MVP ARCHIVE HISTORY | Nazi Germany : Operation Barbarossa 1941年6月22日-12月 / バルバロッサ作戦 - 広大な大地へ、ドイツ軍進撃

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バルバロッサ作戦
広大な大地へ、ドイツ軍進撃
1941年6月22日、ナチス・ドイツ はソビエト連邦への大規模な侵攻を開始。
作戦名は「 バルバロッサ作戦( Operation Barbarossa )」。
ドイツ軍と同盟国軍は、バルト海から黒海に至る広大な戦線でソ連領内へ進撃した。
ドイツ側は約300万人の兵力を投入し、戦車、航空機、火砲、車両などを伴う大規模な軍事作戦を展開した。
この侵攻によって、1939年に締結された独ソ不可侵条約は破られ、第二次世界大戦 は巨大な東部戦線を抱えることになった。
独ソ不可侵条約から侵攻へ
1939-1941年
1939年8月23日、ドイツとソ連は独ソ不可侵条約を締結した。
条約には秘密議定書が付属し、東ヨーロッパにおける両国の勢力圏が取り決められた。
同年9月、ドイツは ポーランド西部 へ、ソ連は ポーランド東部 へ侵攻。
その後、ドイツは1940年にフランスを降伏させ、西ヨーロッパの広い地域を占領下に置いた。
一方、ソ連はバルト三国を併合し、フィンランドとの冬戦争を経て、東ヨーロッパにおける支配地域を拡大していた。
1940年12月18日、ヒトラー は対ソ侵攻計画を定めた総統指令第21号に署名,
この指令が、バルバロッサ作戦 の基本文書となった。
1941年6月22日
東部戦線の開戦
1941年6月22日未明、ドイツ軍はソ連国境を越えて攻撃を開始した。
侵攻にはドイツ軍のほか、ルーマニア、フィンランドなどの同盟国・協力国の軍隊も参加した。各国の参戦時期や作戦地域は異なる。
ドイツ軍は大きく三つの軍集団に分かれて進撃した。
北方軍集団はバルト海沿岸からレニングラード方面へ。
中央軍集団はミンスク、スモレンスクを経てモスクワ方面へ。
南方軍集団はウクライナ方面へ進撃した。
侵攻初日から、航空基地、通信施設、国境守備隊、鉄道、道路などが攻撃対象となり、ソ連軍は各地で抵抗したが、開戦初期には多数の航空機や装備を失い、ドイツ軍は広い地域で急速に前進した。
三つの軍集団
北方軍集団
北方軍集団は、東プロイセン方面からバルト三国を通過し、レニングラードを目指し、1941年夏、ドイツ軍はバルト海沿岸の広い地域を占領した。
9月にはレニングラードへの陸上交通路が遮断され、都市は長期の包囲下に置かれる。
レニングラード包囲は1944年1月まで続き、飢餓、寒さ、砲撃などによって多数の市民が死亡した。
中央軍集団
中央軍集団は、ミンスク、スモレンスク方面へ進撃した。
1941年6月末から7月にかけて、ビャウィストク=ミンスク周辺で大規模な包囲戦が行われ、多数のソ連兵が捕虜となった。
その後、ドイツ軍はスモレンスク方面へ進出した。
中央軍集団は、秋以降のモスクワ攻勢において主力となる。
南方軍集団
南方軍集団は、ウクライナ方面へ進撃した。
1941年夏から秋にかけて、ドイツ軍はウクライナの広い地域を占領した。
9月にキエフ周辺で大規模な包囲戦が行われ、多数のソ連兵が捕虜となる。
その後、ドイツ軍はドンバス、クリミア、ロストフ方面へ進撃を続けた。
進撃と補給
ドイツ軍は開戦初期、広い地域で急速な進撃を続けた。
しかし、ソ連領内への進撃が深まるにつれ、補給距離は長くなった。
道路の状態、鉄道の軌間の違い、橋梁の破壊、燃料・弾薬・食料の輸送、車両の整備などが作戦上の大きな課題となった。
ソ連軍も後退しながら部隊を再編し、新たな兵力を投入した。
ドイツ軍は多数のソ連兵を包囲・捕虜としたが、ソ連軍の抵抗は続き、戦線はさらに東へ拡大していった。
モスクワ攻勢
Operation Typhoon
1941年9月30日―12月
1941年秋、ドイツ軍はモスクワ攻略を目指す「 タイフーン作戦( Operation Typhoon )」を開始、中央軍集団はヴャジマ、ブリャンスク方面でソ連軍を包囲し、モスクワへ向けて進撃した。
しかし、秋の降雨による泥濘、補給の遅延、車両の消耗、ソ連軍の抵抗などによって進撃速度は低下、11月にはドイツ軍がモスクワ近郊へ到達したが、都市を占領することはできなかった。
12月5日から6日にかけて、ソ連軍はモスクワ正面で大規模な反攻を開始、ドイツ軍は各地で後退し、モスクワ攻略は失敗に終わった。
長期戦への移行
1941年末までに、ドイツ軍はソ連西部の広大な地域を占領した。
一方で、レニングラードは陥落せず、モスクワ攻略も失敗した。
ソ連政府は戦争を継続し、工業施設の東方移転、兵力の再編、軍需生産の拡大を進めた。
ドイツ軍も占領地域の維持と長大な戦線への補給を続けなければならず、当初の短期間でソ連軍主力を撃破する構想は実現せず、独ソ戦は長期の総力戦へ移行していく。
占領地と住民
バルバロッサ作戦 は、通常の国家間戦争にとどまらず、ナチス の人種政策・占領政策と結びついた侵略戦争だった。
ドイツ軍の進撃に伴い、SS、警察部隊、アインザッツグルッペン などが占領地域で活動した。
ユダヤ人、共産党関係者、その他の民間人に対する大量殺害が行われた。
1941年9月には、キエフ近郊のバビ・ヤールで、ドイツの治安警察・SDなどによって約3万3,771人のユダヤ人が2日間で殺害された。
また、ドイツ軍に捕らえられたソ連兵は、食料不足、劣悪な収容環境、強制労働、処刑などによって多数が死亡した。
東部戦線の戦闘と占領政策は、ホロコースト の拡大とも直接接続している。
現存する記録と展示資料
バルバロッサ作戦 については、当時の写真、映像、軍事文書、地図、兵器、車両、建造物、戦場遺構など、多くの資料が現存している。
侵攻開始の写真・映像
1941年6月22日前後の国境地帯、進撃するドイツ軍、戦車、車両、航空機、橋梁、道路などを撮影した記録が残る。
総統指令第21号
1940年12月18日付の対ソ侵攻指令は、作戦準備を確認できる重要な文書資料である。
軍事地図・作戦記録
三つの軍集団の進撃経路、各地の戦闘、補給路、占領地域などを示す当時の地図や記録が残されている。
戦車・航空機・車両
ドイツ軍およびソ連軍が使用した戦車、航空機、火砲、車両などは、各国の軍事博物館や資料館に現存する。
モスクワ周辺の戦場記録
1941年秋から冬にかけての戦闘、雪中の部隊、破壊された車両、ソ連軍の反攻などを撮影した写真・映像が残る。
占領地の記録
占領行政文書、住民の証言、写真、殺害現場の記録、戦後の調査資料などが、東部戦線における占領政策の実態を伝えている。
バルバロッサ作戦が残したもの
1941年6月22日に始まったドイツのソ連侵攻は、第二次世界大戦 の規模を大きく拡大、ドイツ軍はソ連西部の広大な地域を占領したが、1941年中にソ連を降伏させることはできなかった。
モスクワ前面での攻勢は停滞し、ソ連軍は反攻を開始した。
独ソ戦はその後も続き、1942年にはスターリングラード方面、1943年にはクルスク周辺で大規模な戦闘が行われる。
バルバロッサ作戦 は、ドイツの短期的な軍事的成功と、その後の長期戦への移行をつなぐ歴史的な出来事として記録されている。



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