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「サッカーファミリー」という言葉は、誰を仲間にしようとしているのだろうか|サッカーファミリーについて考える①。

私は昔から、「サッカーファミリー」という言葉を何気なく使ってきた。

選手。

監督。

コーチ。

審判。

サポーター。

クラブスタッフ。

ボランティア。

スポンサー。

育成年代を支える保護者。

サッカーに関わっている人たちを、なんとなく大きくまとめて、

みんなサッカーファミリーだよね。

そんな感覚で使っていた。

でも、最近あらためてこの言葉が気になっている。

スタジアムやSNSを見ていると、勝敗に熱くなるあまり、相手クラブを必要以上に揶揄したり、審判を激しく攻撃したり、別の応援の仕方をする人を嫌ったりする場面もある。

もちろん、それだけサッカーに本気なのだと思う。

勝ちたい。

負けたくない。

判定に納得できない。

ライバルには絶対に負けたくない。

その感情そのものまで否定したくはない。

むしろ、それがあるからスポーツは面白い。

それでも私は、ときどき思う。

サッカーファミリーという言葉は、そういうときにこそ思い出すための言葉なのではないだろうか。

今回は、その言葉自体について考えてみたい。

JFAの定義は、思っていた以上に広かった

調べてみると、日本サッカー協会は「サッカーファミリー」をかなり明確に定義している。

JFAのFAQでは、

サッカーに関わる全ての人々

をサッカーファミリーとしている。

そして2005年の「JFA2005年宣言」では、2015年に500万人、2050年には1000万人のサッカーファミリーをつくるという目標まで掲げていた。現在は、プレーする人だけでなく「する人・見る人・支える人」など、さまざまな形でサッカーと関わる人との継続的な接点づくりも進められている。(日本サッカー協会)

つまり、サッカーファミリーとは、

登録選手だけ。

でもなければ、

熱心なサポーターだけ。

でもない。

サッカーの周りには、たくさんの人がいる。

ピッチでプレーする人。

教える人。

笛を吹く人。

応援する人。

試合を運営する人。

スポンサーとして支える人。

そして、まだ一度しかスタジアムへ来たことがない人も、広い意味ではその輪の中へ入っていくことができる。

私は、この「広さ」がとても大切なのではないかと思う。

「ファミリー」は、仲良しという意味なのだろうか

ただ、「ファミリー」という言葉には少し不思議なところがある。

家族というと、

仲がいい。

助け合う。

同じ方向を向く。

そんなイメージがある。

でもサッカーは違う。

対戦相手がいる。

その相手には負けたくない。

同じJリーグのクラブだからといって、

「今日はお互い頑張りましょう」

だけでは試合にならない。

勝つために本気で戦う。

相手のゴールは喜ばない。

ダービーなら、さらに感情が強くなる。

では、そんな相手まで「ファミリー」と呼ぶのだろうか。

私は、ここにこの言葉の面白さがあると思う。

ファミリーだから仲良くしなければならないのではない。

もしかすると、

敵になれるけれど、存在そのものまでは否定しない。

そのくらいの意味なのではないだろうか。

JFAの「リスペクト」を見ると、その意味が少し分かる

JFAとJリーグは2008年から「リスペクトプロジェクト」を進めている。

そこでリスペクトを、単に「尊敬」と訳すのではなく、

「大切に思うこと」

と表現している。

対象は選手だけではない。

仲間。

対戦相手。

審判。

指導者。

用具。

施設。

保護者。

大会関係者。

サポーター。

競技規則。

さらには、サッカーというゲームの精神そのものまで含めている。(日本サッカー協会)

これを読んで、私は、

ああ、これが自分が「サッカーファミリー」という言葉に感じていたものなのかもしれない。

と思った。

リスペクトは、

相手を好きになること

ではない。

相手の言うことに全部賛成すること

でもない。

その人や、その役割や、その存在を大切なものとして扱うこと。

なのだと思う。

相手チームは「敵」なのか

JFAのフェアプレーの説明には、かなり印象的な考え方がある。

対戦相手について、

相手チームの選手は「敵」ではなく、サッカーを楽しむための大切な仲間

という趣旨が示されている。さらにJFAサッカー行動規範では、「相手の尊重」「勝敗の受容」「仲間の拡大」などが掲げられている。(日本サッカー協会)

もちろん、試合中の感情としては敵でいいと思う。

むしろ、

絶対に負けたくない。

と思わなければ面白くない。

ただ、もう一段大きな枠で見ると、

相手チームがいなければ試合はできない。

相手サポーターがいなければアウェイの緊張感も生まれない。

審判がいなければ競技は成立しない。

スポンサーやスタッフがいなければ、スタジアムで試合を開催できない。

つまり、

試合では対立していても、サッカーという場を一緒につくっている。

そこまで含めてファミリーなのではないだろうか。

「サッカーファミリー」は、境界線を引く言葉ではないのかもしれない

私は最近、

スタジアムに来た人を、どこまで「サッカーファミリー」と呼べるのだろうか

という記事を書いた。

そこでは、

写真を撮る人。

静かに見る人。

年に一度しか来ない人。

推し選手を目当てに来る人。

そうした人も含めて、サッカーとの関わり方にはいろいろあっていいのではないかと考えた。

今回JFAの定義を確認してみると、やはり「サッカーファミリー」という言葉は、

誰を外へ出すかを決めるための言葉

ではなさそうだ。

むしろ、

どこまで仲間を広げられるか

を考えるための言葉に見える。

JFAサッカー行動規範にも、「仲間の拡大」という項目がある。(日本サッカー協会)

これは、とてもいい言葉だと思う。

勝敗に夢中になると、大きな輪を忘れることがある

ただ、実際のサッカーでは簡単ではない。

試合になれば熱くなる。

終了間際にPKを取られた。

審判に腹が立つ。

相手選手のプレーに怒る。

ライバルサポーターの投稿に反応する。

負けた直後なら、冷静になれないこともある。

私自身も、試合を見れば勝ってほしい。

負ければ悔しい。

だから、

「サッカーファミリーなんだから、みんな仲良くしましょう」

という話にはしたくない。

そんなきれいごとでは、サッカーの熱さまで失ってしまう。

むしろ私は、

熱くなってもいい。
でも、一線を越えそうになったときに、もう少し大きな枠組みを思い出せないだろうか。

というくらいに考えたい。

相手サポーターも、朝早く家を出てスタジアムへ来た。

審判も、その試合を成立させるために立っている。

ボランティアも働いている。

クラブスタッフも準備している。

みんな違う立場で、同じ一試合をつくっている。

そう考えるだけで、ほんの少し言葉が変わるかもしれない。

リスペクトは、感情を抑えることではない

リスペクトというと、

怒ってはいけない。

ブーイングしてはいけない。

常に礼儀正しくしなければいけない。

という話に見えることがある。

でも、JFAが使う「大切に思うこと」という表現は、もっと広い。

全力で戦うこと自体もリスペクトの一部として考えられている。(日本サッカー協会)

これは、とてもサッカーらしいと思う。

手を抜かない。

勝つために戦う。

相手が強いからこそ、本気で倒しにいく。

試合が終わったら、相手の存在を認める。

それもリスペクトなのだと思う。

だから、

勝敗への執着とリスペクトは、反対側にあるものではない。

むしろ、本気で戦うために相手が必要なのである。

サッカーファミリーには、いろいろな距離がある

ファミリーと呼ばれる人たちの距離感も同じではない。

毎週スタジアムへ行く人。

月に一度の人。

DAZNで見る人。

子どもの試合を支える保護者。

審判。

指導者。

スポンサー。

運営スタッフ。

その全員が、同じ熱量でサッカーを愛しているわけではない。

でも、同じ熱量である必要もないのだと思う。

家族だって、一人ひとり性格も距離感も違う。

それでも、互いの存在を認める。

そう考えると、

サッカーファミリーという言葉が求めているのは、同質性ではなくリスペクトなのかもしれない。

私は、そんな気がしている。

サッカーを愛するなら、サッカーを支えている人も大切にする

「サッカーが好きだ」

という言葉には、いろいろな意味がある。

自分のクラブが好き。

日本代表が好き。

特定の選手が好き。

ゴール裏が好き。

育成年代が好き。

でも、その対象をもう少し広げると、

サッカーというゲームそのものが好き

になる。

そうであるなら、

そのゲームを成立させている人たちも、少し大切にできないだろうか。

対戦相手。

審判。

相手サポーター。

スタッフ。

ボランティア。

そこまで含めて、

サッカーを愛する

ということなのかもしれない。

この言葉が必要なのは、仲良くできているときではないのかもしれない

「サッカーファミリー」という言葉は、みんなが笑っているときには必要ないのかもしれない。

むしろ、

判定に怒っているとき。

負けて悔しいとき。

相手サポーターが憎らしく見えるとき。

そんなときに、

ああ、この人たちも同じサッカーの中にいるんだよな。

と思い出すための言葉なのではないだろうか。

怒りをなくす必要はない。

ライバル意識をなくす必要もない。

ただ、その先にいる人まで否定しない。

私は、それくらいのサッカーファミリーでいいと思う。

そして、ここまで考えると、次に一番気になる人たちがいる。

対戦相手のサポーターである。

試合の日には、明確に相手側にいる。

こちらの失点を喜ぶ。

こちらの勝利を望んでいない。

それでも、何時間もかけて同じスタジアムへ来ている。

果たして、

対戦相手のサポーターも、同じサッカーファミリーではないだろうか。

次は、そこから考えてみたい。

次回:対戦相手のサポーターも、同じサッカーファミリーではないだろうか


この問いを、もう少し考えてみたい方へ

ワールドカップをきっかけにサッカーを見る人が増えたとき、その人たちをすぐに「にわかファン」と呼んでしまってよいのだろうか。
この問いから、いくつかの記事を書いています。
「にわかファン」が増えることは、日本サッカーにとって本当に悪いことなのだろうか

まず、「にわか」という言葉そのものから考えました。
4年に一度しかサッカーを見ない人も、日本のサッカー文化をつくっているのだろうか

毎週見る人だけが、サッカーファンなのか。ワールドカップのときだけ見る人も、日本サッカーを支える「見る人」の一人ではないかと考えました。
そして、この問いはさらに大きなテーマにつながりました。
2050年、日本が「サッカー大国」になるとは、どういうことなのだろうか

日本代表がワールドカップで優勝することだけが、サッカー大国なのか。
プレーする人、見る人、話す人、教える人、支える人。
サッカーとのさまざまな接点が日常の中に広がっていることも、「サッカー大国」の一つの姿ではないかと考えています。
気になる問いがあれば、そこから続けて読んでいただければうれしいです。


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