件に対してドイツ側は強く反発した。
それでも連合国側は、大幅な変更には応じなかった。
戦争再開の可能性も残る中、ドイツ政府は最終的に受諾を決定する。
そして、1919年6月28日 ヴェルサイユ宮殿 の鏡の間で条約が調印された。
1871年、普仏戦争でフランスを破ったプロイセンを中心としてドイツ帝国が成立した際、皇帝ヴィルヘルム1世 の即位が宣言された場所も、ヴェルサイユ宮殿・鏡の間 だった。
その48年後、同じ場所で、敗戦国となったドイツが講和条約へ署名した。
Territory
領土の再編
ヴェルサイユ条約 によって、ドイツの領土は大きく変更された。
代表的なものが、Alsace-Lorraine|アルザス=ロレーヌ である。
1871年の 普仏戦争 後にドイツ領となっていたこの地域は、フランスへ返却、その他にも、オイペン=マルメディはベルギーへ、北シュレースヴィヒでは住民投票を経て一部がデンマークへ、西プロイセンやポーゼンなどの地域は、新たに再建されたポーランドへ移された。
これによってポーランドはバルト海への通路を確保した。
ドイツ本土と東プロイセンの間にはポーランド領が存在することになる。
いわゆる、Polish Corridor|ポーランド回廊 である。
ダンツィヒ( 現在のグダニスク )はドイツから分離され、Free City of Danzig|自由都市ダンツィヒ となった。
ドイツはヨーロッパ領土のおよそ13%、人口のおよそ10%を失った。
Colonies
ドイツは海外植民地もすべて失った。
ただし、それらが単純に新しい独立国家になったわけではない。
旧ドイツ植民地の多くは、League of Nations Mandate|国際連盟委任統治領 として扱われた。
第一次世界大戦 後には民族自決が掲げられた一方で、植民地支配そのものが世界から消えたわけではなかった。
Rhineland
ラインラント
フランス国境に近いライン川周辺は、ドイツとフランスの安全保障にとって極めて重要な地域だった。
ヴェルサイユ条約 は、Rhineland|ラインラント に対して軍事的制限を設け、ライン川左岸とその周辺ではドイツの要塞建設や軍隊配置が制限され、ライン川左岸は連合国軍による一定期間の占領対象となった。
フランスにとってこれは、ドイツから再び侵攻を受ける可能性を低下させるための緩衝地帯 でもあった。
German Military
ドイツ軍の制限
条約はドイツ軍にも大きな制限を課した。
陸軍は最大10万人、徴兵制は禁止、参謀本部も廃止対象となった。
戦車などの保有は認められず、軍用航空戦力も禁止された。
海軍も大幅に制限され、潜水艦の保有は禁止、大型艦艇にも厳しい制限が設けられた。
第一次世界大戦 前、ヨーロッパ最大級の軍事国家だったドイツは、条約によって軍事力を大幅に制限された国家 となった。
Article 231
第231条
ヴェルサイユ条約 の中で、後に特に大きな政治的意味を持ったのが、Article 231|第231条 だった。
この条文では、ドイツとその同盟国の侵略によって連合国政府と国民が被った損失・損害について、ドイツとその同盟国が責任を負うことを受け入れると定められた。
この条文は、賠償請求の法的基礎として置かれたものだった。
しかしドイツ国内では、War Guilt Clause|戦争責任条項 として受け止められるようになる。
第一次世界大戦 という巨大な戦争の責任をドイツだけに負わせたものだ、という認識が広がり、条文の法的役割と、ドイツ社会で受け取られた政治的意味は、必ずしも同じではなかった。
Reparations
賠償
ドイツには戦争被害への賠償義務も課された。
重要なのは、ヴェルサイユ条約 の調印時点では、最終的な賠償総額は確定していなかった ことである。
賠償額はその後、連合国の賠償委員会によって決められた。
1921年、ドイツの賠償総額は、1320億金マルク と定められる。
しかしドイツ経済には、この支払いをめぐる大きな負担と政治的対立が生じ、賠償問題はその後、戦間期ヨーロッパ外交の重要問題となっていく。
League of Nations
ヴェルサイユ条約 には、もう一つ重要な制度が組み込まれていた。
League of Nations|国際連盟 である。
第一次世界大戦 の惨禍を経験した各国は、国家間の紛争を外交、仲裁、国際協力によって処理する新しい仕組みを構築しようとした。
国際連盟規約は ヴェルサイユ条約 の一部として置かれた。
これは、戦後世界を単に国境線と軍事力だけで管理するのではなく、国際的な制度によって戦争を防止する という新しい試みだった。
しかし、国際連盟を強く提唱したウィルソンの母国、アメリカ合衆国が加盟しなかった。
United States
条約批准には上院の同意が必要だったため、ウィルソン大統領は ヴェルサイユ条約 をアメリカへ持ち帰った。
アメリカ国内では、国際連盟への参加によってアメリカが将来のヨーロッパ紛争へ巻き込まれることへの警戒が強く、上院は ヴェルサイユ条約 を批准しなかった。
その結果、アメリカは国際連盟へ加盟しなかった。
第一次世界大戦 後の国際秩序を構想した中心国の一つが、その秩序の中心制度から離れることになった。
アメリカはその後、1921年にドイツと別個の平和条約を結んでいる。
A New Europe
ヴェルサイユ条約 だけで 第一次世界大戦 後のすべての国境が決まったわけではなく、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国、それぞれとは別の講和条約が締結された。
しかし一連のパリ講和体制によって、ヨーロッパの政治地図は大きく変化し、戦争前のヨーロッパを構成していた巨大帝国の多くが崩壊または変容し、新しい国家や再建された国家が現れた。
第一次世界大戦 は、ヨーロッパの国境そのものを書き換えた戦争 でもあった。
民族自決
戦後秩序を語る重要な言葉の一つが、Self-Determination|民族自決 であったが、現実のヨーロッパには、民族と言語と国境を完全に一致させることのできない地域が多数存在した。
新しく引かれた国境の内側にも、多数の少数民族が残った。
ドイツ系住民、ハンガリー系住民、ポーランド系住民、チェコ人、スロヴァキア人、南スラヴ系民族、その他、多数の民族集団が複雑に居住していた。
民族自決という原則が掲げられても、誰を一つの民族とし、どこに国境を引くのか という問題は残った。
この問題もまた、戦間期ヨーロッパの政治的不安定につながっていく。
Weimar Republic
敗戦後のドイツでは帝政が崩壊し、Weimar Republic|ワイマール共和国
が成立、新しいドイツは民主的な憲法を持つ共和国として出発する。
しかし、その政府は同時に、敗戦と ヴェルサイユ条約 を受け入れた政府
でもあった。
条約への反発は、政府そのものへの攻撃材料として利用されるようになる。
問題は、別々の政策問題であると同時に、「 ヴェルサイユ体制 」への反発
として結びついていった。
1923
戦後ドイツの不安定さが大きく表面化したのが、1923年 だった。
賠償支払いをめぐる問題から、フランスとベルギーがドイツの工業地帯、Ruhr|ルール地方 を占領。
ドイツ政府は消極的抵抗を行い、政府財政はさらに悪化し、通貨価値は急落、ドイツは歴史的な、Hyperinflation|ハイパーインフレーション に陥った。
一度は安定する
1924年以降、Dawes Plan|ドーズ案 によって賠償支払いが再編され、アメリカ資本もドイツへ流入し、通貨も安定する。
外交面では、Gustav Stresemann|グスタフ・シュトレーゼマン らによって国際協調が進められた。
1925年にはロカルノ条約、1926年にはドイツが 国際連盟 へ加盟する。
1920年代半ばのドイツは、一定の政治的・経済的安定を取り戻した。
1929
その流れを大きく変えたのが、1929年 世界恐慌 だった。
アメリカからの資本に大きく依存していたドイツ経済は深刻な打撃を受け、
ワイマール共和国を支えていた政治的安定は急速に失われていった。
その中で急速に勢力を拡大した政党の一つが、Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei 国家社会主義ドイツ労働者党 ナチ党だった。
Hitler and Versailles
アドルフ・ヒトラー と ナチ党 は、ヴェルサイユ条約 への反発を政治的に利用し、軍備制限の撤廃、失われた領土の回復、ドイツ民族の統合、ヴェルサイユ 体制の打破、そしてドイツの国家的威信の回復。
こうした主張は ナチ党 の政治宣伝と政策の重要な要素となった。
1933年、ヒトラー がドイツ首相に就任する。
ヴェルサイユ条約 調印から、約14年後 だった。
ヴェルサイユ体制 への反発が、ナチ党 によって利用された重要な政治資源だった。
戦争を終わらせるということ
1919年、ヴェルサイユ条約 は 第一次世界大戦 を終わらせるためだった。
しかし、目的は必ずしも互いに矛盾なく成立したわけではなかった。
ヴェルサイユ条約 は 第一次世界大戦 の終点だった。
しかし同時に、戦間期ヨーロッパの出発点 でもあった。
その後の約20年間、世界はこの1919年につくられた秩序の中で、再編を繰り返していく。
そして1939年、ヨーロッパは再び世界大戦へ入る。
MVP ARCHIVE|CONNECTION
ヴェルサイユ条約 を見ることは、戦争を終わらせた人々が、次の平和をどのように設計しようとしたのか、そして、その設計の中に何が残されたのかを見ることである。

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