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近代海軍の生みの親 〜 勝海舟

今回は、近代日本海軍の創設に尽力した勝海舟に関するお話です。

日本海軍の発祥
戦前の皇国史観の中では、皇軍が初めて船団を組んだ神武東征の御船出が日本海軍の発祥とされ、

その後、10世紀頃から水上の武装集団が登場し、1180年の源平合戦で活躍した伊予河野水軍や、14世紀以降の村上海賊などが、水軍として頭角を顕にしました。

江戸幕府による鎖国の時代には、約250年もの間、日本に「海軍」と呼べる船団は存在しなかったのですが、

1853年の黒船(ペリー艦隊)来航が、日本が本格的な近代海軍を創る大きなきっかけとなりました。

このあと、近代日本海軍は、勝海舟が基礎を作り、山本権兵衛が育てたということが定説になっています。

勝海舟の生い立ち
勝海舟(幼名:麟太郎)は、1823年、江戸の本所亀沢町(現・東京都墨田区)に、御家人の長男として生まれました。

勝海舟生誕の地 記念碑
《東京都墨田区・両国公園内》
(Photo by ISSA)

家計は大変苦しく、極貧の少年時代を過ごしたようです。

剣術と蘭学への没頭
1841年から「幕末の剣聖」とも呼ばれた凄腕剣士・島田虎之助の門下に入り、直心影流の剣術を習得して免許皆伝を得ました。

その後、西洋知識の必要性と痛感し、赤坂溜池の福岡藩邸で蘭学者・永井青崖に弟子入りして蘭学(注1) を学び始め、

1846年、和蘭辞書「ドゥーフ・ハルマ」(注1) を入手するため、1年がかりで2部丸写しして、1部は自分の勉強用、もう1部は売却して生活費や本代に充てたと言われています。

(注1) 蘭学やドゥーフ・ハルマについては、前回記事を参照

「海舟」と名乗る
20代後半になると、西洋の脅威に対抗するため、最先端の西洋砲術を教えていた佐久間象山の塾に入門しました。

象山は、「これからは海軍を創って、海を越えて押し寄せるであろう西洋諸国から日本を守らねばならぬ」という強い思いから、

自分の書斎を「海舟書屋」と名付け、直筆の扁額を掲げていたのですが、

象山は、麟太郎の並外れた才能と熱意を見抜き、その扁額を麟太郎に譲り渡します。

(Created by GEMINI)

その時、麟太郎は、この言葉と込められた思い(注2) に大変感銘を受け、そのまま「海舟」と名乗るようになりました。

(注2) 「海外に学び、視野を広げ、大局を見極め、どんな大波にも動じない一艘の小舟のようであれ」という思いが込められている

黒船来航と海防意見書
1853年、ペリーの黒船が来航し、幕府が広く意見を募った際、海舟は、

  • 海軍・軍事教育機関の設立

  • 身分にとらわれない人材登用

  • 軍艦建造と外洋航海の実施

等を書き記した「海防意見書」を提出します。

これが上方の目に留まり、実際に幕府をその方向に向かわせるとともに、下級旗本出身の海舟が、幕府内で出世するきっかけとなります。

1854年9月、幕府はオランダへの軍艦発注(注3) と、江戸時代初期の「大船建造の禁」解禁へと動き、

(注3) この時にオランダに発注した船の中には、後に太平洋横断を成功させる「咸臨丸」も含まれていた

翌1855年、長崎に海軍伝習所を創って、オランダ海軍を通じた海軍育成に着手しました。

長崎海軍伝習所
海舟自身も、長崎海軍伝習所へ赴任。

長崎海軍伝習所の想像図
《東京都墨田区横網・江戸東京博物館》
(Photo by ISSA)

五代友厚中島三郎助らとともに初期の伝習生(訓練生)となって、その後の幕府海軍を牽引(注4) するための技術を養いました。

長崎海軍伝習所跡
《長崎県長崎市江戸町》
(Photo by ISSA)

(注4) この伝習所では、沿岸航行の際に伊能図が使われていた

更に、薩摩藩から「昇平丸」が幕府に献上(注5) され、1855年11月から、オランダによる伝習船に使われました。

幕府に献上された昇平丸
《鹿児島市加治屋町・維新ふるさと館》
(Photo by ISSA)

(注5) この船は、江戸に回航する際、日本惣船印(外国船と区別する全国共通の船舶旗)として、日本史上初めて「日の丸」を船尾に掲げた船である

こうして海舟は、それまでに培った蘭学・蘭語を駆使して、オランダ人教官から本格的な航海術、造船学、砲術を学び、海軍人としての礎を築いていったのです。

【参考】やがて、日本海軍の教師役は、オランダから英国へ
出島を中心とするそれまでの長い日蘭交流の歴史に鑑みて、日本の海軍は、当初、長崎海軍伝習所でオランダ海軍から教えられたが、その後、各国との条約が進み、出島が閉鎖され、日蘭交流に陰りが見え始めると、その後は、世界最高の海軍強国となりつつあった英国から、海軍の仕組み、組織、運営、教育、しきたりなどを取り入れるようになった

左:ペルス・ライケン(蘭)☆☆☆☆
長崎海軍伝習所の初回教師団長☆
右:A.K.ウィルソン(英)☆☆☆☆☆
1867年に幕府が招いた英海軍教師
(「勝海舟記念館 企画展のチラシ」より)

「咸臨丸」で太平洋横断
日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府の使節団が米国の蒸気船「ポーハタン」で訪米することが決まると、この船に護衛艦をつける話が持ち上がり、翌1859年、「咸臨丸」がそれに任ずることになりました。

「咸臨丸」の模型
《香川県仲多度郡琴平町・琴平海洋博物館》
(Photo by ISSA)

「咸臨丸」の乗員50名のうち、35名は塩飽水軍の末裔で、海舟は失われた250年の回復を試みたといいます。

その際、「咸臨丸」は、日本初のレンガ積みドライドックが完成したばかりの浦賀に回航され、長期航海に向けた整備が行われました。

勝海舟断食之跡
「咸臨丸」の整備中、海舟はこの地で
航海の成功を祈って断食したという
《神奈川県横須賀市東浦賀・叶神社》
(Photo by ISSA)

こうして、1860年2月、幕府の軍艦「咸臨丸」は、艦長の勝海舟をはじめ、ジョン万次郎福沢諭吉らを乗せて、37日間の航海ののちサンフランシスコに到達したのです。

咸臨丸難航図
《香川県仲多度郡琴平町・琴平海洋博物館》
(Photo by ISSA)

彼らは太平洋横断という快挙を成し遂げましたが、米国で目の当たりにした先進的な政治システムや技術力に、強い衝撃を受けます。

海舟は、米国で航海術や造船学などに関する大量の洋書を買い込んで持ち帰り、これらは後の神戸海軍操練所や、その後の近代日本海軍の貴重な教育資料となりました。

【参考】日本初の近代造船所につながる
使節団の監察役だった小栗上野介忠順は、米国で軍艦や造修施設を見学し、日本にも造船所を作る必要性を強く認識。帰国後、駐日フランス公使ロッシュを通じて、横須賀の楠ヶ浦付近に造船所を設置することになる

坂本龍馬との出会い
同じ頃、ジョン万次郎の漂流体験記を著した河田小龍との会談(注6) から、同じく船の必要性を痛感していた坂本龍馬が居ました。

河田小龍と「漂巽紀略」
《龍馬の生まれたまち記念館》
(Photo by ISSA)

(注6) 河田は、日本の軍事力では、諸外国に打ち勝つのは不可能なので、「先ずは商業を興こし、外国船を買い、同志を集め、客や荷物を運び、運賃を集めながら航海術を習得し、そうして、外国に対抗できる軍事力を身につけてから、攘夷を実行すべき」と語っていた

船を買うには大金が必要なので、幕府と掛け合うしかないと考えていた龍馬は、福井藩主の松平春嶽に会って海防の重要性を訴えます。

この話に感銘を受けた春嶽は、幕府の中でも海軍に詳しい勝海舟を紹介することになり、こうして龍馬は海舟と知り合うことになったのです。

1862年12月、龍馬は海舟を訪ねます。

当初、龍馬は幕府側の人間である海舟を斬るつもりでしたが、「咸臨丸」で太平洋を横断し、実際に外国を見てきた勝海舟から語られる言葉は、龍馬を震撼させるには十分でした。

先ず、国を挙げて兵制を改革し、
海軍を創設して
諸外国と対等に渡り合うべきだ

勝海舟

海舟の話にすっかり感銘した龍馬は、その場で「弟子にしてくれ」と懇願し、開国派に転向したと言われています。

勝海舟・坂本龍馬の師弟像
《東京都港区赤坂6丁目》
(Photo by ISSA)

龍馬の足枷を解き放つ
翌年、幕府船で下田に荒天避退した海舟は、時を同じくして避退してきた土佐船の山内容堂と出会う事になります。

山内容堂・勝海舟謁見の間
《静岡県下田市・唐人お吉記念館》
(Photo by ISSA)

2人は下田で会談し、海舟は容堂から龍馬の脱藩罪について許しを得て、愛弟子・龍馬の足枷を解き放つことができました。

神戸海軍操練所と海軍塾
翌1864年、海舟は幕府の軍艦奉行に就任し、日本初の日本独自の海軍士官養成機関である神戸海軍操練所が創設されました。

神戸海軍操練所跡
《兵庫県神戸市中央区新港町》
(Photo by ISSA)
幕末期の海軍養成所の変遷
(Created by ISSA)

龍馬は、海舟の海軍塾で塾頭になったことを、姉・乙女に宛てた手紙で、このように書いています。

すこし、エヘン顔して
ひそかにおり申し候
エヘン、エヘン

坂本龍馬

龍馬にとり「幕府、諸藩の枠を超えて日本の海軍を創る」という海舟の壮大な計画の一員となれたことは、大変、誇らしいものであったのでしょう。

しかし、幕府からしてみれば、海舟が海防意見書で述べていた「身分にとらわれない人材登用」が気に入らなかったようで、

反幕府的な思想を持つ者が出入りしているとの理由で、海舟は僅か半年で軍艦奉行を罷免され、海軍操練所や海軍塾も閉鎖となりました。

勝海舟像
《東京都墨田区吾妻橋》
(Photo by ISSA)

【参考】「勝安芳」と名乗る
神戸海軍操練所の発足とともに軍艦奉行に任命された際、「安房守」(房総半島南端の代官を意味)という武家官位を与えられたことから、幕末期は「勝安房守」(略して「勝安房」)、明治以降には「勝安芳」などと名乗るようになった

西郷隆盛との出会い
同じ頃、禁門の変の後に、幕府が朝敵たる長州を征伐することになり、その征伐隊の参謀を命じられた西郷隆盛が居ました。

西郷は、幕府海軍の出兵を要請するため、1864年9月、大坂・専称寺で初めて海舟と面会します。

(Created by GEMINI)

その時、海舟は、

幕府の政治はもはや限界、
これからは諸藩が手を取り合って
政治を行う世にすべきだ

勝海舟

と話します。

西郷は、幕臣でありながら、このように語った海舟の知見と懐の深さにすっかり感銘し、長州征伐の無意味さを知ったと言われています。

結果、長州征伐は戦わずして終息し、このことは、1866年3月に、龍馬らの仲介で薩長同盟が締結される上で、非常に重要な伏線となったのです(そういう意味で、海舟は薩長同盟の影の立役者)。

幕末の志士
《鹿児島市加治屋町・維新ふるさと館》
(Photo by ISSA)

その後、海舟は1866年5月から、再び軍艦奉行に起用されています。

江戸城無血開城
1868年1月、江戸市中を攪乱して挑発を仕掛けた新政府軍と、これに憤激した旧幕府軍が鳥羽・伏見で衝突し、戊辰戦争が始まりました。

薩摩の本営に錦の御旗が掲げられ、朝敵とされた旧幕府軍と徳川慶喜は、大坂城を脱出し江戸城へ逃走。

その後、江戸城は新政府軍に包囲され、1868年5月、総攻撃を前に西郷は薩摩藩邸で、再び海舟と会談します。

左:西郷南州・勝海舟 会見の図☆☆☆
右:江戸開城西郷南州勝海舟會見之地
《東京都港区芝・田町駅周辺》
(Photo by ISSA)

結果、西郷は海舟からの「慶喜謹慎、江戸城明け渡し」の提案を受け入れ、江戸城への攻撃を中止しました。

江戸の町を戦火から守るため、江戸城の無血開城を成功させ、100万人近い江戸の民を救ったのです。

勝海舟の肩衣・長袴
《東京都大田区南千束・勝海舟記念館》
(Photo by ISSA)

明治政府での出仕と旧臣支援
1872年から、明治新政府に乞われて参議や初代海軍卿などの要職を歴任しますが、政府内の政治闘争に嫌気がさし、数年で辞職

在野に降った後も、生活に困窮する旧幕臣たちの就職や生活の面倒を生涯見続けました。

「洗足軒」について
海舟が江戸城無血開城の交渉のため、西郷の本陣があった池上本門寺へと向かう途中、ふと立ち寄った洗足池の美しい景色がすっかり気に入り、「いつかここに住みたい」と心に決めたといいます。

洗足池
《東京都大田区南千束・洗足池公園》
(Photo by ISSA)

親交があった西郷隆盛が西南戦争の末に自刃した際、海舟は、西郷を悼んで、1879年に、現在の葛飾区にある浄光寺に南洲西郷先生留魂祠(注7) を私費で建立しました。

(注7) 「留魂」という名称は、西郷が沖永良部島の獄中で詠んだ漢詩の一節、「願留魂魄護皇城」(願わくは魂魄を留めて皇城を護らん)から名付けたという

それから、更に年月が経った1891年、海舟68歳のときに、念願叶って洗足池のほとりに建てたのが、茅葺屋根の素朴な別邸「洗足軒」でした。

勝海舟別邸(洗足軒)跡
《東京都大田区南千束2丁目》
(Photo by ISSA)

政治的な仕事や、東京の中心部での活動があるため、平日は赤坂(勝安芳邸)で過ごし、

勝安芳邸跡
《東京都港区赤坂6丁目》
(Photo by ISSA)

連日のように押し寄せる訪問者から逃れるように、休日は別邸(洗足軒)で静かに読書や執筆に没頭していたようです。

「氷川清話」について
このときの談話が、のちに名著「氷川清話」(注8) としてまとまることになります。

(注8) 海舟が、晩年に赤坂氷川町の自邸で語った談話をまとめた回想録・訓話集で、幕末の秘話、西郷隆盛や坂本龍馬などの人物評、独自の人生観や時局批判などが語られていて、西郷隆盛の「南洲翁遺訓」に匹敵する、激動の時代を生きた人間の生の言葉と大局観が描かれた名著である

赤坂氷川神社
《東京都港区赤坂6丁目》
(Photo by ISSA)

コレデオシマイ
1899年1月、76歳のとき、赤坂の邸宅(勝安房邸)で風呂上がりに脳溢血で倒れ、勝海舟は、意識が薄れる中、最後に「コレデオシマイ」という言葉を残して亡くなりました。

海舟は生前に「自分が死んだら、洗足池のほとりに葬ってくれ」と言い遺していたことから、洗足池の近くに墓が建てられ、

勝海舟夫妻の墓
《東京都大田区南千束・洗足池公園内》
(Photo by ISSA)

先述の南洲西郷先生留魂祠についても、「自分の墓の隣に移してほしい」と話していたことから、1913年に洗足池の勝夫妻の墓のすぐそばに移設されました。

南洲西郷先生留魂祠
《東京都大田区南千束・洗足池公園内》
(Photo by ISSA)

この近くに建つ勝海舟記念館は、多くの訪問客で賑わっています。

勝海舟記念館
《東京都大田区南千束》
(Photo by ISSA)

おわりに
勝海舟は、西郷隆盛に匹敵するほど多くの名言を残していますが、中でも、これらの言葉は、物事の本質を端的に捉えているように思います。

勝海舟の名言

「幕府の奉行(=サムライ)が、近代日本海軍の生みの親」というのは、世界的にみても面白いと思います。

そして、勝海舟の本当に凄いところは、
あのような激動の時代にも関わらず、

直心影流の凄腕剣士でありながら、
生涯で一度も刀で人を斬ったことがない

ことです。

勝海舟江戸開城の図
《東京都墨田区横網・江戸東京博物館》
(Photo by ISSA)

簡単に人を斬ることや
逆に、簡単に刀を捨てることが
国家・人類を安泰にするのではなく、

刀の本当の使い方を知っていることが
国家・人類を安泰にするのです。

こうした
近代日本海軍の生みの親である
勝海舟のスピリットは、

その末裔たちにも
「シーマンシップ」として
受け継がれています

いつも、ありがとうございます🍀