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The Anpo Protests / 安保闘争 - なぜ人々は立ち上がったのか

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安保闘争 - なぜ人々は立ち上がったのか

1960年、日本では 戦後最大規模の政治運動 が起きた。
その中心にあったのが、日米安全保障条約 の改定 だった。
しかし、安保闘争 を単純に「 日米安保 に反対した運動 」と見るだけでは、この出来事の大きさを説明できない。

なぜなら、1960年の新しい 安全保障条約 には、1951年の 旧条約 に存在した日米間の非対称性を修正する側面もあったからである。
それでも反対運動は巨大化し、国会を揺らし、米国大統領の訪日を中止させ、最終的には 岸信介 内閣 の退陣へつながった。
条約をめぐる対立は、いつしか日本の民主主義と政治そのものをめぐる対立へ広がっていった。

1951年|最初の日米安全保障条約

1951年9月8日、日本は サンフランシスコ平和条約 に署名した。
同じ日、日本とアメリカの間で、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約 いわゆる 旧日米安全保障条約 が締結された。

1952年4月28日、両条約が発効、日本は主権を回復し、連合国による占領は終了した。
しかし米軍は日本から全面撤退するのではなく、安全保障条約 に基づいて引き続き日本国内に駐留することになった。

その具体的な駐留条件を定めたのが 日米行政協定 だった。
こうして戦後日本には、日本自身の防衛力 と、日本に駐留する米軍 という二つの 安全保障構造 が形成されていく。

旧安保条約が抱えていた非対称性

1951年の 旧日米安全保障条約 は、後の 新条約 と比べると日米間の権利・義務が対称的ではなかった。
米国には日本国内へ軍隊を配備する権利が認められていた。

一方、後の 新条約 第5条 に置かれるような、日本の施政下にある領域への武力攻撃に日米が共同して対処する という米国側の対日防衛義務は、旧条約には同じ形では規定されていなかった。
また旧条約には、日本国内の大規模な内乱・騒擾への対応に米軍を使用できる規定も存在した。

1950年代、日本政府内部でもこの条約をより対等な形へ改定することが課題となっていく。

岸信介と安保改定

1957年、岸信介 が内閣総理大臣に就任した。
政権が重要政策として進めた一つが、日米安全保障条約 の改定だった。
交渉の結果、新条約では 旧条約 からいくつかの重要な変更が行われる。

代表的なのが、米国の対日防衛義務の明確化 である。
新条約 第5条 では、日本の施政下にある領域で日米いずれかへの武力攻撃が発生した場合、両国が共通の危険に対処することが規定された。

さらに、日本国内の内乱への米軍出動を定めた旧条約の規定はなくなった。
条約の有効期間や終了についても新たな規定が置かれた。
また、在日米軍の配置や装備に関する重要な変更などについて、日本政府との 事前協議 を行う制度も形成された。

つまり1960年の改定には、旧安保条約 の非対称性を修正し、日米関係をより相互的な 安全保障体制 へ変更する という側面があった。

それでも、なぜ反対運動は巨大化したのか

新しい 安全保障条約 によって、日本が米国の戦争へ巻き込まれるのではないか という懸念があった。

第二次世界大戦 からまだ15年、戦争の記憶は、日本社会の中に強く残っており、再軍備や自衛隊の拡大への警戒も存在した。
日米軍事同盟そのものに反対する勢力もあった。

さらに 岸信介 自身が、戦前に 東條英機内閣 の商工大臣を務め、戦後にはA級戦犯容疑者として拘束された経歴を持っていたことも、反対運動の背景の一つとなった。
しかし 安保闘争 は、やがて 安全保障政策 だけでは説明できない規模へ拡大していく。

安保改定阻止国民会議

1959年、社会党、総評などを中心として、安保改定阻止国民会議
が結成された。
その後、全国で集会、デモ、ストライキなどが繰り返される。
参加したのは労働組合や政党だけではなく、さまざまな立場の人々が運動へ参加した。

1960年5月19日

安保闘争 を大きく変えた出来事が起きる。
1960年5月19日、衆議院の 日米安全保障条約 等特別委員会で、新条約 承認案が採決された。

その後、衆議院本会議でも承認案が可決される。
この過程で、採決に反対する社会党議員らが委員長の入室を阻止しようとし、警官隊が国会内に導入されて排除が行われ、与党・自由民主党を中心に採決が進められた。
この国会運営が、安保闘争 の性格を大きく変える。

それまで、「 新しい 安保条約 に賛成か反対か 」だった対立に、「 このような方法で国会が意思決定してよいのか 」という問題が重なった。
条約の内容とは別に、 政権の政治手法そのものへの反発が急速に広がる。

「安保」から「民主主義」へ

5月19日以降、抗議運動はさらに拡大、安保条約 そのものには必ずしも全面的な反対ではない人まで、 政権の国会運営に疑問を持つようになる。
ここで 安保闘争 は、安全保障政策を めぐる 政治運動 から、戦後日本の 議会政治 と 民主主義 のあり方を問う運動 という性格も強く持った。

1960年6月には、国会周辺を大規模なデモ隊が取り囲む状態となる。
安保という一つの外交・安全保障問題が、政府と市民、多数派と少数派、議会の手続、政治権力の正統性 という、より大きな問題へ接続していった。

1960年6月15日

6月15日、国会周辺では大規模な抗議行動が行われた。
デモ隊と警察との間で激しい衝突が発生、その中で、東京大学の学生だった樺美智子が死亡、享年22歳だった。

一人の学生の死は、すでに巨大化していた社会的緊張をさらに高めた。
政府、警察、学生運動、マスメディア、知識人などから、それぞれ異なる主張が出される。
しかし一つ明確だったのは、安全保障条約 の改定をめぐる政治対立が、人命を失うところまで達した という事実だった。

アイゼンハワー訪日の中止

1960年6月には、米国大統領 Dwight D. Eisenhower の訪日が予定されており、これは現職の米国大統領による初めての訪日となる予定だった。

しかし政治的緊張が高まる中、6月10日には大統領訪日の準備のため来日した ジェームズ・ハガティ 米大統領報道官 の車が羽田空港付近でデモ隊に取り囲まれる事件も発生、日本政府は最終的に アイゼンハワー 大統領 の訪日延期を要請、訪日は実現しなかった。

国内の政治運動が、日米首脳外交 の日程そのものを変更させる 規模にまで達したのである。

条約は成立した

日本国憲法 第61条によって条約承認には衆議院の優越が認められており、第60条第2項が準用される。
参議院が衆議院から条約を受け取った後、国会休会中の期間を除いて30日以内に議決しなければ、衆議院の議決が国会の議決となる。

新日米安全保障条約 は、参議院で承認議決が行われないまま、この規定によって1960年6月19日に自然承認となった。

6月23日、新しい 日米安全保障条約日米地位協定 が発効する。
巨大な反対運動が続いたにもかかわらず、条約改定 そのものは成立した。

岸内閣は退陣する

条約発効後、岸信介 は退陣の意向を表明、1960年7月、 内閣は総辞職。
後継首相には 池田勇人 が就任した。

ここに安保闘争の特徴的な結果がある。
反対運動は、新安保条約 の発効を止めることはできなかった。
しかし、 政権は退陣した。

さらに、安保闘争 によって表面化した激しい政治対立の後、池田 政権は経済政策を前面に出していく。
同年12月には国民所得倍増計画が閣議決定され、1960年代、日本社会の大きな関心は高度経済成長へ向かっていくことになる。

条約は残った

1960年の 日米安全保障条約 は、安保闘争 後も存続し、在日米軍も駐留を続き、日米地位協定 も現在まで続いている。
そして 日米安全保障体制 は、その後の日本の外交・防衛政策の基本構造の一つとなった。

つまり 安保闘争 は、巨大な政治運動が起きたにもかかわらず、その運動が反対した制度そのものは残った という歴史でもある。

1960年安保から、その後へ

安保闘争 によって形成された政治参加や社会運動の経験は、その後の日本社会にもつながっていく。
1960年代には学生運動がさらに拡大、ベトナム戦争 への反対運動、大学紛争、市民運動。

そして1970年には、日米安全保障条約 の終了通告が可能となる時期を迎えることから、再び安保問題が大きな政治テーマとなった。

参加主体も、政治環境も、運動の形態も変化していた。
1960年安保 は、その後の社会運動を直接一つの方向へ決めたのではなく、
戦後日本で巨大な 大衆政治運動 が現実に成立した経験 を残した。

What Changed|何が変わったのか

1960年安保闘争 の結果、新日米安全保障条約 は廃止されなかった。
むしろ条約は発効し、その後の日米同盟の基盤となった。

国会の手続と多数派による意思決定のあり方が、大きな政治問題として社会に可視化され、政党や労働組合だけではなく、学生や一般市民を含む巨大な政治参加が生まれた。
安保闘争 が示したのは、制度を決める政治 と、その制度の下で生きる社会 が必ずしも同じ方向へ動くわけではないということだった。

Connection|制度から社会へ

戦後日本の 安全保障体制 を制度だけで追うと、その変化を日本社会がどう受け止めたのか が抜け落ちる。
1960年の 安保闘争 は、その空白を埋める出来事である。

安保闘争 は、「 安保に賛成だったか、反対だったか 」を決めることではなく、1950年代を通じて作られてきた戦後日本の安全保障体制が、1960年に社会全体と接触したとき、何が起きたのか、そこを見ることにある。

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