ゴールが決まっても立たない人を、なぜ私たちは気にしてしまうのだろうか
Jリーグのスタジアムから生まれた問い。
サッカーの掲示板やXを見ていると、ときどき気になる言葉を見かける。
選手の写真ばかり撮っている。
試合より自撮りばかりしている。
特定の選手の追っかけみたいだ。
ゴールが決まっても座ったまま。
声を出さない。
隣の人とハイタッチもしない。
「地蔵」という言葉が使われることもある。
もちろん、すべてのサポーターがそんなことを言っているわけではない。
ほんの一部の書き込みかもしれない。
そして私は、こうした言葉を見ても、
「そんなことを言うサポーターは排他的だ」
とは、あまり思わない。
むしろ最近、逆のことが気になっている。
なぜ、他人の観戦の仕方がそんなに気になるのだろう。
そこには、サッカーを長く応援してきた人だからこその心理があるのではないだろうか。
スタジアムでは、たぶん言わない
例えば、隣に座った人が試合中ずっと選手の写真を撮っていたとする。
ゴールが決まった。
周囲は立ち上がる。
でも、その人は座っている。
もちろん、観戦ルール上その席で立つことが前提になっているなど、周囲への具体的な迷惑が生じる場合は別である。
ただ、そうでなければ、
「もっと声を出してください」
「写真ばかり撮らないでください」
「ゴールが決まったんだから立ちましょうよ」
と本人へ直接言う人は、それほど多くないと思う。
それぞれお金を払って来ている。
楽しみ方も違う。
面識もない。
だから、その場では何も言わない。
でも、少しモヤモヤする。
そして帰宅してから掲示板を見る。
Xを見る。
「今日、近くにずっと写真撮ってる人がいた」
「ゴール決まっても座ったままだった」
と書く。
SNSが、スタジアムでは言えなかった小さな違和感のはけ口になっている面もあるのではないだろうか。
だから私は、その投稿だけを取り上げて、
「新規客を排除している」
と批判するのも少し違うように思う。
では、なぜモヤモヤするのだろう。
そもそも、観戦方法は一つではない
Jリーグ自身も、スタジアムには異なる観戦方法があることを前提にしている。
公式の初心者向け観戦ガイドでは、メインスタンドやバックスタンドは、ピッチ全体を見ながら座ってゆっくり観戦できる席として紹介されている。
一方、ゴール裏はチャントや手拍子で選手を後押しする人が集まり、立って応援する人が多い場所として紹介されている。(Jリーグ公式サイト)
つまり、公式の案内からして、
スタジアムへ来た人全員が、同じように応援することを想定しているわけではない。
声を出したい人もいる。
じっくり試合を見たい人もいる。
家族で楽しみたい人もいる。
選手を近くで見たい人もいる。
写真を撮りたい人もいる。
初めて来て、まだチャントも選手の名前も分からない人もいる。
それでいいはずである。
なのに、なぜ他人の観戦方法が気になるのだろう。
長く応援するほど、「自分たちのクラブ」になる
ここを考えていて、非常に興味深い研究に行き当たった。
スポーツファンについては、**心理的所有(psychological ownership)**という考え方が研究されている。
法的に所有しているわけではない。
株主でも経営者でもない。
それでも、
「これは自分のチームだ」
と感じる心理である。
しかも、日本のサッカーチームとそのファンを対象にした研究もある。
その研究では、ファンがさまざまな儀式や経験を通じてチームと意味を結び付け、それが心理的所有やファンとしてのアイデンティティの形成につながっていることが示されている。研究者は、心理的所有と単なるチームへの同一化は概念的にも異なると指摘している。(Taylor & Francis Online)
これを知って、少し腑に落ちた。
「自分たちが支えてきた」という感覚
考えてみれば、熱心なサポーターがクラブへ費やしているものは相当大きい。
毎週スタジアムへ行く。
チケットを買う。
ユニフォームを買う。
遠征する。
雨の日も行く。
負け続けても行く。
降格しても応援する。
選手が移籍してもクラブを応援する。
何年も、場合によっては何十年も続ける。
クラブがまだ弱かったころを知っている人もいる。
観客が少なかった時代を知っている人もいる。
経営が苦しかった時期を知っている人もいるだろう。
そうした経験が積み重なれば、
「自分たちが、このクラブを支えてきた」
という感覚が生まれるのは、それほど不思議ではない。
これは傲慢さとは違う。
むしろ、
愛着の結果
なのだと思う。
実際、別の研究でも、心理的所有はサポーターがクラブの正式な所有に関わろうとする行動を理解する重要な要素として扱われている。(サイエンスダイレクト)
「俺のクラブ」という感覚は、スポーツファンにとってかなり本質的なものなのかもしれない。
だから、「応援していないように見える人」が気になる
そう考えると、冒頭の話も少し違って見えてくる。
自分は90分声を出している。
何年も通っている。
遠征もする。
勝てば喜ぶ。
負ければ本気で悔しい。
そんな人の隣で、
ずっと選手の写真を撮っている。
自撮りしている。
ゴールが決まっても座っている。
すると、
「この人は、このクラブを本当に応援しているのだろうか」
という感情が出てくる。
それは、
「自分たちの大切なものを、この人も同じように大切にしてくれているのだろうか」
という確認なのかもしれない。
だとすれば、私はその感情自体を否定したくない。
むしろ、それだけクラブが大切なのだと思う。
でも、その人もわざわざスタジアムへ来ている
ただ、ここでもう一つ考えたい。
写真ばかり撮っているその人も、
スタジアムへ来ている。
自宅にいてもよかった。
映画を見てもよかった。
買い物へ行ってもよかった。
ゲームをしてもよかった。
ほかのスポーツを見てもよかった。
いまは娯楽の選択肢がものすごく多い。
それなのに、
時間を使って、
交通費を払って、
チケットを買って、
スタジアムまで来た。
そしてサッカーのある場所にいる。
私は、それだけでも結構すごいことだと思う。
写真から入ったっていい
その人がクラブを好きなのかは分からない。
もしかすると、本当に特定の選手だけが好きなのかもしれない。
その選手が移籍したら、別のクラブへ行くかもしれない。
それでもいいのではないだろうか。
最初は、
「あの選手の写真を撮りたい」
だった。
でも何度か来る。
隣の選手を覚える。
応援を覚える。
スタグルを食べる。
順位が少し気になる。
そのうち、
「今日勝ったかな」
と試合結果を見るようになる。
そんなことだってあるかもしれない。
もちろん、ずっと選手だけを追いかける人もいるだろう。
それも一つのサッカーとの関わり方である。
ポケモンを入口にしようとしているのなら
これは、最近私が考えてきたポケモンとJリーグの話にもつながる。
Jリーグはいま、ポケモンとの大規模なコラボレーションを行っている。
私はこの企画について、
サッカーが目的じゃなくてもいい。ポケモンを見にJリーグへ行くことも、立派な入口ではないだろうか。
と書いた。
ポケモンが目的の人をスタジアムへ呼ぶ。
そこで初めてサッカーを見る。
面白ければ、もう一度来てもらう。
私は、これは非常にいい考え方だと思っている。
でも、そうやって入口を広げれば、当然いろいろな人が入ってくる。
サッカーをよく知らない。
チャントも知らない。
ゴールが決まっても、どう反応していいのか分からない。
写真を撮っている。
ポケモンと自撮りしている。
途中でスタグルを買いに行く。
それは当然なのである。
入口を広げるということは、自分とは違う楽しみ方をする人が増えることでもある。
ここは、かなり重要なのではないだろうか。
【ここに「サッカーが目的じゃなくてもいい。ポケモンを見にJリーグへ行くことも、立派な入口ではないだろうか」を貼る】
熱心なサポーターを変える話ではない
だからといって、
「古参サポーターはもっと寛容になりましょう」
と結論づけるつもりもない。
それでは、長くクラブを支えてきた人にだけ変化を求めることになる。
ゴール裏の文化も大切である。
90分声を出す人がいるから生まれる雰囲気がある。
アウェイまで何百キロも移動する人がいるから、遠く離れたスタジアムにもクラブカラーが現れる。
苦しい時代から支え続けてきた人たちが作った文化もある。
それを、
「新しい客が来るのだから変えてください」
と簡単に扱うべきではないと思う。
むしろ考えたいのは、
強い愛着を持つ人と、まだ小さな興味しか持っていない人が、同じスタジアムにいられる方法
である。
席によって期待されるものが違ってもいい
その意味では、スタジアムの席の違いは案外重要なのかもしれない。
Jリーグ自身も、ゴール裏を応援の一体感を味わう場所として案内する一方、メイン・バックスタンドを座ってゆっくり観戦する場所として案内している。初心者にはメインやバックを勧める案内もある。(Jリーグ公式サイト)
つまり、
全員を同じ観戦文化へ入れる必要はない。
声を出したい人が集まる場所。
静かに見たい人がいる場所。
家族で楽しめる場所。
初めての人が入りやすい場所。
いろいろあっていい。
そして、慣れてきた人が、
「次はゴール裏へ行ってみようかな」
と思えば行けばいい。
逆に、ずっとメインスタンドで静かに見てもいい。
サッカーの楽しみ方に、卒業試験のようなものは必要ない。
SNSは、悪意ではなく「モヤモヤ」が見える場所なのかもしれない
そう考えると、掲示板やXで見かける言葉も、少し違って読めるようになった。
「地蔵だった」
「写真ばかり撮っていた」
「推ししか見ていない」
その言葉自体は、言われた側が見れば嫌な気持ちになることもあるだろう。
でも、その奥には、
「自分はこんなにクラブが好きなのに」
という感情があるのかもしれない。
スタジアムでは本人に言えない。
言うべきことでもない。
だからSNSへ流れる。
SNSは、ときに攻撃の場所になる。
でも同時に、
クラブへの強い愛着から生まれた小さな違和感が、言葉になって出てくる場所
でもあるのかもしれない。
そう捉えると、単純な「排他的なサポーター」という説明では見えなかったものが見えてくる。
サッカーファミリーが大きくなるということ
私は、日本でサッカーを見る人がもっと増えてほしいと思っている。
でも本当に増えれば、
今までとは違う人が来る。
応援方法も変わる。
目的も違う。
熱量も違う。
写真を撮る人もいる。
自撮りする人もいる。
推し選手だけを見る人もいる。
静かに座っている人もいる。
年に一度しか来ない人もいる。
それは、サッカーファミリーが壊れている姿ではなく、
サッカーファミリーが広がっている途中の姿
なのかもしれない。
そして、昔からいる人が少し戸惑うのも自然なのだと思う。
同じ熱量でなくても、同じスタジアムにいられる
ゴールが決まった。
私は立ち上がる。
隣の人は座っている。
私は声を出す。
隣の人は写真を撮る。
それでも二人とも、その日、その場所でサッカーを見ている。
もしかすると、その人は初めて来たのかもしれない。
次はもう少し選手を覚えているかもしれない。
あるいは何年たっても、ずっと写真を撮っているかもしれない。
それでもいいのではないだろうか。
サッカーを愛する人を増やすことと、
自分と同じ方法でサッカーを愛する人を増やすことは、同じではない。
私は最近、そんなことを考える。
ただ、ここまで考えると、もう一つ気になる。
選手の写真ばかり撮る人。
特定の選手を追いかける人。
いわゆる「推し活」でスタジアムへ来る人。
その人たちは、本当にクラブを応援していないのだろうか。
そもそも、
選手を好きになることと、クラブを好きになることの間には、どんな関係があるのだろう。
次はそこを考えてみたい。
次回:選手の写真ばかり撮る人は、クラブを応援していないのだろうか
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