39歳第二子出産レポ。自然分娩・回旋異常・切迫早産からの38週、3度目のMFICU!
40歳になる3週間前、39歳のおわりに第二子を産んだ。33週での切迫早産、二度のMFICU入院により里帰りは断念。38週で産まれた娘、自然分娩(母体は産後に三度目のMFICUへ)の記録です
「カコン!」と体のどこかで音がした気がした。
トンカチで栓を抜くために叩いたような、体験したことのない衝撃。体調が優れない2歳息子の昼寝の添い寝中、うっかりソファで眠ってしまっていたらしい。
今は妊娠38週に入ったところ。切迫早産であわや33週で産まれるかと思ったのはすでに1ヶ月以上前のことになり、あれから毎日「今日かな?今日かも……」のドキドキをし続けてきた。
だからいつも「やれることはすべてその日のうちに」と思い、今日もまだやりたいことがもう少しあったのに、ついウトウトしちゃった……など思いながらグダグダと横になり続けていたら。
「ガコン!」。先ほどよりも強い衝撃を体内に感じて飛び起きる。それとどちらが早いか、股から生温かな液体がジャーっと出るのを感じた。体感、衝撃から0.5秒後くらいだったと思う。
知っている。
第一子の時と同じ。これは……
「破水した!」
隣の部屋でリモートワークに励む夫のドアを叩いて開け、「破水!」と叫びつつ
同時に玄関に用意していた陣痛バックの中から最大の「産褥パッド(バスタオルみたいな出産用ナプキン)」を取り出してトイレに駆け込み、下着に当てがう。
と同時に、ソファから飛び起きる時に掴んだスマホで、事前に登録してあった「陣痛タクシー」の番号を呼び出し、産院へと向かうタクシーを手配する。このタクシー、呼び出したら本当にすぐに来る。じつは先週、破水か?と思い一回乗っているので、この流れは慣れたもの。
第二子の出産も、破水始まりだった。「おしるし」と呼ばれる薄いピンク色の出血が多少混じっているのも確認した。
お腹はまだ痛くなかった。ただ、生理のように「水みたいなもの」が不定期に流れ出す。堰き止めるための産褥パッドの厚さが心地悪い、など思う暇なく、武者震いのような感覚が湧き上がる。
ソファでまだ眠る息子をキッチンカウンターから眺めながら、「よし。きた。やるぞ」となぜか涙が出そうになる。切迫早産から毎日覚悟してここまできた。ついに、だ。
*
7月1日の17時頃のことだった。これから夜を迎える。このまま本陣痛と分娩、入院となったら、少なくとも5日は家に帰って来られない。
手足口病で発熱と発疹が始まったばかりの息子とは、面会もできない。しばらく、会えない。行ってくるねと挨拶もできないまま。
破水は続く。タクシーは到着したとインターホンが鳴ったのはすでに1分前。
行かなきゃ。行ってくる。ソファで眠り続ける息子の頭を静かに撫でる。第一子のこの子を連れていけない場合、私はひとりで病院にタクシーで行くね、とあらかじめ夫と打ち合わせていた。
行ってくる。応援のハグをもらって、買い込んだ分娩時向けのおやつをがっつり家に忘れて(タクシーの中で気づきとても悲しかった)、タクシーで産院へ向かった。到着までは15分ほど。
*
本陣痛が起こったのは、病院に到着して破水が確認され、分娩待ちで一般病棟へ入院してから5時間後くらいの、23時頃だった。
この数日、つけ続けていた「陣痛きたかも」のアプリ。鈍い痛みは、15分だったり20分だったり、40分くらい空いたりしていた。それが23時頃をさかいに、急に10分を切り出した。
痛みのレベルも、生理痛を軽く超えて、すでに声を出すのが辛いほどに突然上がってくる。
「これはおそらく本陣通だ……」と、痛みの波が引いたタイミングでナースコールを押し、看護師さんに入院ベッドの上で子宮口の開きを確認してもらうと、すでに3〜4センチ開いていた。到着時は1センチだったので、進んでいる。
「陣痛室へ」。すぐに車椅子が運ばれ、私はその上に二人がかりで乗せられて、陣痛台に上がる前にトイレを済ませてほしいと言われたが、すでに子宮口が開いているためトイレも危うい(経産婦のため、最悪トイレで産まれてしまう)という判断で、陣痛台の上で子どもの心音の器具やら血圧計やら、念のための点滴用の針を刺されたり、お小水のための管が下半身につけられたりと、突然の「大事感」に笑ってしまう。
この時はまだ余裕があった。陣痛の痛みは第一子で経験していたし、子宮口が10センチの最大になるまで多少の猶予があることも経験済みだし、痛いけれどその「数分間の痛みの波」さえ乗り越えてしまったら、痛みがない数分間はまだスマホを触ったり電話をしたりできるタイミングだと、知っていた。
まずは立ち会い希望の夫に電話を入れるとしよう。さっき、LINEだけ軽く入れておいた。なんて打ったかは覚えていない。多分「きて」とかの短文だけだから、今頃準備を終えてくれているかもしれない。
「もう行ったほうがいい?」。開口一番はそれだった。第一子の分娩時間は9時間半(あの時も徹夜だったので、もっと長い永遠に感じられたがな……)。経産婦は大体その半分くらいが目安と言われているので、4時間だとして、あと3時間。
できたら、息子が朝目覚める前に産み終えて、目覚めたら夫がそばにいる、の図を作りたい。今は夜中24時前。ここから4時間、5時間かかったとしても……早起きの息子に間に合うことができるかも、しれない。
「まだもう少しかかるかもしれないけれど、旦那さんにきてもらっても大丈夫」。看護師さんの声を聞いて、「うん、来て」と頼むことにした。
そこからは、正直もうあんまり覚えていない。夫が到着するまで、友人やSNSに「産んできます〜!」の連絡をしたりしていたけれど。その後、結構な速さで子宮口が5センチ、6センチ、7センチと進んでいき。
確か7センチくらいから、もう痛みと戦うことしかできなかった気がしてる。
ただ本当に、「一度出産したことがある」強さがそこにあった。それは確かだ。
第一子は、不安で、怖くて、痛すぎて、しかもほかの妊婦さんたちの出産も重なっていたらしく、助産師さんも遠方の夫も、誰も陣痛台のそばにいなかった。ただ一人、時間の感覚を失うくらいの途方もない道の半ばで、5時間、6時間、陣痛に耐えていた。
今は、夫も助産師さんもいる。しかもなぜか助産師さんに至っては2人いる。切迫早産の入院時から担当してくれた医師が、運よく今日の分娩担当だそうで、先生も時折顔を出して応援してくれる温かさ。
「ここまでもってくれたね、よかったね!」。33週で産まれるかと思った、あの恐怖におののく日々。里帰りはやめたら?と忠告してくれた、年齢はおそらく少し先輩の女性の医師。彼女が、今陣痛の時にここにいてくれることは、何よりのエールだった。
その上、怖すぎて陣痛・分娩の流れをマジで、本当のほんとうに予習せずに陣痛台に登った前回と異なり、やはり今回は「知っている」。ただ、出産動画とかは性格的に見られないので、さっき23時前に入院ベッドで本陣痛を待つ間、「サンシャイン池崎 分娩」で検索して、いきみかただけ調べておいた。そのほかは下調べ一切なし。
前回は夜通しの陣痛に力尽きていた上に初心者で下手だったのか、吸引分娩で、会陰がまぁひどい具合に裂傷で、その後2ヶ月ほど痛みで最悪だったので、今回は絶対に裂けたくなかった。裂けるくらいなら、美しい傷を作るため「切開希望です」とバースプランに書いたくらいだ。でも本音は切ってほしくない。当たり前だけど。なんやねん切るって。
でもそれも感じないくらい、陣痛は激しい痛み。天から稲妻のように痛みが降ってきて、それをテニスボールで男性の力一杯で肛門を押してもらって、それでやっと「痛みが1本の筋だけ残る」感じで(その前は感覚的に3〜5本の痛みの道があるイメージだった、私は)、その1本になってくれた痛みをどうにか逃すための数分を何度も何度も我慢する。
痛みはどんどん強くなる。「もう嫌だ」と口に出したことも覚えている。
ただ、「母よりも赤ちゃんの方が苦しい」と見たことがある。子どもも頑張っているのなら。「がんばって」「がんばろうね」と声をかける。お腹に繋がれた機器からは、子の元気な心音が届き続けてくれていた。
深夜3時頃、子宮口が全開になる。でも、赤ちゃんの回転が甘く、「これでは産めない」と言われる。いわゆる「回旋異常」。本来は顔が天井側を向いてほしいところ、この子は床側を向いているらしい。もう半回転必要だった。
けれど、回旋異常は治らない。子宮口は準備万端。なのに微弱陣痛と呼ばれる、「産むには弱すぎる陣痛」に変わってしまい、強い陣痛がこないゆえに「いきめない」上、子どもの向きも違っている。もう何が何だかわからなくなる。わかるのは「このままでは産めないこと」。医師から「促進剤を入れて痛みを強くして、赤ちゃんに回ってもらう」方法を選ぼうと伝えられた。
もうなんでもいいです。もう本当になんでもいいです。マジで今この状態で私、その契約書みたいなやつにサインしなくちゃいけないんですか?(促進剤使用のために同意書が必要になったらしい) ほんとに今? オッケーですなんでもいいです。私ちゃんと、文字書けてましたかね。
促進剤の効果はてきめんで、赤子はくるりと正常位置にくるりと回ったらしい。痛みの波が訪れる。天から呼ばれているような。一度目のいきみで産まれない。二度目でも産まれない。けれど三度目、四度目くらいで、もうなんか普通に「怪我した痛み」みたいな、メリメリっと股が裂けているみたいな感覚を得る。見えないけれど、これ血出てるやろ完全に、みたいな気持ち。
「うん、これは痛いと思う。赤ちゃんがハマってる。でももう頭見えてるよ」。見慣れた顔の医師が、やさしい顔で伝えてくれた。
「見えてる?ほんと?もう無理、でも頑張る」。
最後のいきみとなる場面。頭にあるのはサンシャイン池崎。私も頑張るから、赤ちゃんも、君も頑張って。この頃、君の名前は「りん」だった。りんちゃん、頑張って。会いたい、会える、きっともう少し。痛い、最後。もうお願いこれが最後だと誰かお願い。
「もういきまなくていいよ!」。第一子の時も、終わりの合図は助産師さんのその声だった。知っている、それがゴール。ずるり、と何かがこの世に出る。瞬間、それはもう元気な、元気な産声が部屋に響いて、夫が泣く声も耳に届いた。
「泣いた!」と、無意識下で私も頭に手をやって、抱える形で叫んでいた。泣いている。そうだ、赤子は産まれたら大きく泣く。ほっと安堵。深夜3時半。明け方のことだった。
簡単な処置を済ませて、赤子が私の胸に運ばれる。「あなただったのね」。最初の声かけは、それだった。私の中にずっといたのは、ずっと一緒に過ごしていたのは、あなただったのね。ようこそ、世界へ。楽しいおにいちゃんが君にはいるよ。
さらなる処置のため、別の部屋に赤子が連れて行かれて、夫がついていくことになった。「待って、どっち!?」とこの時やっと性別まで気が回る。女の子、とは言われていたけど、産まれるまでわからないと思って肌着も何もまだ買っていない。
「女の子」と夫が言う。「指ある!?」「あるよ」——。
***

3,300グラム。女の子。待望の。第二子。会いたかった。ずっとずっと、望んでいた。もう一人、会わなければいけない子がいる気がしていた。39歳。今月には40歳になる私の、30代最後の夢。
こんにちは、私の娘。両手に抱えて、空を飛ぶ日まで。二人目の育児が、この日から始まった。

追記:分娩は3時間半、自然分娩だけれど最後は促進剤を使っての医療介入が少し。子どもは健康に産まれてくれた。
が、深夜3時半に産まれた後、母体、つまり私側に多少の問題が。出血は1リットル超で、出血多量の部類に一応入るが(輸血はなし)、胎盤排出後も子宮からの出血が止まらず、その上血圧が上が190、下が90(普段は高くて110/70ほど)で血圧異常。
子どもの心音を聞く器具は外れたが、その代わりに心電図、酸素系、引き続きの尿を出す管に加え、念のためにつけていた左腕の点滴では足りず、右手にも別の点滴管をつながれて、そのまま分娩台に9時間以上横になり続けることになる。
行き先はMFICU(Maternal Fetal Intensive Care Unitの略。母体・胎児集中治療室)。満床だったが、当日に退院した人の片付けをした後のベッドにそのまま入れることになった。
MFICUは、幸い1晩だけの入院で、その後一般病棟に移って母子同室を始められることになった。が、10時に部屋を移って、そこからすぐに母乳指導が始まったので、最初は歩くのもままならず(結局陣痛・出産以後立ち上がったのがほぼこの時だった)、なかなかにフラフラの始まりだった。
娘には、MFICUのベッドに横たわったまま、昨日少しだけ対面させてもらった。だから、母乳指導で初めてきちんと向き合い、抱くことができたのだった。
39歳、卵子の残りが少ないと言われ、自然妊娠は諦めた方がいいと言われながら、お腹に来てくれた最後の私のちいさな子。3歳の息子は、その後盛大な赤ちゃん返りを見せるけれど。それはまた別の話。
無事に産まれてきてくれること。それは本当に、いくつもの分岐を経て辿り着けた、奇跡のような確率のものだと言っていい。いくらこの世界にたくさんの人類がいようとも。1つ1つは、奇跡のような。力強さで。
第三子も欲しいよ。欲しいけれど。40歳を超えた私の体力や身体、経済を鑑みると。ほんとに、最後。あなたが私の人生で、最後の。赤子。よろしくね、楽しい育児と、すてきで穏やかな人生を。


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