「このクラブは自分たちが支えてきた」という感覚は、どこから生まれるのだろうか
Jリーグのスタジアムから生まれた問い。
前回の記事では、
選手の写真ばかり撮る人は、クラブを応援していないのだろうか
ということを考えた。
最初は一人の選手が好きだった。
その選手を見たくてスタジアムへ行った。
写真を撮った。
また見に行った。
そうして何度も通っているうちに、ほかの選手を覚え、試合結果が気になり、順位を見るようになる。
そして、好きだった選手が移籍しても、そのままクラブを応援する人もいるかもしれない。
最初は、
「○○選手がいるクラブ」
だったものが、いつの間にか、
「うちのクラブ」
に変わる。
私は、この「うち」という言葉がとても気になった。
考えてみれば不思議である。
その人はクラブの社員ではない。
選手でもない。
オーナーでもない。
それなのに、
「うちは今年守備がいい」
「うちの若手が代表に選ばれた」
と、ごく自然に言う。
では、
「好きなクラブ」は、いつから「自分たちのクラブ」になるのだろうか。
今回は、その感覚そのものを少し調べてみたい。
サポーターはクラブを所有していない
当たり前だが、サポーターはクラブの所有者ではない。
チケットを買ったからといって、クラブの経営権を持つわけではない。
ユニフォームを買っても、監督を選べない。
毎試合ゴール裏で声を出しても、選手を獲得する権限はない。
アウェイへ全部行っても、経営方針を決められるわけではない。
それでもサッカーでは、ごく自然に、
「俺たちのクラブ」
「私たちのチーム」
という言葉が使われる。
普通の商品なら、毎週買っているからといって、
「この会社は俺たちの会社だ」
とは、なかなか言わない。
では、なぜサッカークラブには、こんな感覚が生まれるのだろう。
「心理的所有」という考え方がある
調べてみると、この感覚を考えるうえで興味深い概念があった。
**心理的所有(psychological ownership)**である。
法的には自分のものではない。
それでも、
「これは自分のものだ」
と感じる心理を指す。
しかも、スポーツファンについて、この心理的所有を調べた研究がある。
2015年に発表された研究では、日本のプロサッカーチームとそのファンを対象として、一般のファン9人と組織化されたサポーターグループに所属する7人、計16人への詳細なインタビューが行われた。
その研究では、クラブに結び付いた文化的な意味や個人的な経験が、ファンの繰り返すさまざまな行為や「儀式」を通して本人と結び付き、心理的所有やファンとしてのアイデンティティ形成につながっていく過程が論じられている。(Taylor & Francis Online)
つまり、
好きだから「自分たちのクラブ」になるだけではない。
好きになる。
通う。
応援する。
喜ぶ。
悔しがる。
また行く。
その経験の積み重ねそのものが、
「自分たちのクラブ」
という感覚を育てていくのではないだろうか。
「あのクラブ」から「うち」へ変わる
Jリーグのサポーターを想像すると、これはとても分かりやすい。
最初は友人に誘われただけだったかもしれない。
初めてスタジアムへ行く。
次も行く。
ユニフォームを買う。
選手の名前を覚える。
チャントを覚える。
勝つ。
負ける。
昇格する。
降格する。
また翌年も行く。
そうした時間のどこかで、
「あのクラブ」
ではなく、
「うち」
になる。
「うちは今年守備がいい」
「うちの若手が代表に選ばれた」
「うちはアウェイに弱い」
実際にはクラブの社員でも選手でもない。
でも自然に「うち」と言う。
私は、この一人称の変化がとても面白い。
クラブを外側から眺める存在ではなく、自分自身の生活や記憶の中へ取り込んだことを表しているように思う。
遠征は、さらに大きな投資になる
ホームゲームだけではない。
熱心なサポーターはアウェイへ行く。
片道何時間もかける。
新幹線に乗る。
飛行機に乗る。
ホテルを取る。
土日の予定を空ける。
お金も使う。
時間も使う。
それでも負ける。
場合によっては、ほとんど何もできず0対3で負ける。
帰り道はつらい。
それでも次の試合へ行く。
これは経済的な消費だけでは説明しきれない気がする。
自分の人生の時間を、クラブへ少しずつ渡している。
そんな表現の方が近いかもしれない。
そして渡した時間が積み重なるほど、クラブは単なる娯楽ではなくなっていく。
苦しかった時代は、さらに強く残る
特に大きいのは、成功した記憶だけではないと思う。
むしろ、
苦しかった時代を一緒に過ごした経験
ではないだろうか。
降格した。
何年も昇格できなかった。
観客が少なかった。
経営が苦しかった。
好きだった選手が移籍した。
監督が代わった。
期待していたシーズンがうまくいかなかった。
それでもスタジアムへ行った。
だからクラブが成功したとき、
「強くなったね」
だけではなく、
「ここまで来た」
になる。
主語の中に、自分自身も少し入っている。
自分がゴールを決めたわけではない。
自分がクラブを経営したわけでもない。
それでも、
自分もこの歴史を見届けてきた。
という感覚がある。
「自分たちが支えてきた」という言葉の奥には、そうした時間の蓄積があるのではないだろうか。
「チームが好き」と「自分たちのチーム」は少し違う
研究では、心理的所有は「チーム・アイデンティフィケーション」、つまりチームとの一体感や自己同一化とは区別して考えられている。
先ほどの日本のプロサッカーファンを対象とした研究でも、この違いが論じられている。(Taylor & Francis Online)
これは面白い。
「私はこのクラブのファンです」
と、
「このクラブは自分たちのものです」
は似ているようで、少し違う。
前者は、自分がクラブ側へ近づいていく感覚。
後者は、クラブが自分自身の側へ入ってくる感覚とも考えられる。
だからこそ、クラブの出来事を他人事として見られなくなるのかもしれない。
心理的所有は、クラブを支える大きな力になる
ここは誤解したくない。
心理的所有という言葉を、
「サポーターがクラブを自分のものだと勘違いしている」
という意味で使うべきではないと思う。
むしろスポーツクラブにとって、とても大切な力なのではないだろうか。
FCバルセロナの会員兼シーズンチケット保有者1,180人を対象にした研究では、クラブへの心理的所有とクラブのライセンス商品などを購入する意向との関係が検討され、心理的所有が購買意向を説明する要素の一つとなっていた。また、意思決定への参加も心理的所有と関係していた。(Taylor & Francis Online)
つまり、
「自分たちのクラブ」だから支える。
という力がある。
チケットを買う。
グッズを買う。
友人を連れてくる。
遠征する。
SNSで発信する。
雨でも行く。
カテゴリーが変わっても応援する。
クラブにとって、これほど心強い存在はない。
ときには、本当に「自分たちのクラブ」を取り戻そうとする
さらに興味深い研究もある。
ルーマニアのステアウア・ブカレストのサポーターを調べた研究では、心理的所有から、実際にクラブの正式な所有へ関わろうとする動きへ発展する過程が研究されている。
経営への不満を表明し、それでも状況が変わらない中で、サポーター自身が正式な所有へ関与しようとする。(Taylor & Francis Online)
ここまで行くと、
「俺たちのクラブ」
という言葉が単なる比喩ではなくなる。
なぜ経営者でもないサポーターが、クラブ経営について本気で怒るのか。
なぜ監督人事に反応するのか。
なぜクラブの理念が変わることに抵抗するのか。
心理的所有という視点から見ると、少し理解できる。
自分の大切なものに起きている出来事だからである。
だから、新しく来た人が気になる
ここで第0回の問いにも戻れる。
長い時間をかけて、
「自分たちのクラブ」
という感覚を育ててきた人がいる。
そこへ初めて来た人がいる。
写真を撮っている。
選手ばかり見ている。
ゴールが決まっても立たない。
チャントも歌わない。
そのとき、
「この人、本当にクラブを応援しているのかな」
という小さな違和感が生まれる。
私は、それをすぐに排他性とは呼びたくない。
むしろ、
自分がこれほど大切にしてきたものを、その人も同じように大切にしてくれているのだろうか。
と確かめたくなる心理なのかもしれない。
何年も時間とお金と感情を注いできたからこそ気になる。
だとすれば、その感情の根元にあるのは、
排除ではなく愛着
なのである。
ただし、「自分たちが」から「自分たちこそ」へ変わることもある
一方で、ここには注意したい境目もある。
「自分たちがクラブを支えている」
と、
「自分たちこそクラブを支えている」
は、よく似ている。
でも意味はかなり違う。
長く通っている人。
毎試合声を出す人。
遠征する人。
年間チケットを持つ人。
その貢献は間違いなく大きい。
でも、新しく来た人もいる。
年に一度しか来られない人もいる。
DAZNを中心に見る人もいる。
子どもを連れてくる人もいる。
推し選手だけが目的だった人もいる。
まだ、
「自分たちのクラブ」
と思うところまで来ていない人もいる。
その人たちも、これから時間を重ねれば、
「あのクラブ」
から、
「うちのクラブ」
へ変わっていくかもしれない。
昔からのサポーターにも、「最初の一試合」があった
私はここが、この話で一番大切なのではないかと思う。
今、20年間応援している人にも、
最初の一試合
があった。
初めてスタジアムへ来た日。
まだチャントを知らなかった日。
選手の名前を数人しか知らなかった日。
チケットをもらったから、何となく来ただけだったかもしれない。
友人に誘われただけかもしれない。
好きな選手の写真を撮りたかっただけかもしれない。
そこから何度も通った。
経験を重ねた。
いつしか、
「自分たちのクラブ」
になった。
だとすれば、今スタジアムに初めて来ている人は、
20年後に「自分たちがこのクラブを支えてきた」と話している人
かもしれない。
そう考えると、新しいファンと昔からのサポーターは対立する存在ではない。
同じ道の、違う場所にいる人たち
とも考えられる。
愛着を弱めるのではなく、次の人にも育ててもらう
サッカーファミリーを広げるために、熱心なサポーターの、
「自分たちのクラブ」
という感覚を弱める必要はないと思う。
それはクラブの財産である。
むしろ、
その感覚を、次に来た人にもいつか育ててもらう。
その方がいい。
初めは写真目的でもいい。
ポケモン目的でもいい。
友達に誘われただけでもいい。
静かに座って見てもいい。
そこから、
一回来る。
また来る。
選手を覚える。
悔しい負けを経験する。
初めてアウェイへ行く。
昇格を喜ぶ。
降格で泣く。
また翌年も来る。
そんな時間を重ねる。
そしていつか、その人の口から自然に、
「うちのクラブ」
という言葉が出る。
「自分たちのクラブ」という感覚は、誰かだけに与えられた資格ではない。
クラブと一緒に過ごした時間から、少しずつ育っていくものなのだと思う。
だからこそ次に気になる。
長く応援するほど愛着が強くなる。
貢献するほど「自分たちのクラブ」になる。
では、その熱量の大きさによって、
誰が「本当のサポーター」なのかを決めることはできるのだろうか。
次はそこを考えてみたい。
次回:応援の熱量で、「サポーターらしさ」を測ることはできるのだろうか
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