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下田開港の歴史と、タウンゼント・ハリスの功績

今週末は、下田で恒例の「黒船祭」が行われています。

(「黒船祭公式ホームページ」より)

今回は、このお祭りのきっかけとなった下田開港の歴史と、日本初の米国領事、タウンゼント・ハリスに関するお話です。

日本初の開港地・下田
徳川幕府による鎖国政策は、1854年の日米和親条約で終焉を迎え、下田を開港地として日本の門戸が世界に開かれました。

下田の開港
1854年3月11日の日米和親条約(神奈川条約)では、

日米和親条約締結の地
《横浜・開港広場》
(Photo by ISSA)

下田と箱館の開港と、下田に領事を駐在させることが決まり(注1)  これを受けて、ペリー艦隊は3月18日から21日にかけて、順次、下田に来航しました。

(注1) 下田は、ペリー艦隊としては江戸まで海路で半日、幕府としては陸路で5日もかかる距離だったので、下田の立地は、お互いにとり好都合だった

ペリーが乗船していた旗艦・サスケハナ号
この蒸気フリゲートは艦隊の主力艦だった
《静岡県下田市柿崎・ハリス記念館》
(Photo by ISSA)

吉田松陰
世界情勢を知るため、幕府が禁じていた海外渡航を企てていた長州の兵学者・吉田松陰は、ペリー艦隊を追って下田に来ていました。

松陰は、下田で宿をとって機会をうかがっていましたが、皮膚病の治療のため訪れた蓮台寺温泉で、医師の村山行馬郎と知り合い、しばらく村山邸(現・吉田松陰寓寄処)で、温泉治療をすることになります。

吉田松陰寓寄処(旧・村山邸)
《静岡県下田市蓮台寺》
(Photo by ISSA)

築200年の旧・村山邸には、現在も松陰が湯治に使った浴槽や、二階に松陰の隠れ間が残されています。

吉田松陰寓寄処(旧・村山邸)
右下は、松陰がここで作成したとみられる
ペリー艦隊への「投夷書」(写し)☆☆☆
《静岡県下田市蓮台寺》
(Photo by ISSA)
吉田松陰寓寄処(旧・村山邸)
《静岡県下田市蓮台寺》
(Photo by ISSA)

3月27日夜、弁天島から船を出し、

吉田松陰 出漕の地
《静岡県下田市弁天島》
(Photo by ISSA)

沖合に停泊していたポーハタン号に漕ぎつけ、熱心に渡航を懇請しますが、

吉田松陰が乗船を試みたポーハタン号
《静岡県下田市・下田開国博物館》
(Photo by ISSA)

条約が結ばれたばかりで、日米間の外交関係にも影響し兼ねないと断られ、追い返されて(注2) しまいました。

吉田松陰 上陸の地
《静岡県下田市須崎》
(Photo by ISSA)

(注2) 密航が叶わなかった松陰は、下田奉行所で取調べを受けた後、江戸で投獄。その後、実家預かりとなり、1857年、萩で松下村塾を開塾。この間、長州藩の下級武士だった久坂玄瑞や伊藤博文らを育てた(1859年、安政の大獄によって処刑)

吉田松陰の投獄中の愛読書
《静岡県下田市・下田開国博物館》
(Photo by ISSA)

ペリー上陸
下田に来航したペリーは、約300人の部下を引き連れて下田港に注ぐ平滑川の河口付近に上陸し、

ペリー艦隊来航記念碑
《静岡県下田市・平滑川の河口付近》
(Photo by ISSA)

現在、「ペリーロード」と呼ばれる一帯を通って了仙寺まで行進しました。

平滑川に沿って、風情溢れる
街並みが広がるペリーロード
《静岡県下田市》
(Photo by ISSA)

下田条約の締結
6月8日から6月17日にかけて了仙寺にとどまり、神奈川条約の細則を定めた下田条約の締結交渉と調印が行われました。

了仙寺(上)と黒船ミュージアム(下)
《静岡県下田市》
(Photo by ISSA)

この条約で、米国人の遊歩区域が下田から7里(約28km)以内と定められ、下田は「日本で初めて外国人が自由に歩ける街」になったのです。

一行の中に、ドイツ人画家のヴィルヘルム・ハイネが居て、この頃、ハイネが描いた下田の風景が、ペリー帰国後に出版された「ペリー提督日本遠征記」に多くの挿絵を提供しました。

ハイネの絵画
《静岡県下田市・下田開国博物館》
(Photo by ISSA)

ハイネの絵画が、この遠征記などに掲載されたことで、当時の欧米人が、初めて日本の姿を視覚的に認知するようになったと言われています。

大津波が下田を襲う
ペリー艦隊は、下田条約の調印が終わると、すぐに日本を離れて艦隊の拠点であった香港へと向かいました。

その数か月後となる1854年末、安政東海地震による大津波が下田を襲いました。町の家々のほとんどが流失するなど、下田の町自体が壊滅的な被害を受けたこともあり、

ペリーが去った後、しばらくは米国人の来航や上陸は無かったようです。

ハリスが下田に現る
安政東海地震からおよそ1年半後、1856年7月に、サン・ジャシント号で下田に来航したタウンゼント・ハリスは、

サン・ジャシント号タウンゼント・ハリス
《静岡県下田市柿崎・ハリス記念館》
(Photo by ISSA)

了仙寺とともに米国人休息所に指定されていた玉泉寺に、日本初の米国領事館を開きました。

日本初の米国領事館となった玉泉寺
《静岡県下田市柿崎》
(Photo by ISSA)

8月5日、初代・駐日米総領事として、玉泉寺に星条旗を掲げました。

米国総領事旗掲揚之地
《静岡県下田市柿崎・玉泉寺》
(Photo by ISSA)

ハリスの使命は、通商条約の締結でした。当初、幕府には開国通商の意志はなく、将軍謁見、幕閣との交渉の要請は幾度も拒否され、なかなか交渉には応じて貰えず、

慣れない異国での栄養不足と過度のストレスから健康を害す(注3) こともあったようです。

(注3) 当時の日本人には、未だ「牛乳を飲む」という習慣がなかったが、ハリスが健康のために牛乳を飲みたがったので、看護人が苦労して乳を集めたという。玉泉寺境内の「牛乳の碑」は、当時の牛乳売買の歴史を今に伝えている

左下:牛乳の碑
《静岡県下田市柿崎・玉泉寺》
(Photo by ISSA)

江戸参府の許しが出る
それでも辛抱強く幕府との交渉に当たり、1857年10月、ようやく江戸への参府が許されます。天城峠を越えて、

道の駅「天城越え」
《静岡県伊豆市湯ケ島》
(Photo by ISSA)

江戸へ向かう道中、侍従者達には米国の紋章であるハクトウワシ(注4) の紋付の羽織を着用させました。

米国の紋章がつけられた羽織
《静岡県下田市・下田開国博物館》
(Photo by ISSA)

(注4) ハクトウワシ(Bald Eagle)は、1782年6月の大陸会議以降、現在に至るまで米国の公式シンボル(国鳥・国章)となっており、外交上の公文書や米軍の部隊章等に多く取り入れられている

同月21日、ハリスは江戸城で13代将軍・徳川家定への謁見を果たし、その後、江戸滞在中に通商条約の交渉を開始しました。

日米修好通商条約の締結
翌1858年7月、日米修好通商条約の締結に至り、新たに横浜・長崎・新潟・神戸・(改めて)函館の五港が開かれました。

この通商条約で横浜が開港されると、1859年6月、下田領事館は閉鎖されて、ハリスは下田を去ります。

現在も、玉泉寺の境内には、ペリー艦隊の下田滞在中に事故や病気で亡くなった5人の将兵のお墓があります(日本初の「アメリカ人墓地」)。

黒船ペリー艦隊将兵墓所
《静岡県下田市柿崎・玉泉寺》
(Photo by ISSA)

宝福寺について
また、マイマイ通りの一角には、宝福寺というお寺があります。

ここは、「唐人お吉」として知られる斎藤きち(お吉)のお墓があるほか、坂本龍馬飛翔之地としても知られています。

八幡山 宝福寺
《静岡県下田市》
(Photo by ISSA)

下田の芸者であった「お吉」は、幕府の命で玉泉寺の米国領事ハリスに看護人として仕えましたが、その期間は3日程度で、

幕末の混乱期に外国人に仕えたことで「ラシャメン」(洋妾のこと)などと呼ばれ、地域住民から差別や偏見を受けたと言われています。

なお、今日知られている「お吉物語」の大部分は、後世に創作されたフィクションのようです。(お吉と龍馬の接点も、史実としては確認されていません。)

左:お吉の素顔 右下:お吉のお墓
写真は、別人の可能性もあるという
《静岡県下田市・唐人お吉記念館》
(Photo by ISSA)

一方、1863年、嵐のために下田に避難してきた土佐船と幕府船には、偶然にも前・土佐藩主の山内容堂勝海舟が乗船しており、2人はこの下田で出会う事になります。

山内容堂・勝海舟謁見の間
《静岡県下田市・唐人お吉記念館》
(Photo by ISSA)

二人はこの宝福寺で会談を行い、勝海舟が、山内容堂から龍馬の脱藩罪について許しを得ることができました。

ここが龍馬「飛翔之地」と呼ばれる理由は、龍馬の足枷が取れて自由に飛びまわれるようになったことに由来しています。

龍馬 志の像
《静岡県下田市外ケ岡・まどが浜海浜公園》
(Photo by ISSA)

黒船祭について
冒頭でご紹介した黒船祭は、毎年5月に開催される下田市最大のお祭りです。

以前、横須賀で勤務していた頃、米海軍から艦艇を出したり、多くの将兵が下田に出向くなど、彼らにとっても一大イベントになっていました。

クルーズ船「サスケハナ」
《静岡県下田市外ケ岡》
(Photo by ISSA)

今回、私は祭りの時期を外して来訪しましたが、祭りの期間中は、街全体が開港時の情緒に包まれ、

日米親善を祝う記念式典、米海軍や海上自衛隊によるパレードやコンサート、開国をテーマにした再現劇、海上花火大会などが催され、多くの見物客で賑わいます。

伊豆急下田駅~マイマイ通り
《静岡県下田市》
(Photo by ISSA)

1934年に始まり、今回で87回を数えるなど、今もなお「日米友好の象徴的イベント」として非常に重要な役割を果たしています。

タウンゼント・ハリスの功績
日本は、ペリーという「切り込み隊長」によって開国という体制転換に迫られ、

2番手として現れたハリスという「深謀遠慮の忍人」によって、欧米列強によるアジア植民地化が当たり前の当時としては、比較的にスムーズに国際デビューを果たすことが出来ました。

開国記念碑
《静岡県下田市・開国記念広場》
(Photo by ISSA)

後年、近代日本の経済発展に尽力した渋沢栄一は、自著『日本に於けるタウンセンド・ハリス君の事蹟』の中で、次のことを取り上げ、ハリスの行動は「(一国の)外交官としての義務を超えたものであった」と高く評価しています。

① アヘンの恐ろしさを周知
② 列強の搾取から守るための方策を助言
 (米国との国交樹立、海軍の保有等)
③ 対等な外交相手として日本に敬意
 (教育・文化の水準や価値を認知)

また、渋沢栄一は、冒頭でご紹介した玉泉寺への記念碑建立にも尽力。

除幕式のスピーチでは、ハリスが来日直後の日記に記した「(開国は、)日本の真の幸福になるだろうか?」という苦悩に満ちた自問を引用し、

「日本が封建的な専制政治から脱し、立憲国家として歩み出せたのは、ハリスの導きがあったから」であり、「資源の乏しい日本が、これほどまでに産業や貿易を盛んにし、今日の隆盛を築けたのも、ハリスのおかげ」であるとして、その功績を讃えました。

タウンゼント・ハリスの言葉

こうした言葉から、ハリスもまた、

ドイツ人医師シーボルトや、

スコットランドの貿易商グラバー、

リトアニアの青年カイリース、

ギリシア出身のラフカディオ・ハーンなど、

「日本の心髄」を見抜いて、その行く末を案じた外国人の一人だったと思います。

展望台から下田の海を望む
《静岡県下田市中・寝姿山展望台》
(Photo by ISSA)

おわりに
下田には、ある日、突如としてペリーが率いる黒船艦隊が現れ、3か月ほど滞在し、青い目をした見慣れぬ外国人が街中を闊歩するようになった訳ですから、

当時、下田に暮らしていた人々にとっては、まるで「宇宙人の来訪」のような衝撃的な出来事だったことでしょう。

一方、米側も、マルコ・ポーロの東方見聞録でしか見たことがない神秘的な「黄金の国・ジパング」に初めて足を踏み入れ、喜望峰以東で最も優れた民族に衝撃を受けた人も少なくなかったと思います。

そして、ペリー来航からおよそ半世紀後、日本から米国にサクラが贈られ、その返礼として、ハナミズキが米国から日本に贈られ(注5) ました。

ハナミズキは、日米友好の象徴とされている
《静岡県下田市・開国記念広場》
(Photo by ISSA)

(注5) 1912年、東京市長だった尾崎行雄氏が、米国のワシントンD.C.に約3,000本のサクラを贈り、1915年、返礼として、米国から日本に約40本のハナミズキの苗木が贈られた(元々、ハナミズキは日本古来の植物ではなく、北米原産の外来種である)

君と好きな人が百年続きますように
一青窈さんの名曲「ハナミズキ」は、9.11 同時多発テロをきっかけとして創られた曲でもあり、世界平和や日米友好の願いが込められています。

こうした日米の出逢いの地で、その原点を確認するのが、「黒船祭」(Black Ship Festival)の意義なのかもしれませんね。

いつも、ありがとうございます🍀