長崎紀行 ~ グラバー邸を訪ねて
前作では、幕末~明治期に長崎で活躍した西洋人、シーボルトの生涯をご紹介しましたが、
今回は、医者であり学者でもあったシーボルトと違い、貿易商であり実業家であった、同じ長崎で活躍した西洋人、グラバーに関するお話となります。

小学校の修学旅行の時で、その後も
何度か訪れた懐かしい場所です☆☆
生い立ち
トーマス・ブレーク・グラバーは、1838年6月、スコットランド北部の小さな漁村で生まれ、少年期はアバディーンという港町で過ごしました。
この頃、沿岸警備隊に勤務する父から操船技術も学んでいたようです。

卒業後、グラバーはアジア貿易を手がける大手商社ジャーディン・マセソン商会に就職しました。
この会社は、当時のイギリスを代表する貿易会社で、中国とのアヘン貿易で莫大な利益を得ていました。
来日とグラバー商会の設立
1859年、この会社の上海支店で勤務した後、同年9月、開港後まもない長崎に会社の代理人として来日。21歳のことでした。(この年、63歳になったシーボルトが、二度目の来日を果たしている)
1862年、その事業を引き継いで、グラバー商会を設立。

翌1863年に、長崎港を見下ろす南山手の丘にグラバー邸を建設。その後、この辺りが外国人居留地となりました。
グラバー邸は、木造のL字型バンガローで、現存する最古の洋風木造建築であると同時に、最初の和洋折衷建築とされており、現在、国指定重要文化財となっています。

柱間の吊束を持つアーチ型欄間が
開放的な雰囲気を醸し出す☆☆☆
(Photo by ISSA)

レンガ製煙突などが特徴
(Photo by ISSA)

右上:コロニアル風の大型窓☆☆☆☆☆
(Photo by ISSA)
グラバーは流暢な日本語を操り、当初は生糸や茶の輸出を中心に販売を手掛け、八月十八日の政変(注1) 以降は、日本国内の様々な勢力に武器・弾薬を売却するようになりました。
(注1) 1863年8月18日に京都で起きた政治的クーデター。公武合体派によって、尊王攘夷派の公家と京都御所の警備を担っていた長州藩が、その任を解かれて京都から追われた。この政変は、その後の長州藩が朝敵に近い立場に追い込まれるきっかけとなった
幕末の志士の海外渡航を支援
1863年には、長州ファイブのイギリス渡航を手引きしました。
後に初代総理大臣となった伊藤博文は、明治維新後もグラバーと接触を保ち、その知見にあずかることも多かったようです。

また、1865年には、薩摩スチューデントの海外留学も手引きしたり、長州の桂小五郎をグラバー邸に匿ったりしています。
特に、五代友厚とは公私にわたり親交を深め(細部は後述)、日本の近代化に大きな役割を果たしました。
蒸気機関車を走らせる
一般的に、日本の鉄道開業は1872年の新橋~横浜間とされていますが、それより7年も早い1865年に、グラバーは長崎で蒸気機関車「アイアンデューク号」を走らせています。
坂本龍馬を介して倒幕を支援
グラバーは、坂本龍馬が1865年に結成した亀山社中(後の海援隊)(注2) とは、1868年までの3年間、様々な武器・弾薬及び艦船などの取引を行っています。
(注2) 亀山社中は、薩摩藩の名義でグラバーから武器を購入し、それを長州藩に横流しするという「武器の三角貿易」を担った。これにより、対立関係にあった両藩の関係は大幅に改善され、後の薩長同盟の成立に寄与した
薩長が倒幕で使用した武器・弾薬、艦船などの、7割近くをグラバーが調達したともいわれています。
グラバーは、後年、
「(駐日英国公使)パークスと薩長との間に立って、その壁を崩したことが、幕末期における私の一番の手柄だった」
と語っており、
こうしたグラバーが築いたネットワークと情報が、イギリスの対日外交を変えさせる(注3) きっかけとなったのです。
(注3) 1866年の鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争の緒戦)の後、幕府に未来はないことを確信したパークスは、新政府を日本の正統な政府と認めるようイギリス本国に進言。これによりイギリス外交の相手先は、幕府から新政府へと転向され、他の欧米列強もイギリスに続いた
日本初の修船場を建設
1868年(明治元年)には、五代友厚(注4) や小松帯刀と共に、長崎港の入口近くに日本初の蒸気船のドックを造っています。
(注4) 五代友厚とは私生活でも親しく、グラバーは五代の紹介でツル(淡路屋ツル)と結婚。1876年に長女・ハナをもうけている。グラバーには1871年に生まれた長男・倉場富三郎が居るが、ツルが実母かどうかは定かではない

右:長女・ハナ☆☆☆
(グラバー邸の展示品より)

《薩摩藩英国留学生記念館》
(Photo by ISSA)
当時、幕府や各藩が買い付けた船舶の大半が中古船だったため、故障が絶えず、大規模な船舶修理場を必要としていたことが背景にあります。

《鹿児島県歴史・美術センター黎明館》
(Photo by ISSA)
グラバーは、イギリスから必要な機材を輸入して、陸上部に艦船を引き上げるための蒸気機関の巻上機を、海に向かうスロープには滑り台のような装置を設置しました。

《長崎県長崎市小菅町》
(Photo by ISSA)
スロープの装置が、算盤の珠が並んでいるように見えたことから、当時の人々からは「ソロバン・ドック」と呼ばれました。
1872年には、明治天皇が小菅修船場へ行幸され、「咸通丸」を陸上に引き上げる様子を見学されています。

《長崎県長崎市小菅町》
(Photo by ISSA
炭鉱開発にも尽力
また、グラバーは、日本の近代化に必要なエネルギー源として、石炭に着目していました。
彼は1868年、佐賀藩と共同で長崎・高島での炭鉱開発に着手。当初からこの島に別邸を築いて、1873年まで居住しました。
グラバーは、当時最新鋭だったイギリスの採炭技術を導入し、日本で初めて蒸気機関を用いた西洋式の竪坑を掘りました。
この高島炭鉱で培われた近代的な採炭技術は、その後、三菱に引き継がれ(後述)、三菱が1890年に買収した端島(軍艦島)でも応用されました。
高島で培われた技術が端島に導入されたことで端島は急速に発展し、後年、日本有数の炭鉱になることが出来たのです。
このように、グラバーは石炭の開発・運営に携わることで、日本の近代化の一助となりました。
グラバー商会の破産
明治維新後も、造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深めましたが、やがて武器が売れなくなったことや、諸藩からの資金回収が滞ったことで、1870年、グラバー商会は破産。
この間も、グラバーは、引き続き高島炭鉱の経営に携わりました。
1873年に、以前から親交があった岩崎弥太郎(注5) が三菱商会を設立すると、弥太郎は、グラバーから高島炭鉱の利権を買い取り、三菱の主要事業の一つとしました。

(注5) 弥太郎とグラバーは、1867年に土佐の開成館・長崎出張所に弥太郎が赴任して以来の仲で、当初から弥太郎をグラバー邸に招き、様々な商談を持ちかけていた
グラバーは、その後も三菱傘下の高島炭鉱で所長として経営に携わり続け、1885年からは三菱財閥の常任顧問として活躍することになります。

(グラバー邸の展示パネルより抜粋)
弥太郎の死後、弟の岩崎弥之助が社長に就任してからも、グラバーは引き続き三菱の顧問として、海外との折衝や新技術の導入に貢献しました。
また、経営危機に陥った横浜のビール会社「スプリング・バレー・ブルワリー」の再建計画に参画し、弥之助や渋沢栄一からの出資を得て、1885年に「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」を設立しました。
この会社は、後に「麒麟麦酒」を経て「キリン・ホールディングス」へと発展し、現在に至っています。
グラバーは、この会社が販売する新しいビールのデザインを考える際、若くして亡くなった龍馬を想い、頭が「龍」で胴体が「馬」の架空の動物を発案したと言われています。
1897年、グラバーは妻ツルと共に東京へ転居。そこで、三菱の顧問としての余生を過ごしました。
1908年、外国人として破格の勲二等旭日重光章を授与(注6) されています。

(注6) 旭日章は、日本の勲章の中でも「国家または公共に対し功労のある者」に与えられる勲章で、重光章は上から二番目に該当
旭日大綬章
旭日重光章 ☜
旭日中綬章
旭日小綬章
旭日双光章
旭日単光章
没後、亡骸は再び長崎へ
1911年、グラバーは慢性腎臓炎の発作に襲われ東京の自宅で死去。73歳でその生涯の幕を閉じました。
遺骨は長崎に運ばれ、グラバー邸において英国国教会の式次に則り盛大な葬儀が営まれました。
墓は長崎市内の坂本国際墓地にあり、1899年に先立ったツルと共に埋葬されています。
余 談
1938年、グラバー邸の対岸にある三菱長崎造船所で、戦艦「武蔵」の建造が始まります。
このときの三菱のトップは、弥之助の長男で、3代目社長となる岩崎小弥太でした。
グラバー通りから対岸の長崎造船所を見ると、定期検査中の複数の護衛艦が入港していました。
そして、黄色い「☞ 」マークの辺りが、戦艦「武蔵」を建造した第三船渠になるのですが、

《長崎県長崎市南山手町》
(Photo by ISSA)
Google Earthの3D画像で見ると、こんな感じになります。巨大なドックで、「もがみ」型の護衛艦なら4隻くらい入りそうです。

現・長崎造船所の第三船渠
《Google Earth》
(Modified by ISSA)
1945年8月9日、グラバー邸は原爆による直接的な破壊は免れましたが、爆風や熱線で窓ガラスが割れるなどの被害を受けました。
当時のグラバー邸には、息子の倉場富三郎とその家族が暮らしていましたが、彼らは、敷地内にあった防空壕に避難していたため、無事でした。
【参考】アメリカが長崎に投下した原爆で、およそ200人の米英蘭豪の捕虜兵も死傷している。多くのアメリカ人は「原爆は終戦に必要だった」と正当性ばかり主張しているが、グラバーの子孫や、同胞たる連合軍の仲間もろとも吹き飛ばそうとしたことについて、未だ何の説明もなされていない
グラバー園について
現在、「グラバー園」と呼ばれる一帯は、グラバー邸をはじめ、幕末から明治にかけての歴史的建造物が集まる有料施設となっています。

この辺りは、2024年に放映されたドラマのロケ地にもなりました。
麓のゲートで、一風変わった入場券を購入し、

動く歩道で最上部に上がります。

《長崎県長崎市南山手町》
(Photo by ISSA)
グラバー園の最上部には、旧三菱造船所第2ドックハウス(注7) があります。

《長崎県長崎市南山手町》
(Photo by ISSA)
(注7) 1896年、三菱造船所の第2ドック建設時に建てられた、外国人乗組員用の宿舎
2階のベランダからは、長崎湾が一望に見渡せます。

2Fベランダから長崎湾を見渡す
爆心地は写真中央付近、2.5km先
《長崎県長崎市南山手町》
(Photo by ISSA)
このあとは、所々に散在する歴史的な建造物に立ち寄りながら、旧グラバー住宅を目指して下り坂を歩いていきます。
こちらは、園の中ほどにある旧ウォーカー邸の内部です。

《長崎県長崎市南山手町》
(Photo by ISSA)
この邸宅の住人だったロバート・N・ウォーカーも明治初期に日本で活躍したイギリス人貿易商で、グラバーや弥太郎と共に、高島炭鉱やジャパン・ブルワリー・カンパニーの経営に携わりました。
その下にちょっとした中庭があって、開園50周年を祝うベトナム・ランタンが飾ってありました。

《長崎県長崎市南山手町》
(Photo by ISSA)
その傍らには、日本人による日本最初の西洋料理店といわれている「自由亭」の建物があります。

《長崎県長崎市南山手町》
(Photo by ISSA)
この建物は、元々、江戸末期の1863年に、五代友厚の勧めで料理人の草野丈吉(注8) が、現在の長崎市伊良林に開業した「良林亭」を、後年、この場所に移築したものだそうです。

展示館の辺りにあったという☆
《長崎県長崎市伊良林》
(Photo by ISSA)
(注8) 草野は当時としては珍しい西洋料理人で、出島の商館に奉公し、オランダ総領事に目をかけられて西洋料理とマナーを習得し、開業後は、後藤象二郎や岩崎弥太郎などが訪れるようになった
最後に、冒頭でご紹介したグラバー邸です。

《長崎県長崎市南山手町》
(Photo by ISSA)
【参考】シーボルトとの比較
このように、色んな顔を持つグラバーですが、ちょっと気になって、シーボルトと比べてみました。

(Created by ISSA)
シーボルトが30年ぶりに長崎を再訪した1859年、グラバーも長崎に来ていますが、二人に接点があったかどうかは定かではありません。
ただ、シーボルトとの大きな違いは、グラバーは1859年の来日以来、1911年に没するまで、一貫して日本を拠点とし続け、明治維新や日本の殖産興業に深く関わったということでしょうか。

《長崎県長崎市南山手町》
(Photo by ISSA)
おわりに
武器商人としての側面には賛否あるかもしれませんが、グラバーの功績で注目すべき点は、「これほど日本の明治維新に貢献した外国人は、他に見当たらない」ということです。
彼は、日本の政治状況を見極めながら、次第に幕府を見放し、薩長との交流を深め、志士を自邸にかくまい、武器・弾薬や艦船を用立て、攘夷派・佐幕派に命を奪われることなく巧みに処世しました。
そして、人生を振り返り次のように語っています。

グラバーが語った、
「高潔」(Integrity)と、
「清廉」(Honesty)。
現代社会においても、ピーター・ドラッカーや稲盛和夫さんが、こうした「インテグリティ」の重要性を説いています。
グラバーの動機は、あくまでビジネスにあったのかもしれませんが、彼がずっと日本に留まり、明治維新や近代化に尽力し続けた一番の理由。
それは、坂本龍馬、岩崎弥太郎、伊藤博文(長州ファイブ)、五代友厚(薩摩スチューデント)といった、
「高潔」と「清廉」を兼ね備えた
志士たちの人間性に魅了されたから
ではないだろうかーーー。
久しぶりにグラバー邸を訪れてみて、そんな風に思いました。

次回は、亀山社中と坂本龍馬のお話になります。
いつも、ありがとうございます🍀
