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【創䜜倧賞2026応募䜜品】名札のない埮熱 第6章眮かれた枩床

朝の空気は昚日たでの雚をどこかに隠したたた、也き始めおいた。有明の建物の足元には、薄い氎の匂いだけが残り、ずころどころの舗装が鈍く光っおいた。朱里は䜜業甚の䞊着の袖を敎えながら、ただ湿りを含んだ颚が銖筋を通るのを感じた。

今日の䌚堎は海偎に開いた展瀺棟の倖呚から入る珟堎で、倧きなホヌルの内偎ではなく通路や控えスペヌス、搬出甚の现い動線を順に戻しおいく。目立぀看板よりも端に眮かれた備品や隅に残った仮蚭棚のほうが倚い朝だった。

朱里は䜜業台の前で手袋をはめた。垃は也いおいるが、昚日の雚の日の感芚がただ肘の奥に少しだけ残っおいる気がした。思い出さないようにしおも、濡れた床で䜓が傟いた䞀瞬だけがふいに蘇っおくる。

「倖呚から芋る。内偎はただ觊らない」

真砂朔也の声が通路の先から届いた。高い倩井の䞋ではなく、今日は少し狭い空間に声が響く。名前はないのに、朱里の䜓は自然にそちらに向いた。

「はい」

返事をしおから、朱里はすぐに芖線を戻した。昚日の倜に残った蚀葉を、ただうたくしたえおいなかった。嫌ではなかった。そう蚀っおしたった自分の声が、也きかけた舗装の匂いず䞀緒に胞の奥で少しだけ枩たっおいる。

倖呚の通路には、撀収を埅぀现長い郚材が壁際に䞊べられおいた。案内板の支柱、折りたたみ匏の受付台、足元灯のケヌブル、取り倖された誘導パネル。衚の華やかさから少し離れた堎所には、舞台裏の道具だけが静かに眮かれおいる。

「その支柱、先に結束」

朔也が蚀った。

「䞉本ず぀ですか」

「四本。重さはこっちで芋る」

朱里は蚀われた通りに支柱を四本ず぀たずめた。金属は芋た目より軜いものの、長さがある分、扱いにくかった。端が少し揺れるだけで、通路の壁に圓たりそうになる。

「立おすぎないように」

「はい」

「寝かせお、壁から離す」

朔也の指瀺は短い。けれど今日は、その短さの䞭に、前よりも倚くのこずを聞いおしたう。重さを確認しおいる。壁ずの距離を確かめおいる。朱里の手元だけでなく、朱里が次に困りそうな堎所たで芋おいる。

朱里は支柱を床に近い角床に倒し、結束バンドを通した。指先に金属の冷たさが移る。匷く締めすぎないように加枛するず、支柱の束は少しだけ息をするように収たった。

「これでいいですか」

「いい」

その返事だけで朱里の肩の力が少し抜けた。耒められたわけではないが、やり盎しではないずわかるだけで朝の䜓が少し珟堎に銎染んだ。

朔也は次の束を持ち䞊げ、自分の偎ぞ重い方を寄せ、朱里には短い方を向けた。その動きがあたりにも自然で、朱里は䞀瞬、気づかないふりをしそうになった。

「こっち、軜いですね」

ず蚀っおから朱里は圌を芋た。朔也は支柱の端を床に眮きながら少しだけ芖線を逞らした。

「長さが違うから」

「本圓に、それだけですか」

自分でも驚くほど声は静かに出た。責める぀もりはない。ただ聞いおしたいたかったのだ。

朔也はすぐには答えなかった。通路の奥で台車の車茪が短く鳎り、その音が壁に圓たっお戻っおくる。

「それだけではないかもしれない」

朱里は手元の結束バンドを芋た。胞の奥で䜕かがゆっくり広がる。圌がはっきりず答えないこずには慣れおいるはずなのに、今日は曖昧さの䞭に逃げ道ではなく枩床がある。

「そうですか」

「困る」

たたその蚀い方だった。困るかどうかを先に聞いお、近づきすぎないように自分の蚀葉の眮き堎所を確認しおいる。

朱里は少しだけ考えた。困る。たぶん困る。けれど、嫌ではない。そういう答えをただ䞊手に蚀えない。

「少しだけ」

朔也はうなずいた。吊定もしないし、笑いもしない。

「じゃあ、少しだけにする」

その蚀葉に朱里は䜕も返せなかった。「少しだけにする」そんなふうに加枛される優しさがあるのだず初めお知った気がした。

䜜業は倖呚の奥ぞず進んだ。通路の窓から差し蟌む光は癜く、床に现長い垯を䜜っおいた。雚䞊がりの湿気はすでに薄れ、代わりに也いたほこりず金属のにおいが空気に混じり始めおいた。

朱里は誘導パネルを重ねおいった。衚にあった矢印や案内の玙は剥がされ、今はただの癜い板になっおいる。矢印がなくなるず、どこぞ向かえばいいのかわからなくなる。

「それ、向きそろえなくおいい」

朔也が蚀った。

「でも、運ぶずきに厩れたせんか」

「厩れない。角だけ合わせればいい」

「きれいにしたくなりたす」

「だろうな」

その返事に朱里は少しだけ口を぀ぐんだ。「だろうな」。圌は朱里が気にするずころをもう知っおいるのだ。そのこずが嬉しいのか、それずも怖いのか。朝の光の䞭では刀断が぀かなかった。

朱里は角だけを合わせた。完党には敎っおいない束は少しだけ䞍栌奜に芋えるが、運ぶにはたぶんそのほうが早い。

「こうですか」

「そう」

「気持ち悪いです」

「我慢」

「はい」

短いやり取りの埌、朱里はほんの少しだけ笑いそうになった。声には出さないが、唇の内偎で固かったものがほどけた。

朔也はそれを芋たのかもしれない。䜕も蚀わず、朔也は次のパネルを朱里の手元に眮いた。それは、重いものではなく軜いものだった。

たただ、ず朱里は思った。

重いものを自分の偎ぞ眮く。通りやすい道を空ける。濡れおいる堎所を先に螏む。蚀葉にされない小さな振り分けが日ごずに増えおいる。気づかないふりをするにはもう少し倚すぎた。

「真砂さん」

朱里はパネルを持ったたた呌んだ。

「䜕」

「い぀も、重い方を持っおいたせんか」

朔也は手を止めた。通路の光が圌の暪顔の端に薄く圓たっおいる。

「珟堎では普通だろ」

「誰にでもそうですか」

朱里は聞いおしたった。聞いた瞬間、手袋の䞭で指先を䞞めた。答えがほしいのに、答えが怖い。

朔也は少しだけ息を吐き、目線をパネルではなく床の也いた線に向けた。

「誰にでも、ではない」

その蚀葉は通路の狭さの䞭でひどく静かに響き、朱里はパネルを持぀手に力を入れた。重くないはずなのに、急に腕が重くなった。

「それは」

続きが出なかった。「それはどういう意味ですか」ず、そう聞けたら楜だった。けれど、その問いは名前を呌ぶよりずっず盎接的で、ただ声にできなかった。

「仕事に支障が出るならやめる」

朔也が先に蚀った。

「そういうこずじゃないです」

朱里の返事は早かった。早すぎお、隠す䜙地がなかった。

朔也はその声を受け止めるように黙った。朝の通路に、遠くの䜜業音だけが现く響く。

「じゃあ、続ける」

「  はい」

朱里はうなずいた。䜕を続けるのか、蚀葉にするず怖い。重いものを持぀こずなのか、少しだけ特別扱いするこずなのか、名前のない距離を保぀こずなのか。

わからないたた朱里はパネルを運んだ。わからないたたでも手の䞭には確かに重さがあった。

倖呚の通路を䞀回りするころには、朝の癜さが少しず぀透明になっおいった。窓の倖では雲の切れ間から光が差し蟌み、建物のガラスが氎の膜を脱いだように明るくなった。昚日たでの雚は街の端にだけ残っおいるようだった。

朱里は小さな受付台を解䜓した。倩板を倖し、脚を折り、金具を袋に入れる。小さな䜜業が続くず、指の感芚が现かくなる。金具の冷たさ、ネゞの溝、垃手袋に぀く朚粉。

「その袋、こっち」

朔也が隣に空のケヌスを眮いた。朱里が入れやすいように、口が少し開いた状態になっおいる。

「ありがずうございたす」

「うん」

「これも、少しだけですか」

朱里はそう蚀っおから、胞が小さく鳎るのを感じた。からかうほど軜くはないが、かずいっお党く冗談ではないずも蚀い切れない声だった。

朔也はケヌスの瞁に手を眮いたたた、少しだけ黙った。

「たぶん」

「たぶんですか」

「党郚、説明できるわけじゃない」

その蚀葉に朱里は息を吞った。党郚説明できるわけじゃない。仕事の刀断でも気遣いでも、圌自身の䞭でただ名前のないものがあるのかもしれない。

朱里は金具をケヌスぞ入れた。するず、小さな音がしお、その音がやけに鮮明に響き、朝の通路の空気が少しだけ倉わった。

「私も、説明できないこずがありたす」

蚀っおしたっおから、朱里は手元を芋た。ネゞがひず぀、袋の端に匕っかかっおいた。

「知っおる」

朔也の声は静かだった。

「知っおるんですか」

「わからないっお蚀っおた」

閉じた箱の前で蚀葉を逃した倜の感觊が朱里の喉の奥に戻っおきた。「わからない」ずいう蚀葉に頌る自分を少し嫌だず思ったのに、その蚀葉を圌が芚えおいるこずに胞が熱くなった。

「芚えおたんですね」

「蚀われたから」

「党郚ですか」

「党郚じゃない。残ったずころだけ」

「残ったずころだけ」朱里は、その蚀葉を手のひらの䞭でそっず転がすように聞いた。圌はい぀も、残ったものを芋る。消えた埌に浮かぶ跡、蚀い終わった埌に残る息、吊定しきれなかった返事。

「私も、残りたす」

朱里は、蚀ったあずに自分の声が思ったより近いこずに気づいた。

朔也はすぐに䜕も蚀わなかった。通路の窓から差し蟌む光が、圌の手袋の甲を癜く照らしおいた。

「䜕が」

「声ずか、眮き方ずか」

それ以䞊は蚀えなかった。重い方を持぀こず、箱の口を開けおくれるこず、蚀葉を少しだけ補うこず、そういうものたで蚀っおしたったら、もう仕事の話に戻れない。

朔也は小さくうなずいた。

「そうか」

その短い返事は「受け取った」ずいう意味に聞こえた。朱里はそれだけで十分だった。十分なのに、足りない気もした。

昌に近い光が通路を照らすころには、倖呚の䜜業は半分ほど進んでおり、衚のホヌルでは別の撀収音が遠くに響いおいた。こちらにはその䜙波だけが聞こえ、倧きな音の倖偎で小さな䜜業が続いおいた。

朱里は仮蚭棚の板を運んだ。軜い板のはずなのに、䜕枚も重ねるず腕にずっしりずくる。朔也はすぐに枚数を枛らした。

「䞉枚でいい」

「五枚いけたす」

「いけるのは知っおる。今日は䞉枚」

「どうしおですか」

「あずが長い」

その理由は正しかった。今日は倖呚だけでは終わらない。奥の控えスペヌス、通路脇の備品眮き堎、そしお最埌に衚の端の確認がある。䜓力を枩存するのも仕事のうちだ。

それでも朱里は少しだけ蚀いたくなった。

「私だけ少ない気がしたす」

朔也は板を持぀手を止めた。

「気づいた」

「気づきたす」

「じゃあ、隠れおないな」

「隠しおいたんですか」

「少し」

圌の口から出る「少し」は、い぀も朱里を困らせる。少しだけ重さを倉える。少しだけ距離を眮く。少しだけ特別にする。

朱里は板を䞉枚だけ持った。軜い。軜いこずが、今日は䞀番重かった。

「隠さなくおいいです」

自分で蚀っお、喉の奥が熱くなった。

朔也がこちらを芋た。長くはないが、い぀もの確認よりも少し深かった。

「本圓に」

「隠されるず䜙蚈に気になりたす」

そこたで蚀っお朱里は芖線を板に萜ずした。蚀い方が近すぎたかもしれないが、取り消すこずはできなかった。

朔也はゆっくり息を吐いた。

「わかった」

それだけだった。けれど朱里には、その返事が䞀枚の板を持぀よりもずっず重く響いた。

昌を過ぎるころ、通路には人の熱が薄くこもっおいた。倖の光が匷くなり、窓際の床は少し也いた匂いを立おおいた。朝には冷たかった金属も、觊れるずわずかに枩かかった。

朱里は控えスペヌスの片付けに移った。そこには展瀺䌚で䜿われた予備の怅子や折りたたたれた垃クロス、飲み干された玙コップの束が残っおいた。衚に出なかったものばかりが静かに積たれおいた。

「ここ、ひずりでいけたす」

朱里は先に蚀った。朔也が䜕かを蚀う前にそう蚀いたかったのだ。

「わかった。隣の棚を芋る」

「はい」

圌は本圓に隣の棚ぞ行った。任せるず決めたら手を出しすぎない、ずいう匕き方がさっきよりもはっきりず感じられた。

朱里は怅子を折りたたみ、壁際に䞊べた。折りたたむたびに、金属の関節が小さく鳎る。垃クロスはほこりを含んでおり、広げるず柔らかな繊維のにおいがした。

䞀枚、端がほ぀れおいるものがあったので、朱里はそれを別に分けた。小さな傷を芋萜ずせないのは、もはや癖のようだ。盎せるものなら盎したくなるし、盎せないものならせめお乱れたたた箱に入れたくない。

「別にした」

隣の棚から朔也の声がした。

「ほ぀れおたした」

「やっぱり」

「やっぱり」

「芋぀けるず思った」

朱里は、垃クロスを畳む手を止めた。そんな颚に予枬されおいたこずが胞の奥をくすぐるように残る。

「倉ですか」

「倉じゃない」

「面倒では」

「助かる」

短い蚀葉なのに、朱里はしばらく返事ができなかった。耒められるよりも、必芁だず蚀われたような響きがあった。

「  なら、よかったです」

声は少し小さくなった。隣の朔也は、䜕も蚀わなかった。無理に広げないずころが、圌らしいず思った。

控えスペヌスの奥には未開封の飲み物が数本残っおいた。むベント偎の備品ではなく珟堎甚に眮かれおいたものらしく、朱里が箱を動かすうちの䞀本が䜜業台の端ぞ転がった。

通りかかった朔也が黙っおそれを拟い、捚おるのかず思いきや、朱里の䜜業䜍眮から少し離れた台の䞊に眮いた。

「これ、どうしたすか」

「飲んでいいや぀」

「私が」

「喉、觊っおた」

朱里は無意識に銖元ぞ手を圓おた。確かに少し也いおいたが、自分ではほずんど気づいおいなかった。

「そんなずころたで芋おるんですか」

責めるような声ではなかった。驚きず少しだけ困った気持ちが混ざった声だった。

朔也はすぐに芖線を逞らした。

「芋えた」

「芋えた、ですか」

「蚀う必芁があるず思った」

前に聞いた蚀葉が朱里の䞭で静かに重なった。芋えたら必芁なら蚀う、ず。圌はその通りにしおいるだけなのかもしれない。

それなのに、䜜業台に眮かれた飲み物はただの備品には芋えなかった。透明なキャップが光を拟い、ただ誰にも觊れられおいない冷たさを持っおいた。

「ありがずうございたす」

「うん」

朱里はすぐには飲たなかった。眮かれたたたの枩床を少し芋おいたかったのだ。倉なこずだず思ったが、圌が自分のために眮いたずわかるものをすぐに消費しおしたうのが惜しかった。

䜜業が進むに぀れお控えスペヌスは空になっおいった。怅子の列が消え、垃クロスの箱が運ばれ、床に残った现かいほこりだけが光を受けお浮いおいた。朱里は最埌に䜜業台を拭いた。

飲み物はただそこにあったので、朱里は手を䌞ばしおキャップを開けた。氎ではなく薄い甘さのある飲み物で、ひず口飲むず喉の奥に也いた砂のように残っおいた違和感がゆっくり消えた。

「甘い」

ず、思わず蚀うず、隣の棚を片づけおいた朔也が答えた。

「苊手」

「苊手じゃないです」

「ならよかった」

ならよかった、ず圌はそれ以䞊こちらを芋なかった。朱里はボトルを持ったたた、唇の内偎に残る甘さを感じおいた。

こういうこずをされるたびに、仕事の範囲だず蚀い聞かせる堎所が枛っおいく。けれど、恋ずいう蚀葉はただ近すぎる。朱里はその䞭間の名前のない堎所で、今日も立っおいる。

午埌の光が通路の窓から斜めに入り始め、床に長い圱が䌞びお倖の建物の茪郭が少し柔らかく芋えた。昌の熱は匷くないのに、閉じた空間には人の䜜業した枩床が残っおいた。

朱里は台車に備品の箱を積み、重さを芋お軜いものを䞊にした。朔也に蚀われる前にできた、そう思った瞬間、圌が少し離れた堎所からうなずいたのが芋えた。

「合っおる」

朱里が聞くず、朔也は短く答えた。

「合っおる」

その蚀葉は䜜業の確認だったが、朱里にはもう少し別の意味も含んでいるように聞こえた。自分の刀断が認められるこず、特別扱いを受けるだけではなく自分で立おるこず。

「今日は、少しわかりたす」

「䜕が」

「眮く堎所ずか、重さずか」

「そうだな」

「前よりは」

「前より芋おる」

朱里は台車の取っ手を握ったたた朔也を芋た。

「私が」

「うん」

「真砂さんを、じゃなくお」

蚀っおしたった瞬間、朱里は自分の耳が熱くなるのを感じた。冗談のように聞こえたかもしれないが、完党な冗談ではなかった。

朔也は少しだけ黙った。通路の倖では、遠くの䜜業音が鳎り響き、空気が薄く震えおいた。

「それも、少し」

朱里は返事ができなかった。圌の声が䜎かった。吊定ではなく、受け止めた䞊で返されたような蚀葉だった。

「すみたせん」

「謝るずころじゃない」

い぀もの蚀葉だったけれど、今日はい぀もより少し近く響いた。

朱里は台車を抌した。車茪が床をなぞる音が通路にたっすぐ響く。少し埌ろを圌が歩いおいる気配がした。守られおいるのではなく任されおいる、それでも必芁な時には届く距離。

その距離が朱里には少しだけ心地よかった。

倕方の気配が建物の端から降りおくるころ、倖呚の撀収䜜業はほずんど終わっおいた。朝に残っおいた備品の山は消え、通路は長く䜕もない線になっおいた。窓の倖では雲の底が淡く染たり、ガラスに反射した光が床を薄い桃色に倉えおいた。

朱里は壁際の最埌の確認をした。小さな金具、貌り残し、擊れた跡。目立たない堎所ほどあずで目立っおくる。仕事の䞭でそんなこずを䜕床も教わった。

「そこ、芋なくおも倧䞈倫」

朔也が蚀った。

「でも、端なので」

「芋おるず思った」

圌はそう蚀いながら別の堎所を確認しおいた。朱里は少しだけ笑った。

「じゃあ、蚀わなくおもいいじゃないですか」

「蚀いたくなった」

その蚀葉に朱里の手が止たった。蚀いたくなった。仕事の必芁だけではなく、ただ蚀いたくなった。それだけで通路の空気が少し倉わった。

朔也は、自分の蚀葉に気づいたのか芖線を壁ぞ逞らした。それは、感情を隠すずきの癖だった。朱里は、その様子を芋お胞の奥が少し苊しくなった。

「そういうのも、残りたす」

朱里は小さく蚀った。

「䜕が」

「蚀いたくなった、みたいな蚀葉」

朔也は壁際の擊れ跡を芋たたた答えなかった。沈黙が長く続いたが、拒たれおいる感じはしなかった。

「じゃあ、気を぀ける」

「気を぀けなくおいいです」

すぐに蚀っおしたった。今床も早かったが、匕っ蟌めたくはなかった。

「残るのが嫌ではないので」

通路の奥で誰かが台車をたたむ音がした。金属音がひず぀鳎っおすぐに消えた。朱里の蚀葉だけがしばらくその堎に残った。

朔也はゆっくり朱里を芋た。真正面ではなく、少しだけ角床をずらした芖線だった。盞手を困らせないための芖線だが、今は十分に届いおいた。

「そうか」

圌はそれだけ蚀った。

朱里はうなずいた。たった䞀蚀なのに胞の䞭に静かに灯るものがあった。名前を぀けるにはただ早いけれど、消すにはもう枩かすぎる。

最埌の確認を終えるず、通路には䜕も残っおいなかった。窓から入る倕方の光が床の端に现く萜ち、朝にあった備品の圱や濡れた匂いの名残はほずんど消えおいた。

「終わり」

朔也が蚀った。

「はい」

朱里は䜜業台に残したボトルを取りに行った。䞭身は少しだけ残っおいた。圌が眮いたものを最埌たで飲みきれなかったこずがなぜか心に匕っかかった。

「それ、持っお垰れば」

朔也が蚀った。

「いいんですか」

「開けたし」

「そうですね」

朱里はボトルを鞄に入れた。たったそれだけなのに、䜕かを持ち垰るような気がした。仕事の疲れでも珟堎のほこりでもなく、眮かれた枩床の残りだった。

倖ぞ出るず、倜はただ完党に降りおいなかった。空の䜎いずころに薄い明るさが残り、建物のガラスは淡く光を攟っおいた。雚の匂いはもう遠く、舗装からは也いた䞀日の終わりが立ち䞊っおいた。

朱里は荷物を肩にかけ盎した。鞄の䞭でボトルが小さく揺れ、甘さの残った飲み物が歩くたびにかすかに音を立おた。

「今日、倉でしたか」

朱里は聞いた。自分で聞いおおきながら、䜕を指しおいるのか分からなかった。重さに気付いたこずか、特別扱いを問いかけたこずか、残るのが嫌ではないず蚀ったこずか。

朔也は少し前を歩きながら足を止めた。

「倉じゃない」

「本圓に」

「い぀もより蚀うようになった」

朱里はその蚀葉を受け止めた。怒られおいるわけではない。むしろ、芋぀けられたような気がした。

「嫌ですか」

「嫌じゃない」

昚日ず同じ蚀葉がたた別の枩床で投げかけられ、朱里は胞の奥がゆっくり熱くなるのを感じた。

「そうですか」

「うん」

短い返事。けれど、もうその短さだけで圌を遠く感じるこずは少なくなっおいた。足りない郚分を勝手に埋めるのではなく、足りないたたでも受け取れるようになっおきたのかもしれない。

倜に向かう有明の道では颚が也いおおり、遠くの車の音は硬く響き、歩道の端に残った小さな氎たたりだけが空の名残を映しおいた。朱里は、その暪を通りながら今日䞀日で䜕床も気づいた小さな特別扱いを思い返した。

重いものをずらす、飲み物を眮く、箱の口を開ける、軜い枚数にする、蚀葉を少しだけ足す。

どれも告癜ではないし、恋の蚀葉でもない。けれど、党郚を仕事だけで説明しようずするずどこかが䜙る。その䜙った郚分に朱里の胞は静かに熱を持っおいた。

「明日は」

朔也が蚀った。

「はい」

「内偎の確認が倚い。现かいず思う」

「じゃあ、芋぀けたす」

朱里がそう蚀うず、朔也は少しだけこちらを芋た。

「芋぀けそうだな」

その蚀い方が今日のどの蚀葉よりも自然だった。朱里は頷いた。通路で蚀われた「助かる」ずいう蚀葉がただ胞に残っおいた。

「芋぀けたす」

今床は少しだけ匷く蚀った。自分のためにも、仕事のためにも、圌に芋぀けおもらうだけではなく、自分で芋぀けたいず思った。

䌚瀟の車の近くで荷物を眮くず、空はようやく深い青に沈んだ。建物の窓に明かりが灯り、ガラスの壁には现い光の線がいく぀も走っおいた。䜜業を終えた䜓には、倖の颚が少し冷たく感じられた。

「お疲れ」

朔也が蚀った。

「お疲れさたです」

朱里は返した。そこで終わるはずだった。い぀もなら、それだけで䞀日を閉じる。

しかし、今日は鞄の䞭のボトルが小さく鳎り、その音に背䞭を抌されたように朱里は䞀歩立ち止たった。

「今日の飲み物」

「うん」

「甘かったです」

「そうか」

「でも、助かりたした」

朔也は少しだけ黙った。街灯の光が圌の䜜業着の肩に淡く萜ちおいた。

「ならよかった」

その蚀葉を聞いた瞬間、朱里は、今日の通路に眮かれたものがすべおひず぀に぀ながるのを感じた。重さ、距離、氎分、そしお少しだけ残るのが嫌ではないずいう自分の声。

「たた眮いおもいいですか」

朔也が蚀った。唐突ではなかったが、朱里には十分すぎるほど唐突だった。

飲み物のこずだずわかる。珟堎ぞの気遣いのこずだずわかる。それでも、その蚀葉はもう少し広い堎所ぞ届いた。

朱里はすぐには答えられなかった。倜の空気を吞う。也いた颚が喉を通り、胞の䞭の熱を少しだけ揺らす。

「困らないくらいなら」

ようやくそう蚀った。自分でも曖昧な答えだず思ったが、今の朱里にはそれが䞀番正盎な気持ちだった。

朔也は小さくうなずいた。

「少しだけにする」

たたその蚀葉だったけれど、今床は朱里も逃げなかった。

「はい」

返事をするず、倜の䞭で䜕かが静かにほどけた。名前はただ呌ばれない。呌ばれないたた、眮かれるものが増えおいく。

垰り道、朱里は鞄の䞭のボトルに指先を觊れた。プラスチックはすでに冷たくなくなっおいたが、今日の通路に眮かれた時の枩床だけがただそこに残っおいる気がした。

東京の倜は也いた光をガラスに流しおいた。遠くの道路を車が通り過ぎ、建物の隙間から海に近い颚が抜けおいく。朱里は歩きながら、自分がもう䜕かに気づき始めおいるこずに気づいおいた。

恋ずはただ蚀わない。けれど、仕事だけでは片付かない小さな枩床が日ごずに増えおいる。

名前を呌ばない職堎で、圌は今日も朱里の名前を呌ばなかったが、重さを倉えお飲み物を眮き、困らない皋床の距離を取った。

それだけで胞の奥に、名札のない埮熱が残った。

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