人はだれの審判者にもなりえぬ「カラマーゾフを読む」(51)
人はだれの審判者にもなりえぬ「カラマーゾフを読む」(51)
第六編 ロシアの修道僧 三(H)人は同胞の審判者たりうるか?最後まで信ずること
「人はだれの審判者にもなりえぬことを、特に心に留めておくがよい」
この言葉から始まる本章は賞味4ページという短い章になります。
しかもその内容もかなり信仰的な内容であり、なかなかピンと来にくい内容かもしれません。
この章で説かれる説法は、ゾシマの信仰理念から言えば一点の曇りもない教えだと思います。
ですがどうでしょう。私も含めてですが、初めてこの章を読んだ人のほとんどがこの章を流し読みしてしまうのではないでしょうか。
「正しい教え」は人々に見向きもされない・・・。
これが後のゾシマの悲劇の伏線になっているのではないかと私は今になって思い当たりました。
私たち読者はこの章を流し読みしてしまいます。そしてそれはゾシマの奇跡の期待に熱狂していた作中の人々も一緒なのではないでしょうか。正しい教えよりも「正しき人の堕落と恥辱を人は好む」というのが暗に示されているのがこの章なのかもしれません。考えすぎでしょうか・・・?
それに、本章末では「孤独におかれたならば、祈ることだ。大地にひれ伏し、大地に接吻することを愛するがよい。大地に接吻し、倦むことなく貪婪に愛するがよい、あらゆる人を愛し、あらゆるものを愛し、喜びと熱狂を求めるがよい」と語られますが、これはまさにアリョーシャの回心の予言とも言えるものではないでしょうか。すでにこの時点で道は示されていたのです。
この章は読み流されてしまいがちですが、実は重要な内容が説かれていると言えるかもしれません。
続く
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