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2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』(第17回)「小谷落城」



武田信玄

足利義昭(尾上右近)は、使者・三淵藤英の従者に化けて、武田信玄の本拠地・躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた。山梨県甲府市古府中)へ。

織田信長との同盟を理由にたび重なる織田信長(小栗旬)討伐の催促を断っていた武田信玄であったが、説得されて出陣することに(「西上作戦」)。

1572年(元亀3年)10月━━
総勢25000の兵を率いて遠江(静岡県西部)へ侵攻した武田信玄は、織田方の徳川家康(松下洸平)と12月23日に三方ヶ原(静岡県浜松市)に於いて激突。本多忠勝(夏生大湖)が奮戦したが、武田信玄が大勝利をおさめ(「三方ヶ原の戦い」)、勢いづいた足利義昭も挙兵します。

※ドラマの足利義昭は、織田信長が嫌いであったが、自分には力が無くて討てないとして藤戸石を斬っていた。史実の足利義昭は、織田信長を頼りとしていたが、「三方ヶ原で徳川&織田連合軍が武田軍に敗れた」と聞き、武田信玄を頼りとするようになったという。
 「三方ヶ原の戦い」で敗れた徳川家康は、石川数正に「この負けをわしは忘れる。お前は忘れるな」と言っていたが、この悔しさを忘れないように「徳川家康三方ヶ原戦役画像」(通称「顰像(しかみぞう)」)を描かせた」という話があります。

 「三方ヶ原の戦い」で勝利した武田軍は、刑部砦に駐屯し、手紙を書いた。また、「金ヶ崎の退き口」で登場した「市」とだけ書かれた手紙のように、署名と花押のみを多くの紙に書いた。
 越年後、「信玄最後の城攻め」という野田城攻めを始める。その時、「信玄砲」という鉄砲で撃たれた。玉には毒が塗られており、体調が悪化したので、「峯之薬師」(鳳来寺)の「信玄隠しの湯」で1ヶ月湯治した。この時、故郷・井伊谷を武田信玄に焼かれた井伊直政少年は鳳来寺に匿われていた。秘仏である峯之薬師を出させ、抱き着いて命乞いをする哀れな武田信玄を見て、彼はどう感じただろうか。

〽織田がつき羽柴がこねし天下餅座りしままに食うは徳川

 武田信玄は、戦国最強軍団を持ち、織田、明智、豊臣が3人がかりで作った天下餅を、たった1人で作る力を持っていたが、1人で食べて喉に詰まらせて死んだという一人芝居━━。何やってるんだよぉ。

★死因を窒息死とした意図
 あの時代は何があるか分からないということを表現しています。部下が身代わりになって毒殺の危機から逃れ、“天は自分に味方している”と思った翌日、安全だと思って自分がついた餅で命を落とす。人はどのタイミングで、どういう形で死ぬか分からない。

「市(宮﨑あおい)の手で楽にしてあげたかった」チーフ演出・渡邊氏が語る第17回「小谷落城」の全貌 | TVガイドWeb

 史実では、湯治により少し体調がよくなった武田信玄は、本拠地・甲斐国へ向かう途中で亡くなった。死因は結核とも、胃がんともいわれる。亡くなられた地は浪合とも、根羽とも、彼が金山を発見した津具とも、駒場ともされる。遺体は駒場で焼かれて信玄塚に埋められたとも、諏訪湖に沈められたとも、無事に恵林寺まで運ばれたともいう。

遺体を発見した武田家重臣・山県昌景は、その死をしばらく伏せることにしました。

室町幕府の終焉

1573年(元亀4年)春━━
武田信玄が生きていると思って足利義昭は出兵するが、頼りにしていた武田信玄が甲斐に向かって引き揚げたという知らせを受け、ショックを隠し得ない━━。(武田信玄に手紙を出すと、返事が来たという。本文は祐筆が書いたものであったが、使っている紙も、署名や花押の筆跡と使っている墨は武田信玄の物であったので、彼は武田信玄が生きていると信じていたという。)
 7月、織田信長は、7万の軍勢を率いて反旗を翻した足利義昭将軍の京の二条御所を制圧し、足利義昭が逃げ込んだ槇島城に向かいます。織田信長は足利義昭将軍の目を見据えながら言いました。
「お命を取るつもりはありません。手前が将軍になるつもりもございません。京を離れていただきます。あとはお好きなようになさいませ」
(ここでお腹を切らせ申したいと存ずるが、天命おそろしく存ずる故、お命は助け申す。命長くあられて、世の人々の褒貶をお聞きあるがよろしい。)

 足利義昭の命で淀城に立て篭もっていた「三好三人衆」のひとりの石成友通は討ち取られました。享年不明。

明智光秀

※その後、足利尊氏は、豊臣兄弟に「光秀と仲良くしてやってくれ」と言い残し、枇杷庄を経て鞆の浦へ。(将来、その明智光秀と山崎で戦うことになる・・・。)「鞆の浦幕府」を開き、織田信長討伐を促す手紙をせっせと書き続けた。

織田信長の命を受けた明智光秀(要潤)は、二条御所を打ち壊します。
ふと庭の藤戸石の前で足を止める明智光秀━━。
藤戸石の破片が散らばっているのを見て、明智光秀は、足利義昭との思い出を断ち切るように刀を振り下ろしました。

8月、将軍が京を追放されたことで、15代続いた室町幕府は終焉━━。
元号は7月28日に「天正」に改元されていた━━。

朝倉・浅井攻め

織田信長は、再び虎御前山(とらごぜやま)に陣を構え、朝倉&浅井攻めの仕上げにかかります。

朝倉義景は、浅井長政の居城・小谷城背後の田上山に陣を据え、浅井が先に攻撃するのを待っています。そこへ、大獄砦が落ち、丁野山からは火の手があがり、阿閉貞征(あつじさだゆき)等、織田方へ寝返る者が跡を立たないという報告が入り、一乗谷へ引き揚げる朝倉義景━━。
織田軍はその背後から襲いかかります。

(阿閉貞征らを調略したのは竹中半兵衛でしょう。ドラマの竹中半兵衛は松の葉相撲をしていました。普通はどちらかが切れるのに、両方切れたので驚いていました!)

殿(しんがり)を務めるのは斎藤龍興(濱田龍臣)━━。
この刀根坂の戦いで、斎藤龍興は討たれました(「刀根坂の戦い」。生存説あり)。

六坊賢松寺(現在の曹源寺(福井県大野市明倫町))━━

斎藤龍興に「井の中の蛙」と酷評された朝倉義景は、「産まれる時期を間違えたのお」と言い、一乗谷に火を付けるよう朝倉景鏡に命じます。
その朝倉景鏡が裏切って、朝倉義景の首が飛んだ━━。
朝倉義景は、朝倉義景の首級を手土産に織田方に降った。

浅井長政の最期

朝倉の援軍を失い、小丸に籠城していた浅井久政が切腹し、柴田勝家(史実では鶴松大夫)が介錯しました。

残るは浅井長政の首ただ一つ。
木下小一郎長秀と羽柴藤吉郎秀吉と柴田勝家は和睦交渉をするよう織田信長に頼み、小谷城の主殿に足を踏み入れました。

「お市様、浅井様、お迎えに上がりましたぞ。
殿はお2人とお子たち、みんなお連れして参れとお仰せです」

ですが、浅井長政は和睦を承知せず、木下小一郎長秀の「人はほっておいても死にまする。なんで自ら命を絶たねばならんのじゃ。生きたくても生きられなかった者のために生きて下され」という説得にも応じません。

「わしは天下が欲しいと思うたのじゃ。だからわしは兄上を裏切った。織田信長と戦い、あと一歩というところまで追い詰めたことを、わしは誇りにしておる。だからもう、わしはもう、そなたとは生きてはいけん。このままここで終わらせてくれ」(浅井長政)

「最後に会えたのが2人でよかった。市と2人にしてくれ」(浅井長政)

浅井長政は、自ら家紋を彫って入れた3つの小袋を市にお守りだと差し出しました。

市(宮﨑あおい)は言葉をつまらせ背を向け、立ち去りました。
突然、大男の話を始める木下小一郎長秀━━。

「大男は月となって、その娘をいつも優しく見守ることになったのです。おしまい、おしまい」
お市は、「私はいつも思うておった。兄上が太陽なら、殿は月のようだ」といい、刀を借りると、浅井長政の元へ行き、介錯しました。

※一乗谷に人質として住んでいた浅井長政の嫡男・万福丸は、一乗谷を探しても見つからなかったそうで、父・浅井長政は「死んだのであろう」と言っていましたが、実際は逃げて、敦賀にいました。

🔳感想


「元亀争乱」編が始まったかと思ったら、あっという間に終わって天正。
木下秀吉は羽柴秀吉に。木下長秀が羽柴長秀になるのは2年後━━。

元亀4年(天正元年、1573年)7月20日には、名字を木下から羽柴に改めている(羽柴秀吉)。羽柴の由来について、『豊鑑』には柴田勝家と丹羽長秀から一字ずつ取ったとあるが、『豊鑑』の記述と秀吉が実際に羽柴を名乗った時期が食い違うことなどから、この説には疑問も呈されている。また、弟の長秀(後の秀長)が羽柴を名乗るのは、天正3年(1575年)に入ってからであるため、当初は秀吉1人が羽柴と称していた可能性が高い。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

それにしても、浅井長政が天下を狙って織田信長を裏切ったって説は初耳だぞ! いずれにせよ、「長い物には巻かれよ」で、誰に付くかで生死が決まった時代━━藤堂高虎は上手く乗り切った!

というか、番宣で出た宮崎あおいさんの髪が茶髪だったのびは驚いた!

🔳大河紀行


〇徳勝寺
(滋賀県長浜市平方町)
 ・浅井家菩提寺

🔳年表


天文 3年(1534年) 織田信長誕生
天文 6年(1537年) 豊臣秀吉誕生(天文5年説あり)
天文 9年(1540年) 豊臣秀長誕生(天文10年説あり)
天文11年(1542年) 徳川家康誕生
天文12年(1543年) 父・弥右衛門死去
天文18年(1549年) 寧々誕生
永禄元年(1558年) 豊臣秀吉、織田信長の小人(奉公人)となる。
永禄 2年(1559年) 織田信長上洛、岩倉落城
永禄 3年(1560年) 大高城兵糧入れ、桶狭間の戦い
永禄 4年(1561年) 豊臣秀吉、織田信長の足軽(下級武士)となる。
永禄 5年(1562年) 織田信長、松平元康と同盟(清洲同盟)
          豊臣秀吉、「木下藤吉郎」と名乗る。
永禄 6年(1563年) 小牧山城築城
永禄 8年(1565年) 豊臣秀吉、寧々と結婚(永禄4年説あり)
          豊臣秀吉、墨俣一夜城を築城(9月24日)
永禄 9年(1566年) 生駒吉乃、死去(5月13日)
          豊臣秀吉、墨俣一夜城築城(永禄4年説、8年説あり)
永禄10年(1567年)  美濃三人衆、織田家に内応。稲葉山城の戦い
永禄11年(1568年) 織田信長、足利義昭と共に上洛
永禄12年(1569年) 本圀寺(本国寺)の変(六条合戦)。二条城築城。
永禄13年(1570年) 4月20日、信長出兵。4月23日、「元亀」に改元。
元亀元年(1570年) 金ヶ崎の退き口。姉川の戦い
元亀 2年(1571年) 比叡山焼き討ち
天正元年(1573年) 小谷落城
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天正10年(1582年) 本能寺の変、織田信長死去。山崎の戦い
天正18年(1590年) 旭、死去
天正19年(1591年) 豊臣秀長死去
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慶長  3年(1598年) 豊臣秀吉死去
慶長  8年(1603年) 江戸幕府
慶長20年(1615年)   大坂夏の陣、豊臣家滅亡
元和  2年(1616年) 徳川家康死去
寛永  2年(1625年) 智、死去

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