MVP ARCHIVE HISTORY | Nazi Germany : July 20 Plot | Operation Valkyrie / 7月20日事件 - ヒトラー暗殺未遂とヴァルキューレ作戦

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7月20日事件
ヒトラー暗殺未遂とヴァルキューレ作戦
1944年7月20日。
東プロイセンに置かれていた ヒトラー の総統大本営「 狼の巣 」で、一つの爆弾が爆発、標的は、アドルフ・ヒトラー。
爆弾を持ち込んだのは、ドイツ陸軍大佐 クラウス・フォン・シュタウフェンベルク だった。
しかし、この事件は単なる暗殺未遂ではない。
ヒトラー を排除した直後、ベルリンの軍事機構を掌握し、ナチ党 と SS の支配を停止して新政府を樹立、そこまでを一つの計画として動かそうとした、ナチス・ドイツ 内部からの 政権転覆計画 だった。
ドイツ内部に存在した反ヒトラー勢力
ヒトラー への抵抗は、1944年になって突然始まったものではない。
軍人、官僚、外交官、保守派などの一部には、以前から ヒトラー の政策や戦争指導に反対する人々が存在していた。
そこには、ルートヴィヒ・ベック元陸軍参謀総長、カール・フリードリヒ・ゲルデラー元ライプツィヒ市長、ヘニング・フォン・トレスコウ少将、フリードリヒ・オルブリヒト将軍、そしてクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐などがいた。
彼らの思想や目的は完全に同一ではなかった。
しかし戦争が進み、ドイツの敗北が現実味を増していく中で、ヒトラー を排除しなければ国家そのものが破局へ向かう
という認識が 反ヒトラー勢力 の一部で強くなっていった。
CLAUS VON STAUFFENBERG
クラウス・フォン・シュタウフェンベルク
シュタウフェンベルク は1907年、ドイツ南部に生まれた陸軍軍人だった。
第二次世界大戦 ではポーランド、フランス、北アフリカなどで軍務につく。
1943年4月、北アフリカで空襲を受け重傷、右手、左手の指、左目を失う。
それでも軍務へ復帰する。
その後、反ヒトラー勢力 との関係を深め、ヒトラー 暗殺と政権転覆計画 の中心人物の一人となった。
そして1944年、予備軍参謀長という立場を得たことで、ヒトラー 本人へ接近できる機会と、ベルリンの軍事機構へ影響を与えられる立場を同時に持つことになる。
OPERATION VALKYRIE
本来はクーデター計画ではなかった
「 ヴァルキューレ作戦 」は、もともと ヒトラー 暗殺のために作られた計画ではなく、ドイツ国内で暴動や大規模な混乱が発生した場合、国内予備軍を動員して治安を回復するための非常計画だった。
反ヒトラー勢力は、この既存計画を書き換えて利用しようとした。
計画の核心は単純だった、ヒトラーを暗殺する。
その直後、「 SS が国家に対して反乱を起こした 」という名目で ヴァルキューレ作戦 を発動、予備軍をベルリンなど主要都市へ展開。
SS、ナチ党、政府機関、通信施設などを制圧する。
そして新政府を樹立する。
国家の指揮系統を切り替えるための起点だった。
20 JULY 1944
狼の巣
1944年7月20日、シュタウフェンベルク は、東プロイセンのラステンブルク近郊にあった総統大本営「 狼の巣 」を訪れた。
彼の鞄の中には爆弾が入っていた。
本来は二つの爆薬を使用する予定だったが、時間的制約などから実際に起爆準備ができたのは一つだった。
午後12時30分頃、ヒトラー を含む軍幹部が参加する作戦会議が始まる。
シュタウフェンベルク は爆弾の入った鞄を、ヒトラー の近くに置いた。
そして会議室を離れた。
爆発
午後12時42分頃、爆弾が爆発、会議室は破壊され、複数の死傷者が出た。
しかし、ヒトラー は生きていた。
会議が地下壕ではなく地上の木造建物で行われていたこと。
爆発の圧力が外へ逃げやすかったこと。
そして爆弾入りの鞄が、シュタウフェンベルク が退室した後に別の人物によって動かされ、頑丈な会議机の脚がヒトラーとの間に位置したこと。
複数の条件が重なり、ヒトラーは負傷したものの、致命傷を免れた。
BERLIN
暗殺成功という前提
シュタウフェンベルク は爆発を確認すると、ヒトラー が死亡したと判断してベルリンへ戻ったが、しかし、ここで計画に致命的な問題が発生する。
ベルリンには、「 ヒトラー は死亡した 」という情報と、「 ヒトラー は生存している 」という情報が同時に入り始めた。
ヴァルキューレ作戦 の発動は遅れた。
それでも反ヒトラー勢力は午後になって行動を開始する。
予備軍へ命令が発せられ、ベルリンでは政府機関やSS関連施設を制圧する動きが始まり、一時的に、クーデター計画は実際の軍事行動へ移った。
ヒトラーは生きていた
しかし夕方になると状況は急速に変化する。
ヒトラー 本人が生存していることが確認される。
さらに ヒトラー は電話などを通じて軍幹部と直接連絡を取り始めた。
「 総統が死亡した 」という、クーデターを成立させる最大の前提が崩れ、それまで命令に従っていた軍人たちの一部も態度を変える。
ベルリンの予備軍司令部では主導権が反転した。
THE COUP COLLAPSES
数時間で崩壊した計画
7月20日深夜、クーデターはほぼ失敗した。
シュタウフェンベルク、フリードリヒ・オルブリヒト、アルブレヒト・メルツ・フォン・クヴィルンハイム、ヴェルナー・フォン・ヘフテンらは拘束された。
その夜、ベルリンのベンドラー街にある予備軍司令部の中庭で銃殺された。
シュタウフェンベルク は36歳だった。
AFTERMATH
大規模な逮捕と処刑
事件後、ナチ政権 は大規模な捜査を開始した。
ゲシュタポは軍、官僚、外交関係者、民間人などへ捜査範囲を拡大。
事件への直接参加者だけでなく、反ヒトラー活動との関係を疑われた多数の人物が逮捕された。
軍人の一部は軍籍を剥奪され、軍法会議ではなく人民法廷へ送られた。
人民法廷では ローラント・フライスラー 裁判長のもとで裁判が行われ、多くの被告に死刑判決が下された。
7月20日事件を契機とする捜査と粛清は、その後も続いた。
ERWIN ROMMEL
ロンメルへの波及
事件後の捜査は、ドイツ軍を代表する指揮官の一人だったエルヴィン・ロンメルにも及び、ロンメルは反ヒトラー派の人物たちと接触しており、ヒトラー の戦争指導に批判的になっていた。
しかし、ロンメル が7月20日の 爆弾暗殺計画 そのものを、どの程度事前に知っていたのかについては議論が残っている。
それでもナチ政権は ロンメル を危険人物と判断した。
1944年10月14日、ヒトラー の使者がロンメルの自宅を訪れる。
選択肢は事実上二つ、人民法廷で裁かれるか、自殺するか。
家族への安全などを条件として、ロンメルは自殺を選択した。
ナチ政権は国民的人気の高かったロンメルの死について、戦傷が原因だったと発表し、国葬を行った。
WHY IT MATTERS
暗殺未遂だけではない
7月20日事件は、ヒトラー が偶然に近い条件によって暗殺を免れた事件として知られている。
ドイツ国家の内部に、反ヒトラー勢力が存在し、実際に ヒトラー を排除して政権を転覆させようとする計画が実行段階まで進んでいた。
そして彼らは、暗殺、通信、軍の動員、SSの制圧、政府機関の掌握、新政府の樹立、それらを連続させることで、国家の指揮系統そのものを反転させようとしていた。
1944年7月20日、爆弾は爆発、しかし ヒトラー は生存した。
その一つの事実が伝わっていくにつれて、命令への服従関係も反転する。
そして、数時間だけ動き始めた新しい権力構造は崩壊した。
KEY POINT
1938年前後 : 軍・官僚内部の反ヒトラー勢力が形成されていく
1943年 : シュタウフェンベルクが反ヒトラー計画へ深く関与
1944年7月20日 12:42頃 : 狼の巣で爆弾爆発
同日午後 : ベルリンでヴァルキューレ作戦発動
同日夕方 : ヒトラー生存が確認され、クーデターが崩れ始める
7月20日深夜〜21日未明 : シュタウフェンベルク ら処刑
事件後 : ゲシュタポによる大規模捜査・逮捕・処刑
1944年10月14日 : ロンメル、自殺を強要され死亡



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