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斎藤竜興の最期「刀根坂の戦い」

 13日、大嶽砦の陥落を知った義景は形勢を判断。織田軍総勢3万に対し、朝倉軍は2万。朝倉勢は前述のように主力重臣らを欠いた上、戦意も低く、勝ち目がないことを悟った義景は撤退を決断した。
 朝倉軍が撤退を開始するや、信長は本隊を率い、自ら先頭指揮を行って朝倉軍を追撃した。しかし織田方の先手武将達は、あらかじめ下知を受けていたにもかかわらず信長より遅れてしまい後に信長より叱責を受けたが、佐久間信盛がこれに反論を行ったため信長の怒りを買っている。
 元々近江出兵に際し家中の意思統一も成されず、織田方の内部懐柔工作などで戦意もない朝倉軍は、退却戦の混乱に織田軍の攻撃を受けて皆殺しにされた。
 義景は疋田城への撤退を目標とし、経路である刀根坂に向かったが、ここでも信長自らが率いる織田軍の追討を受けた。余呉から刀根坂、敦賀にかけての撤退中、朝倉軍は織田軍に押され、織田方の記録に拠れば3,000人以上(ただし「武将38人、兵3,800人」などと、誇大な数字であることを感じさせる記録ではある)と言われる死者を出した。朝倉軍もある者は踏み止まり、ある者は反転して織田方を押し戻すなど果敢に奮闘したが、北庄城主朝倉景行や当時17歳の朝倉道景といった一門衆を含め、山崎吉家、斎藤龍興、河合吉統など大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していたであろう武将が多数戦死した。
 織田軍は翌14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。これにより朝倉軍の近江遠征軍、つまり朝倉本家の直属軍勢と部将はほぼ壊滅した。義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還した。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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🔳歌川国芳『太平記英勇伝』6/50「菜藤右兵衛大夫勝興」


  菜藤右兵衛大夫勝興
美濃守義勝が長男。濃州の国主たり。一年、太多春永、当国に軍馬を向け、諸臣、又、知勇を尽くして攻め撃つほどに、西美濃の三人衆と称し、菜藤家に手足の如くくだりし氏井、安当、稲座の人々さへ、忽ち春永の旗下に降(くだ)りぬ。猶、此の外の面々も、或ひは降参、又は陣没(うちじに)、支え戦ふ者、更になし。剰へ春永の臣下に奇計施す者あって、手勢を率ひて菜藤家の本城稲葉山の間道分け登り、搦手より忍びいり、二、三之丸を攻め落としければ、勝奥、泊せんより然(しかじ)死を潔くせんにはと主従僅か十余人、氏井左京亮が三百余人の中へ切って入り、二、三度、四、五度追ひ戻して、身も鉄石にあらざれば、深手、浅手、数ヶ所蒙り、「今は早、是までぞ」と、鎧脱ぎ捨て、腹、掻き切れば、従者も落ち葉と散り失せけり。

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