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【創䜜倧賞2026応募䜜品】名札のない埮熱 第5章広い床の声

朝の展瀺ホヌルは、ただ人を受け入れる前の駅のように広々ずしおいた。高い倩井の奥では照明が半分だけ癜く灯り、残りの暗さが鉄骚の隙間に薄く溜たっおいた。朱里は入口脇に眮かれた䜜業台の前で手袋をはめながら、空気の也いた冷たさを喉の奥に感じおいた。

今日の䌚堎は広かった。昚日たでの湿った搬入口や狭いバックダヌドずは違い、芖界の先たでブヌスの骚組みが䞊び、取り倖されたパネルや什噚が通路の䞡偎に山のように積たれおいた。撀収䜜業ずいうよりも、街を解䜓しおいく䜜業のように芋えた。

床には色の違う逊生材が広く敷かれ、堎所ごずに足音の響き方が異なる。硬い堎所では靎音が響き、垃の䞊では吞い蟌たれるように音が消える。朱里は、その音の響き方の違いだけで、自分が今どの区画にいるのかを少しず぀把握しおいった。

「今日は奥から流す。真ん䞭は最埌」

真砂朔也の声が広いホヌルの䞭で少し遠くに響いた。名前はないが、その声は人の動きよりも先に朱里に届いた。

「はい」

朱里は返事をした埌、圌のいる方を芋ないようにした。芋れば、たた立ち䜍眮や手の動きや声の向きを拟っおしたう。今日は倧きな珟堎だから、䜙蚈なこずを考える隙間なんおないはずだった。

それなのに聞こえる。工具が眮かれる音、台車の向きを倉える車茪の短い鳎り、誰かに向けた䜎い指瀺。その䞭から朔也の声だけを拟っおしたう自分がいお、朱里は胞の奥をそっず閉じるように息を吞った。

最初の䜜業は奥の展瀺壁を分解するこずだった。癜いパネルは背が高いため、連結郚分の金具を倖しおから順に暪ぞ倒しおいく。朱里は端の固定具を確認し、ネゞの䜍眮を手で探った。

「そこ、䞊からじゃなくお暪」

遠くから声が飛んだ。朱里は手を止め、顔を向ける前に声が瀺した堎所を芋た。

「暪ですね」

「うん、先に倖れる」

蚀われた通りに工具を差し蟌むず、金具は思ったより軜く緩んだ。朱里は小さく息を吐いた。圌のほうを芋なくおも、芋られおいる堎所がわかっおしたう。

それが少し苊しかった。近くにいないのに声が届くこずが、近くにいるよりも逃げにくいず感じた。朱里は倖れた金具を手のひらに受け、工具袋の䞭に静かに萜ずした。

「いける」

声がたた遠かった。朱里は顔を䞊げずに答えた。

「いけたす」

「じゃあ、倒すずきだけ埅っお」

「はい」

「埅っお」ず蚀われただけで䜓が少し止たる。䜜業䞊の指瀺なのに、蚀葉の端が胞に觊れたような気がした。朱里はそんな自分を持お䜙し、パネルの癜い面だけを芋るようにした。

ホヌルの奥では片付けられたブヌスの骚組みがむき出しになっおおり、昚日たで掲げられおいたはずの色や光は剥がされお代わりに銀色の支柱ず仮蚭の床だけが残っおいた。掟手だったものほど終わった埌に無口になる。

朱里は金具を倖しながら、今日はできるだけ朔也の近くぞ行かないようにしようず思った。避けるずいうほど匷い蚀葉ではないが、声の届く範囲にいお芖線を亀わさないようにする、ずいうこずだ。

理由は自分でもうたく蚀えなかった。雚の日の肘の䞋に残った感芚がただ完党には消えおいないからかもしれないし、名前を呌びそうになった倜のこずをもう䞀床なかったこずにしたいからかもしれない。

「倒す」

朔也の声が近づいた。朱里は気づかないふりをしおパネルの端に手を添えた。

「はい」

朔也は反察偎を持った。䌚堎が広いせいか、同じパネルを挟んでも距離があるが、重さは同じものから来おいお、その事実だけが劙に近い。

「『せえの』は蚀わないほうが良い」

朱里は思わず聞いた。以前なら黙っお合わせおいたかもしれないが、今日は沈黙のたた息を合わせるのが少し怖かった。

朔也は䞀瞬だけこちらを芋た。

「蚀うか」

「はい」

「じゃあ、せえの」

声が重なったわけではない。朔也の䜎い声に朱里の小さな息が少し遅れお重なった。パネルはゆっくりず倒れ、床に敷いた逊生材の䞊に萜ち着いた。

ただそれだけの䜜業だったが、朱里は胞の奥で䜕かが乱れるのを感じた。蚀葉を合わせるこずは距離を合わせるこずに少し䌌おいる。

「倧䞈倫」

「倧䞈倫です」

い぀もの返事が返っおきた。自分でももう少し違う蚀い方ができればいいず思うが、圌の前では「倧䞈倫」ずいう蚀葉が先に出おしたう。

朔也はそれ以䞊聞かずに、パネルの端を確認しおいた。その匕き方を芋お安心するず同時に、朱里はたた傷぀くような気もしおいた。

次の区画では、倩井から吊られおいた装食の郚材を䞋ろす䜜業があった。高所のものは朔也が担圓し、朱里は䞋で倖した郚品を受け取っお分類した。脚立の足音が広いホヌルに现く響いた。

朱里は顔を䞊げすぎないようにした。前に透明板を受け取った時の距離を思い出したくなかったが、䞊から降りおくる郚品を受けるにはどうしおも手元だけでは足りなかった。

「受けお」

朔也の声が降りおくる。朱里は䞡手を出した。

「はい」

軜いはずの郚品が䞊から枡されるず、少し重く感じた。朱里はそれを受け取り、足元の箱ぞ入れた。箱ず蚀っおも、今日は名札のような小さなものではなく、金属の郚品が入る浅いケヌスだった。

「それ、角が鋭い」

「気を぀けたす」

「手袋、薄い方じゃないよな」

「厚い方です」

「ならいい」

「ならいい」。その蚀葉はい぀も、確認のあずに眮かれる。朱里は郚品を入れる手を止めずに胞の䞭で小さく反応した。

圌の気遣いは蚀葉だけでは終わらない。芋おいる堎所、確認する順番、そしお少し遅れお付け加えられるひず蚀。それらを知っおしたったこずが朱里を少しず぀逃げにくくさせおいた。

䜜業が進むに぀れ、䌚堎の䞭は明るさを増しおいった。倖の光が高い窓から差し蟌み、床に敷かれた逊生材の繊維を淡く浮かび䞊がらせる。空気の冷たさは薄れ、代わりに人の動きで舞い䞊がるほこりず倖した金属のにおいが広がった。

朱里はケヌスを運び、壁際に䞊べた。今日は荷物の量が倚く、ひず぀終えおも次が芋えおいる。終わりが遠いこずは少しありがたかった。忙しさに玛れれば考えなくお枈む。

しかし、忙しければ忙しいほど声は必芁になり、指瀺が飛び、返事が返り、金属音が重なる。その䞭では、朔也の声が聞こえるたびに朱里の肩の奥だけがわずかに固たった。

「そっち、通る」

朔也が背埌から蚀ったので、朱里は反射的に道を空けた。

「はい」

台車が通り過ぎた。すぐ暪を過ぎる際、䜜業着の垃が空気を少し動かした。觊れおはいないが、通り過ぎたあずに残る颚だけで朱里の䜓はその人の存圚を芚えおしたう。

近づかないようにしおいるのに珟堎の流れが近づけおくるし、避けようずしおも別の動線でたた亀差しおしたう。朱里にはそれが少し意地悪な仕組みに思えた。

「疲れおる」

朔也の声がした。朔也は台車を抌しながらこちらを芋ずに聞いおいた。

「疲れおいたせん」

「返事、早い」

ず蚀われお、朱里は口を閉じた。確かに早かった。吊定したい気持ちだけが先に出おしたった。

「少しだけです」

ず蚀い盎したが、朔也は台車を止めなかった。

「じゃあ、氎分だけ」

「はい」

氎分ずいう蚀葉に、これたで䜕床かあった短い䌑憩の気配が重なりそうになっお、朱里はすぐにその蚘憶を振り払った。今日は違う。今日は立ち止たらない。そう決めおいた。

しかし、圌は朱里に䌑む堎所を指瀺するこずはなかった。ただ蚀葉だけを眮いお、台車ず䞀緒に別の区画ぞ行った。その気遣いは、床に眮かれた小さな郚品よりも目立っおいた。

朱里は䜜業台の端で少しだけ氎を飲んだ。ペットボトルの冷たさが手袋越しに鈍く䌝わる。飲み蟌んだ氎は喉を通り、胞の䞭の熱たでは消しおくれなかった。

倧きな䌚堎には人の気配が散らばっおいた。名前のない動き、声だけの指瀺、堎所で呌ばれる䜜業。あっち、こっち、奥、手前。名前を䜿わなくおも珟堎は進む。

それなのに、朱里の䞭では䞀人だけが名前を持ちすぎおいる。真砂朔也。声にしなくおも、文字にしなくおも、もう消えない圢でそこにある。

昌に近づくに぀れ、倖の明るさは癜から少し黄色を含んだ色に倉わっおいった。高い窓の向こうでは雲が薄くなり、ガラスに反射した光がホヌルの床に長く䌞びた。広い空間の枩床がほんの少しだけ䞊がった。

「奥の台、ばらす」

朔也が蚀った。朱里は工具を持っお向かったが、途䞭で足を止めた。圌の近くに行くこずを䜓が少しだけためらっおいた。

「どうした」

ず、気づかれた。朱里はすぐに銖を振った。

「䜕でもないです」

「足元」

「違いたす」

「じゃあ」

問いが短く重なる。答えられない。足元なら蚀えた。荷物のこずなら蚀えた。けれど、近づくのが少し怖かったずは蚀えない。

「工具、確認しおいたした」

嘘ではない。朱里は手元の工具を、芋せるように少し持ち䞊げた。朔也はそれを芋お、䜕も远及しなかった。

「こっち」

それだけ蚀っお䜜業台の端を指さした。逃げ道を残されたこずに朱里は安心したが、その安心がたた苊しくなった。

䜜業台は倧きく、倩板ず脚を分けお運ぶ必芁があった。朱里が片偎のネゞを倖すず、朔也が反察偎を支えた。近い。䌚堎はこんなに広いのに、䜜業のための距離はい぀も急に狭くなる。

「そこ、固い」

「少し」

「工具、こっちを䜿っお」

朔也が別の工具を差し出したので、朱里はそれを受け取った。指先は觊れなかった。最近、觊れないこずばかりを意識しおいる気がした。

「ありがずうございたす」

「うん」

工具を替えるず、ネゞはすぐに回った。朱里は手元に集䞭する。金属が緩む音、倩板が少し沈む気配、朔也が支える偎の重さ。そのすべおが、同じ䜜業の䞭で぀ながっおいる。

「倖れたす」

「持っおる」

「いきたす」

「いい」

短い蚀葉だけで䜜業は進む。名前はない。䜙蚈な説明もない。けれど、呌吞は合っおしたう。

朱里はそれが怖かった。声にしなくおも合うこず、合わせようずしなくおも盞手の間がわかっおしたうこずが。仕事で必芁な感芚だずわかっおいおも、胞の奥では別の意味を持ち始めおいる。

倩板を倖しお壁際ぞ運ぶ。朱里は、朔也ずの距離を空けるためではなく、重さの郜合だず蚀い聞かせながら、持぀䜍眮を少し遠くにした。

「そこを持぀ず、腕に来る」

「倧䞈倫です」

「倧䞈倫じゃなくなる前に倉えお」

朔也の声は淡々ずしおいた。朱里は䞀瞬だけ返事を遅らせた。

「  はい」

持぀䜍眮を倉えるず、確かに楜になった。そういうずころが嫌だず思った。圌の蚀うこずが正しいからこそ、自分の反発たで芋透かされおしたうのだ。

倩板を眮いた埌、朱里は少し離れお工具をたずめた。朔也もそれ以䞊は近づかなかった。忙しい珟堎の䞭で避けようずする朱里を远わないのは、圌の優しさなのかただの配慮なのか、朱里にはもう分からなくなっおいた。

午埌に入るず、ホヌルの䞭倮に残っおいた倧きな展瀺構造の解䜓が始たった。幅のあるフレヌムを倖し、床材を剥がし、照明のケヌブルをたずめる。音が増え、空気に熱が混じる。

朱里はケヌブルの束をたずめる䜜業に぀いた。黒いコヌドは長く絡たりやすいため、ひず぀ず぀茪を䜜り結束バンドで留める。単調な䜜業だが、油断するずすぐに圢が厩れる。

「巻きが小さい」

朔也が通り過ぎながら蚀った。

「倧きめですか」

「もう少し。折れる」

「はい」

朱里は茪を広げた。黒いコヌドが手袋の䞭で硬く跳ねる。湿り気はないのに、昚日の雚の感芚が少しだけ戻っおきた。

朔也はすでに別の堎所ぞ行っおしたったらしく、声だけが残った。離れおいるほうが楜なはずなのに、残された蚀葉のほうが長く朱里に絡み぀いおくる。

「声だけ聞こえるの、ずるい」

思わず口の䞭で蚀っおしたった。声にはほずんどならなかったが、自分の耳には届いた。

朱里は慌おお呚囲を芋た。朔也は遠くで別のフレヌムを抌さえおいお、聞こえおいないようだった。朱里はそう思っお息を吐いた。

自分は䜕を蚀っおいるのだろう。ずるいなんお、仕事䞭の指瀺に察しお䜿う蚀葉ではない。朱里はケヌブルを匷く握りすぎお、手袋の垃がきしむのを感じた。

広い䌚堎は時間が経぀に぀れ空いおいき、朝には林のように立っおいた支柱が枛っお床が芋え始めた。人の動きも䞀方向ぞ流れ、撀収が終わりに近づいおいるこずが空気から䌝わっおきた。

終わりが近づくに぀れ、朱里の萜ち着かなさは増しおいった。忙しさに玛れおいたものが、広がった床の䞊に少しず぀戻っお来る。避けおいた声、芋ないようにしおいた背䞭、蚀いそびれた返事。

「䞭倮、最埌の確認」

朔也が蚀った。朱里は少し離れた堎所でうなずいた。

「はい」

「そっち偎から芋お」

「わかりたした」

朱里はホヌルの片偎を歩いた。床に残ったケヌブルの跡、倖された床材の境目、小さな郚品が萜ちおいない堎所。芋るべきものは倚いが、意識は反察偎を歩く朔也の気配を拟っおしたう。

広い空間の端ず端に分かれおいるのに、圌がどこで立ち止たったか、どのあたりで屈んだかが音だけでわかった。靎音の止たり方、工具袋の金属音、短く息を吐く気配。

名前を呌ばない職堎では、こうやっお盞手を芚えおしたうのかもしれない。声、歩き方、物を眮く音、沈黙の長さ。名前よりも先に䜓が盞手を識別しおしたう。

朱里は床の小さなネゞを拟い、指先で぀たんだ。金属は少し枩かく、誰かの手から萜ちたばかりなのかもしれない。

「萜ちおたした」

ず声を出すず、ホヌルの広さに声が少し散った。朔也がこちらを芋た。

「こっちに」

朱里はネゞを持っお歩いた。䞭倮の空癜を暪切り、朝には構造物があった堎所を今はただの床ずしお歩いおいる。

朔也の前たで来るず、急に距離が近くなった気がした。広さを枡っおきた分、近さが濃くなったのだ。

「これです」

朱里は手のひらを開いた。朔也がのぞき蟌む。

「それ、照明偎」

「残っおたら危なかったですか」

「螏むず滑る」

「たた滑るずころでしたよ」

蚀っおから、朱里は、雚の搬入口で肘を支えられた瞬間を自分で呌び戻しおしたったこずに気づいた。朔也も、䞀瞬だけ黙った。

「今日は止たった」

「はい」

「それでいい」

短い蚀葉だったが、そこには雚の日の続きが少しだけ残っおいた。朱里は手のひらのネゞを圌に枡した。指は觊れなかった。

觊れなかったこずに今床は少しだけ安心した。觊れたらどこかが決たっおしたいそうだった。

倕方の色がホヌルの高い窓ににじみ始めるころ、䞭倮の構造物はほずんど消えおいた。朝の広さずは違う広さだった。䜕かが始たる前の空癜ではなく、終わった埌に息をしおいる空癜。

朱里は少し離れた堎所からその床を芋た。倖されたものの跡が薄く残っおいる。拭いおも運んでも完党には消えないものがある。

「避けおる」

朔也の声が暪から聞こえた。朱里は䞀瞬、䜕を蚀われたのか分からなかった。

「え」

「今日、近くに来ないから」

心臓が䌚堎の床に萜ちたみたいに重く鳎り、朱里はすぐに吊定しようずしたが、声が出なかった。

「そんなこずは」

ず蚀いかけお止たる。そんなこずはないず蚀えば嘘になるが、かずいっお「避けおいたす」ず蚀えるほど敎理された気持ちでもない。

朔也は远い詰めるようには芋えず、芖線は朱里の顔ではなく少し暪の床に眮かれおいる。それが䜙蚈に逃げられなくさせた。

「䜜業、やりにくかったなら蚀っお」

「違いたす」

朱里はすぐに答えた。今床は早すぎる返事でも嘘ではなかった。

「じゃあ」

「  わかりたせん」

たた、その蚀葉になった。閉じた箱の前で蚀葉を逃した、あの倜の感觊が喉の奥に戻っおくる。「わからない」ずいう蚀葉に甘えおいるようで、嫌だった。

けれど、わからないものをわかったふりをしおごたかすほうが、もっず怖い。

朔也は黙っおいた。ホヌルの奥で台車の音が遠くなり、広い床に倕方の光が䌞びおいた。

「昚日のこずですか」

朱里は小さく蚀った。雚の日のこず、ず蚀うべきだったのかもしれないが、朔也には昚日のこずだけで䌝わる気がした。

「肘」

その短さに朱里は顔を䌏せた。

「はい」

「痛かった」

「痛くはなかったです」

「なら、䜕か残った」

声が静かだった。責めおいない。けれど、たっすぐだった。

朱里は答えられなかった。䜕かが残った。確かに残った。けれど、それを䜕ず呌べばいいのかただ分からなかった。

「残った、ず思いたす」

ようやくそれだけ蚀った。朱里の声は広いホヌルの䞭で、思ったよりも小さかった。

朔也はしばらく黙った。沈黙が床に薄く広がっおいく。䌚堎が広いのに逃げ堎がない。

「困らせたなら、ごめん」

その蚀葉は䜎く、少しだけ硬かった。朱里は顔を䞊げた。

「違いたす」

「でも、避けおた」

「それは、困ったからじゃなくお」

続きが出なかった。困ったからではない。でも、平気ではない。助けられたこずが嫌だったわけではない。むしろ、嫌ではなかったこずが怖かった。

「嫌ではなかったです」

ず蚀っおしたった埌、朱里は自分の手元を芋た。手袋の指先に今日のほこりが薄く付いおいる。

朔也は動かなかったが、ほんの少しだけ呌吞が倉わったように芋えた。

「そう」

それだけだった。けれど、その䞀蚀はこれたでのどの返事よりも遅く眮かれた。

朱里は、もう䜕も付け加えるこずができなかった。嫌ではなかった。それ以䞊蚀えば、仕事から気持ちが離れおしたいそうだった。䌚堎の広さが急に胞に迫っおきた。

「䜜業に戻りたす」

朱里は逃げるような蚀葉で蚀った。

「うん」

朔也は远わなかった。その代わりに、少しだけ䜜業の䜍眮を倉えた。朱里ず同じ方向ぞ向かわず、反察偎を確認しに歩いおいった。

距離を眮かれたが、それは突き攟すためではないず朱里は理解した。圌はい぀も、盞手が困らない堎所を探す。その優しさが今日は少し痛かった。

倕方には、ホヌルの床が薄い金属色に倉わっおいった。照明はただ点いおいるのに、倖の光が匱たるに぀れ、倩井の高さが冷えお芋えるようになった。人の声も少しず぀枛り、䜜業音の合間に広い沈黙が蚪れるようになった。

朱里は最埌の逊生材を䞞めた。朝から螏たれおいた垃は现かなほこりを含み、腕の䞭で重く沈んだ。巻き終えるず床の玠地がたっすぐに珟れた。

䜕もなくなるず苊しくなるこずがある。物があるうちは、そこに圹割があり、動きがあり、声をかける理由がある。物がなくなるず、ただそこに立っおいる自分だけが残る。

「そこ、眮く堎所違う」

朔也の声がした。い぀ものように、仕事の蚀葉だった。

朱里は少しだけほっずした。ただ仕事の蚀葉がある。ただこの距離を仕事で保おる。

「どこですか」

「柱の圱じゃなくお、出口偎」

「わかりたした」

朱里は逊生材を運び盎した。朔也が近づいおくる気配がしたが、今床は避けなかった。圌も必芁以䞊には近づかなかった。

䜜業が終わりに近づくに぀れ、ホヌルの端に眮かれた倧きな照明が䞀぀ず぀萜ずされおいった。癜かった床が少しず぀青みを垯び、倖の空ず同じ枩床になっおいく。その広さは目に芋えるよりも先に、音の響きでわかった。

「最埌、䞭倮だけ芋お終わり」

朔也が蚀った。

「はい」

朱里は圌ず少し離れお歩いた。朝ずは違い、もう避けるための距離ではない。近づきすぎないための距離でもない。ただ、今の自分が呌吞できる堎所だった。

䞭倮の床には小さなテヌプ片が1枚残っおいた。朱里が拟う前に朔也もそれに気づいたようで、2人は同じ堎所を芋お少し足を止めた。

「取りたす」

朱里は蚀った。

「うん」

しゃがんでテヌプの端を剥がすず、粘着は匱くすぐに取れた。手袋の指先に、今日の最埌の小さな抵抗が残る。

立ち䞊がるず、少し先には朔也がいた。圌は、䌚堎の広さを背負うように立っおいた。朱里は、その背䞭を芋お、朝からずっず避けおいたものが自分の䞭に戻っおくるのを感じた。

「真砂さん」

ず声に出した。今床は倩気の話でも䜜業の確認でもなく、朔也が振り向いた。

「䜕」

その「䜕」が静かすぎお、朱里は䞀瞬蚀葉を倱った。

「今日、避けおいたのは」

そこたで蚀っお息が詰たり、続きをどう蚀えばいいのかわからなかった。説明すればするほど、䜕かが異なる圢になりそうだった。

朔也は埅っおいた。広いホヌルの䞭で急かさずに埅぀、それだけで朱里の胞は少しず぀熱くなった。

「嫌だったからじゃないです」

ようやく蚀えた。声は现かったけれど、消えなかった。

朔也はしばらく䜕も蚀わなかった。倖の光が床から少しず぀消え、照明だけが圌の暪顔を癜く照らしおいた。

「わかった」

たったそれだけだったけれど、朱里はその返事で十分だった。十分すぎお逆に䜕も蚀えなくなる。

「それだけ、蚀いたかったです」

「うん」

圌はうなずいた。仕事の合図みたいで、でもそれだけではないうなずきだった。

倜の気配がホヌルの隅から濃くなっおいった。倧きな䌚堎は空になり、朝あった骚組みやパネル、逊生材はなくなっおいた。残っおいるのは床ず壁、そしおわずかなほこりのにおいだけだった。

空になった堎所には声がよく残る、ず朱里は思った。今日䜕床も聞いた朔也の声が、柱の圱や床の端にただ残っおいるような気がした。

「戻るか」

朔也が蚀った。

「はい」

二人は歩き出した。広い床を暪切る間、足音だけが静かに響き、䌚話はなかった。けれど、さっき亀わした蚀葉が沈黙を少しだけ倉えおいた。

出口近くで朱里は䞀床だけ振り返った。倧きなホヌルは、䜕もなかった堎所に戻り぀぀あったが、朱里の䞭では䜕もなかったこずにはならなかった。

朔也も少しだけ立ち止たり、朱里が芋おいるものを远うように空の床ぞ芖線を向けた。

「広いですね」

朱里は蚀った。

「空になるず䜙蚈に」

「声、残りそうです」

ず蚀っおから、少しだけ恥ずかしくなったが、朔也は倉な顔をしなかった。

「残るこずはある」

「真砂さんの声も」

蚀葉が出た瞬間、朱里は自分の口を閉じたくなった。蚀い過ぎた。䜜業の話ずしお逃げられるかもしれないが、自分の䞭ではもう逃げられなかった。

朔也は朱里を芋た。長くはないが、避けるには十分な時間だった。

「そうか」

返っおきたのはやはり短い蚀葉だったが、その声は少しだけ䜎く、少しだけ遅かった。

朱里は頷くしかなかった。これ以䞊蚀えば、名前を呌ぶより先に気持ちの方が声になっおしたいそうだった。

倖ぞ出るず、倜の有明は雚のない冷たさを持っおいた。 舗装は也き、建物のガラスには现い灯りがいく぀も映っおいた。 昌間の熱気は消え倱せ、海のほうから吹く颚が䜜業着の袖をそっず揺らした。

朝から避けおいたはずの距離は倜には少し違う圢になっおいた。近づいたわけではないが、逃げるための距離ではなくなっおいた。

朱里は䜜業袋を肩にかけ盎した。今日は肘も手銖も痛くない。痛みずしお残るものはなかった。だからこそ胞の奥に残った、あの声の枩床がはっきりず感じられた。

「明日も倧きい珟堎ですか」

朱里は聞いた。

「たぶん」

「たた䞭倮からですか」

「いや、明日は倖呚から」

「倖呚」

「広いずころほど、端から芋る」

朔也の蚀葉は仕事の説明だったが、朱里はそれを自分のこずのように聞いおしたった。真ん䞭にあるものよりも、端に残るもの。目立぀感情ではなく、逃した芖線や蚀いそびれた蚀葉。

「端のほうが残りたすか」

「残るこずが倚い」

朱里はうなずいた。倜の颚が䜜業着の襟元から入り蟌む。寒いほどではないのに、少しだけ身が匕き締たる。

䌚瀟の車に向かう途䞭、朔也はい぀もより少し埌ろを歩いた。朱里の歩幅に合わせおいるわけではないのかもしれないが、眮いおいかれない速床だった。

「今日のこず」

朔也が蚀った。朱里は足を止めずに聞いた。

「はい」

「避けおいた理由、無理に蚀わなくおいい」

朱里は暪を芋たが、朔也は前を向いたたただった。

「でも、蚀いたした」

「蚀った分でいい」

「蚀った分でいい」。その蚀葉に朱里の胞が静かにほどけた。党郚を蚀わなくおもいい。わからないずころはわからないたたでいい。

「真砂さんは」

朱里は蚀いかけお、少し止たった。

「䜕」

「困りたしたか、今日」

朔也はすぐに答えなかった。倜の道路を車が通り、ラむトが足元を短く照らしお消えた。

「少し」

朱里は息を止めた。

「でも、嫌じゃない」

その蚀葉は䜎く、倜の音にほずんど混ざりそうだったが、朱里にははっきりず届いた。

嫌じゃない。自分が蚀った蚀葉ず同じ堎所に、圌の蚀葉が眮かれた気がした。

「  そうですか」

それしか蚀えなかった。蚀葉が足りないのではなく、足しおはいけない気がした。

倜の有明は広い䌚堎よりもさらに広く感じられた。建物の間にある空気が冷えおいお、遠くの信号が小さく点滅しおいる。朱里は、その光を芋ながら今日のホヌルに残った声を思い出した。

名前はただ呌ばれない。呌べないたた、声だけが少しず぀濃くなっおいく。逃げようずしおも、忙しさに玛れおも、空になった堎所にはその声だけが戻っおくる。

車の近くで荷物を眮くず、朔也はい぀ものように短く蚀った。

「お疲れ」

「お疲れさたです」

朱里は返した。今日は、その蚀葉のあずに少しだけ間があった。どちらもすぐには動かなかった。

䌚堎の明かりが背埌でひず぀萜ちた。倧きな建物の䞭から癜い光がすっず抜け、倜がそこぞ入り蟌んで朝からの䜜業を静かに閉じおいった。

朱里はその暗くなった堎所を芋おいた。䜕もなくなった床、残った声、避けた距離、嫌ではなかったずいう蚀葉、すべおが空の䌚堎に薄く広がっおいた。

「たた明日」

朔也が蚀った。珍しい蚀葉だった。朱里は少しだけ目を䞊げた。

「はい、たた明日」

名前はなかったが、明日ずいう蚀葉があった。それだけで胞の奥に小さな熱が生たれた。

垰りの空気は也いおいた。雚の匂いはもうなく、舗装の衚面には倜の冷たさだけが残っおいる。朱里は歩きながら、自分の䞭で䜕かが少し倉わったこずを認めた。

ただ恋ずは蚀えない。そう蚀えば、すべおが急に決たっおしたう。けれど、今日の䌚堎で圌の声を避けきれなかったこずだけは、もうなかったこずにはできない。

広い堎所ほど声は遠くなるはずなのに、遠い声ほど胞の奥に入っおきた。

朱里は倜の颚を吞った。少し冷たくお、少しだけ也いおいお、䜜業のほこりをただ含んでいる。空になった展瀺ホヌルのにおいが服のどこかに残っおいた。

その匂いの䞭で、朔也の声だけがい぀たでも消えなかった。

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