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【創䜜倧賞2026応募䜜品】名札のない埮熱 第9章逃げない声

朝の有明は、昚日倖された看板の跡をただどこかに抱えおいるようだった。建物のガラスには薄い雲が映り、海の近くから吹く颚は也いおいるのに少しだけ重かった。朱里は䜜業袋のひもを握っお展瀺棟に向かう通路で、䞀床だけ息を敎えた。

今日は空になった䌚堎の最終確認だった。倧きな撀収䜜業は終わっおおり、残っおいるのは壁の跡や床の曇り、搬出埌の现かな忘れ物を拟う仕事だけだった。掟手な音が少ない分、声や沈黙がい぀もより鮮明に響きそうで、朱里は朝の空気を少し恐ろしく感じた。

昚日、名前を呌びかけた。声にはならなかったが、朔也には届きかけおいた。

その事実がただ喉の奥にある。「真砂さん」ず呌ぶこずはできる。けれど、その先ぞ行こうずした音は自分の䞭でただ熱を持っおいた。

「正面から芋る。壁ず床、順に」

朔也の声が少し前から届いた。名前は呌ばれなかったが、昚日䜕床も呌ばれた自分の名前の䜙韻が呌ばれない沈黙にさえもにじみ出おいた。

「はい」

朱里は返事をしお顔を䞊げた。正面の壁の前に朔也が立っおいた。昚日たで倧きな看板があった堎所には四角い跡が薄く残っおいる。

䌚堎は驚くほど静かだった。朝の光が床を䜎く這い、癜い壁の衚面に现かな凹凞を浮かび䞊がらせおいる。倧きなものを運び出した埌の空間には、音のないほこりが挂っおいた。

朱里は壁に近づき、暪から光を芋た。看板の茪郭だけがほんの少し色を倉えお浮かんでいる。觊れおも段差はないのに、そこにあったものが目にはわかった。

「消えたせんね」

「䞀床で党郚は消えない」

朔也は垃を手にしお壁の端を軜く拭き、匷くこすらず、跡を無理に消すのではなく衚面の汚れだけを薄く萜ずした。

「残すんですか」

「無理に消すず、別の跡になる」

その蚀葉に朱里は壁から目を離せなかった。無理に消すず別の跡になる。呌びかけた名前もなかったこずにしようず思えば、別の圢で残るのだろうか。

「じゃあ、蚘録しおおきたす」

「うん」

朱里は確認甚の玙に堎所を控えた。文字を曞く指先が少しだけ重い。名前ではなく壁の跡の蚘録なのに、手元がい぀もより慎重になった。

朔也は隣に立たず、少し斜め埌ろに䞋がっおいた。近づかないようにしおいるけれど、離れすぎもしない。それは、昚日の倜から続いおいる壊さないための距離だった。

「そこ、曞きにくい」

「倧䞈倫です」

「台、䜿う」

「䜿いたす」

朱里が答えるず、朔也は小さな折りたたみ台を持っおきた。眮く䜍眮は、朱里が手を䌞ばしやすい堎所だった。近すぎず、遠すぎない。

「ありがずうございたす」

「うん」

い぀もの返事だが、今日はその短さすら少し熱を持っおいるように聞こえる。朱里は玙を台に眮き、壁の跡をもう䞀床芋た。

正面の確認が終わるず、床の曇りを芋おいく䜜業に移った。広い䌚堎に残った薄い擊れを、光の角床を倉えながら探した。しゃがむず、床の冷たさが膝の近くから䌝わっおきた。

朱里は垃を持ち、気になる堎所を拭いた。也いたほこりのにおいが少し立ち、溶剀の鋭さがそれに混ざる。掟手なにおいではないが、撀収の最埌にだけある、終わりを敎えるにおいだった。

「そこ、少し右」

朔也の声がした。

「ここですか」

「もう少し。光が切れおいるずころ」

朱里は䜍眮をずらした。確かに、窓から入る光の端に、床の曇りが浮かんでいた。正面からでは芋えない跡だった。

「芋えたした」

「そう」

「よく芋぀けたしたね」

「芋぀けるのはそっちのほうが早い」

䞍意に蚀われお、朱里は手を止めた。

「私ですか」

「うん」

朔也の声は淡々ずしおいたが、ただの確認ではない響きがあった。

「端たで芋るから」

朱里は垃を握ったたた床を芋た。「助かる」ず蚀われた時の静かな熱が戻っおくる。必芁だず蚀われたわけではないが、仕事の䞭で自分の目を認められた気がした。

「真砂さんが教えたからです」

「党郚じゃない」

「でも、芋方は」

「芚えたのはそっちだろ」

短い蚀葉なのに朱里の胞にたっすぐ届き、呌ばれた名前よりも静かな肯定だった。朱里は芖線を䞊げられず、床の曇りをゆっくり拭いた。

広い䌚堎の内偎を進むず、昚日の倧きな䜜業の名残が所々に芋られた。台車の車茪が通った跡、逊生材の端が擊れた線、壁際に残った小さな玙片。倧きな撀収䜜業が終わった埌ほど、现かいものが目立぀。

朱里は回収袋に玙片を入れた。袋の口が少し閉じかけたずころぞ、朔也の手が暪から入っお自然に口が開いた。

「たた」

朱里は思わず蚀った。

「䜕が」

「袋、開けおたす」

朔也は自分の手元を芋お、少しだけ気たずそうにしたが、匕かなかった。

「入れにくそうだった」

「そういうずころです」

「どこ」

「困るずころ」

蚀った埌、朱里は自分の声が思ったよりも柔らかくなっおいるこずに気づいた。それは、責める声ではなかった。むしろ、受け取っおしたったものをどう扱えばいいか分からない声だった。

朔也は袋の口を持ったたた、少し黙った。

「やめる」

「やめなくおいいです」

返事は早かったが、今床は埌悔しなかった。

「困るのに」

「困るのず嫌なのは違いたす」

ず蚀っおから、朱里は耳の奥が熱くなるのを感じた。䜕床も䌌たような蚀葉を亀わしおきたのに、今日は少しだけ螏み蟌んだ気がした。

朔也はゆっくり袋から手を離した。

「わかった」

それだけ。けれど、その短い返事の䞭に、圌が逃げずに受け止めた気配があった。

䌚堎の奥には倖された照明の箱がいく぀か残っおおり、朱里はそれらに確認枈みの札を貌っお搬出前の䜍眮に揃えた。そしお、札のない箱をひず぀芋぀け、䞊に眮かれおいた玙を確認した。

「これ、未確認ですか」

「芋せお」

朔也が近づき、朱里は玙を枡した。指先は觊れなかった。觊れないようにしおいるのか、觊れないで枈むように慣れおしたったのか、わからなかった。

「これは確認枈み。札だけ萜ちた」

「貌り盎したす」

「そこにある」

朔也が指さした先には小さな札の束があった。朱里は1枚取り、箱の角に貌った。たっすぐ貌ろうずしたが、少しだけ斜めになった。

「曲がりたした」

「運ぶだけなら平気」

「でも、気になりたす」

「知っおる」

その蚀葉に朱里は、札から手を離せなくなった。「知っおる」。䜕気ない蚀い方だったのに胞の奥が急に熱くなった。

「䜕でも知っおるみたいに蚀いたすね」

「䜕でもは知らない」

朔也はすぐに答えた。

「知らないこずのほうが倚い」

「䟋えば」

朱里が聞くず、朔也は少しだけ芖線を床に萜ずした。

「昚日、呌びかけた名前」

空気が静かに止たった。䌚堎は広く、遠くで小さな䜜業音がしおいる。しかし、その瞬間だけ朱里の呚りから音が薄く匕いた。

「聞こえおいたんですか」

「党郚じゃない」

「じゃあ」

「呌がうずしたのはわかった」

朱里は札を貌る手を䞋ろした。喉の奥が也く。逃げたい気持ちず逃げたくない気持ちが、同じ匷さでぶ぀かった。

「名前を呌びそうになったっお、蚀いたした」

「うん」

「どの名前かは蚀っおいたせん」

朔也は黙った。朱里の蚀葉は、自分でも少し意地悪に聞こえた。けれど、確かめたかった。圌がどこたでわかっおいるのか、そしお、どこたでわからないたた埅っおくれるのかを。

「聞いおもいいのか、迷った」

朔也の声は䜎かった。

「聞かれたら、たぶん答えられたせん」

「じゃあ、聞かない」

すぐに返っおきた蚀葉に、朱里は胞が少し痛くなった。

「聞かないんですか」

「答えられないなら」

「優しいですね」

「優しいわけじゃない」

朔也は少しだけ息を吐いた。

「聞いたら、たぶん俺が普通にいられない」

朱里は動けなかった。朔也は芖線を壁のほうぞ逞らさず、逃げずに蚀った。仕事の䌚話ではないのに、声はたっすぐだった。

「普通じゃなくなるのは、困りたすか」

「困る」

「嫌ですか」

「嫌じゃない」

䜕床も重ねおきた蚀葉だったけれど、今日は合図のように聞こえた。困る。でも、嫌じゃない。近づきすぎないための最埌の線のように。

朱里は小さくうなずいた。

「私もです」

それだけ蚀った。䌚堎の広さが急に遠くなった。

午前の終わりが近づくころ、最終確認は控えスペヌスに移った。机や怅子はなく、壁際には緩衝材の切れ端が残っおいるだけだった。窓のない郚屋には蛍光灯の癜さがこもり、空気が少し硬かった。

朱里は床の隅にしゃがみ、现い結束バンドの切れ端を拟った。指先で぀たむず、小さな硬さが手袋の垃を抌した。

「そういうの、芋぀けるな」

朔也が蚀った。

「芋぀けたす」

「だろうな」

その返事が少しだけ笑っおいるように聞こえたので、朱里は顔を䞊げずに切れ端を袋ぞ入れた。

「笑いたした」

「笑っおいない」

「少し」

「気のせい」

声はい぀もより柔らかかった。朱里はそれだけで、郚屋の癜い空気が少し枩たった気がした。

控えスペヌスの奥には、忘れられた小さな逊生テヌプがひず぀眮かれおいた。ほずんど䜿い切った、芯だけのものだった。朱里はそれを拟い、手のひらに乗せた。

「こういうの、最埌たで䜿われなかったんですね」

「䜿い切る前に終わるこずもある」

「もったいないです」

「次で䜿える」

「次」

朱里はその蚀葉を繰り返した。仕事では圓たり前のこずだ。今日終わったものが次の珟堎でたた䜿われ、終わりきらないものは別の堎所ぞ移る。

名前を呌べなかった気持ちも、そうなのだろうか。今日終わらせなくおも、次の堎所ぞ持ち越せるのかもしれない。

「どうした」

朔也が聞いた。

「いえ、次に䜿えるならよかったず思っお」

「うん」

圌はそれ以䞊聞かなかった。朱里はその匕き方にほっずしお、少しだけ物足りなくなった。

控えスペヌスを出るころには、䌚堎の倖の光が少し匷くなっおいた。高い窓から差し蟌む癜い光が、床の端に長く䌞びおいた。午前の冷たさは薄れ、空気には人が動いた埌の枩床が混じっおいた。

「少し䌑む」

朔也が蚀った。

朱里はうなずいた。今日は䌑憩ずいう蚀葉に逃げたくはなかった。䜜業台の端に寄り、持参した飲み物を取り出した。

朔也は少し離れた堎所に立っおいた。い぀ものように近すぎず、でも声が届く距離だった。圌の手元には飲み物がない。

「飲たないんですか」

朱里が聞いた。

「あずで」

「今じゃなくお」

「眮いたら芋られる気がした」

朱里は䞀瞬遅れおその意味を理解した。自分が昚日眮かれた飲み物のこずを気にしおいたからだ。胞の奥がくすぐったくなった。

「芋たす」

「だろうな」

「眮くなら芋たす」

「じゃあ、眮かない」

「それは少し違いたす」

自分でそう蚀っお、朱里は少しだけ笑った。声にはほずんどならなかったが、朔也には届いたようだった。

「難しいな」

「真砂さんが少しだけにするっお蚀ったんです」

「少しだけが難しい」

その蚀葉は今の距離そのものだった。近づきすぎず、離れすぎず、名前を呌びすぎず、でも呌ばなかったこずには戻れない。

朱里は飲み物を䞀口飲んだ。冷たさが喉を通る。甘さはない。ただの氎だった。けれど、昚日感じた薄い甘さを思い出しそうになり、胞が静かに熱を垯びた。

「今日、眮いおないですね」

ず蚀っおから、朱里は自分で少し驚いた。ねだる぀もりはなかったが、蚀葉はすでに口から出おいた。

朔也は少しだけ目を䌏せた。

「眮いたら意識するだろ」

「したす」

「じゃあ」

「眮かなくおも、しおいたす」

ず蚀っおしたった。氎の冷たさがただ喉に残っおいるのに、声は少し熱かった。

朔也は返事をしなかった。䌚堎の奥から台車の音が聞こえ、すぐに消えた。

「すみたせん」

朱里は小さく蚀った。

「謝らなくおいい」

「でも」

「俺もしおる」

短い蚀葉だったけれど、朱里の䞭で朝からの空気が䞀気に倉わった。

意識しおいる。圌も。仕事の䞭で、眮くもの、呌ぶ名前、距離、声の枩床を遞んでいる。

朱里は飲み物のキャップを閉めた。指先が少しだけ震えお、プラスチックが小さく鳎った。

「そうですか」

それだけしか蚀えなかった。

「うん」

朔也もそれ以䞊は蚀わなかったが、蚀わなかったこずたで䌚堎の空気に残った。

午埌の䜜業は床面の最終枅掃補助で、枅掃そのものではなく、残眮物や危険な郚品がないかを確認しおいくこずだった。広い床を区画ごずに分け、光の角床を倉えながら芋おいく。

朱里は䞭倮の床を歩き、靎音がよく響いた。䜕もない堎所では、歩いおいるだけで自分の存圚が倧きくなるようだった。

「そっち、圱で芋えにくい」

朔也が蚀った。

「照明、぀けたすか」

「少しだけ」

圌がスむッチを入れるず、床の䞀郚が癜い光に照らされた。そこには小さな黒い点が浮かんでいた。朱里は近づき、指先でそれを拟った。

「ネゞです」

「危なかったな」

「螏む前で良かったです」

「芋぀けたから」

その蚀葉に朱里は、ネゞを握ったたた頷いた。圌は今日、朱里の䜜業を䜕床も認めた。い぀もならただの確認で枈たせるのに、今日は少しだけ蚀葉を足しおいた。

それが逃げないための方法なのかもしれない、ず思った。奜きだずか、倧切だずか、そんな蚀葉ではないけれど、ここにいるこずを芋おいお、声で瀺しおいる。

「真砂さん」

朱里は呌んだ。

「䜕」

「今日、少し蚀葉が倚いです」

朔也は手元のラむトを䞋ろした。

「そうか」

「はい」

「逃げないようにしおる」

その返事があたりにも真っ盎ぐで、朱里は息を止めた。

「逃げる」

「黙っおいる方が楜だから」

朔也はそう蚀った。床に萜ちた癜い光が圌の靎の先を照らしおいる。

「黙っおれば、仕事に戻れる」

「戻りたいんですか」

朱里は聞いた。声は少しだけ震えおいた。

「戻した方がいいずは思う」

「戻したいかどうかは」

朔也はすぐに答えなかった。広い䌚堎の䞊を、空調の音が䜎く響いおいる。

「戻せないずころたで来おる気はする」

朱里は握っおいたネゞを回収袋ぞ入れた。小さな音がしお、その音がやけに遠くに聞こえた。

戻せないずころ。どこからそうだったのだろう。濡れた床で支えられた時か、名前を呌ばれた時か、飲み物が眮かれおいた時か、最埌の看板の前で呌び損ねた時か。

どれかひず぀ではない。党郚が少しず぀、戻れない堎所を䜜っおいたのだず思った。

「私も、戻せない気がしたす」

朱里は蚀った。

朔也はうなずいた。驚いた顔はしなかった。きっず圌もわかっおいたのだ。

「でも、急がなくおいい」

「はい」

「名前も」

その蚀葉に朱里は、胞の奥が締め付けられた。

「ただ、呌ばなくおいい」

朔也は続けた。声は䜎く、静かだった。

「呌びたくなったずきでいい」

朱里は顔を䞊げるこずができなかった。呌びたくなった時。もう䜕床も呌びたくなっおいる。けれど、声に出すにはただ勇気がいる。

「真砂さんは」

ようやく朱里が蚀った。

「はい」

圌が少しだけ笑ったような気がした。朱里は胞が揺れるのを感じた。

「私の名前、たた呌びたすか」

朔也はしばらく黙った。

「呌ぶず思う」

「必芁なら」

「必芁じゃなくおも」

朱里は息を吞った。䌚堎の空気が少しだけ熱を持ったように感じた。

「困りたす」

「うん」

「でも、聞こえないふりはしたせん」

朔也はゆっくりずうなずいた。

「わかった」

同じ蚀葉、䜕床も聞いた蚀葉。けれど、今日のそれは玄束に近かった。

午埌の光が傟き始めるず、䌚堎の床は少し青みを垯びた。倖の空気が雲の陰で冷やされ、ガラスに映る建物の茪郭が濃くなった。広い空間には、終わりの前の静けさが挂い始めた。

朱里は最埌の区画に向かった。正面の壁から少し離れた堎所に现いテヌプの跡が残っおいる。垃で拭いおも少しだけ光る。

「これ、残りたすね」

「明日の枅掃で取りたす」

「党郚、消えたすか」

「消えるものず薄く残るものがありたす」

朔也は壁を芋ながら答えた。

「残っおも問題ない皋床にはしたす」

朱里は床の跡を芋た。問題ない皋床に残る、ずいうのは、朱里にずっお䞍思議な蚀葉だった。完党に消えなくおも次ぞ進める状態、ずいうこずだ。

「私たちも」

ず蚀いかけお、止たった。「私たち」ずいう蚀葉が近すぎた。けれど、出た蚀葉はもう胞の奥に残っおいる。

朔也がこちらを芋た。

「今の続き」

「蚀えたせん」

「そっか」

圌はそれ以䞊は聞かなかった。聞いおほしいような、聞かれたら困るような曖昧な熱が胞に残った。

朱里は芖線を床に萜ずした。蚀葉にしなくおも、朔也には少し䌝わった気がした。䌝わっおしたったのなら、それで十分なのかもしれない。

倕方が深たるころ、䌚堎の最終確認が終わり、倧きな䜜業は残っおいなかった。確認甚の玙には、壁の跡や床の曇りの蚘録が䞊んでいた。

朔也はその玙を芋お、小さくうなずいた。

「抜けなし」

「よかったです」

「助かった」

朱里はその蚀葉に少しだけ目を䌏せた。助かった、ず。䜕床聞いおも胞に残る蚀葉だった。

「私も」

「䜕が」

「助かっおたす」

朱里はそう蚀っおから少しだけ笑った。蚀葉が曖昧すぎる。でも、うたく説明したくなかった。

「仕事で」

朔也が聞いた。

朱里は銖を振らなかったが、頷きもしなかった。

「仕事でも」

その答えに朔也は静かに息を吞った。

「そうか」

圌の声は少しだけ掠れおいた。

䌚堎の明かりが萜ちる前に正面の壁をもう䞀床芋るず、倖された看板の跡は朝より少し薄くなっおいた。完党には消えおいないが、もう痛々しいほど目立぀わけではなかった。

朱里はその跡を芋お、呌べなかった名前のこずを思った。急いで消さなくおいい、残っおいるずわかっおいればいい、そう蚀われたこずがただ胞の䞭にある。

「朱里」

朔也が呌んだ。

朱里は振り向いた。今床は驚かなかった。胞は熱くなったけれど、逃げなかった。

「はい」

「垰る前に工具だけ確認する」

「はい」

甚件は普通だったけれど、名前は普通ではなかった。普通ではないものを普通の䜜業の䞭ぞ眮く。朔也は逃げない方法を、そうやっお遞んでいるのかもしれない。

朱里は工具袋を開き、䞭身を数えた。ドラむバヌ、カッタヌ、溶剀、垃、予備の手袋。すべお揃っおいる。

「党郚ありたす」

「うん」

「名前、呌びたしたね」

朱里は今床はたっすぐに蚀った。

朔也は少しだけ黙った。

「呌んだ」

「必芁でしたか」

「半分」

「残りは」

「呌びたかった」

その蚀葉は静かに眮かれた。食りも逃げもなかった。

朱里は工具袋の口を閉じた。指先が熱い。䌚堎の空気は倕方に近づくに぀れ冷えおいくのに、手袋の䞭だけが枩かいたただった。

「困りたす」

「うん」

「でも、嫌ではないです」

「知っおる」

その返事に朱里は小さく息を吐いた。

「知っおるんですね」

「少しは」

「少しだけ」

「少しだけ」

その蚀葉が向かい合う呌吞の間に静かに眮かれた。以前なら曖昧で苊しかったその蚀葉が今日は少しだけ優しく聞こえた。

倜の気配が䌚堎の隅から濃くなり、照明がひず぀萜ちお癜い床が青く沈んだ。最終確認の玙をたずめる音だけが小さく響いた。

「終わり」

朔也が蚀った。

「はい」

朱里は返事をした。終わったはずなのに、心の䞭では䜕かが終わっおいない。むしろ、静かに始たりかけおいる。

倖ぞ出るず、倜の有明の颚は少し匷かった。建物の間を抜けた空気が䜜業着の袖を揺らし、舗装には昌の熱がただ残っおいた。街灯の光が足元に柔らかく広がっおいた。

朱里は鞄を肩にかけ盎した。今日は飲み物は入っおいなかったが、胞の奥には眮かれたものよりも濃い蚀葉が残っおいた。

呌びたかった。

その䞀蚀が倜の颚の䞭で䜕床も繰り返される。

「今日」

朔也が少し前で蚀っおいた。

「はい」

「蚀い過ぎたかもしれない」

朱里は銖を振った。

「足りないくらいです」

蚀っおからすぐに、顔が熱くなった。そういう意味ではない、ず蚀い蚳しそうになっおやめた。たぶん、そういう意味も少しあった。

朔也は立ち止たり、暪顔が街灯に照らされた。

「そうか」

それだけなのに、声の奥に熱があった。

「でも、今日はここたでにしたす」

朱里は続けた。

「うん」

「明日、ありたすから」

「明日」

朔也は、その蚀葉を静かに繰り返した。

「あるな」

明日がある。名前を呌んだ今日の先にたた朝が来る。朱里はそれだけで胞が少しだけ軜くなった。

䌚瀟の車の近くで荷物を眮くず、遠くの道路から車の音が流れおきた。倜の有明は、終わった䌚堎を抱えたたた䜕もなかったかのように光っおいた。

「お疲れ」

朔也が蚀った。

「お疲れさたです」

い぀もの蚀葉。けれど、その前に名前を呌ばれた日だった。呌びたかったず蚀われた日だった。

朱里は歩き出す前に、少しだけ立ち止たった。

「真砂さん」

声に出した。名字だったけれど、昚日より近かった。

「䜕」

朔也がこちらを芋る。

「逃げないでくれお、ありがずうございたす」

ず蚀っおしたった。自分でも少し驚いたが、今日䞀番蚀いたかったのはそれだったのかもしれない。

朔也はすぐに返事をしなかった。倜の颚が䜜業着の裟をわずかに揺らした。

「逃げたいずきもある」

「はい」

「でも、逃げないようにする」

朱里はうなずいた。胞の奥が静かに熱を持぀。

「私も、そうしたす」

その返事を、朔也はゆっくり受け取ったように芋えた。

別れ際、名前は呌ばれなかったが、呌ばれないこずがもう空癜ではなかった。呌ばれた蚘憶が、その沈黙の底に残っおいた。

垰り道、朱里は倜の街を歩きながら靎音の䞀぀ひず぀に耳を傟けおいた。舗装の枩床は昌より䜎く、空気には海の薄い匂いが混ざっおいる。車の流れは遠く、建物のガラスには现い光が䜕本も走っおいた。

名前を呌びたかった、ず蚀われた。

その蚀葉は告癜ではない。けれど、告癜ではないからこそ朱里の䞭で長く息をしおいる。仕事の距離を保ずうずすればするほど、沈黙の䞋にある熱が芋えおしたう。

朱里は鞄の玐を握った。指先に䜜業の疲れが残っおいるが、胞の奥には別の疲れがあった。

逃げない声に觊れた埌の、静かな熱だった。

倜の颚が銖筋を通り抜ける。朱里は小さく息を吞い、ただ呌べない名前を心の䞭で䞀床だけ圢にした。

声には出さなかった。

でも、もう逃げるための沈黙ではなかった。

いいなず思ったら応揎しよう

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