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朝倉義景の最期

🔳『太平記英勇伝』8/50「浅久良義兼」

浅久良左ェ門太夫義兼
代々越前の領主として、同国一乗ヶ谷の在住なす。此の将、慮浅く、士を愛する心薄く、春永(注:信長)、是等を窺ひ知り、木目に越前へ攻め入りて、浅久良家を傾けんと計り、義兼、かねて隣国なる阿佐井家(注:浅井家)と因をむすび、互ひに危うきを助けんと約せしかば、長政と相計り、大多(注:織田)を挟み討たんとなす。春永、高運なるに依り、鐘ヶ崎の急難を遁れ、再び阿佐井を攻め撃たんと北近江なる姉川に出張なす。斯くて長政、義兼に援兵乞ふほどに、陣代・浅久良孫三郎をして、一万余人、加勢を差し越し、大多勢と争戦なせしが、両陣、竟に切り崩され、惣敗軍とぞ成りたりける。後又、義兼自身、三万余騎を引率なし、上坂本に屯を構へ、阿佐井並叡山の衆徒夵を併せ六万余人の大軍を以て大多と対陣なすといへども、勅命に依て和睦整ひ、双方帰陣なしぬ。是、春永が遠謀にして、敵国の諸将を漸(あまね)く味方に降らしめ、勢の微なるを見極めて大軍を発し、義兼が田上山の本陣を攻め撃つ事、急なりければ、本国をさして引かんとすに、宗徒の一門に変心の者有りて、本城に入る事あたはず、東雲寺といへる禅院に篭り、生害を遂げたりけり。
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