MVP ARCHIVE PEOPLE | Military : Erwin Rommel 1891–1944 / エルヴィン・ロンメル - 砂漠の狐と呼ばれたドイツ陸軍元帥

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エルヴィン・ロンメル
砂漠の狐と呼ばれたドイツ陸軍元帥
エルヴィン・ロンメル は、第二次世界大戦 において北アフリカ戦線や西部戦線を指揮したドイツ陸軍の軍人である。
第一次世界大戦 での歩兵指揮、1940年のフランス侵攻、1941年からの北アフリカ戦線を通じて、機動力を生かした作戦指揮で知られるようになった。
北アフリカでは、限られた兵力と補給のもとでイギリス軍と戦い、「 砂漠の狐 」の異名を得た。
しかし、戦争の長期化とともに、ドイツ軍は燃料、輸送力、航空戦力などの不足に直面する。ロンメル もまた、戦場での作戦能力だけでは解決できない戦争全体の制約に直面した。
1944年にはノルマンディー防衛を指揮し、同年7月の ヒトラー暗殺未遂事件 に関連して疑惑をかけられ、10月に自殺を強要された。
ロンメル の生涯は、前線指揮官の判断と、国家の戦争指導、補給、政治権力との関係を示している。
ヴュルテンベルクでの生い立ち
ロンメル は1891年11月15日、ドイツ帝国のハイデンハイムに生まれた。
父は学校教師で、ロンメル は少年時代から機械や技術に関心を持っていた。
1910年、ヴュルテンベルク王国の歩兵連隊に入隊し、軍人としての道を歩み始める。
1912年には少尉に任官、第一次世界大戦 が始まると、ロンメル は歩兵将校として西部戦線に従軍した。
第一次世界大戦の歩兵指揮
ロンメル は 第一次世界大戦 で、フランス、ルーマニア、イタリアなどの戦線に従軍、特に山岳部隊での指揮を通じて、小部隊の機動、地形の利用、奇襲、敵の側面への進出などを経験した。
1917年10月、イタリア戦線のカポレットの戦いでは、部隊を率いてイタリア軍の防御線を突破し、多数の捕虜を獲得した。
この戦功によって、ドイツ軍の高位勲章である プール・ル・メリット勲章 を授与され、第一次世界大戦 での経験は、後年の ロンメル の作戦指揮にも影響を与えた。
戦間期の軍人
1918年のドイツ敗戦後、ロンメル は縮小されたドイツ軍に残った。
Reichswehr ライヒスヴェーア
戦間期には、部隊指揮や軍事教育に従事した。
1937年には、第一次世界大戦 での経験をもとにした著書『 歩兵は攻撃する 』を出版した、Infanterie greift an 歩兵は攻撃する。
この著書では、小部隊の指揮、地形の利用、機動、攻撃の判断などが、実戦経験に基づいて記述されている。
1930年代後半、ロンメル は ヒトラー の警護に関わる部隊の指揮などを経験し、ナチス政権の指導部と接する機会を得た。
第7装甲師団とフランス侵攻
1940年2月、ロンメル は第7装甲師団の師団長に任命された。
7th Panzer Division 第7装甲師団。
同年5月、ドイツ軍はフランスおよび低地諸国への侵攻を開始した。
ロンメル の師団は、アルデンヌを通過したドイツ軍の進撃に参加し、ムーズ川を渡河した後、フランス北部へ進んだ。
第7装甲師団は、急速な進撃によって敵軍の後方へ進出し、しばしば自軍の上級司令部との連絡が困難になるほど前進した。
このため、師団は「 幽霊師団 」と呼ばれるようになった。
Ghost Division 幽霊師団。
ロンメル は、前線に近い位置から部隊を指揮し、状況の変化に応じて迅速に判断する指揮官として知られるようになった。
北アフリカへの派遣
1940年、イタリア軍はリビアからエジプトへ侵攻したが、イギリス軍の反撃によって大きな損害を受け、イタリア軍を支援するため、ドイツは北アフリカへ部隊を派遣する。
1941年2月、ロンメル はドイツ軍部隊の指揮官としてリビアへ到着した。
Deutsches Afrikakorps ドイツ・アフリカ軍団。
当初の任務は、イタリア軍を支援し、北アフリカの戦線を安定させることだったが、ロンメル は到着後まもなく攻勢に転じ、イギリス軍を東方へ押し戻した。
砂漠の狐
北アフリカ戦線では、広大な砂漠を舞台に、戦車、機械化歩兵、砲兵、航空機が連携する機動戦が展開された。
ロンメル は、敵の側面を突く機動、戦力の集中、迅速な攻撃によって、イギリス軍に対して戦果を挙げ、1941年には、リビアのトブルクを包囲した。
Siege of Tobruk トブルク包囲戦。
トブルクは重要な港湾都市であり、北アフリカ戦線の補給拠点でもあった。
ロンメル の部隊はトブルクを包囲したが、1941年中に攻略することはできなかった。
この時期、ロンメル はイギリス側からも「 砂漠の狐 」と呼ばれるようになり、その名声はドイツ国内外へ広がった。
補給という制約
北アフリカ戦線では、戦場での勝利だけでなく、補給の維持が極めて重要であった。
ドイツ軍の物資は、主にヨーロッパから地中海を越えてリビアの港へ輸送されたが、連合軍の海空軍による攻撃によって輸送船が失われ、港湾の処理能力にも限界があった。
さらに、港から前線までの距離が長くなるほど、燃料や物資を運ぶトラック自身も大量の燃料を消費し、前線が東へ進むほど、補給線は長くなった。
ロンメル の機動戦は、戦術的な成功を生み出す一方、進撃の拡大によって補給上の負担も増大させた。
ガザラの戦いとトブルク陥落
1942年5月、ロンメル はガザラの戦いでイギリス第8軍に対する攻勢を開始した、Battle of Gazala ガザラの戦い。
ドイツ・イタリア軍は、機動部隊を用いてイギリス軍の防御線を突破し、戦線を崩した。
6月21日、トブルクが陥落した。
この勝利によって、ロンメル は陸軍元帥に昇進した。
Generalfeldmarschall 陸軍元帥。
ドイツ軍はさらにエジプトへ進撃し、アレクサンドリアやスエズ運河に迫る位置まで到達した。
しかし、進撃の拡大によって補給線はさらに長くなり、兵力や燃料の不足が深刻化していった。
エル・アラメインの戦い
1942年夏、ドイツ・イタリア軍はエジプトのエル・アラメイン付近で進撃を停止した、El Alamein エル・アラメイン。
この地域は、地中海とカッターラ低地に挟まれた狭い地形であり、北アフリカ戦線の重要な防御地点だった。
1942年10月、バーナード・モントゴメリー率いるイギリス第8軍が大規模な攻勢を開始した。
Second Battle of El Alamein
第二次エル・アラメインの戦い
連合軍は兵力、戦車、砲兵、航空戦力、補給の面で優勢を確保していた。
ロンメル の部隊は抵抗を続けたが、損害と物資不足によって戦線を維持できなくなり、11月、ドイツ・イタリア軍は西方への撤退を開始した。
北アフリカ戦線の終結
1942年11月、アメリカ・イギリス軍はモロッコとアルジェリアへ上陸した。
Operation Torch トーチ作戦。
これによって、北アフリカの枢軸軍は東西から連合軍の挟撃の形となった。
ロンメル はチュニジア方面へ撤退し、戦線の維持を試みた。
1943年3月、ロンメル は北アフリカを離れ、ドイツへ戻った。
同年5月、チュニジアのドイツ・イタリア軍は降伏し、北アフリカ戦線は終結した。
北アフリカでの戦いは、ロンメル の指揮能力を広く知らしめる一方、補給、制空権、海上輸送、工業生産力などが戦争の結果に与える影響を明らかにした。
イタリアと西部戦線
北アフリカから帰国した ロンメル は、1943年にイタリア方面の軍事指揮に関わり、同年11月には、フランス北部の防衛を担当するB軍集団司令官に任命された、Army Group B B軍集団。
連合軍による西ヨーロッパへの上陸が予想される中、ロンメル は大西洋岸の防御施設を視察し、海岸防衛の強化を進めた。
地雷、障害物、砲台、対戦車障害などの整備を指示し、上陸部隊を海岸で阻止することを重視した。
ノルマンディー防衛
1944年6月6日、連合軍は ノルマンディーへ上陸 した。
D-Day ノルマンディー上陸作戦。
ロンメル は、連合軍の航空優勢があったため、連合軍が上陸地点で橋頭堡を確立する前に、海岸付近で撃退する必要があると考えていた。
ドイツ軍の機甲部隊が内陸から昼間に移動すれば、連合軍航空機による攻撃を受ける危険が大きかった。
一方、ドイツ軍内部では、機甲部隊を内陸に集中させ、上陸地点が明らかになってから反撃する構想も存在した。
ロンメル と他の指揮官の間では、機甲部隊の配置や運用をめぐって意見の違いがあった。
戦況の悪化
ノルマンディー上陸 後、連合軍は海岸に橋頭堡を確保し、兵力と物資を継続的に送り込んだ。
ドイツ軍は反撃を試みたが、連合軍の航空優勢、砲兵火力、補給能力によって、機動や戦力集中が困難になった。
ロンメル は、戦況がドイツにとって極めて厳しいことを認識し、ヒトラー に対して戦争の政治的解決を求める意見を伝えるようになった。
1944年7月17日、ロンメル の乗った車が連合軍航空機の攻撃を受け、ロンメル は重傷を負ったため、前線指揮から離れ、療養することになった。
7月20日事件との関係
1944年7月20日、ドイツ軍内部の反 ヒトラー派による暗殺未遂事件が発生。
20 July Plot 7月20日事件。
事件後、ゲシュタポによる大規模な捜査が行われ、多数の軍人や政治関係者が逮捕された。
ロンメル も、反ヒトラー派 との関係を疑われるようになった。
ロンメル は ヒトラー の戦争指導に批判的になっており、反ヒトラー派 の一部と接触していたことが知られている。
ただし、ロンメル が7月20日の爆弾暗殺計画を事前にどこまで知っていたか、また計画にどの程度関与していたかについては、史料上の議論が残っている。
自殺の強要
1944年10月14日、ヒトラー の使者が ロンメル の自宅を訪れた。
ロンメル には、人民法廷で裁かれるか、自殺するかという選択が示された。
自殺を選んだ場合は、家族の安全を保証、国葬が行われると伝えられた。
ロンメル は家族に別れを告げ、使者とともに車で自宅を離れた。
その後、青酸カリを服用して死亡、享年52歳だった。
ナチス政権 は、ロンメル が戦傷によって死亡したと発表、国葬を行った。
ロンメルとナチス政権
ロンメル は、ナチス政権 下で昇進、ヒトラー から高い評価を受けた軍人であり、北アフリカでの戦果は、ドイツ国内の宣伝でも大きく取り上げられたが、一方、戦争後半には、ヒトラー の戦争指導に対して批判的な立場を取るようになった。
ロンメル は ナチ党員 ではなかったが、ナチス政権 の軍事指導体制の中で重要な役割を担った。
また、北アフリカ戦線では、ドイツ軍によるユダヤ人への迫害や強制労働なども行われており、ロンメル の軍事的名声と、枢軸軍の占領政策は区別して確認する必要がある。
ロンメルが示す戦争の構造
ロンメル は、第一次世界大戦 の歩兵将校から、第二次世界大戦 の装甲部隊指揮官、北アフリカ戦線の司令官、そして西部戦線の防衛指揮官へと進み、彼の作戦指揮は、機動力、地形の利用、迅速な判断が特徴である。
しかし、北アフリカでは補給線の長さと海上輸送の制約に直面し、ノルマンディーでは連合軍の航空優勢と物資供給力に直面、戦争末期には、軍事的な判断と ヒトラー の政治的決定との間に対立が生じた。
ロンメル の生涯をたどることで、前線での戦術的な成功が、補給、制空権、国家の生産力、最高指導部の判断とどのように結びついていたのかを確認できる。
KEY POINT
Erwin Rommel / エルヴィン・ロンメル
1891年、ドイツ帝国に生まれる。
1910年、ヴュルテンベルク軍に入隊。
第一次世界大戦で歩兵将校として従軍。
1917年、カポレットの戦いで戦功を挙げる。
1937年、『歩兵は攻撃する』を出版。
1940年、第7装甲師団を指揮し、フランス侵攻に参加。
1941年、北アフリカへ派遣され、ドイツ・アフリカ軍団を指揮。
1942年、ガザラの戦いとトブルク攻略で戦果を挙げ、陸軍元帥に昇進。
1942年、第二次エル・アラメインの戦いで敗北し、撤退。
1943年、北アフリカを離れる。
1944年、B軍集団司令官としてノルマンディー防衛を指揮。
1944年7月、連合軍航空機の攻撃で重傷を負う。
1944年10月14日、ヒトラー暗殺未遂事件に関連する疑惑を受け、自殺を強要される。
ロンメルは、機動戦で知られた前線指揮官であり、その生涯は、戦術的な判断と補給・制空権・国家の戦争指導との関係を示している。



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