キリシタンと「島原の乱」
今回は、日本へのキリスト教伝来と、日本最大の一揆と呼ばれる「島原の乱」に関するお話です。
ポルトガル貿易の始まり
大航海時代におけるポルトガルのアジア貿易は、インドのゴアを拠点とし、季節風を利用した航路が用いられていました。

1543年、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着して鉄砲が伝来し、
1549年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して、日本での布教活動が始まります。

《鹿児島県鹿児島市祇園之洲町》
(Photo by ISSA)
1550年、平戸に1隻のポルトガル船が入港。これが長崎に来た初めての欧州貿易船となり、
その後、各地の大名は南蛮貿易(注1) を推進するため、ポルトガル船の来港を求めるようになりました。
(注1) 16~17世紀、日本がポルトガルなどと行った貿易。これにより、鉄砲、火薬、生糸、キリスト教、医学、天文学、カステラ等が日本にもたらされた

《出島和蘭商館跡》
(Photo by ISSA)
1571年に長崎港が開港し、毎年のようにポルトガル船が訪れるようになると、長崎はポルトガル貿易港として急速に発展していきました。

(Created by ISSA)
キリスト教の布教
特に、ポルトガルとの交易を活発に行ったのは、大村純忠、有馬晴信、大友宗麟といった北部九州の戦国大名でした。

《長崎県大村市荒瀬町》
(Photo by ISSA)
1563年、宣教師のルイス・デ・アルメイダが有馬晴信の父・義直の庇護下で、島原での布教活動を始め、

《有馬キリシタン遺産記念館》
(Photo by ISSA)
3年後には、志岐氏に招かれて対岸の天草でも布教活動を開始。やがて、キリスト教は島原や天草の全域に急速に広まりました。

(Created by ISSA)
これらの大名たちは、自らも洗礼を受け、キリシタン大名(注2) となりました。
(注2) 「キリシタン大名」という名称が定着したのは明治以降のこと。「キリシタン」とは、ポルトガル語でキリスト教徒を意味する「Cristão」(クリスタン)を語源とする、16~17世紀における日本のカトリック教徒を指す言葉で、広義のキリスト教徒(クリスチャン)とは区別されている
ポルトガルが海の先駆者となった訳
ポルトガルは、イベリア半島の最西端に位置し、未知の大洋へ船出するには最適な場所にありました。
また、エンリケ航海王子が、航海技術の発展を推進したほか、香辛料貿易の利権を握っていたイスラム勢力を迂回するため、新たな航路の開拓を必要としていたことが、
やがて、ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路開拓に繋がり、大航海時代の先駆者としての地位を築いたのです。
ポルトガルが布教に力を入れた理由
一方、ポルトガルが日本で布教活動に力を入れた背景には、欧州での宗教改革(注3) と、日本人の優れた国民性がありました。
(注3) 16世紀に欧州で起こったカトリック教会の腐敗に対するキリスト教の改革運動のこと。これにより、キリスト教は伝統的なカトリックと改革派のプロテスタントに分裂した
熱心なカトリック国だったポルトガルでは、プロテスタントの台頭によってカトリック教会が窮地に立たされ、
海外でのカトリック信者の獲得に活路を見出そうとしていたのです。
こうした中で日本に来たザビエルは、日本人の国民性に高いポテンシャルを感じ、日本は布教活動の拠点になると本国に報告(注4) しました。
(注4) 彼は、本国宛の書簡の中で、日本人の旺盛な知識欲や、礼儀正しさ、気高い精神性などを評価し、「類稀なる国民」と称賛した

《熊本県上天草市大矢野町》
(Photo by ISSA)
「セミナリヨ」と「コレジヨ」の設立
その活動拠点となったのが、「セミナリヨ」や「コレジヨ」(注5) でした。
(注5) イエズス会が、宣教師や司祭を養成するために設立した神学校。神学のほか、ラテン語、音楽、美術、哲学、天文学など、欧州の先進文化を幅広く教えた

(Created by ISSA)
1580年、イエズス会の巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノにより、大友宗麟の庇護下で豊後国府(現・大分市)に、日本初のコレジヨが創設されました。
天正遣欧少年使節
1582年、ヴァリニャーノの発案で、ローマ教皇への表敬を目的とした「天正遣欧少年使節」が欧州へと派遣されました。

(右) 正 使 : 伊東マンショ、千々石ミゲル☆☆
(左) 副 使 : 中浦ジュリアン、原マルチノ☆☆
(口之津歴史民俗資料館の展示物から抜粋)
1582年に長崎を出発。マカオ、マラッカ、インドなどを経て、約2年半の歳月をかけて欧州に到着し、

《口之津歴史民俗資料館》
(Photo by ISSA)
1585年、ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見し、欧州各地で盛大な歓迎を受けました。
1590年、彼らは8年半に及んだ旅の末に、欧州の進んだ知識・技術とともに帰国しました。
特に、彼らがローマから持ち帰ったグーテンベルク印刷機は、日本初の活版印刷事業に使われました。

《天草コレジヨ館》
(Created by ISSA)
出版物は、キリシタンのための教科書のみならず、日本語教材(注6) にも利用されました。
(注6) この印刷機で「平家物語」や「イソップ物語」などが刊行され、総じて「天草本」などと呼ばれた
豊臣秀吉のキリシタン弾圧
彼らの不在間、日本国内ではキリシタンへの逆風が吹き始めていました。
少年使節が欧州へ派遣される少し前の1580年、大村純忠が教会知行地(注7) として長崎の町をイエズス会に寄進します。
(注7) キリスト教の諸活動のため教会に与えた土地のこと(本来、「知行地」とは、将軍が御家人に俸禄として与える土地を意味)
当初は、織田信長のようにキリシタンを厚遇していた豊臣秀吉でしたが、
キリシタン大名と宣教師が結束を強め、独自の勢力を築きつつあることや、日本人が奴隷として連れ去られていることに強い危機感を抱き、
1587年に「バテレン追放令」を出して長崎を没収し、秀吉の直轄領(天領)としました。
また、秀吉による九州平定の際、島津氏と大友氏の間で起こった豊薩合戦によって豊後国府のコレジヨは破壊され、
1590年、コレジヨは島原の加津佐に再建されましたが、有馬氏の保護だけでは危ういと判断したヴァリニャーノは、より安全な場所を求めて、
翌年には、肥後のキリシタン大名・小西行長の領地であった天草(河浦)に移転しました。
しかし、天草コレジヨも、更なる弾圧から逃れるため、1597年に長崎に移転。
この年、京都や大坂で捕らえた宣教師やキリシタンが、長崎に送られて西坂の丘で処刑されています。
徳川幕府のキリシタン弾圧
徳川の治世になると、しばらくはキリスト教に寛大でしたが、再び、キリシタンへの取り締まりが強化され、
1612年、江戸幕府も「キリスト教禁止令」を発令。
1614年には、多くの宣教師や信者がマカオなどに追放(注8) され、コレジヨも閉校を余儀なくされました。
(注8) この時、追放されたマルコス・フェラロ宣教師は、書き残した「未鑑の書」の中で「25年後、16歳の救世主が現れてキリスト教徒を救う」と予言しており、後年、キリシタンらは天草四郎(後述)こそがその救世主だと信じるようになった
この間、島原の有馬氏や天草の小西氏が失脚し、新たに領主となった島原の松倉氏や天草の寺沢氏による過酷な圧政とキリシタン弾圧が、人々を苦しめていました。
天草四郎の登場
そのような中、1621年に、現在の熊本県上天草市大矢野町で神童が生まれます。
キリシタンであった益田好次の子、名は時貞。後に、島原の乱における一揆軍の中心的存在となる「天草四郎」です。

《長崎県島原市・原城跡》
(Photo by ISSA)
時貞は幼い頃から聡明で信仰心に篤く、次第に、彼こそがフェラロが予言した救世主に違いないと信じられるようになりました。
島原の乱が勃発
この頃、島原・天草地方では、1634~1637年の数年間、悪天候による凶作が続きました。
圧政と、キリシタン弾圧と、飢饉。この三重苦が引き金となり、遂に一揆が勃発します。
1637年、島原の有馬村で農民たちが蜂起しました。
反乱は瞬く間に島原半島全体に拡大し、一揆衆は松倉氏の居城である島原城を攻撃し、城下を焼き払いました。

(Photo by ISSA)
これに呼応して、対岸の天草でも農民や浪人らが蜂起。
一揆軍は、天草四郎を総大将に擁立(注9)し、
(注9) 当時、四郎は未だ10代半ばの少年であり、周囲は軍事的なリーダーというよりも、「予言された救世主」であることに期待していた

中:天草四郎像《苓北町歴史資料館》
右:天草四郎像《島原城内☆☆☆☆》
(Photo by ISSA)
天草の一揆軍は富岡城を攻撃し、城代だった三宅藤兵衛を本渡の戦いで討ちますが、

《熊本県天草郡苓北町富岡》
(Photo by ISSA)
結局、富岡城を攻め落とすことが出来ず、天草の一揆衆は島原に渡ることになりました。

《熊本県天草郡苓北町坂瀬川》
(Photo by ISSA)
その際、島原・天草の一揆軍指導者は、島原・天草間にある湯島(注9) で一堂に会し、今後の戦略について話し合います。
(注9) 「話し合い」や「軍議」を意味する「談合」が島名に転じ、湯島は「談合島」とも呼ばれるようになった

《有馬キリシタン遺産記念館》
(Photo by ISSA)
この話し合いで、一揆軍は島原の原城に籠城することが決まりました。
湯島には、上天草から連絡船で渡ることができます。

《熊本県上天草市大矢野町・江樋戸漁港》
(Photo by ISSA)
湯島は、通称「猫島」としても知られており、猫と猫好き人間にはたまらない天国です💛

あっちでゴロゴロ ☆(*^-^*)☆
こっちでゴロゴロ ☆(*^-^*)☆
《熊本県上天草郡湯島》
(Photo by ISSA)

《天草切支丹館所蔵》
(Photo by ISSA)
原城戦の序盤、一揆軍は幕府軍の板倉重昌を敗死させ、幕府が手配したオランダ船からの砲撃にも耐えましたが、

《長崎県島原市》
(Photo by ISSA)
3か月にわたる籠城の末、やがて食料も弾薬も尽き、総勢12万に及ぶ幕府軍を前に原城は陥落。一揆軍は全滅に追い込まれました。
余談ですが、この原城戦には、剣豪・宮本武蔵が中津藩の軍勢として出陣しています。
夥しい殉教者の数
原城で亡くなった一揆軍の数は、なんと3万7千人。この中には、多くの女性や子供も含まれていました(この乱で、島原と天草は壊滅的な人口減少に見舞われた)。

《有馬キリシタン遺産記念館》
(Photo by ISSA)
見せしめとして約1万が晒し首にされ(注10) 、その後、これらの首は西坂、原城跡、富岡の3箇所に分けて埋葬されました。
(注10) 当時、一部の地域では「キリシタンは妖術を使って生き返る」という噂が広まり、殺害されたキリシタンは、斬首の上、首と胴は別々の場所に埋められたという
一揆から約10年後の1647年、時の天草代官だった鈴木重成が、一揆で命を落とした3千3百の首を埋葬し、その霊を慰めるためにこちらの供養碑を建立しました。

碑の上部にみられる難しい文字は
「烏ハ臼」のキリシタン愛好文字
《熊本県天草郡苓北町富岡》
(Photo by ISSA)
死者数は、近世以降で起きた反乱の中でも突出して多く、日本史上、他に類を見ない大規模な一揆であったことがうかがわれます。
潜伏キリシタンとして生きる
その後、生き残った教徒らは潜伏キリシタンとなり、
主に長崎の外海地方や五島列島、熊本の天草地方に定住し、表向きは仏教徒・神道徒として振る舞いながらも、
仏壇の裏側などにキリスト像やマリア観音を隠したり、ロザリオやメダイ、聖画などを仏具神具に見せかける等、
様々な工夫を凝らして密かに信仰を守り続けました。

《天草四郎ミュージアム》
(Photo by ISSA)
また、ラテン語の「祈り」(oratio)に由来する「オラショ」と呼ばれる独自の祈り言葉を使うことで、信仰が世代を超えて口々に伝えられたのです。
キリシタンの夜明け
1865年3月、長崎の潜伏キリシタンが、長い沈黙を破って外国人向けの教会だった大浦天主堂を訪れ、神父に信仰の告白をしました。
この出来事は「信徒発見」と呼ばれ、約250年に及ぶ禁教・弾圧によって「日本には信徒が居なくなった」と考えていたキリスト教界に大きな衝撃を与えました。
日本におけるキリスト教徒への迫害は、1873年に明治新政府がキリスト教禁止の「高札」を撤去したことで終わりました。

《天草四郎ミュージアム》
(Photo by ISSA)
長崎と天草の潜伏キリシタン関連遺産は、世界文化遺産に登録されています。
おわりに
何故、キリシタンは弾圧されなければならなかったのかーーー。
そのことを明らかにするため、同じ外来宗教である仏教との違いをまとめてみました。

(Created by ISSA)
見えてくるのは、いずれの時代も、日本が統一に向かう大事な時期であったということ。
日本では、ヤマト王権の頃から地方の氏神を八百万の神々に取り入れ、仏様を神々と習合化したりと、多様な神々を、いわば「大和風」にアレンジすることで、日本の伝統文化に上手く融合させてきたのですが、
それまで、一切、馴染みのなかった西洋文化と共に急速に日本に入ってきたキリスト教は、当時の人々には「未知との遭遇」そのものであり、一部の人々は、あっという間に斬新でエキゾチックな異文化の虜になったと思われます。

中:天草四郎時貞の墓碑
右:原城十字架☆☆☆☆
《原城跡》
(Photo by ISSA)
ところが、天下統一を成し遂げた秀吉や徳川家からすると、西の果ての長崎や天草で、得体のしれない新興宗教に人心が奪われている状況は、「ポルトガルによる侵略にも等しい」と映ったはずです。
また、地域の保守層は、キリスト教の一神教で他の神々を認めないところが、長い歳月をかけて両親祖父母が築き上げてきた日本の伝統文化への冒涜と受け止めたことでしょう。
この時代、あまりにも急激な時代の変化に人心が追いつけなかったこと、それこそが、キリシタン弾圧という悲劇の原因だったように思います。

(Photo by ISSA)
現在の日本は、宗教の自由が認められ、クリスマスやハロウィンも、和風にアレンジされた恒例行事として定着していますが、
実は、それこそが、ザビエルが見抜いた「類稀なる日本人」の持つ高いポテンシャル、
つまり、どのような異文化も柔軟に取り入れて、日本の文化に調和させられる懐の深さのことであり、
それはまた、初代・神武天皇以来、八紘一宇を是とする歴代天皇の大御心が私たち日本人の心の奥底にあるからこそ、成せる業であるような気がします。
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本稿の作成に際しては、Desert Rose 様の記事やコメントから、多くの知見やインスピレーションを得ました。
これらの記事は、いずれも、大変、読みごたえがありますので、是非、ご覧になってください。
いつも、ありがとうございます🍀
