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長崎紀行 ~ 出島と日蘭交流の歴史

前出の記事「キリシタンと「島原の乱」」の中で、幕府がポルトガルによるキリスト教の布教を禁じたというお話をしましたが、

その際、幕府によって長崎に雑居していたポルトガル人を収容するために造られたのが「出島」でした。

今回は、1636年に築造され、オランダ商館が閉鎖となった1859年まで、約220年にわたる日蘭交流と、その中心地となった出島にまつわるお話となります。

川原慶賀「出島図」
《出島和蘭商館跡》
(Photo by ISSA)

出島の築造
出島は、1636年に出島町人と呼ばれた25人の長崎を代表する豪商らの共同出資によって完成(注1) しました。

(注1) 海を埋め立てて築いたということから、当時は「築島」、或いは、その形状が扇型をしていたことから「扇島」などと呼ばれた

海に人工島を造るという発想や、工事の設計・監督にあたった人物、土木技術の細部については、現在でも詳しいことは分かっていません。

ミニ出島
《出島和蘭商館跡》
(Photo by ISSA)

日蘭交流の始まり
前作で述べたように、ポルトガルとキリスト教への取り締まりが強まる中、次第に存在感を増していったのがオランダでした。

遡ること1600年、1隻のオランダ船が豊後(現在の大分県)の海岸に漂着します。

この船の名は「デ・リーフデ号」

「デ・リーフデ号」の模型
(出展:平戸オランダ商館

これをきっかけに、ポルトガル船の来航から約半世紀遅れで日蘭交流が始まったのです。

この船に乗っていたオランダ人航海士のヤン・ヨーステン(耶楊子)(東京の「八重洲」という地名は、彼の名に由来)や、

イギリス人航海士のウィリアム・アダムス(三浦按針)は、徳川家康に優遇され、外交顧問や通訳として活躍しました。

ウィリアム・アダムスからの手紙
《天草市立・天草コレジヨ館》
(Photo by ISSA)

彼らから日本の情報を得たオランダ本国は、

1609年に2隻の貿易船を日本に派遣し、許可を得て平戸に商館を開設します。

1637年の島原の乱によって、幕府のポルトガルによる布教活動への警戒感が頂点に達する中、

島原城
(Photo by ISSA)

オランダは、この島原の乱で原城に立て籠もる一揆軍に向けて「デ・ラープ号」から砲撃し、

原城跡
(Photo by ISSA)

幕府への忠誠を示すことで、やがて日本との貿易を独占していったのです。

出島が日蘭交流の拠点に
1639年、ポルトガル人を出島から追放。無人となった出島に、1641年、平戸からオランダ商館が移転してきました。

出島の街並み
《出島和蘭商館跡》
(Photo by ISSA)

その後、218年間、キリスト教の布教を行わないことを条件に駐留・貿易が認められたオランダが、西洋文化・技術・情報が日本に入る「唯一の窓口」といての役割を独占的に担いました。

19世紀初頭の出島を描いた「出嶋歩刻之図」
《出島和蘭商館跡》
(Photo by ISSA)

この年、幕府は、キリスト教禁令とポルトガル人追放を徹底するために、宣教師やポルトガル人などの旧教勢力に関する情報提供をオランダ人に義務づけました。

オランダ船が入港すると、通詞は商館長(カピタン)を訪れて情報を聴き取り、翻訳し、通詞と商館長の両者が署名・捺印して、長崎奉行から江戸に送られたといわれています。

カピタン部屋
《出島和蘭商館跡》
(Photo by ISSA)
カピタン部屋
《出島和蘭商館跡》
(Photo by ISSA)

この文書は「風説書」と呼ばれ、当時、鎖国中だった幕府にとり、最新の世界情勢を知る唯一の情報源となりました。

東インド会社の台頭
一方、オランダ本国やインドでは、新たな商船隊が台頭しつつありました。

遡ること1602年、それまで競争状態にあったオランダ商船各社が一つに束ねられ、連合オランダ東インド会社VOC:Vereenigde Oostindische Compagnie)が設立されたのです。

東インド会社(VOC)の旗

この会社は、オランダ本国から次のような特権が与えられていました。

◉ 喜望峰からマゼラン海峡に至る地域で独占的に貿易を行うこと
◉ この地域で条約や同盟を結ぶことや軍事力を行使すること
◉ 貨幣を鋳造すること
◉ 地方長官や司法官を任命すること

VOCマーク入りの硬貨
《出島和蘭商館跡》
(Photo by ISSA)

そして、出島にオランダ商館が開設された1641年から、出島にもVOCの船が来航(注2) するようになります。

(注2) 1621年~1847年の227年間に日本に来航したオランダ船は、延べ700隻以上にのぼる

オランダ船の模型
《長崎歴史文化博物館》
(Photo by ISSA)

余談ですが、映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」に出てくる「フライング・ダッチマン」は、「さまよえるオランダ人」を意味する幽霊船の船長のことです。

この伝説が生まれたのは、ちょうど、この頃のことでした。

アジアとの香辛料貿易でVOCが独占状態となる中、各船長に対し無謀な航海を行わないよう強く戒めることが、この伝説が生まれた背景にあり、

逆に言えば、それくらい、この頃のオランダは勢いに乗っていたということでしょう。

出島での検査・荷下ろし
バタビア(現・ジャカルタ)を出港したオランダ船は、台湾海峡などを経由して長崎方面に来航し、その時期は、季節風の関係から7~9月頃となることが多かったようです。 

アジア交易拠点となったバタビア
《出島和蘭商館跡》
(Photo by ISSA)

オランダ船が出島沖に錨をおろすと、次のような検査・手続が、かなり厳格に行われていたようです。

① 奉行所の役人や通詞による船内検査
② 武器・宗教関係品の集積・保管
③ 船長からの「風説書」の提出
④ 出島への入館許可
⑤ 荷下ろしと「大改め」(注3)
⑥ 蔵入れと保管、入札・競売

(注3) 出島の倉庫や奉行所の対面所などで、長崎奉行、カピタン、通詞らの立会いの下で行われた、輸入貿易品の厳重な検閲(検査)手続きのこと

対面所による「大改め」の様子
《長崎歴史文化博物館》
(Photo by ISSA)

江戸時代の初期にオランダから輸入していたものは、主にベンガル産などの生糸で、オランダに輸出していた主な品は銀でしたが、

江戸時代の中期以降は、羅紗、ビロード、胡椒、砂糖、ガラス製品、書籍などを輸入し、銅、樟脳、陶磁器、漆製品などを輸出する等、次第に交易品目も増えていきました。

蔵入れとなった品々
《長崎歴史文化博物館》
(Photo by ISSA)

日蘭交流の衰退
このように、長崎の開港以来、盛んに行われていた日蘭交流ですが、18世紀に入ると次第にかげりが見え始めます。

その原因の一つが、日本の貿易制限政策(注4) でした。

(注4) 幕府としては、外国との接触を続けることが、やがて国内の和を乱すことに繋がることへの警戒感が、どうしても拭いきれなかった

当初、江戸幕府は、貿易に何も制限を与えていませんでしたが、1685年、日本の金銀銅の海外流出が問題となったことを機に、オランダの貿易額を銀3,000貫目に制限。

更に1715年には、オランダ船の入港を年2隻・貿易額を銀3,000貫目に、そして1790年には、年1隻・貿易額銀700貫目にまで制限しました。

旧出島神学校
《出島和蘭商館跡》
(Photo by ISSA)

一方、1789年に起きたフランス革命は、オランダ国内で政治革命を誘発し、ウィレム5世がイギリスに亡命。王国は崩壊して、1795年にバタビア共和国が誕生しました。

また、VOCも18世紀に入ると次第に経営が悪化。バタビア共和国の誕生により、1799年にVOCは解散に追い込まれ(注5) ました。

(注5) 実際には、VOCはバタビア共和国に引き継がれ、国営企業として存続した。1823年に来日したドイツ人のシーボルトは、国営VOCの総督から日蘭貿易の発展に資する日本研究という使命を与えられて来日している

開国へ
1840年、清で勃発したアヘン戦争の結果、清は香港の割譲、広州、上海など5港を開港し、南京条約によって開国を強いられることになりました。

この情報は、先述の「風説書」などを通じて幕府にもたらされ、次第にオランダ政府も幕府に対して開国勧告を提出するようになります。

1846年には最初のアメリカ公式使節が来日、1853年にはペリーが浦賀に来航するなど、開国を求める動きが活発化し、

翌1854年には、我が国初の条約である日米和親条約が締結され、

日米和親条約締結の地
《神奈川県横浜市・開港広場
(Photo by ISSA)

海軍力の増強へと舵を切った幕府は、1855年~1859年の間、「長崎海軍伝習所」を開設して、勝海舟らがオランダ海軍士官から航海術等を学ぶようになりました。

長崎海軍伝習所跡
《長崎県長崎市江戸町》
(Photo by ISSA)

1856年、在日アメリカ総領事ハリスが通商条約締結交渉のために来日。ねばり強く交渉を進めるハリスを前に、1858年、幕府は遂に日米修好通商条約に調印します。

これが実質的な鎖国体制の崩壊につながりました。

オランダとは、1856年に日蘭和親条約、1858年に日蘭通商条約を締結。その後、出島の商館はオランダ領事館を兼ねるようになり、オランダ商館はその長い歴史の幕を閉じることになりました。

1859年、グラバーが来日。オランダ系商人とも接点があったといわれています。

1865年、坂本龍馬が「亀山社中」を創設。龍馬は、オランダ系の商人ハルトマンと取引を行っていました。

出島に残る旧石倉は、ハルトマンが使用していた倉庫であり、龍馬もここに出入りしたと考えられています。

旧石倉(現・考古館)
《出島和蘭商館跡》
(Photo by ISSA)

そして1866年、出島は外国人居留地に編入されました。

現在の出島の姿
開国後の出島周辺は、長崎を近代的な貿易都市に改良するため、西側の水門付近や南側が拡張されるなど、地形が大きく変わっていきました。

その後、周囲が埋め立てられ、更に1885年に起工した中島川変流工事では出島の北側約18mが削り取られました。

そして、1904年の港湾改良工事で、その扇形の島は完全に姿を消してしまったのです。

現在の出島の様子
(Google Earth 3D)

おわりに
過去5回の記事で、

  • シーボルト(独)

  • グラバー(英)

  • ザビエル(西)

  • アルメイダ(葡)

  • ヴァリニャーノ(伊)

  • フェラロ(伊/葡)

  • 耶楊子(蘭)

  • 三浦按針(英)

等、近代日本史に登場する様々な西洋人を見てきましたが、

彼らの活動の背景には、逞しさ、志、利他の心、勇気、誇りのような、当時の日本人が持っていた美しい真心のようなものが見えてきます。

出島表門橋
《出島和蘭商館跡》
(Photo by ISSA)

日本が鎖国政策をとる中、ポルトガルに代わって、日本の近代化と黎明期の日本海軍の育成に尽くしたオランダでしたが、

20世紀前半になると、米英に追随して日本への石油禁輸網(注6) の一角を成すなど、かつての友好国・オランダは、日本とは一線を画す敵対国となり、

(注6) いわゆる「ABCD包囲網」のことで、「D」は「Dutch」を意味

開戦後、日本はオランダ領東インド(現在のインドネシア)をめぐり、オランダとも戦っています。

ABCD包囲網

先ずは、外交面で敵を作らないこと、出来るだけ友好国を増やす努力をすることが大前提ですが、

他方で、軍事面においては、長い目で見れば絶対的な友好国など存在しないことを、日蘭交流の歴史が物語っているように思いました。

出島にたなびくオランダ国旗
《出島和蘭商館跡》
(Photo by ISSA)

ところで、高市さんは、素晴らしい外交デビューを果たしましたね👏

米海軍横須賀基地に停泊中の空母「ジョージ・ワシントン」艦上でスピーチをされているお姿を見て、

かつての安倍さんのように海軍力の重要性を良く認識されていると思いました。

今後、日米両海軍を中心日米同盟の黄金時代を築き上げ、より一層、日本の安全保障基盤を高めて頂きたいと思います。

他方で、「祖国は自らの手で守ることが大原則」であるということも、私たちは忘れてはならないと思います。

いつも、ありがとうございます🍀