MVP ARCHIVE HISTORY | Nazi Germany : Battle of France 1940年5月10日-6月25日 / フランス侵攻 - 電撃戦、そして西ヨーロッパの崩壊

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Battle of France / フランス侵攻
電撃戦、そして西ヨーロッパの崩壊
1940年5月10日、ドイツ軍はオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスへの攻撃を開始、1939年9月の ポーランド侵攻 によって始まった 第二次世界大戦 は、西ヨーロッパへと大きく拡大する。
ドイツ軍はアルデンヌ地方を通過してフランス北部へ進出し、連合軍の主力を分断した。約6週間の戦闘の後、フランスは休戦協定 を締結する。
この戦役は、フランス、ベルギー、オランダ、英国、ドイツの軍事・政治状況を大きく変えることになった。
西部戦線の開戦
1939年9月―1940年5月
1939年9月3日、英国とフランスはドイツに宣戦布告した。
しかし、その後しばらく西部戦線では大規模な地上戦が行われなかった。
この期間は一般に「 まやかし戦争( Phoney War )」と呼ばれる。
フランスはドイツ国境沿いにマジノ線を整備しており、英国は大陸へ遠征軍を派遣していた。
1940年5月10日、ドイツ軍は西方への大規模攻勢を開始する。
同日、英国では ネヴィル・チェンバレンが首相 を辞任し、ウィンストン・チャーチル が新首相に就任した。
低地諸国への侵攻
1940年5月10日
ドイツ軍はオランダ、ベルギー、ルクセンブルクへ侵攻した。
オランダでは空挺部隊や航空機を用いた攻撃が行われ、ロッテルダムは5月14日に大規模な爆撃を受けた。オランダ軍は翌15日に降伏した。
ベルギーではエバン・エマール要塞への空挺攻撃などが行われ、ドイツ軍は各地で進撃した。
英国・フランス軍はベルギー方面へ進出し、ドイツ軍を迎え撃とうとした。
その一方で、ドイツ軍の主力部隊はアルデンヌ地方を通過し、フランス北部への突破を図っていた。
アルデンヌ突破
1940年5月12―15日
ドイツ軍の装甲部隊は、ベルギー南東部からフランス北東部に広がるアルデンヌ地方を通過、5月13日、ドイツ軍はスダン付近でムーズ川を渡り、フランス軍の防衛線を突破、その後、装甲部隊は西方へ急速に進撃する。
5月20日にはアブヴィル付近で英仏海峡へ到達し、ベルギー方面に展開していた連合軍主力の退路を遮断した。
この進撃によって、連合軍は北部と南部に分断された。
ダンケルク撤退
Operation Dynamo
1940年5月26日―6月4日
ドイツ軍の進撃によって、英国遠征軍とフランス軍の一部はフランス北部のダンケルク周辺へ追い込まれた。
英国海軍は5月26日、撤退作戦「 ダイナモ作戦 」を開始した。
軍艦だけでなく、民間船舶も撤退に参加した。
6月4日までに、約33万8,000人の連合軍兵士が英国へ退避した。
そのうち約19万8,000人が英国兵、約14万人がフランス兵などだった。
多くの車両、火砲、装備はフランスに残された。
ダンケルク撤退は、英国が大陸での戦闘から兵力を回収し、その後も戦争を継続するうえで重要な出来事となった。
フランス北部からパリへ
1940年6月
ダンケルク撤退後、ドイツ軍はフランス国内への攻勢を継続した。
6月5日、ドイツ軍はソンム川・エーヌ川方面から新たな攻勢を開始する。
フランス軍は各地で抵抗したが、ドイツ軍は南方へ進撃を続けた。
6月10日、イタリアが英国とフランスに宣戦布告した。
同日、フランス政府はパリを離れた。
6月14日、ドイツ軍はパリに入城し、パリは無防備都市と宣言されており、市街地での大規模な戦闘は行われなかった。
当時の写真には、パリ市内を行進するドイツ軍、凱旋門、シャンゼリゼ通り、エッフェル塔周辺の様子などが記録されている。
フランスの休戦
1940年6月22日
フランス政府はドイツとの休戦交渉を進めた。
6月22日、コンピエーニュの森で独仏休戦協定が調印された。
調印には、1918年11月にドイツが 第一次世界大戦 の休戦協定を結んだ際に使用された鉄道客車が用いられた。
この客車は、第一次世界大戦 と 第二次世界大戦 をつなぐ物理的な歴史資料でもある。
休戦協定は6月25日に発効した。
フランス北部・西部などはドイツ軍の占領下に置かれ、南部にはフィリップ・ペタンを首班とする ヴィシー政権 が成立した。
フランスの分割と戦争の継続
休戦後、フランスはドイツ占領地域と ヴィシー政権 の統治地域に分かれ、ロンドンへ渡ったシャルル・ド・ゴールは、6月18日にBBCを通じてフランス国民へ抵抗の継続を呼びかけた。
その後、自由フランスの活動が展開される。
英国はドイツとの戦争を継続し、1940年夏には英国本土をめぐる航空戦「 バトル・オブ・ブリテン 」が始まった。
フランスの休戦によって西部戦線の状況は大きく変わったが、ヨーロッパの戦争が終結したわけではなかった。
現存する記録と展示資料
フランス侵攻 については、当時の写真、映像、軍事文書、地図、兵器、車両、建造物など、多くの資料が現存している。
アルデンヌ・スダン周辺
ドイツ軍の進撃、ムーズ川渡河、破壊された橋梁、装甲部隊、フランス軍の防衛施設などの写真・記録が残されている。
ダンケルク
撤退する兵士、海岸に残された車両・装備、港湾施設、撤退に参加した船舶などが記録されている。
パリ
1940年6月14日以降のドイツ軍入城、凱旋門やシャンゼリゼ通り周辺の写真、占領下の都市の記録が残る。
コンピエーニュ
1918年と1940年の休戦に使用された鉄道客車に関する写真・文書、休戦調印の記録、現在の記念施設がある。
当時使用された客車そのものは 第二次世界大戦 末期に破壊されたが、同型の客車がコンピエーニュの休戦記念館に展示されている。
フランス侵攻が残したもの
1940年5月10日から6月25日までの戦役によって、ドイツは西ヨーロッパの広い地域を占領下に置いた。
フランスは休戦し、英国は大陸から撤退した。
一方で、英国は戦争を継続し、自由フランスも活動を始めた。
ドイツ軍の進撃、ダンケルク撤退、パリ入城、コンピエーニュの休戦調印、これらの記録は、1940年の西ヨーロッパで何が起きたのかを現在に伝えた。
そして翌1941年6月、ドイツはソ連への侵攻を開始する。
西ヨーロッパでの戦争は、さらに巨大な東部戦線へと接続していく。



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