長崎紀行 ~ 亀山社中を訪ねて
前作では、グラバーが亀山社中と連携して、明治維新に大きな役割を果たしたことをお話しましたが、
今回は、その亀山社中と、坂本龍馬の長崎における活動と功績に関するお話となります。
亀山社中とは
亀山社中(注1) は、幕末期に坂本龍馬が長崎で結成した、日本初の商社といわれる組織です。
(注1) 「亀山」は、事務所があった亀山という地名に由来し、「社中」は、「志を同じくする者たちの集まり」を意味する

《長崎県長崎市伊良林》
(Photo by ISSA)
勝海舟の海軍塾や、神戸海軍操練所が閉鎖となったあと、

(Created by ISSA)

《長崎県長崎市江戸町》
(Photo by ISSA)

《神戸市中央区新港町》
(Photo by ISSA)
「培った航海術を生かしたい」という思いに駆られていた坂本龍馬は、
1865年9月、薩摩藩や長崎の豪商・小曽根家の援助を受けて、20人の同志とともに、日本初の商社で私設海軍でもある亀山社中を創設し、その拠点を長崎に置きました。

《長崎市亀山社中記念館》
(Photo by ISSA)
薩長同盟の成立に貢献
遡ること1863年8月に、八月十八日の政変が起きてからというもの、長州は次第に朝敵という立場に追い詰められ、翌1864年7月には、禁門の変で薩摩と衝突していました。
幕府が、第二次長州征伐を計画する中、このまま長州の息の根が止められてしまうと、攘夷・倒幕の火が途絶えてしまうことを危惧した志士らは、
いつの頃からか薩長同盟という妙案を考えるようになっていました。

《高知県立坂本龍馬記念館》
(Photo by ISSA)
そのため、龍馬の亀山社中が薩長の仲介に入り、グラバーから薩摩名義で軍艦や武器を買い取り、長州に横流しする三角貿易を担いました。
これにより、対立関係にあった両藩の関係は急速に改善され、1866年3月の薩長同盟成立に寄与することになったのです。
亀山社中は、他にも藩に武器を卸す商業活動や、海上輸送、航海訓練なども行っています。

《長崎県長崎市伊良林》
(Photo by ISSA)
寺田屋事件
この直後、伏見の寺田屋で襲撃されて負傷した龍馬は、西郷隆盛の計らいで、お龍さんと共に薩摩で療養することになりました。
この間、約2か月、龍馬不在の亀山社中では、近藤長次郎が中心となって操業を続けました。
第二次長州征伐で長州を支援
薩摩で傷の治癒を終えた龍馬は、お龍さんと共に、薩摩藩の軍艦で亀山社中が運航する「ユニオン号」で長崎へ向かいます。
6月、幕府が第二次長州征伐を始めると、龍馬が船長を務める「ユニオン号」が長州に加勢し、門司方面に居た幕府の砲台を壊滅状態に追い込みました。
海援隊の創設
翌1867年、後藤象二郎が龍馬のもとに現れ、いよいよ土佐藩が幕府寄りの立場を捨てて、倒幕に向けて動き出すという話をします。
4月、坂本龍馬と中岡慎太郎に土佐藩から辞令が与えられました。それは、土佐藩が、藩の付属機関として「海援隊」と「陸援隊」を創設するので、それぞれが隊長となって倒幕のために働け、というものでした。
こうして亀山社中は、龍馬を隊長とする海援隊として再出発することになったのです。(中岡は、この年の7月に陸援隊を組織している。)

《高知県立坂本龍馬記念館》
(Photo by ISSA)
しかし、資金は自給自足で賄うこととされたので、活動資金に困った龍馬は、後藤の紹介で長崎土佐商会の責任者である岩崎弥太郎と面会。
この日をきっかけに龍馬は弥太郎と親交を深め、資金面で援助を受けるようになります。

《龍馬の生まれたまち記念館》
(Photo by ISSA)
(注2) 岩崎弥太郎は、後に三菱を創設し、海援隊旗は船舶部門たる日本郵船に引き継がれた
「いろは丸」の事故
海援隊が発足して間もない頃、長崎を出港した「いろは丸」の初航海で、瀬戸内海で紀州藩の「明光丸」と衝突する事故が発生しました。

《高知県立坂本龍馬記念館》
(Photo by ISSA)
この時、龍馬も「いろは丸」に乗船しており、「いろは丸」は海中に没しましたが、龍馬と乗組員は皆、かろうじて無事でした。(注3)
(注3) この事故は、日本初の蒸気船同士の事故として記録された。龍馬は国際法を根拠に紀州藩と交渉。後藤の助けもあり、5 月、紀州藩が土佐藩に賠償金を払うことで和解が成立した
大政奉還へ
一方、倒幕に舵を切った土佐藩は、京都で薩摩藩との間で密約を結ぼうとしていました。
土佐から中岡慎太郎、板垣退助、薩摩から西郷隆盛、小松帯刀らが会席し、武力倒幕に尽くすことを約束したのですが、龍馬はこの密約に反対でした。
「内戦はできるだけ避け、無用の血を流さずに倒幕することが第一」
そう考えていた龍馬は無血革命の策を練り、この考えを西郷らに伝えるため、船で京都に向かいます。
この途上の船中で、龍馬が後藤に語ったことが、船中八策と呼ばれるものでした。

(Created by ISSA)
京都に着いた龍馬は、早速、西郷らを説き伏せて、武力倒幕の準備を行いつつ、先ずは「大政奉還」を目指してみようということになり、
1867年10月、ついに土佐藩の山内容堂から幕府に「大政奉還」建白書が提出されました。
結果、徳川慶喜がその建白書を受け入れ、ここに無血革命が成立(注4) したのでした。
(注4) 慶喜公を大政奉還へと動かした背景には、薩長両軍の圧倒的な武力が控えていたことがある(いつの世も、外交交渉の背後には実効的な軍事力による支えが必要)
こうして、200数十年続いた徳川幕府が終わりを告げ、鎌倉幕府から侍が握り続けてきた政治の実権は、約700年ぶりに朝廷のもとに奉還されることになったのです。

世界の「海援隊」を夢見て
その後、龍馬は新政権の編成案まで考えています。
その中に龍馬の名がないことに気づいた西郷は、龍馬に「官職につかず何をなさる」と聞いたところ、龍馬はこう言ったそうです。
「そうだな、世界の海援隊でもやるか」

《風頭公園展望台》
(Photo by ISSA)
11 月、京都に戻った龍馬は自らの船中八策を更に発展させ、新政府設立のための政治綱領として新政府綱領八策を作成しました。
そして、この八策は、後の明治新政府によって次々に実現されることになります。
龍馬、刺客に襲われる
1867 年11月15日、龍馬は、京都の近江屋で中岡慎太郎と酒を酌み交わしていたところ、突然、襲いかかってきた刺客に襲われ、
龍馬は、懐に忍ばせていたはずのピストルを使う間もなく、斬られて絶命しました。
龍馬の死後は、土佐藩の医者の家系の出身で、鳴滝塾でシーボルトから医学を学んだ長岡謙吉が二代目の隊長と務めましたが、
逸材を失った海援隊と陸援隊は、やがて求心力を失い、解散へと向かうことになったのです。
亀山社中記念館
当時の亀山社中は、老朽化していた遺構を当時に近い形で復元され、2009年から長崎市亀山社中記念館として一般に公開されています。
記念館は内部は、10畳・8畳・3畳の部屋と土間に分かれており、隠し部屋と思われる中二階は、はしごを上って中を見学することができます。

また、龍馬のブーツやピストルのレプリカ、書簡の写し、亀山社中の志士達の写真など、ゆかりの品々が展示されており、


全国から龍馬ファンが訪れる人気のスポットとなっています。


近くには、亀山社中資料展示場があります。(こちらの開館日は土日限定ですので、ご注意ください。)

《長崎県長崎市伊良林》
(Photo by ISSA)
名誉館長は、龍馬ファンの武田鉄矢さんが務めています。
もし、龍馬が生きていたら…
坂本龍馬の短い生涯の中で、長崎を拠点とした3年間は、龍馬が最も輝いた時期であったように思います。

《風頭公園展望台》
(Photo by ISSA)
龍馬は「世界の海援隊をやりたい」と言っていたので、もし、暗殺されずに生きていたら、
誰もが笑って暮らせる明るい世界を実現するため、海を舞台に東奔西走し、争い事を無血で解決するフィクサーとして活躍したことでしょう…

《風頭公園展望台》
(Photo by ISSA)
おわりに
今年は、国連創設から80年になりますが、先日、石破総理が国連総会の一般討論演説で、安全保障理事会が十分に機能を発揮できていないとして改革を断行すべきだと訴えました。
国際的には、そろそろ、龍馬が夢見た「世界の海援隊」ともいうべき「世界政府」や「国連軍」の創設に向けた議論を始める時なのかもしれません。

また、国内的には、間もなく自民党総裁選を迎えますが、
国民の想像を遥かに超える質・量の「中国版黒船」が日本周辺で徘徊し、日本や台湾、フィリピン等への威圧的な行動を繰り返す今、
国際情勢や、海軍の重要性が分かっている強いリーダーが望まれます。
そして、もし龍馬が今の世界や日本の状況を見たら、きっとこう言うに違いありません。
「国連と日本を、今一度、せんたく(洗濯)いたし申候」と。
