MVP ARCHIVE CIVILIZATION | GOVERNMENT : Magna Carta 1215 / マグナ・カルタ - 「王も法に従う」という原則を示した歴史的文書

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マグナ・カルタ
「王も法に従う」という原則を示した歴史的文書
1215年6月、イングランド王ジョンはテムズ川沿いのラニーミードで、一つの文書を受け入れた。
後に Magna Carta|マグナ・カルタ( 大憲章 )と呼ばれる文書である。
現在では「 自由 」や「 法の支配 」の歴史を語る際に頻繁に登場する。
しかし、1215年の マグナ・カルタ は、現代的な民主主義や人権を宣言するために作られたものではない。
出発点は、国王と有力諸侯の深刻な政治対立だった。
それでも、この文書には後世へつながる重要な原理が含まれていた。
国王の権力にも、守るべき法と手続がある。
その考えが何世紀にもわたって再解釈され、やがて近代立憲主義と Rule of Law|法の支配 へ接続していく。
ジョン王と諸侯の対立
1199年、ジョンがイングランド王に即位した。
当時のイングランド王はイングランドだけを統治していたわけではなく、フランスにも広大な領地を持っていた。
しかし、フランス王フィリップ2世との戦争で多くの大陸領土を失う。
領土奪還のためには戦争が必要になる。
そして戦争には巨額の資金が必要だった。
ジョンは諸侯に対してさまざまな形で財政負担を求めた。さらに教皇 インノケンティウス3世 との対立なども重なり、王と諸侯の関係は悪化していく。
1214年、フランスでの ブーヴィーヌの戦い を含む軍事作戦が失敗。
王の権威はさらに低下、翌1215年、有力諸侯が反乱を起こす。
ロンドンも反乱側に掌握され、ジョン王は交渉を余儀なくされた。
ラニーミード
1215年6月、国王側と反乱諸侯はロンドン近郊の Runnymede|ラニーミード で交渉した。
そこで成立した合意が、後に マグナ・カルタ と呼ばれる文書である。
当初は Charter of Liberties|自由の憲章 などと呼ばれていた。
1215年版は63条から構成され、内容は非常に具体的だった。
つまり、最初から普遍的人権を体系的に宣言した文書ではない。
13世紀イングランドで実際に起きていた政治・社会上の争いを調整するための文書だった。
「法による裁き」
その中で、後世とりわけ重要視された条項がある。
1215年版の第39条では、自由人を拘束・投獄・追放したり権利を奪ったりする場合には、同輩による適法な裁判または国の法によらなければならないという趣旨が示された。
続く第40条では、正義や権利を売ったり、拒否したり、遅延させたりしないことが示された。
当時の「 自由人 」は現代の全国民を意味しない。
社会には明確な身分差が存在していた。
それでも、国王が自らの意思だけで人を処罰してよいわけではない
という制約が文章として示されたことである。
権力と法の関係に、一つの境界線が引かれた。
王を監視する仕組み
1215年版にはさらに踏み込んだ仕組みが存在した。
第61条、いわゆる Security Clause|保障条項 である。
25人の諸侯が国王による憲章遵守を監視し、違反が是正されなければ王に対して実力で圧力を加えることまで認めており、国王にとって極めて強い制約だったが、長く続かなかった。
ジョン王は教皇へ働きかけ、教皇インノケンティウス3世は マグナ・カルタ を無効としたため、再び内戦が始まる。
つまり、1215年の マグナ・カルタ そのものは短期間で崩壊した。
それでも消えなかった
1216年、ジョン王が死去、9歳のヘンリー3世が王位を継承する。
新政権は反乱勢力との関係を立て直すため、問題となった条項などを修正して マグナ・カルタ を再発行した。
1216年、1217年、さらに1225年。
内容を修正しながら繰り返し確認されていく。
1297年にはエドワード1世によって再確認され、マグナ・カルタ はイングランドの制定法体系へ組み込まれた。
一度の政治的妥協として終わるはずだった文書が、歴代国王によって確認される法的伝統へ変化したのである。
17世紀に再び意味を持つ
マグナ・カルタ の歴史的意味が大きく拡張されたのは、成立から約400年後だった。
17世紀、イングランドでは国王と議会の権限をめぐる激しい対立が起きる。
そこで法律家 Edward Coke|エドワード・コーク らは、マグナ・カルタ を王権を法によって制限する歴史的根拠として用いた。
1628年の Petition of Right|権利の請願 でも、恣意的な課税や投獄などに対して国王権力を制約する原理が示される。
さらにイングランド内戦、名誉革命を経て、1689年には Bill of Rights|権利章典 が成立した。
マグナ・カルタ はここで、13世紀の封建的合意から、イングランド憲政の長い歴史を象徴する文書へ変わっていった。
アメリカへの接続
この法的伝統は大西洋を越える。
北米植民地の人々も、イングランド臣民として伝統的な権利を持つという意識を形成した。
そしてアメリカ独立革命を経て、権力を制限し個人の権利を保障する考え方は、Constitution of the United States|アメリカ合衆国憲法 や、Bill of Rights|権利章典 へ接続していく。
特に適正手続、恣意的拘束への制限、陪審裁判などをめぐる英米法の発展を考えるうえで、マグナ・カルタ は重要な歴史的起点の一つとして位置づけられるようになった。
マグナ・カルタが最初から民主主義だったわけではない
1215年のイングランドは民主国家ではなく、普通選挙も男女平等もない。
現代的な普遍的人権を保障した文書でもない。
王と諸侯の権力関係を中心とする中世社会の文書だった。
しかし歴史的に重要なのは、限定された権利と政治的妥協から始まった原則が、何世紀もの政治対立、裁判、議会制度、法解釈を通じて拡張されていったことにある。
「王も法の外にはいない」
マグナ・カルタ は、その長い歴史の中で極めて強い象徴となった。
国王と諸侯の争いから生まれた一枚の文書。
無効にされ、修正され、再発行され、何世紀も後になって再解釈された。
マグナ・カルタ が残したものは、「 権力を持つ者も、無制限に振る舞うことはできない 」という原理が、制度として成長していくための重要な足場だった。
Archive Data
名称 : Magna Carta|マグナ・カルタ/大憲章
成立 : 1215年6月
場所 : Runnymede|ラニーミード、イングランド
国王 : John|ジョン王
背景 : 対仏戦争と財政負担、王権と有力諸侯の対立、1215年の諸侯反乱
1215年版 : 63条
重要な内容 : 国王権力への一定の制約、適法な手続、司法に関する原則、教会・諸侯・都市などの権利
その後 : 1216・1217・1225年に修正版を再発行、1297年に制定法として再確認
後世への接続 : Petition of Right|1628、Bill of Rights|1689、Constitutionalism|立憲主義、Due Process|適正手続、Rule of Law|法の支配
歴史的接続 : Medieval Kingship → Magna Carta → Petition of Right → Glorious Revolution → Bill of Rights → Constitutional Government → Rule of Law

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