『伝説 稲生 物怪録』第六夜の妖怪は大面婆。婆さんは昔からおせっかい。今はすっかり時代の波に飲まれてちっちゃくなった...
『伝説 稲生 物怪録―魔王令嬢と剣士の魑魅魍魎なお伽話―』
【でんせつ いのう もののけろくーまおうれいじょうとけんしの ちみもうりょうなおとぎばなしー】
★江戸時代中期 寛延2年(西暦1749年)
、備後三次(現在の広島県三次市)に
実在した稲生正令、通称・稲生武太夫
(幼名・平太郎)が16歳の年に体験した
という、妖怪にまつわる怪異をとりまと
めた物語。それをベースにしたラブコメ
第六夜 重陽の大面婆(だいめんばばあ)
九月九日、重陽の節句。
平太郎の屋敷では、
小夜が菊の花びらを浮かべた酒を
用意していた。
「平太郎。今日は長寿を願って、
菊酒をいただく日よ」
「俺はまだ、長寿を心配する年ではない」
「今から願っておけば、
百年後も憎まれ口を叩けるでしょう?」
「百年もお前と口喧嘩するのか」
「な、何よ。
百年も一緒にいたいなんて、気が早いわ!」
「誰もそんなことは言っていない」
小夜は真っ赤になり、菊の花びらを
平太郎の杯へ乱暴に放り込んだ。
「鈍感。唐変木。
菊の香りも分からない石頭」
「悪口が一つ増えているぞ」
そこへ、菊の鉢を抱えた権八がやってきた。
「仲がよいのう。
外まで声が聞こえておったぞ」
「「どこを見たらそう思えるのよ!」」
小夜と平太郎の声が、ぴたりと重なった。

夜も更け、権八が帰ろうと戸口を開けた。
「では、また明日――うわあっ!」
戸口いっぱいに、巨大な老婆の顔があった。

白髪は軒を覆い、両目は行灯ほどもある。
深いしわの刻まれた顔が、
屋敷の中をじっとのぞいていた。
「で、出たぞ平太郎! 顔だけの大婆じゃ!」
「大声を出すな。
耳まで大きかったらどうする」
「心配するところは、そこなのか!?」
老婆の巨大な唇が動いた。
「いえぬ……いえぬ……」
低い声とともに、白い息が屋敷へ流れ込む。
触れた菊の花は、
次々とうつむいてしまった。
「何が言えないの?」
小夜が尋ねると、
大面婆はぎょろりと小夜を見た。
「おぬしこそ……言えておらぬ……」
「わ、わたくしは何でも、
はっきり言うわよ!」
「ならば、この男に何を伝えたい?」
「それは……」
小夜は平太郎を見た。
しかし、顔を赤くして目をそらす。
「べ、別に何もないわ!」
大面婆の顔が、さらに大きく膨れ上がった。
「偽りの言葉……いただこう……!」
老婆が息を吸うと、
小夜の身体が戸口へ引き寄せられた。

「きゃっ! 平太郎!」
平太郎は小夜の手首をつかみ、抱き寄せる。
「俺から離れるな」
「そ、そんな言い方をされたら、
余計に離れられないじゃない!」
「今は口喧嘩をしている場合か」
大面婆の白髪が無数の縄となり、
二人へ襲いかかった。
平太郎は小夜を背にかばい、刀を抜く。
「言葉を奪う妖気なら――斬れる」
刃に銀色の月光が集まり、
菊の花びらが風のように舞い上がった。

「月光剣《菊花一閃》!」
平太郎が横一文字に振り抜く。
銀色の斬撃と黄金の菊が渦を巻き、
大面婆の黒い妖気だけを切り裂いた。

老婆の顔は、
しぼむ風船のように小さくなる。
最後には手のひらほどの老婆となり、
平太郎の小刀を眉間にくっつけたまま
宙に浮かんだ。
「言わぬ言葉は、妖怪の御馳走。
されど、今宵は胸焼けじゃ」
大面婆は小刀を放り出し、
夜空へ逃げていった。
翌朝。
縁側で平太郎が菊酒の杯を眺めていると、
昨夜の小刀が空中に現れ、
ぽとりと畳へ落ちた。
「原形をとどめている。律儀な妖怪だ」
隣に座った小夜が、そっと口を開く。
「平太郎。
昨夜、言えなかったことだけれど……」
「何だ?」
「わたくしは、あなたのそばにいると…」
平太郎が静かに待つ。
小夜の頬は、菊の花より赤く染まった。
「……退屈しないわ!」
「それだけか」
「今はそれだけ!
残りは自分で考えなさい!」
庭の隅では、
小さくなった大面婆が耳を澄ませていた。

「そこまで言って、まだ言わぬのか……」
大面婆は呆れ果て、
小刀を杖代わりにして逃げていく。
平太郎は菊酒を一口飲み、わずかに笑った。
「俺も、お前がいると退屈しない」
「!、今の、もう一度言って!」
「断る」
「平太郎!」
秋晴れの屋敷に、二人の声が響いた。
第六夜の教訓
大切な気持ちは、
胸に隠したままでは伝わらない。
すべてを言えなくても、
素直な一言が心の距離を縮める。
