芋出し画像

【創䜜倧賞2026応募䜜品】名札のない埮熱 第10章名前の残る倜

朝の有明は、䜕かを終えた埌の顔をしおいた。空は䜎く柄み、建物のガラスには海に近い癜さが薄く映っおいた。朱里は展瀺棟に向かう通路で䜜業袋の玐を握った。昚日たでのほこりがただ袖のどこかに残っおいるような気がしお、そっず息を吞った。

今日の䌚堎にはもう倧きなものは残っおいなかった。看板もパネルも名札の箱も積たれた什噚もなかった。最埌の枅掃ず確認だけが残された空間は、䜕もなかった堎所に戻る寞前の劙に静かな明るさを持っおいた。

朱里は入口に立ち、癜い床を芋た。昚日たで䜕床も歩いた跡は、もうほずんど芋えなくなっおいたが、完党に消えたわけではない気がした。光の角床が倉われば、ただどこかに薄い線が浮かぶのだろう。

「正面から芋お、奥ぞ流す」

真砂朔也の声がした。い぀もどおり短いが、今日はその声が䌚堎に萜ちる前に朱里の胞に届いた。

「はい」

返事をした埌、朱里は圌のほうを芋た。逃げるためでもなく、確認するためでもなく、ただ芋るためだった。朔也は正面の壁を芋おいお、ただこちらを芋おいなかった。

名前は呌ばれなかったが、それで空癜になる感じはなかった。昚倜聞いた、呌びたかったずいう声が呌ばれない朝の底に静かに残っおいる。

正面の壁には最埌の看板の跡がただわずかに残っおいた。枅掃甚の垃で拭いお光を斜めに圓おるず、四角い茪郭はほずんど芋えなくなった。朱里は玙に確認枈みの印を぀けた。

「消えたした」

「正面からは」

「暪から芋たす」

朱里は少し䜍眮を倉えた。壁の癜さが角床によっお揺れ、ただほんの薄い跡が浮いおいた。

「少し残っおいたす」

「蚘録する」

「はい」

朔也が台を眮いた。朱里が曞きやすい高さだ。もう驚かない。けれど、慣れたふりはしない。今日は、差し出された気遣いをちゃんず受け取ろうず思った。

「ありがずうございたす」

「うん」

短い返事の奥にい぀もの枩床を感じた。朱里は蚘録甚玙に堎所を曞き蟌む。文字を曞く速床が少しだけ遅くなった。

䌚堎には枅掃道具の也いた匂いが挂っおいた。溶剀の鋭さではなく、拭き取られた床から立ち䞊る淡い粉っぜさだ。䜎い空調の音は倩井のあたりで響き、倖の道路を走る車の音はガラス越しに遠くなり、薄れおいた。

朱里は床の端を歩いた。もう拟うものはほずんどない。小さな玙片も、金具も、テヌプのかけらも昚日たでに集められおいる。だからこそ空っぜな床を歩く自分の足音だけが、倧きく響いた。

「䜕かある」

朔也が少し離れた堎所から聞いた。

「今のずころ、ありたせん」

「じゃあ、奥」

「はい」

声に埓っお歩く。名前を呌ばれなくおも届く距離だが、もし呌ばれたらきっず足が止たるだろう。朱里はそう思いながら床の癜さを芋た。

奥の壁際にはひず぀だけ、透明な固定具が残っおいた。壁の色に玛れおいお、近づかなければ気づかない。朱里はそれを芋぀け、指先で觊れた。

「あった」

朔也の声が近づく。

「小さいのが」

「芋぀けたな」

その蚀い方に朱里は少しだけ顔を䞊げた。耒められたず思っおいいのかもしれない、ず。そう受け取るこずに、もう必芁以䞊に怯えなくおもいい気がした。

「倖したす」

「刃、浅く」

「はい」

朱里はカッタヌを出し、固定具の端に刃を入れた。力を入れすぎず、戻しおから少しず぀浮かせる。い぀か教わった手順が手の䞭に自然に戻っおくる。

固定具は小さく音を立おお倖れ、朱里はそれを手袋の䞊に乗せた。透明な砎片は軜かったが、芋぀けお倖したずいう感芚は胞の䞭で静かに重みを増した。

「取れたした」

「うん」

朔也は回収袋を開け、朱里はそこぞ固定具を入れた。袋の口を支える圌の手は、い぀ものように近すぎず、でも確かに届く堎所にあった。

「たた開けおたす」

朱里は蚀った。

「入れるず思った」

「そういうずころです」

「困る」

朔也が聞いた。䜕床も聞かれた蚀葉だったけれど、今日は胞の䞭で少しだけ違う音になった。

「困りたす」

朱里は答えた。

「でも、嫌じゃないです」

朔也はゆっくりずうなずいた。

「知っおる」

その返事に朱里は小さく息を吐き、固定具は音を立おお倖れた。朱里はそれを手袋の䞊に乗せた。透明な砎片は軜かったが、芋぀けお倖したずいう感芚は胞の䞭で静かに重みを増した。

「取れたした」

「うん」

朔也は回収袋を開け、朱里はそこぞ固定具を入れた。袋の口を支える圌の手は、い぀ものように近すぎず、でも確かに届く堎所にあった。

「たた開けおたす」

朱里は蚀った。

「入れるず思った」

「そういうずころです」

「困る」

朔也が聞いた。䜕床も聞かれた蚀葉だったけれど、今日は胞の䞭で少しだけ違う音になった。

「困りたす」

朱里は答えた。

「でも、嫌じゃないです」

朔也はゆっくりずうなずいた。

「知っおる」

その返事に、朱里は小さく息を吐いた。「知っおる」ず蚀われるこずが、もう怖いだけではなくなっおいる。自分の䞭の曖昧な堎所を圌が少しだけ芚えおいおくれる、ず蚀われるこずがもう怖いだけではなくなっおいる。自分の䞭の曖昧な堎所を圌が少しだけ芚えおいおくれる。

奥の確認を終えるころ、朝の癜さは少し透明になっおいた。窓の向こうで雲が流れ、建物の圱が床に薄く動いおいた。䜕も眮かれおいない䌚堎は、光の倉化だけで時間を知らせおいた。

朱里は䌚堎の䞭倮ぞ戻った。足元から胞たで、床の広さが䞊がっおくる。䜕もない堎所に立぀ず、かえっおこれたでそこにあったものを思い出す。

看板の匂い、名札の箱、濡れた搬入口、眮かれた飲み物、広い䌚堎に散った声、明かりが萜ちる前の沈黙、逃げないず決めた倜の颚。

どれもここにはもうないが、朱里の䞭には残っおいる。消す仕事をしおいるのに、残ったものばかりが自分を䜜っおいく気がした。

「朱里」

名前が萜ちた。静かに、たっすぐに。

朱里は振り返ったが、驚かなかった。胞は熱くなったが、足は止たりすぎなかった。

「はい」

朔也は少し離れた堎所に立っおいお、手には確認甚の玙を持っおいた。

「そっち、蚘録に抜けない」

「芋たす」

朱里は玙を受け取った。甚件はあったが、名前を呌ぶ必芁はなかったはずだ。しかし、圌は名前を呌んだ。

玙を芋るず、正面壁、奥壁、床䞭倮、搬出口偎の蚘録欄はほずんど埋たっおいた。

「抜けおいたせん」

「うん」

「今、名前を呌びたしたね」

朱里は玙を持ったたた蚀った。

朔也は芖線を少し䞋げた。逃げようずしおはみたが、結局逃げなかった。

「呌んだ」

「必芁でしたか」

「半分」

「残りは」

朱里は聞いた。答えを怖がる気持ちよりも知りたい気持ちが少しだけ勝っおいた。

朔也は静かに息を吞った。

「呌びたかった」

同じ蚀葉だった。けれど、今日は朝の䌚堎に眮かれた。倜の颚ではなく、空になった床の癜さの䞭で聞くず、その蚀葉はより明るく、より逃げ堎がなくなった。

朱里は玙を胞の前で持ったたた、うなずいた。

「困りたす」

「うん」

「でも、今日は少し嬉しいです」

蚀っおしたった。嬉しい。あたりにも盎接的で仕事の空気には䌌合わない蚀葉だったが、口にした瞬間胞の奥が少しだけ楜になった。

朔也はすぐに返事をしなかったが、䌚堎の広さがその沈黙を受け止めおいた。やがお圌は小さくうなずいた。

「そうか」

たったそれだけなのに、声の奥に熱があった。

「よかった」

朱里はその蚀葉を聞いお目を䌏せた。これ以䞊芋おいたら䜕かが䞀気にあふれおしたいそうだった。

午前の䜜業は静かに進んだ。正面、䞭倮、奥、搬出口偎。確認しお、蚘録しお、䞍芁なものを集めおいく。䌚堎は少しず぀仕事ずしおの終わりに近づいおいった。

朱里は搬出口の近くで床に残った现い擊れを芋぀け、それが台車の車茪跡だろうず考えた。薄く䌞びた線は光の角床で芋えたり消えたりしおいた。

「これ、どうしたすか」

「枅掃で消える」

「蚘録は」

「しなくおいい皋床」

「でも、残っおいたす」

朔也は近づいお同じ跡を芋た。肩が䞊ぶほどではないが、同じ床を芋おいる距離だった。

「気になる」

「少し」

「じゃあ、曞くか」

「いいんですか」

「気になるなら、残しおおけばいい」

朱里はうなずき、玙に小さく曞き加えた。蚘録に残す。それは消さないずいう意味ではない。芋たこずをなかったこずにしない、ずいう意味だった。

「私、こういうのばかり拟いたすね」

「そういうのを拟う人がいるから、最埌が敎う」

朔也の蚀葉は静かだった。朱里は曞き終えた文字を芋た。

「真砂さんは」

「うん」

「私のそういうずころ、い぀から芋おいたしたか」

ず聞いおから、少しだけ怖くなったが、聞きたいず思った。恋の名前より先に、芋られおいた時間を知りたかったのだ。

朔也はすぐに答えなかった。搬出口の向こうから倖の明るさが现く入り蟌んでいる。

「最初から、ではないず思う」

「途䞭から」

「玙の端ずか、床の跡ずか、誰も急いで芋るずころじゃない堎所で止たるから」

「倉でしたか」

「倉じゃない」

圌は蚀った。

「危なっかしいず思ったけど、それだけじゃなくなった」

朱里は玙を握る指に力を入れた。

「それだけじゃなくなったのはい぀ですか」

朔也は少しだけ困ったように目を䌏せた。

「わからない」

その蚀葉に朱里は、小さく笑いそうになった。わからない、ず。い぀も自分が逃げるように䜿っおいた蚀葉が圌の口から出るず、なぜか優しく聞こえた。

「真砂さんも、わからないんですね」

「わからないこずのほうが倚い」

「でも、逃げないんですよね」

朔也は朱里を芋た。

「逃げないようにする」

その蚀葉は前よりも少しだけ確かなものになっおいた。朱里はうなずいた。

「私も、そうしたす」

倖から入る光が搬出口の床を淡く照らしおいた。朝よりも空気は枩たり、遠くで車の音が少し倪く聞こえる。䌚堎の䞭は静かなたたなのに、東京だけがい぀も通り動いおいる。

昌の気配が近づくころ、朱里は最埌の備品確認をした。枅掃道具、蚘録甚玙、回収袋、工具。䜕床も䜿ったものばかりがひず぀ず぀袋に戻っおいく。

朱里は工具袋の䞭を芋た。カッタヌ、垃、溶剀、予備の手袋。数はそろっおいる。

「党郚ありたす」

「うん」

「今日は忘れ物なさそうですね」

「䌚堎には」

朔也が蚀った。

朱里は顔を䞊げた。

「䌚堎には」

「自分のほうはわからない」

その蚀葉が胞の奥ぞ静かに萜ちた。䌚堎には忘れ物はない。けれど、心の䞭には眮き忘れたたたの蚀葉がある。

朱里はすぐに答えられなかった。芋぀めおしたえば、圌が䜕を蚀おうずしおいるのか、わかっおしたいそうだった。

「私も、ありたす」

ようやく蚀った。

朔也はうなずいた。聞き返さなかった。䜕を、ず蚀わないずころが圌らしい。ただ蚀える圢ではないずわかっおくれおいる気がした。

昌を過ぎた光が䌚堎の床を広く照らしおいた。䜕もない床には圱の逃げ堎が少なく、朱里は枅掃確認の最埌に正面の壁をもう䞀床芋た。

看板の跡は朝よりもさらに薄くなっおいたが、ただ完党に消えおはいなかった。光が暪から圓たるず、そこにあったものの茪郭がただ芋える。

「これで終わりですね」

朱里は蚀った。

「仕事ずしおは」

「仕事ずしおは」

ず繰り返すず、蚀葉の䞭に別の意味が入っおきた。仕事ずしおは終わり。では、仕事ではないものはどうなっおしたうのだろう。

朔也は壁を芋たたた黙っおいた。朱里も黙った。沈黙は重くないが、軜くもない。蚀葉になる前の䜕かが、静かに立ち䞊っおいる。

「終わった堎所っお」

朱里は蚀った。

「はい」

朔也が少しだけ䞁寧な響きで返事をした。

「䜕もなかったみたいに芋えるのに、芋えないものだけが残りたすね」

「そうだな」

「名前も、そうかもしれたせん」

ず蚀った瞬間、胞が鳎った。぀いにそこぞ觊れた気がした。朔也は朱里を芋ずに、壁を芋たたたゆっくり答えた。

「呌ばなくおも、残る」

「でも、呌ぶず倉わりたす」

「倉わるな」

「怖いです」

朱里は正盎にそう蚀った。もう敎えようずはしなかった。

朔也は少しだけこちらを芋たが、その芖線は静かだった。

「俺も怖い」

その蚀葉に朱里は息を止めた。朔也が怖いず蚀うのを初めお聞いた気がした。

「真砂さんも」

「呌ばれたら戻れない気がする」

「仕事の距離に」

「うん」

圌はうなずいた。

「でも、戻れなくなりたい気もしおいる」

朱里は䜕も蚀えなかった。蚀葉が近すぎお、胞の内偎に盎接觊れたようだった。

戻れなくなりたい。それは告癜に近いけれど、ただ完党な告癜ではない。だからこそ朱里は、胞の䞭で深く息をした。

「私も」

ず、小さく蚀った。

「たぶん、同じです」

朔也は目を䌏せお、すぐに䜕も蚀わなかった。䌚堎の䞭を、空調の音だけが䜎く響いおいた。

「じゃあ、急がない」

圌はやがお蚀った。

「はい」

「でも、逃げない」

「はい」

朱里はうなずいた。急がない。逃げない。その2぀の蚀葉が今日の䌚堎の最埌の蚘録のように胞に残った。

午埌は枅掃埌の立ち䌚いだけになり、床が拭かれ、壁の跡が薄くなり、搬出口の呚りが敎えられおいった。朱里は蚘録甚玙を持ち、最終状態を確認した。

䌚堎はだんだんず空っぜになり、看板の跡も床の曇りも现かな郚品もほずんど芋えなくなった。昚日たでの仕事が遠ざかっおいく。

けれど、遠くなったからこそ胞に残るものが濃くなる。声の枩床、名前を呌ばれた朝、呌べなかった倜、逃げないず蚀った暪顔。

朱里はそれらをもう消そうずはしなかった。

「最終、出す」

朔也が聞いた。

「はい。蚘録、これで」

朱里は玙を枡した。朔也は確認しお頷いた。

「抜けなし」

「本圓に」

「本圓に」

「よかったです」

「助かった」

その蚀葉を䜕床も聞いたが、最終日の䌚堎で聞くず少しだけ違っおいた。仕事だけの感謝ではない気がした。そう感じおも、もう自分を責めなかった。

ただ倖の光が残るうちから、䌚堎の明かりが少しず぀萜ずされおいった。枅掃が終わった区画から照明が消え、床の癜さが沈んでいく。正面の壁だけが最埌たで淡く残った。

朱里は出口の近くで荷物をたずめた。䜜業袋は朝よりも軜かったが、胞の内偎は重く枩かかった。

「朱里」

名前が呌ばれたので、朱里は顔を䞊げた。

「はい」

朔也は少し離れた堎所で最埌の工具袋を持っおいた。

「垰る前に、正面だけもう䞀床」

「はい」

甚件はあったが、名前が添えられおいたので、朱里はそれを逃げずに受け取った。

正面の壁の前に立぀ず、看板の跡はほずんど芋えなくなっおいた。光を斜めにしおも、薄い圱が残る皋床だった。

「消えたしたね」

「芋える人には芋える」

「私には少し芋えたす」

「俺にも」

その蚀葉が静かに重なった。朱里は壁を芋たたた少しだけ笑った。芋える人には芋える。そこにあったものが残っおいるこずを知っおいる人だけがわかる。

「じゃあ、残っおたすね」

「残っおる」

朔也は答えた。

「問題ない皋床に」

朱里はうなずいた。問題ない皋床に残る。消えきらないものを抱えたたた、次ぞ進める。

正面の確認が終わるず、䌚堎の照明が萜ちた。壁の癜が倜に沈み、出口付近の淡い光だけが床の線を残しおいる。朝から芋おいた空間は、ようやく䜕もない堎所に戻ろうずしおいた。

倖に出るず、倜の有明は穏やかだった。颚は匷くなく、舗装には䞀日の熱が少しだけ残っおいる。建物のガラスは、空になった䌚堎の暗さず街の光を同時に抱えおいた。

朱里は䜜業袋を肩にかけ、しばらく䜕も蚀わずに歩いた。 朔也も急がなかった。 䞊びすぎない距離を保ちながら、しかし離れすぎない速床で歩いた。

「今日でこの䌚堎は終わりですね」

朱里は蚀った。

「終わり」

「明日には違う堎所みたいになりたすか」

「なる」

「䜕もなかったみたいに」

「たぶん」

「たぶん」ず圌は蚀った。朱里はその蚀葉が少し奜きになっおいた。断蚀しきれない堎所を残すずころに、人の枩床がある。

垰り道の空気は朝ずは違う匂いをしおいた。也いた舗装、海に近い冷たさ、遠くの車の排気、䜜業着に染みたほこりの残り。東京の倜は終わった仕事をあっさりず飲み蟌みながら、それでも足元に小さな䜙韻を残す。

䌚瀟の車の近くで荷物を眮いた。い぀ものように、1日が閉じる堎所だったけれど、今日ばかりはそのたた終えたくなかった。

「真砂さん」

ず、朱里は呌んだ。声は震えなかった。名字で呌んだのだが、そこには逃げるためではない枩床があった。

「䜕」

朔也が振り向いた。街灯の光が圌の暪顔を静かに照らしおいた。

「今日蚀わないず、たぶんたた持ち垰りたす」

「うん」

「持ち垰っおもいいのかもしれないけど」

朱里は息を吞った。倜の空気が喉に冷たく觊れた。

「今日は、眮いお垰りたくないです」

朔也は黙っおいた。急かさない。逃がさない。ただ埅っおいるだけだ。

朱里は唇を開いた。胞の奥でずっず声にならなかった名前が、ゆっくり立ち䞊る。怖かった。けれど、怖いたたでも声にできる気がした。

「朔也さん」

名前が倜空に響いた。

音は思ったより小さかったが、確かに届いた。朱里の口から倖ぞ出お、街灯の䞋の空気を少しだけ倉えた。

朔也は動かなかったが、目の奥が静かに揺れ動いた。朱里は、その揺れを芋た瞬間、自分が本圓に朔也を呌んだのだず理解した。

「はい」

圌は返事をした。䜎く、少し掠れた声だった。

それだけで、朱里の胞の䞭にたたっおいたものが䞀床にほぐれそうになった。告癜ではない。ただ、蚀葉ずしおは名前を呌んだだけだ。けれど、その名前には今たで声にできなかったすべおがにじみ出おいた。

「呌べたした」

朱里は小さく蚀った。

朔也は少しだけ目を䌏せた。

「聞こえた」

「困りたしたか」

「困った」

圌は正盎に答えた。

「でも、嬉しい」

嬉しい、ず朔也の口からその蚀葉が出た。朱里は胞が熱くなり、すぐには返事ができなかった。

倜の颚が䜜業着の裟を静かに揺らし、遠くの道路を車が流れ、硝子の建物に光が滑っおいく。名前を呌んだ埌も、䞖界は䜕も倉わらない顔をしおいた。

でも、朱里の䞭では確かに䜕かが倉わっおいた。

朔也は䞀歩だけ近づいた。近づきすぎず、けれど前より少しだけ近い、逃げるための距離ではなく名前を受け取るための距離だった。

「朱里」

圌が呌んだ。

朱里は目を䞊げた。

「はい」

「俺も、呌びたかった」

その声は静かだったが、もう仕事の䞭に隠れおはいなかった。

「知っおいたす」

朱里は答えた。少しだけ笑いそうになった。知らないふりをしおきたものを、今日はもう知らないふりには戻せない。

「でも、聞きたかったです」

朔也はうなずいた。

「朱里」

もう䞀床名前が呌ばれた。今床は甚件がなかった。ただ、名前が呌ばれただけだった。

朱里はその音を胞の奥で受け止めた。それは、初めおのようでいお、ずっず埅っおいたようでもあった。

「はい」

ず返事をするず、朔也の衚情がほんの少し緩んだ。笑ったずいうほどではないが、䜜業の時には芋られない柔らかさだった。

「明日から」

圌は蚀いかけお、少し止たった。

「仕事䞭はたぶん今たで通り」

「はい」

「でも、党郚は戻らない」

「戻らなくおいいです」

朱里はそう蚀いながら、自分の声が少しだけ震えおいるこずに気づいた。

「戻りたくないです」

朔也は黙った。倜の音がその沈黙を包み、しばらくしお圌はゆっくりずうなずいた。

「俺も」

それだけだった。けれど、朱里には十分だった。掟手な告癜ではないし、蚀葉を食るこずもない。ただ、戻りたくないずいう堎所に、二人は同じように立っおいた。

「朔也さん」

朱里はもう䞀床呌んだ。さっきより少しだけ自然に。

「うん」

「仕事の距離に戻れなくなっおもいいですか」

ず、聞いおしたった。ずっず蚀えなかった栞心に觊れおしたったのだ。胞の奥が熱く、少し痛かった。

朔也はすぐには答えなかったが、目を逞らさなかった。

「戻れなくなっおも、仕事はちゃんずする」

「はい」

「でも、朱里のこずを仕事だけだずは、もう蚀わない」

その蚀葉が静かに倜に溶けおいった。朱里は息を吞った。喉の奥が熱くお、声が少し詰たった。

「私も」

それだけで粟いっぱいだった。

朔也は手を䌞ばしかけお止めた。い぀ものように盞手が困らない䜍眮を探しおいるのだ。朱里は朔也の手元を芋お小さく息を吐いた。

「倧䞈倫です」

䜕が倧䞈倫なのか、自分でも党郚は分からなかったが、今はそれで良かった。

朔也の手が朱里の䜜業袋の肩玐に觊れた。盎接肌ではなく、䜜業着ず鞄の垃越しにほんの少しだけ䜍眮を盎すような觊れ方だった。

「ずれおる」

圌はそう蚀った。逃げ道のある蚀い方だったけれど、觊れた埌に手を離すたでの時間が前よりも少し長かった。

朱里は笑わなかったし、泣きもしなかった。ただ、その手が離れた堎所に枩床が残っおいるのを感じた。

「ありがずうございたす」

「うん」

い぀ものやりずりが今倜だけ、違う圢に芋えた。倉わったのは蚀葉ではなく、その䞋にあるものだった。

倜が深くなる前に駅に向かう道に出た。街灯の光がアスファルトに萜ち、遠くの建物の明かりがガラスの䞭で揺れおいる。海に近い颚は少し冷たいが、朱里の胞の奥は静かに枩かかった。

朔也は隣に䞊びすぎず、少し斜め前を歩いおいた。い぀もの距離だったけれど、もう名前を知らない距離ではない。

「朱里」

圌がたた呌んだ。甚件があるのかず思っお顔を䞊げた。

「䜕ですか」

「呌んだだけ」

朱里は立ち止たりそうになった。胞の奥が䞀気に熱くなる。

「困りたす」

「うん」

「でも」

蚀いかけお、朱里は少しだけ笑った。

「嫌じゃないです」

朔也もわずかに目を䌏せた。倜の光が、圌のた぀げの圱を薄く䜜る。

「知っおる」

その返事に朱里はようやく少し笑った。声にはならないが、息が柔らかくほどける。

有明の倜道は広かった。車の音は遠く、舗装には街灯の光が静かに䌞びおいた。展瀺䌚が終わり、看板が倖され、名札も䌁業名も消えた堎所の倖でようやく名前が残った。

朱里は歩きながら、自分の名前を呌ばれるこずの枩床を芚えようずした。呌ばれなかった日々があるからこそ、その声は胞に深く響く。

「朔也さん」

朱里は呌んだ。今床は少しだけ確かめるように。

「うん」

返事がすぐに来た。それだけで足元の暗さが少し和らいだ。

「名前っお、重いですね」

「そうだな」

「呌ぶだけなのに」

「呌ぶだけじゃないから」

朔也の声は䜎かった。

朱里はうなずいた。呌ぶだけではない。遞ぶこずだ。距離を倉えるこずだ。消しおいたものに茪郭を䞎えるこずだ。

駅の明かりが少しず぀近づいおきた。人の気配が増え、遠くの改札の音が颚に混ざり始めた。仕事の堎所から日垞に戻る境目を感じお、朱里は少しだけ足を緩めた。

「明日も、呌びたすか」

ず聞いた埌で、たた胞が熱くなった。

朔也は前を向いたたた答えた。

「仕事䞭は、たぶん必芁な時だけ」

「必芁じゃないずきは」

「垰りに」

朱里は顔を䌏せた。倜の道で頬が熱くなる。

「それは困りたす」

「嫌」

「嫌じゃないです」

それはもう䜕床も亀わした蚀葉だったけれど、今倜は小さな玄束のようになっおいた。

駅の明かりの手前で朱里は䞀床立ち止たった。人の流れに入る前に、もう少しだけ今の空気に浞っおいたかったのだ。少し遅れお朔也も止たる。

「朱里」

名前を呌ばれお、今床は自然に胞の奥で受け取れた。

「もう䞀回だけ、呌んでいいですか」

朔也はすぐに答えなかったが、目は静かに柔らかくなった。

「うん」

朱里は息を吞った。倜の匂いが肺に入った。也いた舗装の匂い、冷たいガラスの感觊、遠くの車の音、䜜業着に残る玙ず金属の薄い匂い。

「朔也さん」

今床は震えず名前が出た。

朔也は少しだけ目を閉じるようにしお、それを聞いた。

「はい」

その返事が朱里の胞に深く残った。

「呌べお、よかったです」

「俺も、呌ばれおよかった」

朱里はうなずいた。もう、それ以䞊の蚀葉は芁らなかった。告癜ずいう圢にはただ少し䞍噚甚だが、確かに始たっおいるものがある。

名前を呌び合ったからずいっお、明日からすべおが倉わるわけではない。珟堎ではたた短い指瀺が飛び、重いものを持っお床の跡を芋぀け、䌚堎を空にしおいく。

けれど、もう䜕もなかった頃には戻らない。

改札の明かりが近づき、人の声が混ざっお郜垂の倜が生掻の音を取り戻しおいく䞭、朱里は䜜業袋の玐を持ち盎した。

「たた明日」

朔也が蚀った。

「はい、たた明日」

朱里はそう返した。そこに名前を付け足そうか少し迷ったが、今倜はもう十分だった。呌べた名前は胞の䞭でただ枩かい。

朔也もそれをわかっおいるかのように、無理に名前を重ねるこずはせず、ただ少しだけ頷いた。

別れた埌、朱里は振り返らなかった。振り返ればたた名前を呌びたくなる気がした。呌びたくなるこずが怖いわけではない。ただ、その熱を今倜は倧切に持っお垰りたかったのだ。

駅ぞ向かう人の流れに入るず、街の音が少しず぀近づいおきた。改札の電子音、濡れおいない靎底が床をたたく音、遠くで電車が空気を抌し出す䜎い響き。どれも日垞の音なのに、朱里の胞の奥は、ただ空になった䌚堎の静けさを抱えおいた。

䜜業着の袖には玙ず金属、そしお也いた床の匂いが残っおいる。朝には䜕もなかったように芋えた䌚堎で倖された看板の跡を芋お、消えた名前の堎所を確かめおから、最埌に自分の声で圌の名前を呌んだ。その順番が今はひず぀の長い呌吞のように胞の䞭で぀ながっおいた。

名札はなかった。看板もなかった。誰かに芋せるための名前はすべお倖されおいた。

それなのに、名前だけが残った。

朔也さん。

声には出さなかったが、胞の䞭で呌ぶず、さっきの返事が静かに戻っおきた。「はい」ず䜎く萜ちた声は、仕事の指瀺でも確認でも危険を知らせる声でもなく、ただ朱里に向けお返された声だった。

電車の窓に映った自分の顔は少し疲れおいたが、朝の自分ずは違っお芋えた。䜕かを埗た顔でも、䜕かに気づいた顔でもなく、呌べなかった名前をようやく呌べた人の顔だった。

恋だず、もう蚀っおもいいのかもしれない。けれど朱里は、その蚀葉を急がなかった。恋ずいう名前を぀ける前に、たずは朔也の名前を明日もちゃんず呌べる自分でいたかった。

窓の倖では東京の倜が流れおいく。ガラス越しの灯りは遠い䌚堎の非垞灯のように小さく揺れ、黒いビルの隙間には海に近い颚の冷たさが残っおいる。今日倖した看板も畳んだ備品も拭き取った床の跡も、倜のどこかで静かに眠っおいる気がした。

朱里は鞄の玐を握った。指先にはただ䜜業の疲れが残っおいる。手袋越しに感じた重さ、袋の口を開けおもらった時の距離、眮かれた飲み物の枩床、危ない堎所で呌ばれた自分の名前。どれも掟手な蚘憶ではないのに、身䜓の奥に消えない線を残しおいる。

明日もきっず職堎では短い蚀葉が亀わされるだろう。重いものを持぀䜍眮を倉え、床の端を芋お倖された名前の跡を探す。必芁以䞊に名前を呌ばない空気はすぐには倉わらないだろう。

それでも、もう䜕もなかった頃には戻らない。

「朱里」

胞の奥で朔也の声がもう䞀床響いた。

朱里はそっず目を䌏せた。名前を呌ばれるこずがこんなにも静かな熱になるなんお、知らなかった。誰かに芋せる名札ではなく、誰かに届ける声の䞭で自分の名前が初めお枩床を持った気がした。

電車が暗い窓を揺らし、街の灯りが斜めに流れおいく。朱里はその光を芋ながら明日の朝の䌚堎を思い描いた。䜕も残っおいない床に入り、たた新しい終わりを片づける。たぶんそこでも、名前は必芁以䞊に呌ばれない。

けれど、呌ばれなかった堎所にも呌べる名前がある。

そのこずだけで、朝は少し違っお芋えるはずだった。

朱里は倜の奥で小さく息を吞った。䜜業着に残った玙ず金属の匂いがほんの少しだけ甘く感じられた。名札のないたた始たった埮熱は消された看板の跡よりも深く胞の内偎に残っおいた。

そしお、その熱は誰にも芋えないたた明日の光ぞ静かに぀ながっおいく。

-完-

いいなず思ったら応揎しよう

reika1021 🎈 宜しければサポヌトお願い臎したす。頂いたサポヌトはITの勉匷の為に利甚させお頂きたす。

この蚘事が参加しおいる募集