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日本の舵取りを担った航海士 ~ 三浦按針

今回は、江戸時代初期に徳川家康の旗本として活躍した英国人の航海士三浦按針(William Adams)に関するお話です。

三浦按針の肖像画
《神奈川県横須賀市浦賀・郷土資料館》
(Photo by ISSA)

生い立ち
1564年、英南東部のケント州で船乗りの家庭に生まれたアダムスは、12歳で造船所に弟子入りし、造船術、数学、天文学、航海術を学んだ後、英海軍に入隊しました。

1588年、スペインの無敵艦隊が英本土を攻撃しようとした時、エリザベス女王率いる英海軍の一員として、アルマダの海戦を果敢に戦いました。

翌1589年に結婚し、二児を授かりましたが、海軍を離れてからも船乗りとして多忙だったアダムスは、ほとんど家に居なかったようです。

大航海の旅に出る
大航海時代の訪れに胸を踊らせたアダムスは、オランダが船乗りを探しているという話を聞きつけ、オランダ艦隊の航海士に志願(注1) します。

(注1) 当時の英・蘭は友好関係にあり、英国人がオランダ船の乗員になることは不思議ではなかった

こうして、ホープ(希望)号を旗艦とするオランダ艦隊は、リーフデ(愛)号、ヘローフ(信仰)号、トラウ号(忠誠)号、ブライデ・ボートスハップ(吉兆)号を伴って、1598年6月、ロッテルダムを出航しました。

ロッテルダム出港の様子
(Created by GEMINI)

多難だったマゼラン航路
彼らは、通常の喜望峰航路ではなく、マゼラン航路を選んだ(注2) のですが、

マゼラン航路と喜望峰航路
(Created by GEMINI)

(注2) マゼラン航路を選んだ理由
① 喜望峰航路は、敵対関係にあったポルトガルの支配下にあった
② 南米でスペインの植民地を襲撃し、或いは密貿易で銀の入手を企図
③ 未開の地、日本への航路開拓

マゼラン海峡の荒波、壊血病、先住民やスペインとの衝突により、艦隊はバラバラになり、最終的に約1年半をかけて日本に辿り着いたのは、リーフデ号ただ1隻だけでした。

デ・リーフデ号の模型
(出展:平戸オランダ商館

日本に漂着
1600年4月、リーフデ号は臼杵の黒島海岸に漂着します。

三浦按針ゆかりの地
(Created by ISSA)

出発時、110名だった乗員も、日本漂着時には24名にまで激減し、そのうち、歩行できたのは僅か6名という壮絶な状況でした。

乗員らは、臼杵城主が出した舟で本土に上陸できたのですが、城主は、このことを、海外との渉外業務を担っていた長崎奉行に通報します。

これを受けた長崎奉行は、アダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収。

そして、大坂城で実権を握り、五大老の筆頭として政務を執り行っていた徳川家康に指示を仰ぎました。

ポルトガルとの確執
以前、こちらの記事でご紹介しましたが、

日本には、1543年にポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着し、鉄砲が伝来して以降、1549年からイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル布教活動を開始し、

ザビエル上陸記念碑
《鹿児島県鹿児島市祇園之洲町》
(Photo by ISSA)

1550年の、平戸へのポルトガル船入港を機に、南蛮貿易(注3) が始まり、

(注3) 16~17世紀、日本がポルトガルなどと行った貿易。鉄砲、火薬、生糸、キリスト教、医学、天文学等が日本にもたらされた

ポルトガル船の模型
《出島和蘭商館跡》
(Photo by ISSA)

1571年には長崎が開港されるなど、日本は既にポルトガルの独占状態にありました。

また、世界ではポルトガルやスペインと、英国やオランダとの勢力争いや、カトリック(イエズス会)とプロテスタント(新参者)の宗教対立もあり、

カトリックとプロテスタントの対立
(Created by GEMINI)

既に日本に入り込んでいたイエズス会士らは、「あいつらは海賊だから即刻処刑を」などと日本側に進言します。

家康との謁見
当時、五大老首座だった徳川家康は、アダムスらを大坂に護送し、1600年5月、自らの目で彼らと引見しました。

当初、イエズス会士の進言で、リーフデ号は海賊船ではないかと疑っていた家康でしたが、

世界情勢、航海の目的、キリスト教徒間の対立、そして、ポルトガルとスペインが世界の富を山分けしようと目論んでいることなどを知り、

世界の富を山分けしようとした
トルデリシャス条約(1494)と
サラゴサ条約(1529)☆☆☆☆

家康は、その豊富な知識と誠実な人柄に深く感銘を受け、最終的に彼らを釈放して、城地である江戸に招き入れました。

リーフデ号のエラスムス像
リーフデ号については、修理のために浦賀に回航させることになりました。

デ・リーフデ号
《東京都千代田区丸の内》
(Photo by ISSA)

しかし、回航中に嵐に遭って更に破損が進み、浦賀到着後は修復する術もなく放置され、最終的に船体は浦賀で解体(又は海中に没)したと言われています。

なお、船尾にあった木造のエラスムス像(注4) は、国指定重要文化財として東京国立博物館に寄託されています。

(注4) エラスムスは、15〜16世紀に活躍したオランダの哲学者。リーフデ号の守り神として船体に取り付けられていたが、日本に漂着後、幕府の旗本・牧野成里の手に渡り、その後、彼の菩提寺である栃木県佐野市の龍江院に寄進された。しかし、当時の日本人には、これが欧州の学者と知る由もなく、昭和初期まで野約300年にわたり中国の神、貨狄尊者と誤解されたままこの寺に祀られていた。1930年の美術研究家による調査で、ようやく、これが中国の神ではなく、オランダのエラスムス像であることが判明した

関ケ原の戦いに貢献
リーフデ号の漂着から数か月後に起きた関ヶ原の戦いでは、本船に積まれていた大量の大砲や鉄砲が、家康が率いる東軍の勝利に貢献した(注5) そうです。

(注5) リーフデ号には、大砲が約20門、火縄銃が500挺、そして大量の火薬が積まれていた

帆船建造のため伊東に赴く
アダムスは、度々、帰国を願い出ましたが、叶うことはありませんでした。

その代わりに、家康は、按針を好待遇で慰留するとともに、外交交渉で通訳や助言を求めたり、幾何学数学航海術などを家康と側近に授けさせる等、何かと按針を重用しました。

アダムスによる講義の様子
(Created by GEMINI)

また、船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを求められます。

永らく造船の現場から遠ざかっていたアダムスは、当初は固辞したものの、最終的には承諾し、

アダムスの指示による造船の様子
《静岡県伊東市渚町》
(Photo by ISSA)

伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80トンの帆船を建造しました。

アダムスの指示による造船の様子
《静岡県伊東市東松原町・東海館》
(Photo by ISSA)

これが1604年に完成すると、気をよくした家康は大型船の建造を指示し、1607年には120トンのガレオン船、サン・ブエナ・ベントゥーラ号(注6) を完成させました。

サン・ブエナ・ベントゥーラ号
《静岡県伊東市大原・伊東市役所》
(Photo by ISSA)

(注6) 「幸せを運ぶ聖なる船」の意。1610年8月、この船は23人の日本人を乗せて浦賀を出港し、同年10月にメキシコのアカプルコに到着。日本人が造った洋式船による初の太平洋横断を成し遂げている

「三浦按針」の名を授かる
家康は、この功績を讃えてアダムスに日本刀と共に旗本の地位を授け、三浦郡逸見村(現・横須賀市逸見)に250石の領地と、「三浦按針」(注7) の名を与えました(以下、アダムスを「按針」と記載)。

按針メモリアルパークの夜景
《伊東市・東海館の展示ポスター》
(Photo by ISSA)

(注7) 「三浦」は領地のある三浦郡、「按針」は航海士を意味

按針は、異国人でありながら、日本の名を持つサムライとして生きるという、数奇な境遇を得たのです。

日蘭・日英交流の幕開け
一方、按針と共に日本に漂着し、その後、1605年に家康の許可を得て日本を出国したリーフデ号の元船長らは、インドネシアのオランダ拠点にたどり着きます。

このとき、「日本は貿易を歓迎している」という家康の書簡を伝えたことで、東インド会社が動くことになり、

東インド会社のシンボルマーク
《東京都中央区京橋1丁目》
(Photo by ISSA)

1609年9月に2隻の貿易船が日本を訪れ平戸にオランダ商館を開設するに至りました。

1611年、別のオランダ船が来航したときに本国宛ての書簡を託し、自分は日本で生きていること、そして「日本は驚くべき可能性を秘めている国」だということを本国に伝えました。

按針が東インド会社に宛てた手紙
(大英図書館・蔵)

これを受けて、1613年6月に史上初めて英国船(クローブ号)が日本に来航しました。

按針は、英国使節団に付き添い、駿府城での家康らとの謁見を実現させ、その後、使節は家康から貿易を許可する朱印状を取りつけ、ここに日英交流の歴史が幕を開けたのです。

その後、英国の友人と妻に宛てた手紙
《天草市立・天草コレジヨ館》
(Photo by ISSA)

翌1614年には、徳川秀忠がキリシタン禁制に動き、「布教しない」ことを前提とした英・蘭との新たな外交ルートが開拓されました。

歴史の小部屋 三浦按針
《静岡県伊東市東松原町・東海館》
(Photo by ISSA)

平戸の英国商館で働く
その後、按針は平戸に残って英国商館員として働きました。

1614年、按針は英国商館の任務で、中国の木造帆船を大改造したシー・アドベンチャー号に乗り組み、東南アジアに向けて出港します。

しかし、途中で激しい暴風雨に襲われ、船は航行不能に近い状態で琉球王国に流れ着き、修理のため、数か月間ほど滞在することになりました。

その際、現地で見つけたものが、中国から琉球王国に伝わったばかりの甘藷(さつまいも)でした。

その美味しさと、育てやすさに注目した按針は、シー・アドベンチャー号に芋を積み込んで、1615年に平戸へ帰還。

こうして、「さつまいも」が日本に伝来したとされています。

(Created by GEMINI)

家康の死と冷遇
1616年に家康が亡くなると、彼の運命は暗転します。

第2代将軍・徳川秀忠は、外国との関係を断つ「鎖国」へと舵を切り始めたため、按針の外交顧問としての役割は急速に失われていきました。

幾度も幕府に方針転換を説いたものの、相手にされず、秀忠との目通りも叶わなくなりました。

以後、按針の役目は天文官のみとなり、幕府や次期将軍候補の徳川家光らにも警戒されます。

按針は陰鬱の中で、1620年5月に平戸で死去。満55歳でした。

徳川家康の坐像
《東京都墨田区・江戸東京博物館》
(Photo by ISSA)

「安針塚」について

将軍の恩に報い、江戸を守護するため
江戸を一望できる高台に葬るべし

この按針の遺言により、

展望台から、彼が愛した海や艦船が見える
《神奈川県横須賀市西逸見町・塚山公園》
(Photo by ISSA)

横須賀市の浄土寺に近い高台に供養塔が造られました。

墓石は宝篋印塔で、凝灰岩製の右塔が按針
安山岩製の左塔が妻・お雪(注8) の墓である
《神奈川県横須賀市西逸見町・塚山公園内》
(Photo by ISSA)

(注8) アダムスは、1602年頃に大伝馬町の名主で家康の御用商人でもあった馬込勘解由平左衛門の娘・お雪(マリア)と結婚したとされ、彼女との間に、息子ジョゼフと娘スザンナが生まれている

毎年4月に、塚山公園で三浦按針祭観桜会が開催され、駐日英・蘭大使や海軍関係者を招いて、日英・日蘭交流の発展が祈念されています。

京急電鉄 安針塚駅
(Photo by ISSA)

ヤン・ヨーステンについて
按針と共に生き残ったオランダ人、ヤン・ヨーステンについて、少し触れておきたいと思います。

ヨーステンは、リーフデ号の航海士だった按針とは異なり、貿易の取引を行う商員という立場でした。

ヤン・ヨーステン記念碑
《東京都中央区京橋1丁目》
(Photo by ISSA)

誠実かつ理性的で、日本の習慣にも熱心に馴染もうとした按針とは対照的に、ヨーステンは気性が荒く、トラブルメーカーでしたが、

国際情勢や貿易の知識が深かったため、家康は彼の無礼を大目に見て重用し続けました。

家康は、ヨーステンにも「耶楊子」(やようす)という日本名を授け、江戸に屋敷を与えました。

その屋敷が、江戸城の内堀にあったことから、このお堀は「やよす河岸」と呼ばれ、これが転じて、現在の「八重洲」(やえす)という地名が定着したと言われています。

ヤン・ヨーステンの記念像
12月だったので、荒くれ者のヨーステンが
すっかり可愛いらしくなっていました(笑)
《ヤエチカ・外堀地下1番通り》
(Photo by ISSA)

一方、按針の屋敷は、現在の日本橋室町にありました。かつて「按針町」と呼ばれていたこの辺りは、現在「按針通り」となっています。

史蹟・三浦按針屋敷跡
《東京都中央区日本橋室町・按針通り》
(Photo by ISSA)

家康の死後、貿易の特権を奪われたヨーステンは、バタヴィア(現・ジャカルタ)で一儲けしようとしますが、現地でのビジネスに失敗。

中国船で日本への帰還を試みますが、途中、南シナ海のパラセル諸島付近で船が座礁・沈没し、溺死しました。

デ・リーフデ号
《東京都千代田区丸の内》
(Photo by ISSA)

おわりに
リーフデ号が漂着せず、日本がそのまま、ポルトガルの独占状態だったら、どうなっていたでしょうか。

按針が居たからこそ、最新の造船技術や航海術を知り、国際情勢を客観的に理解し、英・蘭商館の設立によって、ポルトガルによる独占状態(や野望)を打破することが出来たのです。

日本の近代史を語るとき、その近代化を250年以上にわたって支え続けたのは、間違いなくオランダでした。

特に、「蘭学」「オランダ風説書」などは、佐久間象山、吉田松陰、福沢諭吉、勝海舟など、幕末期の多くの志士や知識人に決定的な影響を与え、

オランダ風説書
《東京都墨田区・江戸東京博物館》
(Photo by ISSA)

例えば勝海舟などは若い頃、「ドゥーフ・ハルマ」(注9) を必死に書き写し、これを元に猛勉強して、世界的な視野を養ったことで知られています。

(注9) 日本初の和蘭辞書。出島のオランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフが1816年から編纂に着手し、ドゥーフの帰国後は通訳たちが編纂を引き継ぎ、1833年に完成した

その勝海舟が塾頭を務めた長崎海軍伝習所(1855年設立)は、まさにオランダ海軍によって、黎明期の幕府海軍に魂を吹き込まれた場所でした。

長崎海軍伝習所の想像図
《長崎県長崎市立山・長崎歴史文化博物館》
(Photo by ISSA)

後年、オランダ商館が閉鎖されると、日本海軍の教師役は、世界最高峰の海軍に成りつつあった英海軍にハンドオフされ、

やがて、日英同盟を締結。
日本海海戦ではロシアに勝利し、

日本は、米英と肩を並べる「世界三大海軍」と称されるまでに成長することが出来たのです。

按針も、本気で日本を脱出しようと思えば、チャンスはあったはずですが、

最終的に日本に骨を埋めることになったのは、「将軍の恩に報い、江戸を守護するため」という彼の遺言が、すべてを表しているような気がしました。

按針珈琲
(Photo by ISSA)

大航海時代という大海原で
徳川幕府という名の小舟が
列強の餌食にならずに済んだのは、

「按針」という名の優れた航海士が
日本の舵取りを担ってくれたから。

そう言っても、
過言ではないのかもしれません。

いつも、ありがとうございます🍀