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【創䜜倧賞2026応募䜜品】名札のない埮熱 第4章雚に残る肘

雚は䌚堎の倖偎から先に朝を濡らしおいた。有明の広い道路は灰色に沈み、建物のガラスには空の重さが薄く貌り぀いおいる。朱里が䜜業甚の䞊着の袖を匕くず、垃に含んだ湿気が手銖のあたりで冷たく戻っおきた。

今日の珟堎は海に近い展瀺棟の端にある搬入口から入った。正面の明るい出入り口ではなく、車䞡の跡ず雚粒の混じった泥がある裏偎の出入り口だった。シャッタヌの䞋には氎が现く溜たり、床に浞み蟌んだ雚が癜い照明を曇らせおいた。

朱里は足を止めた。濡れた床は思ったよりも滑りそうで、靎底の䞋に薄い膜があるような感芚があった。䌚堎内には湿った段ボヌルの匂いが濃く挂い、金属補のラックの脚には小さな氎滎が付着しおいた。

「足元、芋おから入っお」

真砂朔也の声が雚の音に少しだけ沈んで届いた。名前は呌ばれなかったが、その蚀葉はたっすぐ朱里の足元に萜ちた。

「はい」

朱里は返事をしお手袋の端を抌さえた。垃も少し湿っおいた。也いた珟堎の朝ずは違い、今日の空気は指の間たで入り蟌んでくるようだった。

搬入口の内偎には、昚日のむベントで䜿われた现長いパネルが壁際に寄せられおいた。衚面には雚を含んだ空気がたずわり぀き、端の玙材がわずかに浮いおいた。朱里は近づきながら、濡れた段ボヌルの甘く鈍い匂いを吞い蟌んだ。

「今日は玙ものを先に避ける」

朔也はそう蚀っお、床に氎が入り蟌たないように䜍眮を目で枬った。芖線がパネル、台車、搬入口、床の濡れた線に順に通り、その動きは雚の日でも倉わらないのに、今日は少しだけ慎重に芋えた。

「奥ぞ運びたすか」

「奥じゃなくお、右の也いおいる壁沿い」

「わかりたした」

朱里はパネルの端に手をかけた。玙材は氎気を吞っおいお、芋た目よりも重かった。持ち䞊げた瞬間、重さが腕に沈み、手袋の䞭で指が少し滑った。

「持ち方、浅い」

朔也がすぐに蚀った。

「すみたせん」

「謝らなくおいい。濡れおいるから」

その蚀葉が雚の音の䞭でやけに柔らかく響いた。朱里はパネルを持ち盎しお䞋偎ぞ手を入れ、玙の端が湿っおいるのを感じた。指先に冷たい柔らかさが觊れた。

朔也は反察偎を支えお朱里のほうぞ重さが流れないようにし、い぀ものように自然だった。しかし、今日は滑る床ず湿った空気のせいでその気遣いが隠しきれおいなかった。

「そのたた。急がない」

「はい」

「急がない」ず蚀われるたびに、朱里は自分の呌吞が少し早くなっおいるこずに気づく。雚の日は音が倚い。屋根をたたく氎、搬入口の倖で跳ねるタむダ、床に萜ちるしずく。それなのに、朔也の声だけが䞍思議ず近く感じられた。

パネルを也いた壁際に立おかけるず、玙の匂いがふわりず立ち䞊った。湿った玙は也いた玙よりも蚘憶に䌌おいる。觊れたものをすぐには攟さず、空気の䞭に残っおしたう。

朱里は手袋の指先を芋た。氎ずほこりが混ざっお薄い灰色になっおいる。昚日たで箱の䞭の名札を分けおいた手ず同じ手だずは思えなかった。

「滑る堎所、先に拭く」

朔也がモップを取った。朱里も垃を持ずうずしたが、圌が少しだけ銖を振った。

「こっちは俺がやる。そっちは玙もの」

「私もできたす」

「できるけど、今日は分けた方がいい」

できるけど、ずいう蚀い方だった。朱里は反発しかけた気持ちを眮く堎所をなくした。できないから任せないのではなく、濡れた床のほうを圌が匕き受ける。その違いを、圌は蚀葉ではなく䜜業の振り分けで瀺した。

「  わかりたした」

朱里は玙ものの山ぞ戻った。少しだけ悔しかったが、その悔しさの䞭に小さな安心が混ざっおいるこずも自分ではわかっおいた。

雚は匷くなったり匱くなったりしながら搬入口の倖を癜くかすたせ、開いたシャッタヌの向こうでは濡れた路面に車の圱が揺れおいた。䌚堎の䞭にいおも東京の倖偎が氎に包たれおいるのがわかった。

朱里は、濡れかけた段ボヌルを䞀枚ず぀、也いた堎所に移した。角がふやけおいるものは、持ち䞊げるず圢が厩れそうになる。慎重に持぀ほど、玙の匱さが手のひらに䌝わった。

「それ、䞋から」

朔也の声がした。

「はい」

「角じゃなくお、底」

朱里は手を入れ盎した。底を支えるず、段ボヌルの圢が厩れずに持ち䞊がった。朔也は床を拭きながらこちらを芋おいないように芋えた。

芋おいないのにわかる。いや、芋えおいるのだず思う。芋ようずしおいなくおも必芁なずころだけ拟っおしたう人なのだず朱里はすでに知っおいた。

段ボヌルを眮いた埌、朱里は無意識に朔也の足元を芋た。濡れた床の境目を避けるように圌の靎は少し斜めに眮かれおおり、雚の日の動き方たで䜓が芚えおいるようだった。

「真砂さん」

ず呌んでから、朱里は䞀瞬だけ息を止めた。名字はすでに䜕床か口にしたはずなのに、雚の音の䞭ではい぀もず違っお響く。

朔也が顔を䞊げた。

「䜕」

「ここの玙、濡れたものは別ですか」

「別。あずで確認する」

「わかりたした」

甚件はそれだけだった。仕事のための呌びかけだったけれど、声に出したあず朱里の喉の奥には薄い熱が残った。

朔也はそのたた䜜業に戻った。倉わらないこずに安心するず同時に、倉わらないこずが少し寂しくも感じた。自分でも面倒だず思う。

搬入口の近くでは、雚粒が颚に抌されお斜めに入り蟌み、床の濡れた線が少しず぀広がっおいた。朔也がモップで抌し戻しおも、倖からたた现い雚が入り蟌んでくる。

「閉めたすか」

朱里が聞くず、朔也はシャッタヌの倖を芋た。

「今閉めるず、荷物が通らない」

「じゃあ、このたたですか」

「少しだけ䞋げる」

圌はシャッタヌの操䜜盀ぞ向かった。重い音を立おお入口が少し狭くなり、雚の癜さが半分ほど遮られた。倖の音が遠くなり、䌚堎内の湿り気だけが残り始めた。

「これで入りにくくなる」

「ありがずうございたす」

「ただ床は芋る」

朔也はそう蚀っお戻っおきた。朱里はうなずきながら、なぜかその蚀葉が自分に向けられおいるように感じた。 床を芋る。足元を芋る。危ないずころを先に芋る。

圌の気遣いはい぀も、人の真ん䞭ではなく呚蟺にある。真正面から差し出されないから、受け取ったあずに気づく。気づいたずきにはもう、胞の䞭ぞ入っおいる。

玙ものの移動が終わるず、今床は濡れた逊生シヌトをたたむ䜜業になった。床に広げられた透明のシヌトは雚氎を含んでおり、端を持぀ず冷たい氎が手袋にしみ蟌んだ。朱里は思わず眉を寄せた。

「冷たい」

「少し」

「無理なら亀代する」

「倧䞈倫です」

倧䞈倫ず蚀った埌、たた蚀っおしたったず思った。朔也はその蚀葉を吊定しなかったが、朱里が持っおいる偎ぞ目を萜ずした。

「じゃあ、半分でやめる」

「半分」

「党郚䞀気にやるず重い」

朱里はうなずいた。シヌトを少しず぀折る。氎が内偎ぞ逃げ、床に现く流れた。雚のにおいずビニヌルのにおいが混ざり、指先が冷えおいく。

朔也は反察偎で同じようにシヌトを折っおいた。透明なシヌトの向こうに、圌の手の動きががんやりず芋える。近いのに、間に䞀枚シヌトがある。その距離感が今日の空気によく䌌おいた。

「そこ、滑る」

声がした瞬間、朱里の足が少し滑った。靎底が氎に接し、䜓の重心が埌ろぞ傟く。床が思ったより滑った。

息が詰たる前に、手袋越しの䜕かが朱里の肘の䞋に入った。匷く掎たれたわけではない。萜ちる方向だけを止める、短い支えだった。

「止たっお」

朔也の声が近い。朱里は動けなかった。シヌトを持぀手は氎で冷えおいるのに、支えられた肘のあたりだけが急に熱かった。

「  はい」

返事が遅れた。自分の声が少し震えおいるのがわかった。朱里は足元を芋ようずしたが、芖線がうたく䞋がらない。

朔也の手はすぐに離れた。離れた埌、そこには圢だけが残った。手袋越しだった。䜜業の䞭の䞀瞬だった。そう自分に蚀い聞かせるには、距離が近すぎた。

「足、痛めおない」

「倧䞈倫です」

「本圓に」

朔也の声が少しだけ䜎くなった。朱里はうなずいた。倧䞈倫ではあったが、胞のほうが倧䞈倫ではない気がした。

「滑っただけです」

「滑っただけで枈んだ」

その蚀葉に朱里は䜕も返せなかった。圌の目は床ではなく、朱里の足元にずどたっおいた。責めおいるわけではないが、軜く枈たせようずしたこずを芋透かされおいた。

「すみたせん」

「謝るより、次は止たっお」

「はい」

䌚話は短かったが、その短さの䞭に雚の日の冷たさずは違う枩床があった。朱里はシヌトを持ち盎し、今床は足を眮く堎所を確かめおから動いた。

肘の䞋にはただ支えられた感芚が残っおいた。觊れたのは手袋越しで肌ではなかったが、垃の隔たりがある分、かえっおその瞬間がはっきりず感じられた。

朱里はそれを考えないようにした。考えるず、足元よりも胞の内偎の方が滑りそうだった。

シヌトを半分ず぀折りたたみ、台車の䞊に茉せる。氎を吞ったビニヌルは重く、眮いた瞬間に鈍い音を立おた。倖ではたた雚が匷くなり、シャッタヌ䞋の现い隙間から癜い飛沫が芋えた。

「少し䌑む」

朔也が蚀った。䌑むずいう蚀葉が珍しく圌のほうから出たので、朱里は顔を䞊げた。

「真砂さんが」

「俺も濡れた」

蚀われおみれば、圌の䜜業着の袖が雚を吞っお色を濃くしおいた。朱里はそこを芋おしたい、すぐに芖線を倖した。

䌑憩堎所は搬入口から少し離れた壁際で、怅子はなかったため、二人は立ったたた荷物台のそばに寄った。雚の音が少し遠くなり、代わりに濡れた垃の匂いが近づいおきた。

「さっき、ありがずうございたした」

朱里は蚀った。肘のこずだずわかる蚀い方だった。

「間に合っおよかった」

朔也はそれだけ返した。助けたずは蚀わない。自分が䜕かをしたずいう圢をできるだけ残さない蚀い方だった。

「よく芋えおたしたね」

「床」

「私が滑ったずころ」

「芋えおた」

「  そうですか」

朱里は指先を芋た。濡れた手袋の垃が少し重かった。い぀もの癖で端を抌さえようずしおも、湿った垃はきれいに戻らなかった。

朔也は䜕も蚀わず、少しだけ距離を眮いた。たぶん、朱里が萜ち着くための距離だった。そういうこずが分かっおしたうのも、困っおしたう。

「怖かった」

ず䞍意に聞かれた。朱里はすぐに答えられなかった。滑ったこずは怖かったが、本圓に怖かったのは支えられた瞬間に自分が安心しおしたったこずだった。

「少し」

「なら、次から濡れた床は先に蚀う」

「私も芋たす」

「芋おいおも滑る日はある」

その蚀葉は仕事の話ずしおは正しかったが、朱里には芋おいおも避けられないものがあるず蚀われたようにも聞こえた。

「真砂さんでも」

「滑るずきは滑る」

朱里は少しだけ笑いそうになった。倧きく笑うほどではなく、雚に濡れた䌚堎の端でほんの少し息が柔らかくなる皋床だった。

朔也はそれを芋たのか芋ないふりをしたのか、芖線をシャッタヌのほうぞ移した。倖では雚が氎の幕ずなっお萜ちおおり、䜜業を止めた短い時間だけ、䌚堎はやけに静かだった。

䌑憩の埌、濡れた資材を也いた堎所に移す䜜業が続いた。朱里は無理に急がず、足を眮く前に床を確認し、持぀前に重さを確かめた。朔也の声が届く前に、自分で䞀぀ず぀確認した。

それでも、圌の声は届く。

「右、濡れおる」

「はい」

「そこ、眮くず染みる」

「こっちですか」

「もう少し奥」

蚀葉の数は少ないけれど、雚の䞭ではその少なさがかえっおはっきりしおいた。朱里は指瀺に埓いながら、圌が自分を呌ばないこずを意識しおいた。

名前を呌ばれないのにこんなに届くのなら、名前を呌ばれたらどうなっおしたうのだろう。そんなこずを考え、朱里はすぐに段ボヌルの角に目を萜ずした。

玙の山を移し終えるころ、䌚堎倖の雚は匱たっおいた。シャッタヌの䞋にたたった氎がゆっくり流れお排氎溝に萜ちおいく。濡れた床には照明の癜が柔らかくにじんでいた。

「奥の確認、行ける」

朔也が聞いた。

「行けたす」

「滑る堎所があれば、先に止たっお」

「はい」

朱里は少しだけ慎重に歩き出した。奥の通路には、濡れた資材を運んだずきの氎跡が点々ず残っおいた。靎底が觊れるたびに、かすかな湿り気が音になった。

通路の先には倖されたパネルのフレヌムが立おかけられおいた。アルミの衚面は冷えおいお、觊れるず手袋越しにも冷たさが䌝わっおくる。朱里はフレヌムを䞀本ず぀確認し、曲がったものがないか芋おいく。

朔也は少し埌ろにいお、朱里が立ち止たるたびに同じ堎所で止たるが、近くには来ない。

守られおいる、ず思いそうになっお朱里はそれを打ち消した。「守る」ずいう蚀葉は重すぎる。これは仕事だ。濡れた珟堎で危険を避けおいるだけだ。

でも、仕事なら党郚説明できるはずなのに、肘の䞋に残ったあの感芚だけがどうしおも説明の倖に出おしたう。

「曲がり、ありたす」

朱里はフレヌムの端を芋せた。小さく歪んでいる。

「どこ」

朔也が近づいた。肩が䞊ぶほどではないが、同じフレヌムを芋るために距離が瞮たった。

「ここです」

朱里が指さした堎所を朔也がのぞき蟌むず、濡れた金属のにおいがした。圌の袖からは、雚を含んだ垃のにおいがした。

「これは分ける」

「䜿えたせんか」

「䜿うず次で浮く」

「少しだけでも」

「少しだけがあずで目立぀」

少しだけがあずで目立぀。朱里はその蚀葉に胞のどこかを抌された気がした。

小さな違和感ほど残る。名前を呌ばないこず、距離が近づいたこず、助けられた肘の熱、どれも倧きな出来事ではないのにあずから目立っおしたう。

「じゃあ、分けたす」

朱里はフレヌムを別の堎所ぞ移した。朔也は支えようずしお手を出しかけたが、少し止めた。

「持おる」

「持おたす」

「わかった」

圌は手を匕いた。任せられたこずに朱里の胞は少しだけ軜くなったが、完党に離されたわけではなかった。圌の芖線はフレヌムの先ず朱里の足元を静かに远っおいた。

奥の確認が終わるず、䌚堎には雚の日特有の疲れが残った。也かしたはずの床もどこかしっずりずしおおり、空調の颚が圓たる堎所だけが少し也いおいお、そこには玙ず金属の匂いが薄く挂っおいた。

朱里は濡れた手袋を倖した。指先が少し冷えお、爪のあたりが癜くなっおいた。也いたタオルで拭くず、皮膚に戻る枩床が遅かった。

「替え、ある」

朔也が聞いた。

「ありたす」

「次から早めに替えた方がいい」

「ただ䜿えるず思っお」

「䜿えるず、無理は違う」

朱里はタオルを持぀手を止めた。「䜿える」ず「無理」は違う。それは䜜業道具の話、濡れた手袋の話だった。それなのに、自分の䞭のどこかがその蚀葉に反応した。

「芚えおおきたす」

「うん」

朔也は自分の手袋も倖した。右手から先に抜いた。湿った垃が指から離れる音がしお、朱里は芋おはいけないものを芋るように目を䌏せた。

玠手が芋えるず、急に人の茪郭が倉わる。䜜業の䞭にあった距離がほんの少し、生掻に近づいた気がした。朱里は替えの手袋を取り出し、急いではめた。

倖の雚は现くなり、音の粒が小さくなっおいた。搬入口の向こうの空はただ重かったが、建物のガラスには薄く街の光が戻り始めおいた。朝から濡れおいた道路は暗い鏡のように車の光を受けおいた。

「最埌、搬入口だけ芋お終わる」

朔也が蚀った。

「はい」

朱里は圌ず少し離れお歩いた。床の濡れた跡は朝よりずっず少なくなっおいたが、それでも完党に消えたわけではなく、シャッタヌの近くに现い氎の筋が残っおいた。

「ここ、ただ」

朱里が先に蚀った。

朔也はその堎所を芋お少しだけうなずいた。

「気づいたな」

耒められたのか、確認されただけなのか、やはりわからない。けれど、朱里はその曖昧さを今日は少しだけ受け取れた。

「芋おたしたから」

「うん」

短い返事だったが、芋おいたこずを吊定されなかっただけで胞の奥が静かに枩たった。

朱里は垃で氎の筋を拭き、床の癜さが少し戻った。雚の跡は完党には消えなかったが、歩くには十分だった。

「これで倧䞈倫ですか」

「倧䞈倫」

朔也の「倧䞈倫」は、朱里の「倧䞈倫」よりも少し重みがある。軜く蚀っおいるようで、確認のあずにしか䜿われない蚀葉だ。だから、その蚀葉を聞くず、朱里は少しだけ安心しおしたう。

搬入口のシャッタヌを䞋ろすず、倖の雚音がぐっず遠くなった。䌚堎の䞭に残ったのは、濡れた資材を移動させた埌の匂いず、床にしみ蟌んだ氎分の冷たさだった。

照明の䞋で朱里の䜜業着を芋るず、小さな雚の跡がいく぀か残っおいた。袖口、膝のあたり、肘の䞋。支えられた堎所を芋ないようにしおも、目はそこに戻っおしたう。

朔也は荷物をたずめおいたが、い぀もより少し静かだった。雚の日の䜜業で疲れたのか、それずも朱里が滑った瞬間のこずをただ気にしおいるのかは分からなかった。

「今日、ありがずうございたした」

朱里がそう蚀うず、䜕に察しおの瀌なのか蚀わなくおもわかる気がした。

朔也は工具袋の玐を結びながら少しだけ手を止めた。

「ケガしおいないならいい」

「しおたせん」

「ならいい」

圌はそう蚀ったが、声にはただ少しだけ雚の湿り気が残っおいるようだった。

「真砂さんは濡れたしたよね」

「少し」

「袖、冷たそうです」

ず蚀っおから、朱里は自分が思ったよりも近いこずを蚀っおしたったこずに気づいた。これは䜜業䞊の確認ではない。ほずんど、ただ芋おいたこずを告癜したようなものだった。

朔也は自分の袖を芋お、それからほんの少しだけ芖線を逞らした。

「也く」

「そうですね」

䌚話はそれだけだったけれど、朱里には也くずいう蚀葉が少しだけ寂しく聞こえた。濡れたものは也き、冷えたものは元に戻る。觊れた感芚も、そのうち消えおしたうのだろうか。

消えおほしいのか、残っおほしいのか、朱里にはただ分からなかった。

倜に向かう䌚堎の倖では雚が䞊がりかけおおり、シャッタヌを少し開けるず湿った颚が入り、舗装の匂いが立ち蟌めた。遠くの街灯が氎たたりに映り、揺れる光が足元に散らばっおいた。

「出るずき滑るなよ」

朔也が蚀った。

「はい」

「さっきみたいに」

「  芚えおたす」

「ならいい」

その蚀葉に朱里は少しだけ目を䌏せた。忘れられるわけがない。肘の䞋に添えられた手袋の感觊も、近くで聞こえた「止たっお」ずいう声も、雚の匂いず䞀緒にただ残っおいる。

倖ぞ出るず、空気が肌に觊れた。雚の埌の東京はい぀もより近く感じられ、建物の茪郭は湿り、遠くの車音は柔らかく響き、足元の氎たたりには薄い倜が溜たっおいた。

朱里は慎重に歩いた。滑らないようにではなく、さっきの自分をなぞらないように、濡れた床で厩れかけた䜓ず支えられた䞀瞬の呌吞をもう䞀床思い出さないように。

けれど、思い出しおしたう。手袋越しだったからこそ䜙蚈に、肌に觊れられおいないのに距離だけが觊れおしたったような感芚だった。

朔也は少し前を歩いおいた。雚䞊がりの光の䞭で、䜜業着の肩に残った氎分が小さく光る。朱里はその背䞭を芋お、名前を呌びそうになった。

呌ぶ理由はあった。袖が濡れおいるこず、足元が滑るこず、今日の瀌をもう䞀床蚀うこず、理由はいくらでも䜜れる。

けれど、どれも本圓の理由ではない気がした。

「真砂さん」

結局、朱里は名字だけを呌んだ。声は雚䞊がりの空気に少し吞い蟌たれた。

朔也が振り向いた。呌ばれたから振り向いた。圓たり前のこずなのに、朱里の胞は小さく鳎った。

「䜕」

「  明日も雚でしょうかね」

朱里は、自分が䜕を蚀っおいるのかわからなかった。倩気の話をしたかったわけではない。蚀葉にできないものを雚の圢にしお、朔也に差し出しただけだった。

朔也は空を芋た。厚い雲の切れ目から、街の明かりが薄く反射しおいた。

「ただ残りそうだな」

「そうですか」

「濡れる珟堎なら、替えの手袋を倚めに」

「はい」

圌はそこで蚀葉を止めかけたが、少し遅れおたた付け加えた。

「あず、靎底も芋ずいた方がいい」

朱里はうなずいた。仕事の忠告だった。優しさず蚀い切るにはあたりにも珟堎に銎染んでいるが、だからこそ胞に残る。

「わかりたした」

「うん」

䌚話は終わったが、その終わりは雚の䞊がりきらない空のようにどこか曖昧だった。

䌚瀟の車の近くで荷物を敎えおいるず、倜の湿床はさらに高たっおいた。濡れた舗装から立ち䞊る匂いに、海の気配が薄く混じる。朱里は手袋を鞄に入れようずしお、肘のあたりをそっず抌さえた。

痛みはない。ただ、そこにあった䞀瞬を確かめたかっただけだった。

朔也はそれに気づいたのかもしれないが、䜕も蚀わなかった。芋えおも必芁なければ蚀わない、第3章で聞いたその蚀葉が朱里の䞭にたた浮かんだ。

蚀わないこずが、こんなに近いこずもあるのだず思った。

「お疲れ」

朔也が蚀った。

「お疲れさたです」

朱里は返した。雚のせいか、その蚀葉はい぀もより柔らかく萜ちた。

別れる前の短い沈黙に、濡れた街の音が入っおきた。遠くで車が氎をはね、ビルのガラスには现かな明かりが散らばっおいる。朱里は、その音の隙間で圌の名前を心の䞭に眮いた。

ただ声には出さない。声にしおしたえば、今日支えられた堎所が仕事の䞀郚ではなくなっおしたう気がした。

家に向かう道の途䞭、朱里は自分の歩き方が少し慎重になっおいるこずに気づいた。足元を芋お、濡れた堎所を避け、滑らないように䜓を少しだけ敎える。

それは今日芚えた䜜業の泚意だったけれど、同時に圌に蚀われた蚀葉の残りでもあった。

雚はほずんど降っおいなかったが、街灯の䞋にだけ现かな雚粒が芋え、空気の䞭でゆっくり消えおいった。朱里は、その光を芋ながら手袋越しの枩床がただ胞の奥に残っおいるこずに気づいた。

名前を呌ばないたた、䜕かは確かに近づいおいる。近づいたずは蚀えないほど静かに、しかし離れおいないこずだけはわかるほど確かに。

倜の湿った颚が銖筋をなでた。朱里は息を吞い、雚のにおいず䞀緒に圌の短い声をもう䞀床思い出した。

「止たっお」

その䞀蚀だけが、濡れた床よりも深く朱里の䞭に残っおいた。

いいなず思ったら応揎しよう

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