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【創䜜倧賞2026応募䜜品】名札のない埮熱 あらすじ& 第1章看板の匂う朝

あらすじ床だけが知る

東京・有明。展瀺䌚やむベントが終わった埌の䌚堎を片付ける䌚瀟で、瀬戞内朱里は倖された看板や名札、床に残るテヌプ跡を消しおいる。朝にはただ人の熱が残る空間も、倜には䜕もなかったかのように元に戻る。

職堎では誰も必芁以䞊に名前を呌ばないが、朱里は先茩の真砂朔也が眮く荷物の䜍眮や短い指瀺の声、危ない堎所で少しだけ倉わる立ち䜍眮に少しず぀心を残しおいく。

名前も看板も䌁業名も倖されおいく仕事の䞭で、朱里の胞には朔也の声だけが消えずに残る。雚の搬入口、名札の箱、広い䌚堎の癜い床。そのたびに呌べば届く距離なのに、呌べない名前が沈黙の奥で熱を持぀。

最埌の撀収を終えた倜、䜕も残っおいないはずの垰り道で朱里は初めお圌の名前を口にする。それは告癜よりも静かなものだった。しかし、もう仕事の距離には戻れない。名札のない恋の始たりだった。消された名前の跡に声だけが、明日の光を残しおいく。

第1章看板の匂う朝

有明の朝は、海の近くにあるのに少し也いおいた。ガラス匵りの建物の衚面に癜い光が薄く広がり、倜の間閉じ蟌められおいた冷気が舗装の䞊を䜎く流れおいる。瀬戞内朱里は䜜業甚手袋を片方だけ握ったたた、搬入口の前で息を吞った。

展瀺䌚堎の扉が開くず、玙ず金属ず人の熱が混ざった匂いが奥から抌し寄せおきた。昚日たでここに䜕かがあり、倧勢の足音や声、芖線が床に溜たっおいたこずだけがただ消えずに残っおいる。朱里はその空気を胞に吞い蟌むず、い぀も少し黙っおしたう。

䌚堎の䞭は広かった。広いずいうより、䜕かを剥がされた埌の皮膚のように芋えた。床にはテヌプの跡が现く残り、壁際には取り倖された案内板が裏返しに立おかけられおいた。

「奥から倖す。手前は埌でいい」

真砂朔也の声が空っぜの倩井にぶ぀からずそのたた朱里の耳に届いた。名前は呌ばれなかったが、誰に向けた蚀葉なのかは振り向かなくおもわかった。

朱里は手袋をはめながらうなずき、返事をしようずしお䞀床だけ指先を芋た。垃の端が少し浮いおいたので芪指で抌さえ、それから顔を䞊げた。

「わかりたした」

その声が思ったより小さく出お、自分でも少し恥ずかしくなった。䌚堎の広さに吞われたのか、胞の奥で折りたたんでいたものがそのたた音になったのかは、朱里にはわからなかった。

朔也はそれ以䞊䜕も蚀わず、倖された看板の束に近づき、右手で端を確かめおから、巊偎の角を少し浮かした。無駄のない動きだった。優しいずいうのずは違っおいたが、雑ではなかった。

朱里は、その動きを芋すぎないように足元のテヌプ跡に芖線を萜ずした。朝の光を受けお、癜い床に残った粘着の線は现く鈍っおいた。そこに誰かの名前や䌁業のロゎが立っおいたはずなのに、今は跡だけが居残っおいた。

「そっち、持おる」

「持おたす」

ず蚀った埌で、少し早かったかもしれないず思った。朱里には、重さを確かめる前に答えおしたう癖があった。できないず思われたくないのではなく、できるたで埅っおもらう時間が苊手に感じられたのだ。

パネルの角を持ち䞊げるず、腕に硬い重みが萜ちおきた。手袋越しでも瞁の冷たさがわかる。朱里は息を浅く吞い、肩に力を入れないようにした。

「少し内偎」

その蚀葉ず同時に、朔也が持぀パネルの角がわずかに䞋がり、朱里のほうぞ重さが来ない角床になった。偶然のように芋えるほど自然な動きで、䜙蚈に胞が倉に鳎った。

「すみたせん」

「謝るずころじゃない」

短い返事だったが、冷たくはなかった。朱里はそれが少し困るず思った。冷たい方が、ただの先茩ずしお心の䞭に眮いおおける。

パネルを台車に乗せるず、衚面から也いた接着剀のにおいが立ち䞊った。そこにはもう文字がなかった。剥がされた名前の跡だけが薄く浮かび䞊がり、䌚堎の癜い光の䞭で読めないたた残っおいた。

朱里は手袋の端を芪指で抌さえた。名前が消える堎所で働いおいるず、呌ばれるこずも呌ぶこずも少し倧げさに感じられた。声に出した瞬間、その人だけが他のものから切り離されおしたうような気がした。

「次、こっち」

朔也はそう蚀っお歩き出した。朱里の名前はない。けれど声の向きだけで、自分がそこぞ行くのだずわかった。

䌚堎の奥は、ただ照明が半分しか入っおいなかった。高い倩井の圱が床たで薄く降りおいお、空気に冷たい局がある。朱里が台車を抌すず、小さな車茪の音が床をなぞった。

昚倜の人いきれは消えかけおいるのに完党には消えおおらず、誰かが急いで歩いた熱や配られたパンフレットの玙粉、機材の裏にたたった金属のにおいが混ざり合っお朝の䌚堎を劙に生々しくしおいた。

「止めお」

朱里は台車を止めた。すぐ前に、床から少し浮いたケヌブルカバヌがあった。気づかずに進めおいたら、車茪が乗り䞊げおいたかもしれない。

朔也はしゃがんでカバヌの端を抌さえ、手袋の甲を床に近づけた。朱里はその動きを芋お、なぜか自分の呌吞たで浅くなるのを感じた。

「ここ、ただ倖れおない」

「芋萜ずしおいたした」

「今芋えたならいい」

それだけだった。責めるでもなく、励たすでもなく、仕事の蚀葉ずしおは短すぎるくらいなのに、朱里の䞭には劙に長く残った。

圌が立ち䞊がるず、䜜業着の袖が少し擊れた。垃の音は小さく、䌚堎の奥で響く金属音よりも朱里にははっきりず聞こえた。

自分は䜕を聞こうずしおいるのだろう、ず朱里は思った。その瞬間、朱里はわざず台車の取っ手を握り盎した。手のひらに垃のざら぀きが戻り、胞の奥ぞ行きかけた意識が少しだけ仕事に戻った。

案内板を倖す䜜業は静かに進んだ。壁に残った粘着テヌプを剥がすたびに空気に甘く叀い匂いが混じった。朱里は剥がしたテヌプを䞞めながら昚日たでここに貌られおいた文字を想像しないようにした。

しかし、消えたものほどその茪郭は残る。名札の穎、看板の圱、誰かが立っおいたはずのブヌスの角。目に芋えないはずのものが、芋えるものよりも長くそこに存圚するこずがある。

「指、挟むなよ」

朱里の手が少し止たった。朔也は隣を芋おいなかったが、なぜわかるのだろうず思った。

「倧䞈倫です」

「倧䞈倫そうに芋えなかった」

蚀い方が淡々ずしおいたせいで、かえっお逃げ堎がなかった。朱里は唇を閉じ、テヌプの切れ端を回収袋に入れた。名前を呌ばれたわけでもないのに、自分だけを芋られたような気がした。

倖から差し蟌む光が少し匷くなり、床の癜さが倉わった。搬入口の向こうに芋える空は薄く也き、遠くの車道からタむダが也いた音を立おお通り過ぎおいく。東京の朝は、思ったよりも感情を持たない顔をしおいる。

株匏䌚瀟撀収蚈画に入っおから、朱里は䜕床もこういう朝を芋おきた。華やかなものの翌日ばかりを片づける仕事。人が集たるために䜜られた堎所を、人がいなかった堎所ぞ戻しおいく仕事。

最初はそれが少し寂しかったが、今は終わった埌の空気にも手觊りがあるず知っおいる。むしろ始たる前より、終わった埌のほうが本圓の枩床に近い気がする日さえある。

「䌑むなら今」

朔也の声が台車の向こうから聞こえた。朱里は顔を䞊げた。圌は倖されたパネルの束を壁際に寄せながら、こちらを芋ずに蚀った。

「ただ平気です」

「平気なうちに氎飲んだ方がいい」

その蚀い方は呜什ではなかったが、逆らう理由も芋぀からなかった。朱里は小さくうなずき、搬入口の近くに眮いた自分の氎筒ぞ歩み寄った。

氎筒の金属は朝の空気を吞っお冷たくなっおいた。ふたを開けるず、ぬるくなりかけた氎のにおいがした。朱里は䞀口飲み、喉を通る枩床で自分が少し緊匵しおいたこずに気づいた。

朔也は少し離れた堎所で手袋を倖しおいた。右手から先に抜く。朱里はそれをもう知っおいた。知っおいる自分に気づいた瞬間、氎筒の口から唇を離すのが遅れた。

知っおいるこずがい぀から特別になるのだろう。䜜業の順番、歩幅、声を出す前に呚囲を芋る癖。仕事で䞀緒になる盞手なら芚えお圓然のこずだず自分に蚀い聞かせる範囲は、ただ残っおいる。

それでも胞の奥に残るものたでは説明できない。朱里は蓋を閉める音を小さくしようずしおかえっお指先に力が入った。

「無理しおる」

朔也の声が近い。い぀の間にか隣に立っおいた。近いず蚀っおも觊れるほどではなく、䜜業着の垃が空気を少しだけ動かす距離だった。

「しおないです」

「ならいい」

それで䌚話は終わるはずだった。終わるはずなのに、朱里の䞭では続いおしたう。圌の蚀葉は短すぎお、䜙癜が倚すぎるのだず思った。

「  あの」

蚀いかけお、朱里は止たった。䜕を聞こうずしおいたのか、自分でも分からなかった。さっきのカバヌに気付いおくれお助かったこずか、氎を飲むように蚀われお少し楜になったこずか、それずもただ、䜕でもないこずを話したかっただけなのか。

朔也は急かさず、ただ芖線を䌚堎の奥に向けたたた、次の蚀葉が眮かれる堎所を空けおいるように芋えた。

「さっき、ありがずうございたす」

「さっき」

「ケヌブルのずころ」

「ああ」

圌はそれ以䞊蚀わなかった。朱里もそれ以䞊蚀えなかった。感謝ずいう蚀葉は䟿利なのに、今日に限っお少し足りない。

䌚堎の空気が少し枩たり始めた。照明の癜さず倖の光が混ざり合っお壁の圱が薄くなり、撀収されたブヌスの骚組みは遠くから芋るず街の骚のように芋えた。

䜜業がたた始たった。朱里は台車を抌し、朔也は壁際のパネルを倖しおいく。名前を呌び合うこずもなく、二人の動きだけが同じ方向を向いおいた。

「そこ、持ち替えお」

朱里は蚀われた通りに手をずらした。持ち替えた䜍眮は確かに軜かった。朔也は朱里が答える前に反察偎を支えお重さの流れを倉えおいた。

「ここですか」

「そこ」

たったそれだけの䌚話がなぜこんなに身䜓の奥に残るのか。朱里は、自分の心が倧げさなのだず思おうずした。しかし、珟堎の音に玛れずに届く声はい぀も自分を少しだけ困らせる。

昌の気配は䌚堎の倖から先に蚪れた。搬入口の隙間から差し蟌む光が硬くなり、アスファルトの匂いに也いた熱が混じり始める。遠くの道路を走る車の音も朝より少し倪く聞こえた。

朱里は、倖された名札の箱を運んだ。箱の䞭には、透明なケヌスや癜いストラップが絡たり、誰かの肩にかかっおいた重さだけが残っおいた。名前の玙は抜かれおおり、空の枠ばかりが重なっおいた。

その箱を持った瞬間、朱里はなぜか声を出しにくくなった。名前を入れるためのものが名前を倱い、箱の䞭で音を立おおいる。かすかなプラスチックのぶ぀かる音が劙に寂しく響く。

「重いなら眮いお」

朔也が蚀った。朱里は銖を振りかけお途䞭でやめた。癖のように倧䞈倫だず蚀う前に、箱の重さが腕に食い蟌んでいるこずを認めた。

「少しだけ、重いです」

「じゃあ半分持぀」

朔也は箱の反察偎に手をかけた。指が觊れたわけではないが、同じ重さを挟んだだけで朱里の呌吞は䞀拍ずれた。

「すみたせん」

「それも謝るずころじゃない」

同じような蚀葉なのに、朝ずは少し違っお聞こえた。朱里が倉わったのか、圌の声が倉わったのかはわからない。䌚堎の光が匷くなったせいで、目に芋えるものが少し増えただけなのかもしれない。

箱を台車に茉せるず、䞭の空の名札が小さく鳎った。朱里はその音を聞いお、自分の胞の䞭にも䌌たような空癜があるず思った。ただ䜕も曞かれおいないのに、䜕かが入る堎所だけが先にできおいるのだ。

「昌、倖出る」

朔也が聞いた。朱里は少し遅れお顔を䞊げた。質問の意味は単玔なのに、圌から投げかけられるず、䜙蚈な意味を探しおしたう。

「䌚堎の䞭で枈たせたす」

「倖、颚匷い」

「じゃあ、䞭にしたす」

「その方がいい」

それだけで䌚話はたた䜜業の䞭ぞ戻っおいった。特別な誘いではないし、心配ずいうほど甘くもない。けれど、朱里はその短いやり取りを、氎筒の冷たさよりも長く芚えおしたう気がした。

䌑憩の間、朱里は搬入口の端に座っお簡単な昌食をずった。包装のビニヌルを開ける音が広い空間に小さく響く。䌚堎の奥では、取り倖された看板が圱の䞭で眠っおいるように芋えた。

朔也は少し離れた堎所にいお、近すぎず遠すぎず、䌚話をしなくおも䞍自然ではなく、䜕かあればすぐ届く距離ずいう、そういう䜍眮取りが圌はずおもうたい。

朱里は食べながら床の癜い跡を芋おいた。ここに展瀺台があり、そこに䌁業名があり、昚日は人が立っおいた。そのにぎやかさを知らないたた片づけおいるのに、なぜか終わった埌のほうが胞に残る。

恋もこういうものなのだろうか。始たった瞬間ではなく、䜕かが剥がれた埌にようやく跡だけが芋える、ず。そう考えお、朱里はすぐにその蚀葉を心の奥ぞ抌し戻した。

ただ恋ではない、ず決めるには少し勇気がいる。けれど、恋だず認めるのはもっず怖い。

「午埌、奥の吊り看板から」

朔也の声がした。朱里は包装をたたみ、立ち䞊がった。膝の裏に床の冷たさが残っおいた。

「はい」

返事をしおから、圌がこちらを芋る前に芖線を倖した。名前を呌ばれおいないのに呌ばれたような気がするのは倉だず思ったが、その感芚は消えなかった。

午埌の䌚堎は朝より少しだけ珟実的だった。照明がすべお入り、圱の逃げ堎が枛っおいる。剥がすもの、畳むもの、運ぶものがはっきり芋える分、心を玛らわせやすかった。

朱里は工具を受け取り、壁際の固定具を倖した。ネゞを緩めるたびに、金属の匂いが手袋に移る。小さな音がひず぀ず぀萜ちおいき、癜い床の䞊で也いおいく。

「回しすぎない」

朔也の声が近くで止たったので、朱里は手を止めた。芋るず、ネゞは倖れかけお斜めになっおいた。

「すみたせん」

「焊らなくおいい」

その蚀葉だけで少し息が戻り、朱里は工具を握り盎しおゆっくり回した。急がない動きは思っおいたより難しい。

朔也は隣で支えおおり、重さが萜ちないように片腕で看板の䞋を抌さえおいた。䜜業着越しに腕の筋に力が入っおいるのがわかり、朱里はそれを芋ないようにした。

「倖れたす」

「うん」

「持おたすか」

「持おる」

圌の返事は静かだった。けれど、その静けさに朱里はたた眮いおいかれそうになった。自分の声だけが少し湿っお聞こえた。

吊り看板が倖れるず、壁の高いずころに薄い四角の跡が残った。そこだけ色が違っおいた。時間がそこを避けお通ったみたいだった。

朱里はその跡を芋䞊げた。䜕かがあった堎所ずいうのは、なくなった埌にかえっお目立぀ものだ。人の気配も、名前も、声も、きっず同じなのだず思う。

「䞋、芋る」

朔也の蚀葉で朱里は足元ぞ芖線を戻した。床に倖した郚品がひず぀転がっおいた。危なかった。

「ありがずうございたす」

「うん」

たた短い。けれど、その短さに慣れおきた自分がいる。足りない蚀葉を勝手に補っおしたうくらいには、朱里の䞭で圌の声が堎所を持ち始めおいた。

倕方の手前、䌚堎の光は少しだけ匱くなり、癜かった床は淡く黄みを垯び、搬入口の倖に䌞びる圱は長くなった。遠くの海から湿った颚が入り、玙の匂いは匱くなっおいった。

朱里は台車を抌しながら朝に入っおきた扉を芋た。あの時残っおいた人の熱はほずんど消えおいお、代わりに今日の䜜業の匂いがそこに重なっおいた。

撀収は䜕かを終わらせる仕事だず思っおいたが、䞀日ここにいるず、終わった堎所にも別の時間が始たっおいるように感じられる。剥がすたび、運ぶたび、なくなったものの茪郭が倉わっおいく。

「疲れた」

朔也が尋ねた。朱里は台車の取っ手を握ったたた、少しだけ銖を振った。

「少しだけです」

「少しならいいよ」

「いいんですか」

「無理しおいないなら」

その返事に朱里は笑いそうになった。笑うほどの蚀葉ではないが、胞のどこかがふっず緩んだ。

朔也は、その衚情を芋たのか芋おいないのかすぐに䌚堎の奥ぞ芖線を移した。感情を芋぀けおも掎たない人なのかもしれない、ず朱里は思い、少しだけ怖くなった。

掎たれないから安心できる。けれど、掎たれないたた近づいおくるものもある。名前を呌ばれない距離は安党なはずなのに、今日の終わりが近づくに぀れ、そこに熱がたたっおいく。

「最埌、床を芋る」

朔也の声に朱里はうなずいた。䌚堎にはもう倧きな看板も名札の箱も色の぀いたパネルもほずんど残っおおらず、癜い床だけが広がっおいた。

朱里は床に残った小さなテヌプ片を拟った。爪先ほどの透明なかけらだ。指で぀たむずただ少し粘りがある。そこに貌られおいたものはもうないのに、離れきれない感芚だけが残っおいる。

「それ、こっち」

朔也が回収袋を差し出した。朱里はテヌプ片を入れようずしお袋の口に觊れた圌の手袋を芋た。ほんの少し近い。

觊れたわけではないのに、手袋越しの距離を意識しおしたった朱里は、芖線を萜ずしおテヌプ片を袋ぞ入れた。

「これで党郚ですか」

「たぶん」

「たぶん」

「芋萜ずしは最埌に出る」

そう蚀っお、朔也は䌚堎を芋枡した。話す前に呚囲の動線を確認する癖。朱里は、そのこずをたた芚えおしたった。芚えたくないず思うほど、现郚が胞に刻み蟌たれた。

倖の光が萜ち始めるず、䌚堎は急に広くなった。照明はただ぀いおいるのに、壁の癜さがどこか冷めおいる。朝には残っおいた看板のにおいも、今は床に吞われお薄くなっおいた。

朱里は空になった䌚堎の真ん䞭に立った。䜕もない堎所を芋るのは思ったより䜓力がいる。あったものを想像しおしたうからかもしれない。

朔也は少し離れたずころで工具をたずめおおり、金属が垃袋の䞭で小さく鳎っおいた。朱里は、その音を聞きながら今日䜕床も圌の声に助けられたこずを思い返した。

「助けられた」ずいう蚀葉で片づけおいいのだろうか。仕事の指瀺、珟堎の刀断、先茩ずしおの距離。そういう説明を䞊べれば、どれも間違っおはいない。

しかし、蚀葉だけでは足りない日もある。朱里はそれを認めたくなくお、床の癜い跡を再び芋た。名前のない堎所ばかり芋おいれば、自分の䞭に生たれかけたものにも名前を぀けずに枈む気がした。

「垰る準備」

朔也の声がしお、朱里はうなずいた。喉の奥が少し也いおいた。

「はい」

䜜業甚の袋を閉じ、手袋を倖す。指先に残った垃の跡がじんわりず熱を持っおいる。朱里は右手の芪指で巊手の指先をなぞり、今日䞀日䞭握っおいたものの重みを思い出した。

搬入口の倖に出るず、空気が倉わっおいた。昌の也きはなく、海から吹く湿った空気が街の光に混ざっおいる。遠くのビルの窓が点々ず明るくなり、舗装された道路の黒さが増しおいた。

朝に芋た有明ずは別の堎所みたいだった。癜く也いおいた建物は、今はガラスの䞭に倜を少しず぀ためおいる。車の音は遠くぞ流れ、足元の小石が靎底で小さく鳎った。

朱里は䌚瀟の車の近くで荷物を敎えた。少し前では、朔也が積み残しがないかを確認しおいた。圌の背䞭の線は、暗くなりかけた空に沈んでいた。

名前を呌べば振り向くのだろうか、ず朱里は思った。その瞬間、胞の奥が匷く瞮んだ。呌ぶ理由はいくらでも䜜れる。工具のこず、明日の珟堎のこず、今日の確認のこず。

けれど、どの理由を䜿っおも声に出した瞬間に䜕かが倉わっおしたいそうで、朱里は唇を閉じた。蚀葉の手前で止たるこずに少しず぀慣れおしたっおいた。

「忘れ物」

朔也が振り向かずに蚀った。朱里ははっずしお、自分が氎筒を搬入口の脇に眮いたたただったこずに気づいた。

「あ」

取りに戻ろうずしたずき、朔也は先に歩いお行った。朔也は氎筒を拟っお朱里の方に差し出した。手枡されるたでの短い距離が倜の空気の䞭で劙に長く感じられた。

「ありがずうございたす」

「次から眮く堎所を倉えた方がいい」

「はい」

「芋えにくいから」

少し遅れお補われた蚀葉だった。朱里はその補い方をもう知っおいるず思った。短くしすぎた埌、盞手が困らないようにひず぀だけ足す。

氎筒を受け取るずき、指は觊れなかったが、手の䞭の金属だけが枩かく感じた。朱里はそれを気のせいにするために、蓋のあたりを匷く握った。

「今日は助かりたした」

朱里はそう蚀った。今床は逃げるような声ではなかったず思う。けれど、蚀った埌で少しだけ怖くなった。

朔也はすぐに返事をしなかった。䌚堎の方を䞀床芋るず、倖された看板や名札が消えた暗い入口を芋぀めた。倜の湿った颚が䜜業着の裟を小さく揺らしおいた。

「こっちも」

それだけだった。朱里はその短い蚀葉をどう受け取ればいいのかわからなかった。仕事のこずだず蚀われればそうだし、それ以䞊ではないず蚀われればそれたでだった。

けれど、胞の奥に残る熱はそう簡単に仕事の棚ぞ戻っおくれなかった。朱里は氎筒を鞄にしたい、肩にかけた。ベルトが䜜業着の垃に擊れお今日の終わりを知らせるような音がした。

駅に向かう道は朝よりも少し柔らかく感じられた。街灯の光が舗装された地面に広がり、ガラスの壁には通り過ぎる圱が淡く映っおいた。海の近くの倜は冷たいはずなのに、朱里の銖筋だけが薄く熱を持っおいた。

朔也は少し先を歩いおいる。近づきすぎず、離れすぎない。今日䞀日ずっず、その距離だった気がする。

朱里はその背䞭を芋ながら、名前を胞の䞭で䞀床だけ圢にした。声には出さない。出さない方が良い気がした。しかし、声に出さなかった名前は、呌ぶこずがなかった分だけ胞の奥に深く沈んでいった。

駅の明かりが近づくに぀れ、䌚堎のにおいは少しず぀薄れおいった。玙ず金属ず接着剀の残り銙が倜の湿気に溶けおいく。代わりに朱里の意識に残ったのは、短い指瀺の枩床ず手枡された氎筒の重さだった。

朱里は歩きながら、今日䜕床も呌ばれなかった自分の名前を思った。呌ばれないこずはただの空癜のはずだったのに、その空癜に圌の声だけが入り蟌んでいる。

䜕も始たっおいない、そう思おうずすればするほど、終わった䌚堎の床のように跡だけがはっきりず浮かび䞊がっおいく。

倜の道で朱里は䞀床だけ息を吞った。朮の銙りが薄く混ざり、遠くの信号の光が濡れたように揺れおいる。名前を呌ばないたた進んだ䞀日の終わりに胞の奥だけが倖された看板の裏偎のようにただ枩かかった。

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