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MVP ARCHIVE PEOPLE | Presidents Political Leaders : Paul von Hindenburg 1847–1934 / パウル・フォン・ヒンデンブルク - 時代の転換点に立った男

Paul von Hindenburg 1847–1934 / パウル・フォン・ヒンデンブルク - 時代の転換点に立った男

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パウル・フォン・ヒンデンブルク

時代の転換点に立った男

第一次世界大戦 のドイツ軍を代表する軍人の一人であり、のちに ワイマール共和国 第2代大統領となった パウル・フォン・ヒンデンブルク

帝政ドイツの軍人として名声を得た人物が、共和制国家の大統領となり、その任期の最後には アドルフ・ヒトラー を首相に任命した。
ヒンデンブルク の生涯は、ドイツ近代史の大きな転換を、一人の人物を通してつないでいる。

プロイセン軍人として

ヒンデンブルク は1847年、ポーゼンに生まれた。
軍人の道を進み、1866年の普墺戦争、1870~71年の普仏戦争に従軍。
ドイツ帝国成立後もプロイセン軍で軍歴を重ね、1911年に一度退役した。
しかし1914年、第一次世界大戦 が始まると現役に復帰する。

タンネンベルクの戦い

1914年8月、ヒンデンブルク は東プロイセン方面のドイツ第8軍司令官に任命され、参謀長 エーリヒ・ルーデンドルフ らとともにロシア軍と戦い、タンネンベルクの戦い で大勝する。

この勝利によって ヒンデンブルク はドイツ国内で大きな名声を獲得した。
1916年には参謀総長となり、ルーデンドルフ とともにドイツの戦争指導に大きな影響力を持つようになる。

しかし1918年、ドイツは戦争継続が困難となり、11月に休戦。
ドイツ帝国は崩壊し、皇帝ヴィルヘルム2世 は退位した。

ワイマール共和国

第一次世界大戦 後、ドイツでは共和制が成立した。
これが ワイマール共和国 である。
ヒンデンブルク は戦後も軍人としての名声を保ち、1925年、大統領選挙に立候補、選挙に勝利し、ワイマール共和国 第2代大統領 となった。
帝政期を代表する軍人の一人が、共和制国家の元首となったのである。

世界恐慌と政治危機

1929年に始まった 世界恐慌 はドイツ経済を直撃した。
失業者が急増し、政治的対立も激化、議会で安定した多数派を形成することが難しくなると、政府は大統領の権限への依存を強めていった。

1930年以降、ハインリヒ・ブリューニング、フランツ・フォン・パーペン、クルト・フォン・シュライヒャー、らが相次いで首相となる。
これらの政府は安定した議会多数派を持たず、大統領の権限と緊急令を利用する「 大統領内閣 」として統治を続けた。

議会中心だった ワイマール共和国 の政治構造は、次第に大統領権力へ依存する形へ変化していった。

1932年大統領選挙

1932年、84歳となっていた ヒンデンブルク は大統領選挙に再出馬した。
対立候補の一人が、アドルフ・ヒトラー だった。
第2回投票で ヒンデンブルク は過半数を獲得して再選。
ヒトラー は約36.8%を獲得したが、ヒンデンブルク には及ばなかった。

ヒトラーの首相就任要求

同年7月の国会選挙で、ナチ党 は約37%を獲得し、国会最大勢力となった。
ヒトラー は首相就任を要求、しかし ヒンデンブルク は、1932年8月、この要求を拒否、11月の国会選挙では ナチ党 の得票率は低下したものの、依然として最大勢力だった。

一方、議会政治の混乱は続いた。
パーペン内閣 が退陣し、12月には シュライヒャー が首相となる。
しかし シュライヒャー も安定した政治基盤を形成できなかった。

1933年1月30日

1933年1月28日、シュライヒャー内閣 が退陣。
パーペンら保守政治家は、ヒトラー を首相に据えながら、保守派が多数を占める内閣によってその行動を制御する構想を進めた。

1933年1月30日、ヒンデンブルクアドルフ・ヒトラー をドイツ首相に任命した。

成立した内閣では、ナチ党 員は ヒトラー を含めても少数だった。
副首相にはパーペンが就任し、多くの閣僚ポストは保守派が占めていた。
ヒトラー は選挙によって首相に直接選ばれたのではない。
ワイマール憲法 の制度のもと、大統領 ヒンデンブルク によって首相へ任命された。

国会の解散

ヒトラー 首相就任から2日後の1933年2月1日、ヒンデンブルク は国会を解散、新たな国会選挙は3月5日に設定された。
さらに2月4日には、政治集会や出版物を制限できる大統領緊急令が公布され、ドイツは再び選挙へ向かう。

国会議事堂放火事件

1933年2月27日夜、ベルリンの国会議事堂が炎上した。
ナチ政権 は事件を共産主義者による国家転覆の脅威として扱った。

翌日、1933年2月28日、ヒンデンブルク は、「 国民と国家の保護のための大統領令 」Verordnung des Reichspräsidenten zum Schutz von Volk und Staat に署名した。
いわゆる、国会議事堂放火令 Reichstagsbrandverordnung である。

この大統領令によって、ワイマール憲法 が保障していた人身の自由、言論・出版の自由、集会・結社の自由、通信の秘密などの基本権が停止された。

その後、共産党員をはじめとする政治的反対者が大量に逮捕された。
この大統領令による非常状態は、一時的な措置では終わらなかった。
ナチ政権が崩壊する1945年まで、その法的基盤の一つとして存続した。

全権委任法

1933年3月5日の国会選挙で ナチ党 は43.9%を獲得、最大勢力となった。
3月23日、全権委任法 Ermächtigungsgesetz が国会で可決された。

これによって政府は、国会を経ずに法律を制定できる強大な権限を得た。
以後、政党・労働組合・地方政府などが次々と ナチ体制 へ統合され、ワイマール共和国 の議会制民主主義は急速に機能を失っていった。

「ポツダムの日」

その過程で ヒンデンブルク の存在は、ナチ政権 によって政治的にも利用され、1933年3月21日、ポツダムの衛戍教会で新国会の開会式典が行われた。
「 ポツダムの日 」Tag von Potsdam と呼ばれる式典である。

軍服姿の ヒンデンブルク と、正装した ヒトラー が並ぶ姿は、帝政・プロイセンの伝統と新しい ナチ政権 を結びつける象徴的な場面であった。
ドイツ歴史博物館は、ヒンデンブルク の参加によって ヒトラー政権 の威信が高まったと記録している。

大統領として残る

ナチ党 による政治支配が急速に進んだ後も、ヒンデンブルク は大統領職にとどまり、国家元首は依然として ヒンデンブルク であり、ヒトラー は首相だった。

しかし1934年になると、高齢だった ヒンデンブルク の健康状態は悪化、彼の死後、国家元首を誰が継承するのかという問題が現実のものとなる。

1934年8月

1934年8月1日、ヒトラー政権 は、大統領職と首相職を統合する法律を制定、ヒンデンブルク の死と同時に大統領の権限を首相である ヒトラー へ移すものだった。

翌日、1934年8月2日、ヒンデンブルク は東プロイセンのノイデックで死去、享年86歳だった。
大統領職の権限は ヒトラー へ統合され、その後、国防軍の兵士は国家や憲法ではなく、ヒトラー 個人への忠誠を宣誓することになる。

帝政からナチ体制へ

パウル・フォン・ヒンデンブルク の人生は、ドイツ近代史の複数の時代を横断している。
ヒンデンブルク 自身が ナチ党 を率いたわけではない。
しかし、ドイツ国家の大統領として行った複数の決定は、ナチ党 が国家権力を獲得し、独裁体制を形成していく過程と直接接続した。

ヒンデンブルク の死によって、ワイマール共和国 大統領 という国家元首の地位も事実上消滅、ドイツ帝国を生きた老軍人の死とともに、ドイツ国家の権力は ヒトラー のもとへさらに集中していった。

Paul von Hindenburg 1847–1934 / パウル・フォン・ヒンデンブルク - 時代の転換点に立った男

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