MVP ARCHIVE CIVILIZATION | RIGHTS : Glorious Revolution 1688-1689 / 名誉革命 - 王権の根拠そのものを変えた革命

MVP ARCHIVE CIVILIZATION > RIGHTS : Glorious Revolution 1688-1689 / 名誉革命 - 王権の根拠そのものを変えた革命

名誉革命
国王を倒した革命ではない。王権の根拠そのものを変えた革命
1688年、イングランドで一つの大きな政変が起きた。
国王 James II|ジェームズ2世 が国外へ逃れ、代わって娘の Mary II|メアリー2世 と、その夫 William III|ウィリアム3世 が王位についた。
後に、Glorious Revolution|名誉革命 と呼ばれる出来事である。
しばしば「 流血の少ない革命 」と説明されるが、それだけでは歴史的重要性を捉えきれない。
イングランドでは比較的大規模な戦闘を避けて政権交代が進んだ一方、スコットランドやアイルランドでは武力衝突が続いた。
国王は、自らの権利だけを根拠として無制限に統治できる存在なのか。
17世紀を通じて続いてきたこの問題に対し、名誉革命 とその後の制度改革は一つの大きな答えを出した。
王は残った、しかし、王権の上に法と議会が存在する政治秩序が明確になっていく。
17世紀イングランドの長い対立
名誉革命 は1688年に突然発生したものではない。
その背景には、数十年間続いた王権と議会の対立があった。
1628年、議会はチャールズ1世へ Petition of Right|権利の請願 を提出。
議会の同意なき課税、恣意的拘禁、兵士の強制宿泊、戒厳令の恣意的運用。
こうした国王権力の行使に制限を求めた。
しかし対立は収まらず、1642年には English Civil War|イングランド内戦 が始まる。
1649年、チャールズ1世は処刑され、王政そのものが一度消滅した。
王政復古
オリヴァー・クロムウェルの死後、共和政体制は安定を失い、1660年に王政が復活した、Restoration|王政復古である。
チャールズ1世の息子、Charles II|チャールズ2世 が国王となった。
しかし、王政が復活したからといって、王権と議会の問題が消えたわけではなく、政治的緊張は続いた。
特に大きな問題となったのが、カトリックとプロテスタントの対立だった。
James II
1685年、チャールズ2世 が死去すると、弟の James II|ジェームズ2世 が即位、ジェームズ2世はカトリックだった。
当時のイングランドでは、政治支配層の多くがプロテスタントであり、カトリック君主への警戒は強かった。
さらに ジェームズ2世 は、法律の適用を国王権限によって停止・免除しようとし、カトリック教徒を軍や行政の重要職へ登用した。
問題は宗教だけではなく、国王が議会制定法をどこまで自らの権限で停止できるのか という憲政上の問題へ広がっていった。
王子の誕生
それでも当初、ジェームズ2世 の王位は長く続かない可能性があった。
後継者として有力だった メアリー はプロテスタントだったからである。
しかし1688年6月、ジェームズ2世 に男子 James Francis Edward Stuart
が誕生、カトリック王朝が継続する可能性が生まれた。
イングランドの有力者7人 後に Immortal Seven|不滅の7人 と呼ばれる人々 は、オランダ総督であり メアリー の夫でもあった
William of Orange|オラニエ公ウィレム へ書簡を送る。
イングランドへの介入を求めたのである。
William of Orange
1688年11月、ウィリアムは大規模な艦隊と軍を率いてイングランドへ上陸、名目上は、イングランドの自由とプロテスタントの宗教を守り、自由な議会を開催させることだった。
ジェームズ2世 は軍を集めたが、有力者や軍人の離反が相次ぎ、娘アンも国王側を離れ、ジェームズ2世 の政治基盤は急速に崩壊した。
同12月、ジェームズ2世はフランスへ逃亡、イングランドで大規模な決戦が行われることなく、事実上の政権交代が起きた。
王位は誰のものなのか
ジェームズ2世 が国外へ逃亡したとしても、次の国王を誰が、どのような根拠で決めるのか、単なる王家内部の継承問題ではなく、王権の正統性そのものに関わる問題だった。
1689年に召集された Convention Parliament|仮議会 は、ジェームズ2世 が王国の基本法を破り、国外へ逃亡したことで王位を放棄したものと判断。
ウィリアムとメアリーへ王位を提示する。
つまり新しい国王は、単に血統だけによって自動的に王位を継承したのではなく、議会による政治的・法的な決定が王位継承へ深く関与した。
ここに名誉革命 の大きな転換がある。
William III and Mary II
1689年、ウィリアムとメアリーは共同統治者として即位した。
William III and Mary II|ウィリアム3世・メアリー2世 である。
議会は新しい君主へ Declaration of Rights|権利宣言 を提示する。
その内容は同年、Bill of Rights|権利章典 として制定法化された。
ここで王権と議会の関係が新しい段階へ進む。
Bill of Rights
1689年の 権利章典 では、ジェームズ2世 による統治上の問題を踏まえ、王権に対する具体的な制限が示された。
議会の同意なしに法律を停止しない。
議会の承認なしに課税しない。
平時に議会の同意なく常備軍を維持しない。
議会選挙は自由であるべきこと。
議会内での言論の自由。
議会を頻繁に開催すること。
これらによって、国王が法律や議会を迂回して統治する余地が制限された。
マグナ・カルタ や権利の請願で積み重ねられてきた王権制限が、ここでさらに明確な制度へ変わっていく。
Lockeと政治思想
名誉革命 の時代には、John Locke|ジョン・ロック の政治思想も重要な位置を占める。
1689年に刊行された『 統治二論 』では、政治権力は人々の生命・自由・財産を保護するために存在し、政府がその役割を破壊する場合には抵抗する権利が論じられた。
『 統治二論 』が単純に 名誉革命 を説明するためだけに書かれたわけではないが、ロックの政治思想は 革命 後の政治秩序を理論的に理解するうえで大きな影響を持つことになる。
ここから、Natural Rights|自然権、Government by Consent|同意による政府 という思想が、後の政治革命へつながっていく。
イギリスだけで終わらなかった
名誉革命 そのものはブリテン諸島の政治史であるが、そこで形成された政治制度と思想は、その後大西洋世界へ広がった。
議会による課税統制・法による王権制限・臣民の権利・政府権力への制約。
これらの考えは北米植民地にも受け継がれる。
18世紀後半の American Revolution|アメリカ独立革命 では、イギリス人として受け継いできた権利と、ロックなどの自然権思想が重要な政治的背景となった。
さらに モンテスキュー の Separation of Powers|権力分立 や 近代立憲主義 へも接続していく。
王をなくさず、王権を変えた
1649年にはすでに 国王チャールズ1世 が処刑され、イングランドは共和政を経験していた。
しかし最終的に形成されたのは、王か、人民か という単純な二者択一ではなかった。
一つの権力が国家全体を自由に動かすことを難しくする。
国家は「誰が支配するか」だけではなく、権力をどのような制度の中へ置くのか という問題へ進んでいった。
名誉革命 は、王権そのものを法と議会の中へ組み込み直した、近代立憲国家形成の重要な転換点だった。
Archive Data
名称 : Glorious Revolution|名誉革命
主要年 : 1688–1689年
国家 : Kingdom of England|イングランド王国
退位した国王 : James II|ジェームズ2世
新君主 : William III|ウィリアム3世、Mary II|メアリー2世
主要背景 : 王権と議会の長期的対立、カトリック王位継承への警戒、国王による法律停止・免除権をめぐる問題、プロテスタント支配層との対立
主要な結果 : ジェームズ2世の国外逃亡、ウィリアム3世・メアリー2世の共同即位、Declaration of Rights|1689、Bill of Rights|1689
歴史的重要性 : 王権への制度的制約強化、議会の政治的重要性拡大、立憲君主制形成の重要な転換点
後世への接続 : John Locke|ジョン・ロック、Natural Rights|自然権、Constitutionalism|立憲主義、Rule of Law|法の支配、American Revolution|アメリカ独立革命
歴史的接続 : Magna Carta → Petition of Right → English Civil War → Restoration → Glorious Revolution → Bill of Rights → Constitutional Monarchy → Modern Constitutional Government

MVP ARCHIVE CIVILIZATION > RIGHTS : Glorious Revolution 1688-1689 / 名誉革命 - 王権の根拠そのものを変えた革命

