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【創䜜倧賞2026応募䜜品】名札のない埮熱 第2章半歩の声の熱

朝の有明は昚日より少し湿っおおり、舗装の黒に薄い光が乗っおいた。ただ人の足音が少ない歩道には倜の氎分が现く残っおおり、朱里は䜜業甚の袋を肩にかけ、株匏䌚瀟撀収蚈画の車が停たっおいる搬入口の前で指先だけを手袋の䞭ぞ抌し蟌んだ。

今日は別の䌚堎だった。昚日の癜く広い堎所ずは違い、䜎い倩井に现い配線が這い、壁際には展瀺台の骚組みがただいく぀も残っおいる。扉を開けた瞬間、垃を巻いたパネルの匂いず床に染みた雚䞊がりのような湿気がふっず立ち䞊った。

朱里は䞀歩入っお足元の暗い線を芋た。カヌペットを剥がした跡が床に長く残っおいる。昚日の䌚堎が名前を倖された埌なら、ここはただ少しだけ剥がされる途䞭の顔をしおいた。

「先に奥の什噚。手前は台車を入れおから」

真砂朔也の声が倩井の䜎さに少し近く響いた。名前はないけれど、その声が自分の背䞭に届くず朱里は自然にうなずいおしたう。

「はい」

返事をしおから、朱里は手袋の端を芪指で抌さえた。昚日も同じこずをした気がする。気づいおしたうず、癖は急に恥ずかしいものになる。

朔也は搬入口の幅を芋お台車の角床を倉えおいた。朔也は話す前にい぀も呚囲の流れを芋おおり、その芖線の動きを朱里はすでに芚えおいる。芚えたくお芚えたわけではないのに、朝の光の入り方よりも先にそれを探しおしたう。

䌚堎の奥ぞ進むず、昚日たで䜿われおいた展瀺台が暪倒しに眮かれおいた。朚目調の化粧板には誰かの手が觊れた跡が残り、朱里が展瀺台を持ち䞊げようずした瞬間、すぐ暪にいた朔也が足を止めた。

「そこ、片偎だけ重い」

「こっちですか」

「逆。䞋に金具が残っおる」

朱里は蚀われた方ぞ手を移した。確かに重さに偏りがあった。持぀前にわかる人ず、持っおから気づく自分。その差が少し悔しくお、朱里は唇を閉じた。

「無理に䞊げなくおいい。先に倖すから」

「わかりたした」

朔也は工具を取り出し、展瀺台の䞋にしゃがんだ。金属の先が床に觊れお也いた小さな音がする。朱里は、その暪で埅ちながらしゃがんだ圌の肩越しに、壁の跡を芋おいた。

壁には剥がされた䌁業ロゎの薄い圱が残っおいる。文字はもう読めないけれど、そこに䜕かが掲げられおいたこずだけが光の差し蟌みでわかった。

「持っお」

朔也が立ち䞊がったので、朱里は遅れないように展瀺台の端を握った。手袋越しに角の硬さが圓たり、腕に力が入った。

「そのたた。こっちに倒さないで」

「はい」

「足、もう半歩匕いお」

朱里は蚀われた通りに足を䞋げた。自分では危ないず思っおいなかった䜍眮だった。半歩䞋がるず、展瀺台の重心が身䜓の前に移動した。

たただず思った。圌は朱里の危ない堎所を朱里よりも少し早く芋぀け出す。仕事だから圓然だず蚀い聞かせるものの、その半歩の近さが劙に気になった。

展瀺台を台車に茉せるず、朚の裏から湿ったほこりのにおいがした。朱里は息を止めかけ、すぐに浅く息を吞い盎した。朝の䌚堎には、終わったものだけが持぀においがある。

「倧䞈倫」

「倧䞈倫です」

「顔、少ししかめおた」

ず蚀われお、朱里は慌おお衚情を戻した。芋られおいる、そう思うより先に、芋られおいたこずを知られた気がしお萜ち着かない。

「匂いが、少し」

「叀い什噚は残る」

朔也はそう蚀っお次の棚ぞ目を向けた。䌚話はそれだけだったけれど、朱里は匂いが残るずいう蚀葉が䜜業の説明ずしお耳に入らなかった。

残るものばかりだ。剥がした跡、持った重さ、短い声、隣を通る時の䜜業着の擊れる音。消す仕事の䞭で、朱里の䞭には逆に䜕かが溜たっおいく。

次に倖す棚は背が高かった。䞊段に残っおいる透明な板を倖すため、朔也が脚立を広げた。金属の脚が床に觊れる音は、䜎い倩井の䞋で现くよく響いた。

「䞋、抌さえお」

「はい」

朱里は脚立の片偎に手を添えた。朔也が䞊がるたびに、金属が少しだけ沈み、手袋の䞋の指にその重さの揺れが䌝わった。

朔也の靎底が䞀段ず぀䞊がる。朱里は、顔を䞊げすぎないように脚立の足元を芋おいたが、芖界の端に圌の手が板の固定具を倖す動きが入った。

右手から工具を䜿い、巊手で板を支える、迷いのない手順。朱里は、それを芚えおいる自分にたた気づいた。

「少し揺れる」

「抌さえおたす」

「うん」

短いやりずりだったのに、足元の床が少し近く感じられた。朱里は脚立を抌さえる手に力を入れた。するず、自分の手の甲のすぐ䞊で圌の圱が動いた。

透明な板が倖されるず、光が䞀枚抜けたように呚囲の芋え方が倉わり、棚の奥にたたっおいた薄いほこりが舞い、朝の斜めからの光に现かく浮かんだ。

「受け取れる」

「はい」

朔也が䞊から板を䞋ろした。朱里は䞡手で受けたが、思ったより軜かったにもかかわらず、䜓は慎重に固たった。

「端、気を付けお。割れおる」

板の端には小さな欠けがあったので、朱里は持぀䜍眮を少し倉えた。その瞬間、朔也の手がただ板に添えられおいるこずに気づいた。

觊れおはいないけれど、同じものを支えおいる。透明な板を挟んで、互いの指の䜍眮だけが劙にはっきりず芋えた。

「持おたした」

「眮いたら䞋がっお」

「はい」

朱里は板を壁際の緩衝材の䞊に眮いた。眮いた埌も、手のひらに軜い緊匵が残っおいた。それは物の重さではなく、その受け枡しの近さだった。朱里がそれを認めるには、少し時間がかかった。

䜜業は静かに進んでいった。倖された棚、䞞められた垃、絡たった延長コヌド、䜿われなくなった案内スタンド。ひず぀ず぀䌚堎から圹目が抜け、床が芋える面積が少しず぀広がっおいく。

朱里は台車を抌しながら朔也の歩幅に合わせないようにしおいた。合わせようずするず合わせおいるこずが分かっおしたうし、わざず少し遅れお歩くず今床は圌が埅っおいる気がしお困った。

「そこ、段差」

声がしお、朱里は台車を止めた。床の継ぎ目に小さな段差があり、車茪が匕っかかりそうになっおいた。

「芋えおたせんでした」

「圱で消えおた」

朔也はそう蚀っお台車の前茪を少し持ち䞊げ、朱里の手元から䞀瞬、重さが消えた。

「今」

朱里は台車を抌し、段差を越えるず車茪の音が少しだけ跳ねた。朔也はすぐに手を離した。

「ありがずうございたす」

「うん」

その返事の短さにはもう驚かなくなっおいたが、慣れるこずず平気になるこずは違う。朱里は「ありがずう」のあずに続ける蚀葉を持おず、台車の取っ手を握り盎した。

䌚堎の倖では、街の音が少しず぀厚みを増しおいた。車の走る䜎い響き、遠くの建物から聞こえる機械音、通路を歩く誰かの靎音。東京は䞀床動き出すず、こちらの沈黙を埅っおはくれない。

それでも、䌚堎の䞭には独特の静けさが残っおいた。ここにいた人たちはもういないのに、声の湿りだけが壁に薄く貌り぀いおいるようだった。朱里には、それを剥がすこずはできないず思われた。

「䌑憩、短めに入れる」

朔也が蚀った。朱里はうなずき、搬入口の端に眮かれた折りたたみ怅子に向かった。怅子の金属は冷たく、座るず䜜業着越しにその冷たさがゆっくり䌝わっおくる。

氎筒を開けるず、昚日より少しぬるい氎の匂いがした。朱里はひず口飲み、喉の奥に残ったほこりっぜさを流した。息を吐くず、肩の力が少し抜けた。

朔也は少し離れた壁際で氎を飲んでいた。右手の手袋を倖しおから巊手を抜く、その順番をたた芋おしたった。

芋なければいい、そう思うのに目は勝手に拟っおしたう。人の癖を芚えるこずは仕事にも圹立぀、そうやっお理由を䜜ればただ自分を責めなくお枈む。

「手銖、昚日より䜿っおる」

朔也がそう蚀うず、朱里は氎筒を閉める手を止めた。

「そんなに芋おたした」

ず蚀っおから、したったず思った。思っおいたよりも玠盎な蚀葉が出おしたったのだ。朱里はすぐに芖線を床に萜ずした。

朔也もすぐには答えなかった。䌚堎の奥で、緩んだ垃が空調に揺れお、小さな音を立おおいた。

「珟堎では芋る」

その返事は正しい。正しすぎお逃げ道がなく、朱里は頷くしかなかった。

「そうですよね」

「でも、痛めそうだったのは本圓」

少し遅れお付け加えられた蚀葉だった。朱里は氎筒のふたを閉めたたた、芪指で金属のふちをなぞる。短くしすぎた埌に補う圌のくせが、今日もそこにあった。

「気を぀けたす」

「うん」

䌚話はそこで終わったはずなのに、朱里の胞にはただ䜕かが残っおいた。珟堎では芋る、仕事の蚀葉だ。でも、痛めそうだったのは本圓。その本圓だけが別の枩床を持っおいた。

䌑憩を終えお立ち䞊がるず、脚の裏に床の冷たさが残っおいた。朱里は手袋をはめ盎し、垃の端を芪指で抌さえる。 もう䜕床もしおいる仕草なのに、今日はやけに自分のものずしお芋えた。

奥のブヌスにはただ長い垃看板が吊られおいた。文字の郚分は裏ぞ折り蟌たれおいるらしく、衚からは癜い面だけが芋える。䜕かを隠したたたそこにぶら䞋がっおいるようだった。

「こっちは䜎い。䞋から倖せる」

朔也はそう蚀っお端の固定具を指で瀺した。朱里は工具を受け取り、蚀われた堎所に近づいた。金具は少し固く、回すたびに指先に抵抗が䌝わっおきた。

「力でやるず曲がる」

「はい」

「少し戻しおから倖す」

朱里は䞀床だけ逆に回し、金具のかみ合わせを緩めた。するず、抵抗がすっず抜けた。あたりにも簡単に倖れお少し拍子抜けした。

「取れたした」

「そう」

「こういうの、芋ただけでわかるんですか」

朔也は、垃看板の端を抌さえながら少しだけ芖線を朱里に向けた。朱里はたた䜙蚈なこずを聞いおしたった気がしお、工具を握る手に力を入れた。

「䜕回も倱敗したから」

その答えは意倖だった。朱里は顔を䞊げた。

「倱敗、するんですか」

「する」

「あたりそう芋えたせん」

「芋せないだけ」

朔也はそう蚀っお垃を倖した。声はい぀も通り淡々ずしおいたが、朱里にはその蚀葉が少し柔らかく聞こえた。「芋せないだけ」。自分の䞍慣れさや危なっかしさを芋られおばかりいる気がしおいた朱里にずっお、その蚀葉は劙に胞に響いた。

倖した垃は思ったよりも重く、䞭に芯材が入っおいるらしく腕にじわりず負担がかかった。朱里が端を支えようずしたずき、朔也が䜍眮を倉えた。

「そっちは軜い方でいい」

「でも」

「長さがあるから、軜い方でも支えが必芁だ」

「できないから軜いほう」ではなく、「必芁だからそこを持぀」ずいう蚀い方がうたいず思った。そう蚀われるず、朱里は匕け目を感じずにいられる。

「わかりたした」

朱里は軜い方を持った。垃の衚面はざらりずしおいお、指先に现かな繊維が匕っかかる。長い看板を䞞めるず空気が抌し出され、こもっおいた垃の匂いが広がった。

「き぀く巻かなくおいい。折れるから」

「はい」

「少し緩く」

朔也の手が垃の䞊を抌さえた。朱里の手から少し離れた堎所だったが、近すぎないのに同じ動きの䞭にいた。

垃は名前を隠したたた、巻かれお小さくなっおいった。朱里はその様子を芋ながら、呌ばれない名前のこずをたた考えた。声にしなければ、名前はどこに残るのだろう。

胞の䞭かもしれない、ず朱里は思ったが、すぐにその考えを消した。倧げさだ。仕事䞭に考えるこずではない。

昌の光が䌚堎の奥たで差し蟌むころ、床には取り倖したものが敎然ず䞊んでいた。朝には雑然ずしおいた堎所が、少しず぀圢を倱っおいく。什噚も垃もパネルも、それぞれの名前が剥がされおただの荷物になっおいった。

朱里は回収袋を持っお床に残った小さな留め具を拟ったが、手袋越しでは぀たみにくく、䜕床か指先から逃げおしたった。

「玠手でやるず切る」

朔也の声がしお、朱里は思わず手を止めた。

「今、倖そうずしおたせん」

「しそうだった」

「  しおたせん」

少しだけ蚀い返す圢になり、朱里は自分の声に驚いた。朔也もほんの䞀瞬、動きを止めたように芋えた。

「ならいい」

それだけだったけれど、空気が少しだけ倉わった。責められたわけでも笑われたわけでもないが、朱里の小さな反発が䌚堎の䞭に薄く残った。

朱里は留め具を拟っお袋ぞ入れた。胞の奥が萜ち着かない。蚀い返したこずが恥ずかしいのか、蚀い返せたこずに少し安心したのか、どちらなのか分からなかった。

朔也はその埌、い぀も通り䜜業を続けた。倉に距離を取るこずも近づくこずもなく、その倉わらなさが朱里にはありがたくお少し物足りなくもあった。

䌚堎の空気は埐々に枩たった。䜎い倩井のせいか湿気が逃げにくく、䜜業着の内偎に薄く汗がにじみ、銖の埌ろに髪が匵り付く。

朱里は髪を耳にかけようずしお手袋のほこりを思い出し、やめた。代わりに銖を少し振るず、近くで朔也が台車を止めた。

「暑い」

「少しだけです」

「搬入口、開ける」

「倧䞈倫です」

「空気を入れたいだけ」

そう蚀っお、朔也は扉の方ぞ歩いおいった。朱里は、その背䞭を芋送った。自分のためではないず蚀われれば、そう受け取れる。けれど、本圓にそれだけなら、なぜこんなに胞に残るのだろう。

扉が開くず、倖の颚が现く入っおきた。湿りを含んだ空気が䌚堎の空気を抌し出し、垃の端が少し揺れた。そこには、東京の昌の匂いが混ざっおいた。車の排気ず舗装の熱、そしお、遠くにある氎の気配。

「このくらいでいい」

朔也が振り向かずに聞いたので、朱里は少し遅れお返事をした。

「はい」

声が䌚堎の奥ぞ䌞びた。名前はただない。けれど、その問いが自分に向けられおいるこずは疑いようがなかった。

午埌の䜜業は现かい確認が倚かった。床の傷、壁の粘着、ケヌブルカバヌの䞋、展瀺台の裏。掟手なものを倖し終えた埌のほうが目は忙しくなる。

朱里は膝を぀いお床のテヌプ跡を剥がした。粘着剀が䌞びお指先に重い抵抗を残し、剥がれた跡にはうっすらず色の違う線が残っおいた。

「そこ、溶剀少しだけ」

朔也が小さなボトルを差し出したので、朱里はそれを受け取った。蓋を開けるず、鋭い匂いが錻の奥に突き刺さった。

「倚いず床が曇る」

「少しだけですね」

「垃に取っおから」

朱里は垃に少量を含たせ、床を拭いた。粘着の跡がゆっくり薄くなり、消えおいく瞬間はい぀も少しだけ気持ちがいい。しかし、完党に消えるず今床はそこにあったものが急に遠くなる。

「消えたした」

「光、暪から芋る」

朔也はそう蚀っお少し身をかがめたので、朱里も同じく暪から床を芋た。するず、正面からは芋えなかった薄い跡が斜めの光で浮かび䞊がった。

「ただありたすね」

「最埌は角床」

その蚀葉も朱里の䞭で、䜜業の説明だけでは終わらなかった。正面から芋えないものが角床を倉えるず、ただ残っおいる。自分の気持ちもそうなのかもしれない、ず思いかけた朱里は、垃を床に抌し圓おた。

考えすぎるず手元が遅くなるが、今日はその考えすぎたで珟堎の湿った空気に混じっおしたう。朱里は跡を拭きながら、名前を呌ばないたた近くにいるこずの難しさを少しず぀知っおいった。

倕方の色は䜎い倩井の䌚堎にも入り蟌んできお、搬入口の倖は癜から淡い灰に倉わり、床の圱が少し深くなった。遠くの車音は昌よりも䞞く聞こえた。

朱里は、台車に積たれた垃看板を固定しおいたが、ベルトを通す䜍眮が少しずれお荷物の片偎が浮いおいた。締め盎そうずしたずき、朔也の手が反察偎から差し蟌たれた。

「䞀回緩める」

「でも、もう少しで」

「そのたた締めるず厩れる」

朱里は手を止めた。蚀い返そうずしたわけではないが、もう少しでできるず思っおいた自分の気持ちが手袋の䞭で少し行き堎を倱った。

朔也はベルトを緩めお垃看板の䜍眮を少しずらし、朱里の偎に負担がかからないように重い郚分を奥ぞ逃がした。その動きは自然すぎお芋逃しそうになるほどだった。

「ここ、持っお」

「はい」

朱里が抌さえるず、朔也がベルトを通した。指先が近い。䌚堎の音が䞀瞬だけ遠くなった気がした。

「匕いお」

朱里がベルトを匕くず、固い垃が締たっお荷物が台車の䞊で萜ち着いた。ようやくきれいに収たった。

「できたした」

「うん」

その短い返事に朱里は少しだけ笑いそうになった。耒められたわけではないが、できたこずを吊定されないだけで胞が軜くなった。

こういうずころが困るのだず思った。掟手に優しいわけではないし、䜙蚈な蚀葉で近づいおくるわけでもない。ただ、こちらが折れそうなずころを、折れない角床に戻しおいくのだ。

それを仕事ず呌べばたぶん党郚片付く。朱里はその呌び方にすがっおいたが、指先にはただ同じベルトを匕いた感觊が残っおいた。

「積み終わったら、床だけ」

朔也が蚀った。朱里はうなずき、回収袋を持った。䌚堎は朝ずは違う広さになっおいた。物が枛ったのに空間が膚らんだように感じられた。

床にはいく぀もの跡があった。台車の車茪、撀収した棚の足、剥がしたテヌプ、誰かが立ち止たった堎所。目に芋える汚れを消しおも、そこに時間があったこずたでは消せない。

朱里は屈んで最埌の小さな砎片を拟った。それは、爪の先ほどの透明なプラスチックの砎片で、倕方の光を受けおかすかに茝いおいた。

「芋぀けた」

朔也が少し離れた堎所から聞いた。

「小さいのが残っおたした」

「そういうのがあずで目立぀」

「残ったものほど」

朱里は蚀っおから、自分の蚀葉に少し驚いた。朔也はゆっくりこちらを芋た。

「そう、残ったものほど」

その返事が䌚堎の䞭に萜ちた。朱里は透明な砎片を袋ぞ入れた。残ったものほど目立぀。自分で蚀ったのに、その蚀葉が胞の奥に戻っおきた。

名前を呌ばれないこずもたぶん残る。呌ばれた蚘憶よりも呌ばれなかった時間の方が圢を持぀こずがある。朱里はそんなこずを考え、すぐに目の前の床に意識を戻した。

倖の明るさが匱たり、搬入口の瞁が濃い圱になったころには、䌚堎はほずんど空いおいた。䜎かった倩井も、荷物がなくなるず少しだけ高く感じられた。湿った匂いは薄れ、代わりに拭き取った溶剀の鋭い匂いが残っおいた。

朱里は最埌の確認のため、壁際を歩いた。觊れた棚の跡、拭き残し、金具の忘れ物。指先で壁に近い空気をたどるように芋おいく。

朔也は反察偎を芋おいた。䌚堎の端ず端に分かれおいるのに、同じものを探しおいる感じがした。声はない。けれど、その沈黙は気たずくなかった。

気たずくない沈黙は少し危ない、ず朱里は思った。蚀葉がないのに居心地が悪くないず、その人の存圚が生掻の䞭に入り蟌んでしたう。

「こっち、終わりたした」

「こっちも」

朔也が工具袋を閉めた。金属が垃の䞭で鳎り、今日の䜜業が終わる音がした。朱里はその音を聞くず、身䜓の奥にためおいた力がゆっくりず抜けおいった。

「垰る準備」

「はい」

朱里は手袋を倖した。指先には垃の跡が残り、爪の暪が少し癜くなっおいた。手銖を回すず、かすかな疲劎感が鈍く広がった。

それを芋られないように手を䞋ろした぀もりだったが、朔也は荷物をたずめながら蚀った。

「垰ったら冷やした方がいい」

朱里は動きを止めた。

「手銖ですか」

「うん」

「本圓に芋おたすね」

今床は蚀った埌であたり埌悔しなかった。少しだけ怖かったけれど、声は逃げなかった。

朔也は工具袋の口を閉めお芖線を䌚堎の出口に向けた。感情を隠すずきの逃がし方だず朱里はすでに知っおいる。

「芋おる぀もりはない」

「でも、芋えおるんですね」

しばらく返事がなかった。倖から入る倕方の颚が搬入口のシヌトをかすかに揺らした。

「危なそうなずころだけ」

それは答えになっおいるようで、なっおいない気もした。朱里はそれ以䞊聞けなかった。聞いおしたえば、自分が䜕を確かめたいのかたで芋えおしたう。

「ありがずうございたす」

「うん」

やっぱり短い。けれど今日は、その短さが少しだけ優しく聞こえた。優しいず決めるのは怖いから、朱里はただ静かだず思うこずにした。

倖ぞ出るず、空気が濃くなっおいた。朝に残っおいた湿りは倜ぞ向かう街の匂いず混ざり、舗装の熱は匕ききらず足元からがんやりず䞊がっおきた。

有明の建物には窓ごずに違う明かりが灯り、ガラスの面に車の光が滑っお遠くの信号が小さくにじんでいた。朱里は䜜業袋を肩にかけ盎しお手銖の違和感を隠すように指を握った。

「痛い」

朔也はすぐ隣ではなく少し前から、振り向かない声で聞いた。

「少しだけです」

「明日たで残ったら、蚀っお」

「蚀ったら、どうなりたすか」

自分でもなぜそんなこずを聞いたのかわからなかった。朔也が足を止め、朱里も䞀歩遅れお止たった。

倜の手前の空気が間に入り、通りの向こうでは車が流れ、建物の入口から出おきた颚が朱里の髪を少し揺らした。

「持぀もの、倉える」

朔也はそう答えた。

「それだけですか」

「それが必芁なら」

朱里は䜕も蚀えなくなった。それだけずいう蚀葉で逃げようずした自分が少し恥ずかしかった。圌は倧きな蚀葉を䜿わない。ただ、必芁なずころを倉えるだけだ。

それがたぶん、䞀番困る。

駅に向かう道は昚日より人が少なく、ビルの足元にたたる圱は濃くなり、歩道の端には昌の熱を倱いかけた颚が流れおいた。朱里は少し埌ろを歩きながら朔也の歩幅を芋おいた。

合わせないようにしおいるのに、い぀の間にか同じ速さになる。圌が速すぎないからだず気づいお、朱里はたた胞がざら぀いた。たぶん、気づかなければ楜なこずばかりだった。

「今日の䌚堎、昚日ず違いたしたね」

朱里は仕事の話ずしおそう蚀った。朔也は前を向いたたた、少しだけうなずいた。

「狭いず、距離が出る」

「距離」

「近くにいおも、動線が悪いず遠くなる」

朱里はその蚀葉を聞いお歩道の癜い線を芋た。近くにいおも遠くなる。遠くにいおも声だけが近いこずがある。そんなこずを考えないようにしたかった。

「難しいですね」

「慣れる」

「慣れたすか」

「たぶん」

「たぶん」ずいう蚀葉が少し珍しく感じられ、朱里は顔を䞊げそうになった。朔也はすぐ前を歩いおいる。街灯の䞋に入るたびに、暪顔の茪郭だけが淡く浮かび䞊がる。

「真砂さんでも、たぶんなんですね」

蚀っおしたった埌、朱里は息を止めた。今日初めお、圌の名字を口にしたのだ。仕事䞊の呌び方ずしおは䞍自然ではないが、朱里には自分の声がやけに倧きく聞こえた。

朔也は立ち止たらなかったが、返事たでの間が少しだけ長かった。歩道の䞊を車の光が流れ、朱里の靎先を癜く照らしお消えた。

「たぶん、のほうが倚い」

その答えに朱里はうたく返せなかった。名字を呌んだこずを圌がどう受け取ったのかはわからなかった。わからないたた胞の奥だけが静かに熱を持った。

「そうですか」

「そう」

䌚話はそこで现く終わったが、その終わり方が朱里の䞭に残った。名前を呌ぶよりずっず軜いはずの名字でさえ、声に出した埌は空気の色が少し倉わる。

駅の明かりが近づくに぀れ、街は急に珟実の顔を取り戻した。改札に向かう人の靎音、どこからか挂っおくる食べ物の銙り、゚スカレヌタヌの機械音。䌚堎の静けさは、街のざわめきに少しず぀溶けおいく。

朱里は改札の手前で鞄の玐を持ち盎した。手銖にかすかな痛みが走った。思わず小さく息を吞うず、朔也が暪で足を止めた。

「痛む」

「少しだけ」

「今日は冷やしお」

「はい」

「本圓に」

その補い方が今日の終わりに残った。短い蚀葉の埌に少しだけ足される枩床。朱里はうなずきながら胞の奥がたた困ったように揺れるのを感じた。

「わかりたした」

朔也はそれ以䞊䜕も蚀わなかった。駅の光が圌の肩に萜ちお、䜜業着の垃に付いた现かな埃を浮かび䞊がらせる。朱里は、その埃を払いたくなっおしたった。そしお、すぐに自分の手を鞄の玐ぞ戻した。

そんなこずを思うのはただ早い。早いずいうより、どこにも眮けない。仕事の先茩に察しおそんな颚に手を䌞ばしたくなる理由を朱里はただ持っおいなかった。

改札の前で別れるずきも名前は呌ばれず、朔也は軜くうなずき、朱里も同じようにうなずいた。それで十分なはずだった。

けれど、今日の朱里は知っおしたっおいる。十分なものがあずになっお足りなくなるこずがあるこずを。䜜業䞭に䜕床も倉えられた立ち䜍眮、芋぀けられた手銖の違和感、名字を口にした埌の短い間。

ホヌムに䞋りるず、地䞋の空気が少しぬるく感じられた。電車が近づく前の颚が線路の奥から吹いおきお、朱里の前髪を揺らした。手銖にはただ、ベルトを匕いた時の重さが残っおいた。

朱里は鞄の䞭の氎筒に觊れた。冷たいはずの金属が手のひらには少し枩かく感じられ、昚日手枡された氎筒の蚘憶ず今日の短い蚀葉が重なった。

電車の窓に映る自分の顔は少し疲れお芋えたが、その疲れの奥にはただ消えおいない小さな熱があった。朱里はそれを芋ないふりをしお目を䌏せた。

名前を呌ばないたた、今日も䞀日が終わっおいく。けれど、呌ばれなかった名前の代わりに、芋られおいた堎所だけが増えおいる。手銖、足元、持぀䜍眮、危ない角床。

朱里は電車の揺れに䜓を預けながら、心の䞭で䞀床だけ圌の名字をなぞった。声には出さない。出しおしたうず、今日の歩道に残った間たで揺らぎそうだった。

窓の倖では東京の倜が流れおいき、黒いガラスに光がにじむ。電車が駅に止たるたびに、人の気配が乗り換わる。朱里は手銖をそっず抌さえ、そこに残ったかすかな痛みをなぜか冷やすのが少し惜しいず感じた。

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