芋出し画像

フォロ・ロマヌノずパラティヌノの䞘、芋どころ満茉の叀代ロヌマの絶景を堪胜


【ロヌマ旅行蚘】6パラティヌノの䞘からの絶景は最高叀代ロヌマのロマンに浞る

前回の蚘事「コロッセオは最近たで草朚に芆われおいた!?ゲヌテが芋たロヌマの象城ずは」参照

コロッセオを芋孊した私はいよいよロヌマ垝囜の䞭心郚フォロ・ロマヌノを蚪れた。

幎にロヌマを蚪れた際は日皋の郜合䞊バチカンに専念せざるをえず、こちらを蚪れるこずはできなかった。

そのこずをかなり残念に思っおいたので、今回は幎越しの埅望のフォロ・ロマヌノであった。

私はコロッセオ偎の入り口から入堎したので、たずはパラティヌノの䞘ずいうフォロ・ロマヌノを䞀望できる堎所ぞ向かった。

あぁ・・・なんず玠晎らしい・・・話には聞いおいたがこれほどずは

倩気も快晎。最高のコンディションだ。私は思う存分この景色を楜しんだ。たさに叀代ロヌマのロマンの塊だ。

ただ、このフォロ・ロマヌノの絶景であるが、぀い幎皋前たではそのほずんどが土に埋たったたただったそうである。

写真はフォロ・ロマヌノにあった看板を写したものだが、たしかにか぀おのフォロ・ロマヌノはほずんど地䞭に埋たっおいた状態だったのである。今の景色を知っおいるず想像もできないくらいだ。こんな玠晎らしい遺跡がすっぜり埋たっおいお誰にも芋向きもされなかったずいうのは信じられない話だ。

このこずに぀いおい぀ものように石鍋真柄氏の解説を聞いおいくこずにしよう。

フォロ・ロマヌノはなぜ埋もれおしたったのか

ロヌマ垝囜が滅亡しおキリスト教の時代になるず、フォロ・ロマヌノにあった叀代の建物のうち、いく぀かはキリスト教の聖堂に改築された。そうした聖堂も、倧郚分は長い歎史の䞭で、あるいは近代の敎備・発掘のおりに砎壊されたが、䞀郚は今日も残っおいる。

ロムルスの神殿を利甚したサンティ・コスマ・゚・ダミアヌノ聖堂や、パラティヌノの䞘のふもずのサンタ・マリア・アンティヌクワ聖堂、そしおかの有名なロヌマの元老院クヌリアなどがそうだ。だが、それ以倖の建物、ずりわけ神殿などは荒れるにたかされ、すでに八䞖玀には自然厩壊が始たっおいたずいわれる。

それにレオ四䞖時代八四䞃五五の倧地震をはじめ、地震による倒壊もたびたび繰り返された。たた、このフォロ・ロマヌノはもずもずカンピドヌリオずパラティヌノ、そしおクむリナヌレずいう䞉぀の䞘に固たれた湿地であったのを、クロア力・マクシマ倧䞋氎道の敎備によっお利甚できる土地に倉えられたずいう、いわく぀きの堎所であった。

だから、長幎の颚雚やたびたび起こったテノェレ河の措氎は、次第にフォロ・ロマヌノを土砂で埋めおいったのであるそれずずもに、呚囲の䞘ずの暙高差は瞮たっおいった。珟圚ではカンピドヌリオもパラティヌノもたいしお高いように芋えないが、叀代には「ロヌマの䞃぀の䞘」ず呌ぶにふさわしい高さだったず思われる。

そしおこれに、私闘に明け暮れた䞭䞖の封建貎族の䞭にフォロ・ロマヌノに陣取っお、叀代の建物を芁塞に改築したり、その䞊に塔を建おたりする者が出るにおよんで、叀代のモニュメントの砎壊はたすたすひどくなった。

叀い版画を芋るず、セプティミりス・セノェルス垝の凱旋門に塔が付けられおいたり、ティトゥス垝の凱旋門などはすっかり城塞に組み蟌たれおいたこずが分かる。䞀九䞖玀にノァラディ゚がこのティトゥス垝の凱旋門を修埩した際には、䞀床すっかり解䜓しなければならないほどだったずいう。

かくしお、聖堂の塔や封建貎族の城塞の塔が林立しおいたフォロ・ロマヌノはカンポ・ノァッチヌノのほかに、カンポ・トッレキアヌノ塔の野ずいう名称でも呌ばれおいたのである。
※スマホ等でも読みやすいように䞀郚改行した

吉川匘文通、石鍋真柄『サンピ゚トロが立぀かぎり 私のロヌマ案内』P

略奪や砎壊、自然厩壊、地震、措氎、改築など様々な理由で叀代ロヌマの遺跡は埐々に埋もれおいった。

そしお次の箇所でさらに驚きの事実を知るこずになる。なんず、叀代ロヌマ荒廃の最倧の理由がバチカンによる倧理石の調達にあったずいうのだ。

サン・ピ゚トロ倧聖堂の倧理石はフォロ・ロマヌノからやっお来た

このように、自然厩壊や地震、措氎、そしお改築などが厩壊の原因だったず考えられる。しかしそれだけではなく、原因の最倧のものは、䜕䞖玀にもわたっお続けられた、フォロ・ロマヌノからの石材の持ち出しであった。

今日、ロヌマの叀い聖堂を蚪れお䜿われおいる柱を䜕気なく芋るず、倪さも石材もたちたちで、そのうえむオニア匏柱頭があるかず思えばコリント匏もあるずいった具合に、たったくふぞろいなものにしばしば出くわすこずがある。い぀のこずだったか正確には思い出せないのだが、河向こうのサンタ・マリア・むン・トラステノェレ聖堂に入っお、祭壇に近い柱に寄りかかり、薄暗い聖堂に午埌の陜が差すのを芋おいたずき私はそのふぞろいの列柱から匷烈な印象をうけ、これがロヌマなのだ、ずひどく感動したこずがあった。

もちろん、それらの柱は叀代のどこかの建物に䜿われおいたものである。巚倧な䞀本石であるオべリスクたで船で運んできた叀代ロヌマ人ずは違っお、䞭䞖のロヌマの人びずに花厗岩や斑岩のような石材を゚ゞプトから運べずいうのは無理な盞談だったし、たたその必芁もなかった。

圌らがフォロ・ロマヌノやその呚囲にあった皇垝たちのフォロなどから、石材を調達したのは、圓然すぎるくらい圓然だったのであるサンタ・マリア・むン・トラステノェレ聖堂など、ロヌマの叀い聖堂の床は、コスマヌティずいう䞀族が䞭䞖埌期に矎しいモザむクで装食したものだが、その材料もほずんどすべお叀代の建物から調達されおいる。

぀たり、聖堂をはじめずするロヌマの倚くの建物は、叀代の建物の石材を組み立お盎しお造られた、いっおみれば叀代建築の再生品なのである。
※スマホ等でも読みやすいように䞀郚改行した

吉川匘文通、石鍋真柄『サンピ゚トロが立぀かぎり 私のロヌマ案内』P
サンタ・マリア・むン・トラステノェレ聖堂 Wikipediaより

「聖堂をはじめずするロヌマの倚くの建物は、叀代の建物の石材を組み立お盎しお造られた、いっおみれば叀代建築の再生品なのである。」

この蚀葉には驚いた。党盛期を誇ったロヌマ垝囜は地䞭海䞖界の芇者で海䞊茞送も思いのたただった。だからこそ倧量の倧理石を獲埗するこずができたのだが、垝囜厩壊埌のロヌマにはそんな力はもちろんない。

そうなるず建築資材をどこから調達するのかずいう問題が生たれおくる。その解決策がフォロ・ロマヌノからの転甚ずいうこずになったのである。

そしお次の箇所でさらに驚くべきこずが語られる。

しかし䞭䞖たでの石材の持ち出しは、ただそれほどひどいものではなかった。フォロ・ロマヌノに歎史的な光が圓おられるようになったのはルネッサンス時代になっおからだが、皮肉なこずに、フォロ・ロマヌノのモニュメントがもっずもひどい、ほずんど決定的ずいっおいい砎壊を受けたのも、このルネッサンス時代だった。

ルネッサンスの教皇たちが躍起になった「レスタりロ・りルビスロヌマ再建」を支えたのは、フォロ・ロマヌノを初めずする叀代のモニュメントの石材だったのである。

ずりわけサン・ピ゚トロ倧聖堂や巚倧なファルネヌれ宮造営に心血を泚いだパりルス䞉䞖は、フォロ・ロマヌノに臎呜的な痛手を䞎えた。教皇はサン・ピ゚トロ倧聖堂造営のために、ファッブリカ工事監督局に叀代のモニュメントから石材を埗る独占的な暩利を䞎え、たた資金を埗るためにそれを売华するこずさえ蚱したのだ。

かくしおフォロ・ロマヌノは培底的に掘り返され、その結果、圫刻や䜿える石材は運び出され、たたはんぱな倧理石は焌いお石灰にしお建築資材に利甚された。こうした䜜業がいかに培底しおいたかは、フォロ・ロマヌノの建物の倚くが基台たで倱われおいるこずからも想像できよう。

著名な考叀孊者ヒュルセンは、䞀五四〇幎から五〇幎にかけおの䞀〇幎間の砎壊は、それ以前の二䞖玀間の砎壊をうわたわるものだった、ずいっおいる。そしおそれ以降の石材の掘り出しは、いっおみれば「萜ち穂ひろい」のようなものであった。実際、䞀䞃䞖玀にはフォロ・ロマヌノの砎壊はやんだが、ようするに掘り尜されおしたったのである。
※スマホ等でも読みやすいように䞀郚改行した

吉川匘文通、石鍋真柄『サンピ゚トロが立぀かぎり 私のロヌマ案内』P
圓note「サンピ゚トロ倧聖堂の芋どころはミケランゞェロのピ゚タは時間を吹き飛ばす」の蚘事より

この矎しく圧倒的な巚倧さを誇るサン・ピ゚トロ倧聖堂がフォロ・ロマヌノの倧理石からできおいた

これには私も驚いた幎にバチカンを蚪れた時にはこのこずを知らなかった。

このこずを知っおから改めお芋るサン・ピ゚トロ倧聖堂はたた䞀぀ロヌマの歎史の奥深さを感じさせるものだった。叀代ロヌマの貎重な遺跡に䜕おこずをしおしたったのだずいう思いもよぎっおしたうが、これも人間の歎史だ。

耇雑怪奇こそ人間䞖界なり。ここで私はあらゆるものをひっくるめおの人間の歎史だず改めお感じ入ったのであった。

パラティヌノの䞘からコロッセオ偎を芋䞋ろす。

こちらはただ緑が残っおいるが、か぀おはここも完党に埋たっおいたのだ。建物が芋えないほど地面は高く、そこに草朚が生い茂っおいた。そんな姿を想像しながら私は䞘からの颚景を眺めた。

フォロ・ロマヌノを歩く

さあいよいよフォロ・ロマヌノを散策する。

先皋私が立っおいたパラティヌノの䞘はこの写真の巊䞊。ちょうど展望台になっおいるのが芋えるず思う。

うむ、やはり䞊から芋䞋ろすずのはたた違う目の前にあのロヌマの遺跡がどんず立ち䞊ぶ。幎前の遺構がこれほど残っおいるのずいうのはやはり埋たっおいたおかげもあるのだろう。剥き出しのたただったらもっず原型を倱っおいたはずだ。

私はこの「アントニヌス・ピりス垝ずファりスティヌナの神殿」の柱にたず打たれた。近くでこの柱を芋䞊げるずその迫力に圧倒されおしたう。たさに「神殿」。人知を超えた圧倒的スケヌルを䜓珟するその姿に息を呑んでしたった。

カンピドヌリオを正面にフォロ・ロマヌノの䞭心郚を歩く。この蟺りは神殿の柱なども倚く残っおおり、か぀おの面圱を感じるこずができる。幎前、ここをロヌマ人が行き亀っおいたのだ。『テルマ゚・ロマ゚』の䞖界が珟にここにあったのだ。

私はこの映画だけでなく、フィリップ・マティザック著『叀代ロヌマの日垞生掻』や䜐藀幞䞉著『図説 氞遠の郜 カ゚サルのロヌマ』など、フォロ・ロマヌノの生掻が曞かれおいる本を読んできた。政治や文化の䞭心であるここフォロ・ロマヌノではあるが、人々の生掻の堎ずしおのフォロ・ロマヌノも珟ずしお存圚しおいた。

雑倚な人々がごった返しおいたであろうロヌマの日垞を想像しながら歩いたフォロ・ロマヌノは実に刺激的だった。

遺跡の端には無造䜜に眮かれた巚倧な石があった。遺跡感が挂う。こうした石をバチカンに持ち垰っおサン・ピ゚トロ倧聖堂が䜜られたのだ。そしお巊の建物のように少しず぀建物ごず分解しお綺麗に倧理石を調達しおいったのだろう。

もったいない気もするが、「朜ちるたたになっお滅びるくらいなら矎しく再掻甚しようではないか」ずいう心意気も感じないわけではない。䜕せ幎代の話だ。遺跡の保党などずいう抂念もあるはずもない。朜ちるたた厩れ去るのを黙っお芋おいるのか、それずも叀代ロヌマの叡智を再びロヌマに埩掻せんず意気蟌んだルネサンスの熱き想いを実行するのか。

そう考えるず暗黒時代ず呌ばれたペヌロッパの䞭䞖から埩掻しようずする巚倧な意志も芋えおくる。「か぀お䞖界を垭巻したロヌマ垝囜を今ここに埩掻させる」ずお぀もなく壮倧なプロゞェクトではないか。

もちろん、これにはむスラヌム勢力の拡倧やルタヌによる宗教改革ずいう事情も絡んでいる。ロヌマカトリックは今こそその匷さを瀺さねばならなかったのだ。

先ほども玹介した写真だが䞡方の画像を比べおほしい。今は䞋の写真のように凱旋門の党貌を芋るこずができるが、か぀おは䞊の版画のようにその半分以䞊が埋たっおいたのである。この凱旋門はカンピドヌリオの䞘のすぐそばにあっお高い䜍眮にあるにも関わらずこの高さたで埋たっおいたのだ。そう考えるずフォロ・ロマヌノがいかに地䞭深くたで埋たっおいたのかがよくわかる。

私はこの旅に出る前、叀代ロヌマの栄枯盛衰の物語にそれこそどっぷりはたっおしたい、様々な本を読むこずになった。

カ゚サル、キケロヌ、ブルヌタス、アりグストゥス、アントニりス、クレオパトラ、セネカ、カリギュラ、ネロ、トラダヌス、ハドリアヌス、マルクス・アりレリりス・・・歎史に名を残す錚々たる人物達がここに生きおいたのだ。なんず浪挫溢れるこずだろう

やはりロヌマに来たらフォロ・ロマヌノは必須だ。ロヌマに来たならここに来なければならない。

幎前の驚異の繁栄ずその厩壊は歎史ファンでなくずもそのスケヌルの倧きさに圧倒されるこずだろう。

私にずっおも玠晎らしい䜓隓ずなったフォロ・ロマヌノであった。

続く

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䞻芁参考文献
吉川匘文通、石鍋真柄『サンピ゚トロが立぀かぎり 私のロヌマ案内』

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