なぜ「にわかファン」は、サッカー好きから嫌われることがあるのだろうか|にわかファンについて考える①。
ワールドカップになると、普段サッカーを見ていない人までサッカーを見る。
日本代表のユニフォームを着る。
選手の名前を覚える。
SNSに感想を書く。
テレビでは芸能人が応援する。
現地のスタンドにも、普段のJリーグでは見かけない人たちがたくさんいる。
日本が勝てば、みんなで喜ぶ。
本来なら、サッカーを好きな人にとって、とても喜ばしいことのように思える。
ところが、そう単純でもない。
SNSを見ていると、ときどきこんな空気を感じる。
「どうせワールドカップのときだけでしょ」
「普段サッカーを見ていない人に語ってほしくない」
「芸能人を使わなくていい」
「にわかなのに詳しいふりをするな」
もちろん、すべてのサッカーファンがそう思っているわけではない。
それでも、大きな大会になるたびに、
「昔からサッカーを見ている人」と「急にサッカーを見始めた人」
の間に、小さな摩擦が生まれる。
不思議である。
サッカーを見る人が増えた。
サッカーの話をする人が増えた。
それなのに、なぜサッカーを好きな人の一部は、それを素直に歓迎できないことがあるのだろう。
今回は、「にわかファン」を批判する側を批判したいわけではない。
むしろ、
なぜ、こんな感情が生まれるのだろう。
というところから考えてみたい。
そもそも「にわかファン」とは何なのだろう
「にわか」という言葉には、本来「急に」「一時的に」といった意味がある。
そこから「にわかファン」といえば、
最近ファンになった人。
ブームのときだけ見る人。
知識がまだ少ない人。
一時的に盛り上がっている人。
そんな意味で使われることが多い。
ただ、考えてみると基準はかなり曖昧である。
ワールドカップだけ見る人は、にわかなのか。
日本代表しか見ない人は?
Jリーグは見るけれど海外サッカーを知らない人は?
去年からJリーグを見始めた人は?
10年間見ているけれど競技規則には詳しくない人は?
昔は詳しかったけれど、最近の選手を知らない人は?
どこから「本物」で、どこまでが「にわか」なのか。
明確な線はない。
それでも私たちは、ときどき相手を見て、
「この人は、にわかだ」
と判断する。
ということは、「にわか」という言葉は、その人の知識量を正確に測っているというより、
「この人は、まだこちら側の人ではない」
という境界を表す言葉なのかもしれない。
サッカーファンには「本物らしさ」がある
調べてみると、サッカーファンについては、この「本物らしさ」を研究したものがある。
イギリスのサッカーファン26人へのインタビューを分析した研究では、ファンが自分自身の「本物のファンとしての正当性」を語る際に、長期間応援してきたこと、合理的な理由を持ってチームを選んだこと、感情的にどうしても応援せずにはいられないことなどが使われていた。(サイエンスダイレクト)
つまり、
長く応援してきたことそのものが、ファンとしての価値になる。
これはよく分かる。
何年も試合を見た。
選手を覚えた。
戦術を勉強した。
Jリーグへ行った。
アウェイにも行った。
負けた試合も見た。
代表が強いときだけではなく、うまくいかない時期も見てきた。
そうやって積み重ねてきた人にとって、
「サッカーが好き」という言葉には、自分が使ってきた時間が入っている。
だからこそ、ワールドカップが始まった途端、
「サッカー最高!」
と言っている人を見ると、
少し引っかかる。
「昨日まで見ていなかったじゃないか」
と思う。
これは単なる意地悪ではないのかもしれない。
「私はこれだけ見てきた」が、自分の一部になる
スポーツファンについての研究では、ファンであることが個人や集団のアイデンティティ形成に関わることが指摘されている。
試合を見る。
知識を身につける。
仲間と話す。
応援という儀式に参加する。
そうした日常的な実践を通じて、
「私はこのチームを応援する人間だ」
という自己認識が作られていく。(OUP Academic)
これは、以前「このクラブは自分たちが支えてきたという感覚は、どこから生まれるのだろうか」という記事で考えた心理的所有とも近い。
長く関われば関わるほど、
サッカーは「好きな娯楽」だけではなくなる。
自分の一部になる。
だから、新しく入ってきた人がサッカーを少し違う形で扱っていると、自分が大切にしているものまで軽く扱われたように感じることがあるのかもしれない。
芸能人が応援すると、なぜ気になるのだろう
私は、ここが特に面白いと思う。
日本のスポーツ中継では昔から、大きな大会になると芸能人やタレントが起用されてきた。
大会を知らない人にも知ってもらう。
普段スポーツを見ない人にも見てもらう。
大きなイベントとして盛り上げる。
マーケティングとして考えれば、とても分かりやすい。
ところが、コアなファンからすると違って見えることがある。
「サッカーを知らない人を出さなくていい」
「もっと詳しい人に話してほしい」
となる。
なぜだろう。
おそらく、
限られた「サッカーを語る場所」を奪われたように感じる
という側面もあるのではないだろうか。
ずっとサッカーを見てきた人がいる。
詳しい人がいる。
何年も現地へ通ってきた人がいる。
なのに、ワールドカップになった途端、普段サッカーとの接点が見えない有名人がテレビの中心にいる。
すると、
「なぜこの人がこちら側を代表しているんだ」
という違和感が生まれる。
これは「芸能人が嫌い」というだけでは説明できない気がする。
自分たちが長く育ててきた文化の代表権を、突然外から来た人に持っていかれたように感じる。
そんな感覚も混ざっているのかもしれない。
「ゲートキーピング」という現象がある
ファンダム研究には「ゲートキーピング」という考え方がある。
簡単に言えば、
誰をそのコミュニティの正当なメンバーとして認めるか、入口で選別すること
である。
2020年に複数のファンダムを対象にした研究では、ファン集団のエリート意識には、自分たちを高く位置づける側面と、他のファンを低く評価する側面があり、それがゲートキーピングへの肯定的な態度や行動と関連していた。サッカーだけを対象とした研究ではないため、そのままサッカーファンへ当てはめることはできないが、ファンダム一般に起こり得る現象として参考になる。(Intellect Discover)
2026年に発表されたスポーツファンとデジタルメディアについての研究でも、オンライン空間がファン同士を結びつける一方、ファンとしての「本物らしさ」をめぐる葛藤や、集団の内外を強く意識させる側面が示されている。(Sage Journals)
SNSは、
「サッカー好きが集まれる場所」
であると同時に、
「誰が本当のサッカー好きなのか」を互いに見せ合う場所
にもなり得る。
だから、ワールドカップのように大量の新しい人が一気に入ってくると、境界が急に揺さぶられる。
普段なら気にならなかったことまで気になってしまう。
守りたいものがあるから、入口を狭くする
ここで、にわかファンを嫌う人を悪者にしたくない理由がある。
サッカーにおける「本物のファン」という感覚についての研究では、伝統的なサポーターが、自分たちの文化が現代の商業化やグローバル化の中で周辺へ追いやられていると感じた結果として、「本物のファン」の基準を強く主張する場合があることも報告されている。(デジタルオブジェクト識別子)
つまり、
排除したいから境界を作るとは限らない。
守りたいから境界を作ることもある。
これは大きな違いだと思う。
ずっとサッカーを見てきた。
大切にしてきた。
その文化が好きだった。
だから、ブームのときだけ突然やって来て、よく知らないまま語られることに違和感を持つ。
その気持ち自体は、私は理解できる。
むしろ、
愛着が強いからこそ起きる拒絶反応
もあるのだと思う。
ただ、「守る」と「入口を閉じる」は同じではない
問題はここからである。
自分がサッカーを大切にしている。
だから、
「知らないなら発信するな」
「にわかは黙っていろ」
「芸能人はいらない」
となる。
すると何が起きるのだろう。
初めてワールドカップを見た人が、
「面白かった!」
とSNSに書く。
そこで、
「そんなことも知らないの?」
と言われる。
日本代表の選手を一人だけ好きになった人が投稿する。
「普段サッカー見てないくせに」
と言われる。
その人は次に、
もうサッカーについて書かない方がいいかな。
と思うかもしれない。
守ろうとしたサッカー文化の入口を、自分たちで狭くしてしまう。
これは少しもったいない。
今回のワールドカップでは、実際に「見る人」が大きく増えた
ここで、2026年のワールドカップ後に非常に興味深い数字が出ている。
JFAとJリーグが8月20日に公表した調査では、日本代表を視聴・観戦した人、またはJリーグを観戦した人を合わせた「サッカー界全体の観戦者層」は、2026年2月の1071万人から7月には1644万人へ増えた。
約573万人の増加である。
さらに、ワールドカップ後に開幕した2026/27 Jリーグでは、第1節にJ1・J2・J3合計47万6112人が来場し、全カテゴリー合計の1節あたり最多入場者数を更新。翌第2節には48万1544人となり、2節連続で記録を更新した。(日本サッカー協会)
もちろん、この増加をすべてワールドカップの「にわかファン」が生んだと断定することはできない。
Jリーグの秋春制移行や各クラブの集客施策など、さまざまな要因がある。
それでもJFAとJリーグ自身が、ワールドカップで高まった関心を国内サッカーへつなげ、ファンベースを拡大することを明確な目的としている。(日本サッカー協会)
つまり、日本サッカー全体から見れば、
普段見ない人がサッカーを見ることは、困った現象ではない。むしろ待ち望んでいる現象である。
とも言える。
JFAの行動規範には「仲間の拡大」と書いてある
以前「サッカーファミリー」について調べたとき、私はJFAのサッカー行動規範にある一項がとても印象に残った。
仲間の拡大
である。
JFAはサッカーに関わるすべての人を「サッカーファミリー」と定義し、「する人」「見る人」「支える人」など、さまざまな形でサッカーとつながる人を増やそうとしている。(日本サッカー協会)
そして行動規範には、
「サッカーの仲間を増やすことに努める」
とはっきり書かれている。(日本サッカー協会)
ここに少し面白いねじれがある。
日本サッカー全体は、
もっと仲間を増やしたい。
と思っている。
一方、長くサッカーを愛してきた人の一部には、
簡単にこちら側へ入ってきてほしくない。
という感情が生まれることがある。
どちらも、サッカーを大切に思っている。
なのに、向いている方向が逆になることがある。
「にわか」が嫌なのではなく、「同じファンと言われること」が嫌なのかもしれない
ここまで考えると、「にわか嫌い」の正体が少し違って見えてくる。
新しい人がサッカーを見ること自体が嫌なのではない。
もしかすると、
昨日来た人と、何年も見てきた自分が、同じ「ファン」という一語で括られることへの違和感
なのではないだろうか。
自分は時間を使った。
お金を使った。
負けも見た。
選手を覚えた。
歴史も知っている。
そこには確かな蓄積がある。
だから、
「あなたも私も同じサッカーファンですね」
と言われると、
「いや、同じではない」
と言いたくなる。
それは、ある意味で当然なのかもしれない。
同じでなくてもいい。
私は、ここが大事だと思う。
全員を同じファンにする必要はない
昨日初めてサッカーを見た人と、30年間見てきた人は違う。
ワールドカップだけ見る人と、毎週Jリーグへ行く人も違う。
戦術を詳しく分析する人と、好きな選手だけを見る人も違う。
その違いを消す必要はない。
30年間見てきた人の知識や経験には価値がある。
長くクラブを支えてきた人への敬意も必要だと思う。
でも、
違うことと、入ってきてはいけないことは別である。
昨日来た人には、昨日来た人なりの楽しみ方がある。
そして、その人が明日も見るかもしれない。
来週Jリーグへ行くかもしれない。
子どもとボールを蹴るかもしれない。
あるいは、次にサッカーを見るのは4年後かもしれない。
それでもいいのではないだろうか。
誰にでも「にわか」だった日がある
私は、この言葉に戻ってくる。
今、何十年もサッカーを見ている人にも、
初めてサッカーを見た日がある。
ルールを知らなかった。
選手を知らなかった。
オフサイドもよく分からなかった。
何となく代表戦を見た。
家族に連れられてスタジアムへ行った。
テレビに映ったスター選手を好きになった。
入口は人それぞれだったはずである。
そこから長く残った人が、今「中の人」になっている。
だとすれば、
今目の前にいる「にわかファン」は、昔の自分なのかもしれない。
もちろん、全員が残るわけではない。
それでもいい。
サッカーの入口に立った人へ、
「もっと勉強してから来てください」
と言うのか。
それとも、
「面白かったでしょう」
と言うのか。
サッカーを愛しているからこそ文化を守りたいという気持ちも分かる。
でも、サッカーを愛しているからこそ、
新しく面白さを知った人を少しだけ歓迎する余裕があってもいい。
そんなふうにも思う。
そして、ここで次の疑問が出てくる。
そもそも私たちは、
「にわかファンは、いずれ本物のファンになる途中の人」
と考えていないだろうか。
でも、本当にそうなのだろうか。
ワールドカップだけ見る。
日本代表だけ見る。
好きな選手だけ見る。
4年に一度だけ盛り上がる。
それは「未完成なファン」なのだろうか。
それとも、
それ自体が一つの完成したサッカーとの関わり方なのだろうか。
次は、そこを考えてみたい。
次回:「にわかファン」は、本当にサッカーファンになる前の未完成な人なのだろうか
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