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🌸伊豆の「オオシマザクラ」が「ソメイヨシノ」になるまで

結論からいうと、「ソメイヨシノ」は現在の研究では、染井 の植木職人たちが、「オオシマザクラ 」と 「エドヒガン 」をもとに作出した交雑種と考えられています。

🔸エドヒガン → 早咲き・繊細・淡紅色

🔸オオシマザクラ → 大輪・成長が早い・香り・病気に強い

この2つの「いいとこ取り」で、あの美しいソメイヨシノが生まれたとされています。

そして重要なのは、オオシマザクラは本来、伊豆諸島・伊豆半島・房総・三浦など南関東沿岸に多い桜だったことです。


☘️吉宗の植樹政策との関係

※徳川吉宗 は享保年間に、 庶民向けの花見文化を広げるために、飛鳥山 や 隅田川堤 などへ大量の桜を植えさせました。

このとき主役だったのは、一般にはヤマザクラ系とされますが、江戸周辺で園芸・接ぎ木文化が発達する中で、伊豆方面からオオシマザクラ系統もかなり流入したと考えられています。

つまり流れとしては、

① 吉宗が桜を大量植樹


② 江戸で桜ブームが起こる


③ 植木屋・園芸職人の技術が発達


④ 各地の桜(特にオオシマザクラ)が集まる


⑤ 染井の植木屋が交配・選抜


⑥ ソメイヨシノ誕生

…という構図です。

だから、吉宗が直接ソメイヨシノを作らせたわけではないけれど、土壌を作った人物とは言えると思います。

私はここに「桜餅の葉」の話もつながっている気がしています。

オオシマザクラは、葉が大きい、塩漬け向き、
クマリン香が強いので、桜餅文化とも深く結びついています。

もし江戸にオオシマザクラが大量に入ってきていなければ、

・桜餅の葉文化

・桜の園芸品種改良

ソメイヨシノ誕生

この3つは、今とはかなり違う形になっていたかもしれません。

少し大げさに言えば、オオシマザクラは「江戸の春」を作った桜とも言えるかもしれません。

「葉を食べる文化」が、めぐりめぐって  
「花を見る文化」の主役を生んだ——

徳川吉宗が隅田川沿いに植えた桜に、伊豆諸島原産の「オオシマザクラ」やその系統が含まれていた可能性は非常に高いと考えられています。

歴史の公式記録(『徳川実紀』など)には、取り寄せた主な品種として「山桜(ヤマザクラ)」と記されているそうです。

植物学的な分類が進んだ現代の視点から見ると、当時「ヤマザクラ」と一括りにされていた中にオオシマザクラの血統が混ざっていたことがわかってきているそうです。

オオシマザクラやその交配種が含まれていたとされる、主な根拠と背景は以下の通りです。

1. 「長命寺桜餅」の誕生が最大の証拠

吉宗が桜を植えた後の享保2年(1717年)に、隅田川沿いにある長命寺の門番・山本新六が、土手の桜の落ち葉を塩漬けにして「桜餅」を発案したとされています。

前述の通り、桜餅特有の強い甘い香りを放ち、かつ毛がなくて、大きく柔らかい葉を持つのは、野生種の中ではオオシマザクラ(およびその交配種)だけだそうです。

もし吉宗が植えたのが純粋な本州のヤマザクラだけであったなら、あの香り高い長命寺桜餅は誕生していなかった、あるいはまったく別物になっていたかもしれません。

2. 当時の「ヤマザクラ」という言葉の広さ

江戸時代、サクラの野生種は現代のように細かく分類されておらず、山に生えている一重のサクラの多くは一様に「ヤマザクラ」と呼ばれていたそうです。

伊豆半島や伊豆諸島が原産であるオオシマザクラも、当時は「伊豆地方のヤマザクラの一種」として扱われ、江戸の植木職人の間で流通していたと考えられるそうです。

3. 江戸周辺での自然交配(サトザクラの誕生)

オオシマザクラは、他のサクラと非常に交配しやすい(雑種を作りやすい)性質を持っているそうです。

江戸時代、伊豆方面から薪(まき)などを運ぶ船に乗ってオオシマザクラが江戸に持ち込まれ、それが江戸に自生していたヤマザクラエドヒガンと自然交配して、多くの新しい園芸品種(サトザクラと呼ばれる八重桜など)が生まれていったのではないかと考えられているそうです。

吉宗が「江戸城の吹上御庭で育てさせた苗木」を隅田川に移植した際、こうしたオオシマザクラの血を引く優秀な交配種(花が大きく見栄えが良いもの)が多数選ばれていた可能性が濃厚だそうです。 

☘️結論として
吉宗が植えた桜は、当時の記録上は「ヤマザクラ」などとされていますが、その実態は「オオシマザクラそのもの」や「オオシマザクラが自然交配して生まれた、花が大きく葉が香り高い品種」が多く混ざっていたというのが、現代の歴史・植物学的な一致した見方となっているそうです。

そして、このオオシマザクラの混入は、その後の日本のサクラの歴史を大きく変えることにつながっていくそうです。

この「オオシマザクラの混入」がその後の歴史を大きく変えた、というのは、「ソメイヨシノの誕生」につながる話だそうです。


📌流れを整理すると…
① (享保年間・1700年代前半)
吉宗が飛鳥山・隅田川堤などに大量植樹

当時「ヤマザクラ」として植えたものの中に、オオシマザクラや、オオシマザクラを親に持つ交配品種が多数混じっていた。

② 江戸にオオシマザクラの遺伝子が広まる

大量植樹により、オオシマザクラ系統の花粉が江戸近郊に大量に飛ぶ環境が生まれた。

③ (江戸後期・1800年代)
自然交配・人為的選抜が起きる

染井村(現・豊島区駒込あたり)の植木職人たちが、オオシマザクラエドヒガンの交配から生まれた実生の中から、特に美しい個体を選抜・挿し木で増やした。

④ これが「ソメイヨシノ」として広まる
明治以降、全国に爆発的に普及。
現代の「日本の桜のイメージ」になった。

📌ポイント

オオシマザクラが江戸に大量に持ち込まれていなければ、ソメイヨシノが生まれる「素材」がそもそも揃わなかった、という意味で、吉宗の植樹政策がソメイヨシノ誕生の遠因とも言えるわけです。

「花見文化を広めようとした将軍の政策」が、巡り巡って「現代日本の桜の象徴」を生み出した、という歴史の連鎖ともいえそうです。

 読んでいただきありがとうございます☘️

追記

※吉宗の時代に重要だったのは、

・利根川 水系

・江戸周辺低地

・中川流域

の洪水管理でした。

📌吉宗が本当にすごかった点
吉宗が「治水」を単独で見ていなかったことではないでしょうか。  

彼は、治水、新田開発、年貢増収、庶民生活安定を全部つなげて見ていたのかも…

つまり、川を整える → 田畑が守られる → 米が増える → 財政安定という発想です。

そして、ここで桜がまた出てきます。

吉宗にとって桜は単なる娯楽ではなく、

・人が集まる名所を作る
・堤を守る意識を育てる
・江戸の景観を整える

そんな「都市政策の一部」でもあったのかもしれません。

だから 飛鳥山 の桜も、
ただ「花見スポットを作った」というより、

「江戸という巨大都市をどう安定運営するか」という大きな構想の中にあったのではないでしょうか。

   ありがとうございました☘️

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