ふるさと再発見 〜 宮本武蔵
旧暦の4月13日は、日本史上、最強の剣豪といわれる宮本武蔵が、巌流島で佐々木小次郎と決闘を行った日です。
武蔵塚について
私が生まれ育った実家の近くには、「武蔵塚」と呼ばれる宮本武蔵のお墓があり、このお墓がある公園は、子供の頃の遊び場のひとつになっていました。

《熊本市北区・武蔵塚公園》
(Photo by ISSA)
その近くには武蔵塚駅という名の駅もあり、郷土から巣立っていく同級生を見送った懐かしい駅でもあります。

(Photo by ISSA's Close Friend)
今回は、剣豪・宮本武蔵の生きざまや彼が書き残した書物を通じて、「道」とは何か、そして「心」の大切さについて追求してみたいと思います。

生い立ち
宮本武蔵(以下「武蔵」)は、1582年に播磨国に生まれました。
この頃、兵農分離が段階的に進められ、1588年の豊臣秀吉による刀狩令で、武士と農民の区別が、より明確にされようとしていたのですが、
武蔵の生家は農民に区別されそうだったので、武蔵は9歳までに実作国の武士・新免無二のもとに養子に出されました。

無二は、足利家の兵法指南役を務めた兵法家だったので、武蔵は少年期から一流の剣術を徹底的に教え込まれたようです。
後年、武蔵が書いた「五輪書」(注1) (後述)によれば、
(注1) 1643年から1645年にかけて、熊本市近郊の金峰山にある霊巌洞で書き残した剣術の奥義をまとめた兵法書

《熊本市西区・金峰森の駅みちくさ館》
(Photo by ISSA)
武蔵は13歳にして初めて決闘で勝利し、以後、29歳までに60数回全ての決闘(注2) に勝利したとされています。
(注2) 江戸時代以前、武者修行の武士が諸国を巡礼し、剣術・名声の獲得や精神修養などを目的とした果し合いが、申し入れによって行われていた
1600年の関ヶ原の戦いでは、父と共に東軍として参戦。
この合戦に敗れた西軍では、多くの大名家がお取りつぶしとなり、全国に50万人もの牢人が発生しました。
そのため、この頃は新たな仕官を求めて決闘で名を挙げたがる者が続出し、特に、大坂の陣までの約15年間は最も決闘が盛んな時代だったようです。

《熊本市西区・金峰森の駅みちくさ館》
(Photo by ISSA)
このような時代背景もあって、武蔵も1602年頃から京に上って武者修行を始めました。
1604年、武蔵は将軍家の兵法指南役を務めた吉岡家との一騎打ちに相次いで勝利し、
その後の集団戦(一乗寺下り松の戦い)で吉岡一門を滅ぼしたことで名が知られるようになり、
この頃までには、二刀流の優位性を見出していたようです。

《熊本市北区・武蔵塚公園》
(Photo by ISSA)
巌流島の決戦
武蔵が行った勝負の中で最も広く知られているのが、武蔵29歳の頃、俗にいう「巌流島の決戦」です。
当時、細川家に仕え、専属の剣術師範として小倉城下に道場を構えていた佐々木小次郎(注3) に、武蔵が細川の家来を通じて試合を申し込みました。

《福岡県北九州市小倉北区》
(Photo by ISSA)
(注3) 安土桃山~江戸時代初期に実在したと剣豪だが、名前、生年月日、出生地等については不明な点が多い
1612年5月13日(新暦)、細川家公認のもと、下関沖合の船島(後の「巌流島」)で行われることになります。

《山口県下関市・火の山公園》
(Photo by ISSA)
(この部分には、かなり創作が含まれますが、)武蔵は、小次郎の心をかき乱すことを企図して、決闘の開始時刻に遅れて到着。
痺れを切らした小次郎は波打ち際で武蔵を迎え、鞘を投げ捨てて三尺余(約91cm)の長剣で斬りかかりました。
しかし、小次郎の刀は武蔵の額を僅かにかすめた一方で、武蔵が振り下ろした長木刀は小次郎の頭を打ち砕き、小次郎は一撃で倒れました。

《関門海峡ミュージアム》
(Photo by ISSA)

《熊本市西区・雲巌禅寺》
(Photo by ISSA)

寄之に献上した全長126.7cmの長木刀
(松浜軒ホームページ)
この戦い方が事実であれば、まさに「肉を切らせて骨を断つ」という諺のようです。
後年、地元の人々は敗れた小次郎の流派名を取って、この島を「巌流島」と呼ぶようになりました。
なお、吉川英治(注4) の小説「宮本武蔵」では、
(注4) 横浜出身の小説家で、1935年から朝日新聞に連載した小説「宮本武蔵」が代表作となった

《熊本市西区・雲巌禅寺》
(Photo by ISSA)
小次郎は、岩国の錦帯橋で燕返し(注5) を編み出したとしています。
(注5) 小説では、小次郎が錦帯橋付近を飛ぶツバメを見て、刀がツバメのように予測不能で複雑な軌道を描く剣技を編み出したとされている

《山口県岩国市・吉香公園》
(Photo by ISSA)
しかし、実際は小次郎と錦帯橋の関連や燕返しの根拠は不明で、これらはすべて吉川英治の創作とされています。
武蔵のその後
当時、最高の剣士だった小次郎を倒したことで、武蔵はこれ以上の決闘は無用と悟り、武蔵の決闘人生は巌流島が最後となりました。
ただ、30歳にして自己の剣術人生を振り返ったとき、「わが兵法至極にして勝にあらず」(私の兵法は、ただ単に人に勝つことだけを目的としたものではない)と考え直し、
「なをもふかき道理」(より奥深い人生の真理)を見出そうと、朝鍛夕練に打ち込むようになります。

1615年の大坂の陣では、徳川方に参陣して活躍しました。
その後、日本には天下泰平の世が訪れ、武蔵は暫らく姫路や明石に身を寄せていたようですが、
1632年、幕府の命で小倉に移動となり、1638年の島原の乱では、鎮圧に向かう中津藩の軍勢として出陣しています。
しかし、この頃、既に50歳を超えていた武蔵は一揆衆からの投石を受けて負傷し、武勲を立てられなかったようです。

晩年は熊本で過ごす
武蔵の養子だった宮本伊織が、小倉藩主・小笠原忠真に仕えていたこともあり、
1640年、武蔵は小笠原忠真の妹を正妻としていた細川忠利から、武芸が盛んだった大藩・熊本に招かれます。
熊本城に隣接する千葉城付近に屋敷が与えられ、客分としては桁外れの待遇で迎えられました。

《熊本市中央区千葉城町》
(Photo by ISSA)
「侍界のレジェンド」の来藩に、千人を超える熊本藩士が、こぞって入門したそうです。
諸芸能にも通じた武蔵が、熊本時代に書き残した水墨画などは、兵法を極めた武蔵ならではの研ぎ澄まされた作品として、高い評価を得ています。

《熊本市西区・雲巌禅寺》
(Photo by ISSA)
1643年10月から、熊本市近郊の金峰山にある岩戸・霊巌洞にて、兵法書(後の「五輪書」)の執筆を始めます。

《熊本市西区・雲巌禅寺》
(Photo by ISSA)
雲巌禅寺の霊巌洞については、Desert Rose さんが詳しくまとめられていますので、是非、ご一読ください ☟
1年後、病を患いますが、それでも書に取り組み続け、1645年5月、亡くなる数日前に書き上げて、二天一流(注6) の兵法を完成させました。

(注6) 武蔵は熊本で、それまでの「二刀一流」を「二天一流」に改めた。その真意は二刀で戦うことではなく、片手でも戦えるようにすることにあるという(天を自在に動く「太陽」と「月」をイメージしたとの説もある)
その後、自身の生き方を21か条に記した「獨行道」を書き上げ、千葉城の屋敷で亡くなりました(享年62歳)。

《熊本市北区・武蔵塚公園》
(Photo by ISSA)
「常に兵法の道をはなれず」が、武蔵が遺した最後の言葉となりました。
死後も、この言葉を実践し続けるかのように、本人の遺志で、藩主の参勤交代を臨む大津街道沿いに甲冑姿で葬られ、
その場所が、冒頭で述べた武蔵塚として現在に至っています。

の心意気を感じさせる場所「武蔵塚」
《熊本市北区・武蔵塚公園》
(Photo by ISSA)
「五輪書」の概要
五輪書の概要については、こちらをご参照下さい👇️
武蔵が見出した「ふかき道理」
武蔵が「なをもふかき道理」を追求する中で辿り着いた境地、それは、あらゆる「道」の中心にあるものは、常に「真心」を尽くすことであり、
文武の違い、世の東西、時代の変化に関わらず、それは普遍の真理なのだろうと思いました。

《熊本市西区・雲巌禅寺》
(Photo by ISSA)
「武士道」に与えた影響
実際に、武蔵が残した渾身の作品や書物、生涯をかけて兵法の道を模索し続けた生きざまは、
江戸時代の中期から体系化されていった「武士道」の形成に大きな影響を与えたと考えられます。

(Photo by ISSA)
海外での反応
また、「Japan as Number One」という言葉が流行した1980年代初頭から、米国のビジネスマンを中心に、武蔵を通じて日本の勝ち方を学ぼうという機運が高まり、
海外でも広く「五輪書」が読まれるようになったほか、現在も、ハーバード大学のストアで売られるなど、経営哲学の必読書になっています。
一方、日本国内でも、経営の神様と言われた稲盛和夫さんは、武士道の教えを取り入れた郷中教育が根付く鹿児島で生まれ育ち、その後の日本の経営哲学に大きな影響を及ぼしましたが、
稲盛さんが生み出した、「心」や「考え方」を大事にする「人生の方程式」には、武士道に通じる高い精神性がうかがわれます。
【参考】剣術流派と「剣道」の歴史
平安時代中期に、片刃、反り、細身を特徴とする日本刀が出現し、戦国時代から江戸時代初期にかけて、多くの剣術流派が生まれました。

主に、緑色で示した3つの流派が、現在、行われている剣道の原型を作ったと言われています。
千葉周作の北辰一刀流は、坂本龍馬が入門し免許皆伝を得たことで知られ、
龍馬の師であった勝海舟が島田虎之助の直心影流に学んだことは、こちらの記事でご紹介したとおりです。
剣道は、明治維新の原動力のひとつだったのかもしれません。
1895年、大日本武徳会が設立されて全国的に統一的な武術振興が図られ、1912年頃に「剣道」という名称を正式に採用。
そして、戦後の1952年に全日本剣道連盟が結成されました。
1953年から全日本剣道選手権大会が開催され、1970年の国際剣道連盟(現・FIK)設立以降は、世界大会も開かれています。

《熊本市西区・雲巌禅寺》
(Photo by ISSA)
かつて、侍界のレジェンドの下に多くの熊本藩士が集まり、武蔵の死後も、五輪書が一時的に藩外不出の奥義書扱いとなっていたことは、
現在の熊本が、屈指の剣道強豪県であることと、決して無関係ではないのかもしれません。
おわりに ~ 「道」を究めるとは
日本の侍は、単に力任せに敵を破壊するだけの戦士(ウォーリアー)とは大きく異なり、歴代の剣術指南たちは、先ず「心」を学び鍛えよと教えてきました。
そして、あらゆる「道」に共通することは、
✅ 誠実な真心が中心にあること
✅ 常に、自分の弱さと向き合えること
✅ 優れた知・技の域に達していること
✅ それらの正しい使い方を知ってること
✅ 自分なりの哲学が身についていること
であり、これらが全て兼ね備わってはじめて、「その道を究めた」と言えるのかもしれません。
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あらためて自身の半生を顧みると、剣片喰を家紋とする家に生まれ、

ISSA家の家紋である剣片喰
(Photo by ISSA's Daughter)
武蔵のお墓があった武蔵塚公園を遊び場とし、

(Photo by ISSA)
県下でも有数の道場で「剣心一致」の教えを、日々、念仏のように唱えて育ち、

成人後も「ノーブレス・オブリージュ」(注7) という西洋騎士道の原点を学び、
(注7) フランス語で「noblesse」(高貴な者)の「oblige」(責務)を意味。高い地位や能力を持つ者は、それに見合う社会的責務を果たすべきという考え方で、中世ヨーロッパの騎士が習得すべき道徳観として広まった
そして、海の防人として、日々、戦技を磨く世界で、自分なりの文武両道を追求し続けてきました。
年を追うごとに、果たすべき役割は目まぐるしく変化しましたが、兵法の利にまかせ(注8) て、諸芸諸能に取り組んだ結果、
(注8) 兵法の利にまかせて、諸芸諸能の道となせば、万事におゐて我に師匠なし(剣術で培ってきた心構えさえ応用できれば、あらゆる芸能事も、万事において師匠を必要としない)
いつも兵法の道に近いところで生かされてきたことに、改めて気づくことが出来ました。

《熊本市西区・岩戸の里公園》
(Photo by ISSA)
note では、日本の宝ともいうべき真心の総称を「日本の心髄」と呼んできましたが、
こちらの記事の中で、「勇敢で潔く逞しい武士道の精神」も、その一つに定義しております。
私自身は、まだまだ半端者ですが、このたび武蔵の剣術人生や考え方の一端に触れたことで、「道」における「心」の大切さについて理解を深め、
ライフワークと位置付けている「日本の心髄」を解き明かすことに、また一歩近づくことができた、
その事が、私にとり「ふるさと再発見」だったように思います💡
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こちらは、武蔵塚公園に隣接する武蔵うどん本店です。

(Photo by ISSA)
メニューは、二刀流がお勧めです😋

(Photo by ISSA)
帰り際、こちらの湯呑み茶碗に一目惚れし、つい衝動買いしましたが、
これからも、「常に兵法の道を離れず」に、歩み続けようと思います。

(Photo by ISSA)
noter の皆様と親愛なる友人には、いつも沢山のご理解とご支援を賜り、本当にありがとうございます🍀
後 記
武蔵塚のことは、当初、Desert Rose さんが書こうとされていたのですが、私が書きたがっていることを知って、快く背中を押して下さいました。
Desert Rose さんには、この場をお借りして厚く御礼を申し上げます🌸
