ふるさと再発見 〜 小泉八雲
私が生まれ育った熊本には「鶴屋」という老舗のデパートがあるのですが、

《熊本市中央区手取本町》
(Photo by ISSA)
その脇に、ひっそりと佇む小泉八雲の旧居があります。

《熊本市中央区安政町》
(Photo by ISSA)
子供の頃、剣道が終わって祖父の病院に向かうとき、この場所を通ることがあったのですが、子供心に「変わった名前だなあ、何した人だろう?」と思っていました。
最近は、NHKの朝ドラ「ばけばけ」で再び注目を集めるようになり、
熊本を訪れるファンも増えているとのことです。
という訳で、今回の「ふるさと再発見」は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の熊本での暮らしにスポットを当ててご紹介したいと思います。
生い立ち
ハーンは、1850年にギリシア西部のレフカダ島で生まれ、

少年期から、両親に見捨てられる形で大叔母に育てられました。
ハーンは、英仏でカトリックの教育を受けたとき、「キリスト教だけが唯一絶対の真理である」という排他的な教えに疑問を抱くようになりました。
1866年、英国のカトリック系寄宿学校で、当時、流行っていたジャイアント・ストライドで遊んでいた際に、

(Photo by ISSA)
切れたロープの先端が左目を直撃し、失明してしまいます。
19歳で単身渡米
1869年、大叔母が破産したことにより、内向的で気難しい性格のハーンは親族から疎ましく思われ、単身で米国に移り住むことになりました。
極貧生活を経験した後、1872年にエンクワイアラー紙のジャーナリストとして文才が認められ、
その後、20年に及んだ米国での生活で、ハーンは文学的ジャーナリストとしての実績を着実に積み上げていきました。
日本に渡航する
ハーンが日本へ向かうきっかけとなったのは、1884年からニューオーリンズで開催された万博でした。
ハーンは、この万博で見た日本の伝統文化に、西洋が失いつつある繊細な美意識や神秘的な精神性を感じ取り、「日本こそ探し求めていた桃源郷ではないか」と直感したそうです。
英訳された「古事記」(注1) を、1889年に読んだことが、日本へ向かう決定打となりました。
(注1) 英国の日本学者バジル・ホール・チェンバレンが1882年に出版した、初の英訳本「The Kojiki, or Records of Ancient Matters」
こうして、ハーンは、1890年4月に日本の土を踏むことになったのです。ハーン、40歳のときでした。

(Photo by ISSA)
松江での暮らし
西洋に染まっていない日本を探し求めていたハーンは、チェンバレンから「山陰には、まだ日本の伝統が残っている」との助言を受け、

左下:八頭五人舞 右下:割子そば☆
《島根県松江市/出雲市》
(Photo by ISSA)
島根県松江の尋常中学校に、英語教師として赴任します。
その風景に一目惚れし、人々の純朴な信仰心に触れたハーンは、「ついに故郷を見つけた」と確信しました。
この年の11月、ハーンは念願の出雲大社を参拝し、

左下:稲佐の浜と弁天島☆☆
《島根県出雲市大社町》
(Photo by ISSA)
後年、松江や出雲での体験などを綴った日本での処女作「知られぬ日本の面影」(1894年出版) は、世界に日本の神秘を紹介する一冊となりました。

《熊本市中央区黒髪・熊本大学五高記念館》
(Photo by ISSA)
しかし、ハーンは、言葉の壁や慣れない生活習慣に苦労していました。
そんなハーンの身の回りを手伝うため、1891年1月にやってきたのが、松江の士族の娘だった小泉セツ(22歳)でした。

《熊本市中央区古京町・熊本博物館》
(Photo by ISSA)
出逢ってすぐ、2月にはセツと結婚。
ただ、ハーンは日本語を完璧には話せず、セツも英語ができなかったので、会話は二人だけの片言日本語(注2) で行われました。
(注2) 「Lafcadio Hearn」という綴りは「ラフカジヲ・ヘルン」と読まれることもあり、周囲から「ヘルン先生」と呼ばれ、ハーンの片言日本語は「ヘルン言葉」などと呼ばれた
セツは、夜ごと日本の古い物語をハーンに読み聞かせ、ハーンは彼女が語る情緒的な話に聞き入り、
やがて、そのイメージを英文学へと昇華させ、後年(1904年)、名作「KWAIDAN(怪談)」を生むことになったのです。

《熊本市中央区安政町・小泉八雲旧居》
(Photo by ISSA)
熊本での暮らし
しかし、松江の冬の寒さは、ハーンにとり想像以上に厳しく、体調を崩しがちだったので、松江での暮らしは僅か1年で畳むことになります。
チェンバレンに「もっと暖かい所に行きたい」と相談したところ、当時創設されたばかりの第五高等学校(現・熊本大学)の職を紹介されました。

中核を担った旧制高等学校☆
(Created by ISSA)
五高での月給は200円(松江時代の約2倍、当時のエリート官僚を凌ぐ高給)だったこともあり、セツやその家族を養うためにも、ハーンは熊本への移住を決意します。
【参考】赤レンガ造りの意義
少し話は逸れますが、ハーンが通った五高の校舎(1889年建築)は、旧・海軍兵学校(現・海上自衛隊 幹部候補生学校、1893年建築)を彷彿とさせる赤レンガ造りの校舎です。

《熊本市中央区黒髪》
(Photo by ISSA)
それもそのはず、両校を設計したのは、日本の近代建築の父と呼ばれるジョサイア・コンドルから「英国風・赤レンガ様式」を学んだ日本人建築家たちで、レンガの積み方やネオ・ルネサンス様式が共通しているからです。
当時、こうした赤レンガ造りの校舎を持つ学校は「国家のエリート養成機関の象徴」とされていました。
大きな違いは、海軍兵学校には英国産のレンガが使われたことに対し、五高のレンガは熊本監獄(現・熊本刑務所)の受刑者によって造られたことでしょうか。

《熊本市中央区黒髪・熊本大学五高記念館》
(Photo by ISSA)
いずれにせよ、100年以上の時を経てなお、両者が健在であることは、明治期の建造物の堅牢さを物語っているように思います。
熊本での暮らし
こうしてハーンは、1891年11月から約3年間、熊本で過ごすこととなり、冒頭で紹介した手取本町に家を構え、

《熊本市中央区安政町》
(Photo by ISSA)
五高では、生徒らに英語と英文学を教えるようになりましたが、

《熊本市中央区黒髪・熊本大学五高記念館》
(Photo by ISSA)
熊本の市街地は、西南戦争(1877年)で大半を失い、古い日本の面影を残す寺院や街並みが少なかったので、ハーンは失望の色を隠せませんでした。

《熊本市中央区安政町》
(Photo by ISSA)
また、熊本は1871年から鎮台(1888年以降、第6師団)が置かれた軍都でもあったので、当初、ハーンの目には、熊本は日本らしさが失われた面白みのない街(注3) と映っていたようです。
(注3) この頃、チェンバレンに宛てた手紙では、熊本の第一印象について、「松江に比べると、まるで日本の魂が失われた場所であり、美的な喜びが何一つない」などと酷評していた
なおのこと、自宅では和装や畳の間、

《熊本市中央区安政町》
(Photo by ISSA)
日本庭園を好み、

《熊本市中央区安政町・小泉八雲旧居》
(Photo by ISSA)
特注して作らせたこちらの神棚には、毎朝欠かさず礼拝して、和装のままで五高に向かっていたそうです。

行っていたという神棚☆
《熊本市中央区安政町・小泉八雲旧居》
(Photo by ISSA)
この家は繁華街に近かったので、1892年11月、やがて街の喧騒から逃れるように、少し北のはずれにあった坪井の方に移り住みました。

《熊本県熊本市中央区坪井》
(Photo by ISSA)
ハーンゆかりの地
ハーンは、日本の伝統文化を探し求めて、よく郊外を散策しました。
五高の裏手の小高い丘の上にある、西南戦争で亡くなった人々が眠る小峯墓地には、ハーンが足しげく通っていた鼻かけ地蔵があります。

《熊本市中央区黒髪・小峯墓地》
(Photo by ISSA)
ハーンは、日本人の微笑み(後述)の象徴とも言えるこの表情に安らぎを覚え、鼻が欠けて傷ついた地蔵に、失明し不遇だった自身の人生を投影し、不完全であるが故の慈悲深さや美しさを見出していたのでしょう。
このほか、加藤清正公の菩提寺である本妙寺や、

市街地を結ぶ長い石段☆☆☆
《熊本市西区花園4丁目》
(Photo by ISSA)
阿蘇の伏流水を湛える水前寺公園、

景勝地を模して造られた水前寺公園☆
《熊本市中央区水前寺公園》
(Photo by ISSA)
学生向けの教材や、自身の創作活動に必要な書物で溢れていた長崎次郎書店、

文豪も訪れた長崎次郎書店
《熊本市中央区新町》
(Photo by ISSA)
タヌキ伝説が残る船場(洗馬)橋周辺を訪れたり、

《熊本市中央区新町》
(Photo by ISSA)
手まり唄「あんたがたどこさ」の不思議なリズムや、

《熊本市中央区新町》
(Photo by ISSA)
からし蓮根(注4) という奇妙な食べ物に好奇心を抱くなど、
次第に、松江にはなかった熊本の魅力にも気づかされていきました。
(注4) からし蓮根は、江戸時代に森平五郎が藩主・細川忠利公に献上したのが始まりとされ、1870年代から、平五郎の直系の子孫である平次郎が、この地で一般向けに販売を開始したとされる

《熊本市中央区新町》
(Photo by ISSA)
また、1893年の夏には長崎旅行に出かけ、その帰路で泊まった三角にある浦島屋では、
宿の名から浦島太郎伝説を想起し、「夢のように静かで、夢のように美しい場所」と描写しています。

《熊本県宇城市三角町三角浦》
(Photo by ISSA)
長男・一雄の誕生
この年の11月、長男・一雄(注5) が誕生。ハーンにとり、大きな人生の転換点となりました。
(注5) ハーンは一雄を溺愛し、仕事から帰るとすぐに「カジヲ、カジヲ」と呼び寄せては、膝に乗せて物語を語って聞かせたという

右:四人の子供たち(1924年撮影)
《熊本市中央区安政町・小泉八雲旧居》
(Photo by ISSA)
当時は、外国人のままでは子供に財産を残したり、日本での法的地位を安定させることが難しかったため、
一雄の誕生を機に、ハーンは日本への帰化を真剣に考えるようになりました。
神戸時代を経て、帝大へ
1894年、ハーンは神戸クロニクル社(注6) に転職するため熊本を去り、
(注6) 1891年に神戸で創刊した英字新聞社で、明治・大正期の有力な英字紙として知られた(後に「ジャパン・タイムズ」と合併)

《熊本市中央区黒髪・熊大キャンパス内》
(Photo by ISSA)
1895年、ハーンは遂に日本に帰化して「小泉八雲」(注7) となりました。
(注7) 「小泉」はセツの旧姓、「八雲」は旧国名である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」にちなむ
1896年9月から帝国大学の講師として英文学を講じ、

《東京都新宿区大久保1丁目》
(Photo by ISSA)
1903年にはその職を夏目漱石に譲って、早稲田大学で教鞭を執り始めますが、翌年の9月、心臓発作のため、54歳のという若さで生涯を閉じました。
その亡骸は、現在、東京池袋の雑司ケ谷霊園に眠っています。

《東京都豊島区南池袋・雑司ケ谷霊園》
(Photo by ISSA)
「小泉八雲」の名で、愛妻セツとともに日本に骨をうずめたラフカディオ・ハーン。
彼ほど、「日本の心髄」を深く理解した外国人はいないでしょう。そのことは、彼が日本に来てから出版した13冊の著書(注8) が物語っています。
(注8) 「KWAIDAN(怪談)」の冒頭を飾る「耳なし芳一」などは有名で、壇ノ浦で平家一門が滅亡した悲劇に触れ、安徳天皇を弔うために建てられた阿弥陀寺(現・赤間神宮)の境内にある芳一堂や七盛塚に言及し、そこには今も平家の怨霊が彷徨っていると語っている

宝物殿の裏手にある芳一堂では、確かに
言い知れぬ不気味な雰囲気が漂っていた
《山口県下関市阿弥陀寺町》
(Photo by ISSA)
熊本がハーンに与えたもの
ハーンが松江で見たものが「理想の日本の姿」だったとすれば、熊本で見たのは「現実の日本の姿」でした。
ハーンは、当初、熊本で見た西洋化する日本の姿に無念さを感じながらも、規律正しく感情を表に出さない(肥後もっこす)気風の五高の学生や市民との触れ合いの中で、

《熊本市中央区黒髪・熊大キャンパス内》
(Photo by ISSA)
次第に西洋の物質主義とは対極にある、質素で忍耐力のある日本人の力強さというものを見出していったのです。
松江と熊本で、日本の理想と現実をバランスよく見ることが出来たからこそ、後年、より真実味のある日本文化の深淵を世界に伝えることができたのかもしれません。
熊本博物館の言葉を借りるならば、熊本は、まさに「八雲が父となり、一流の作家へとばけていく場所」だったのでしょう。

おわりに
ハーンの少年期は、両親に見捨てられ、カトリックの排他的な教えに疑問を感じ、左目の視力を失い、気難しいと親族に疎まれ、送り出された米国で極貧生活を味わった壮絶なる半生でした。
どこにいても「よそ者」であるという感覚や、「排他性」に対する嫌悪感が、ハーンの心に付きまといますが、かえってそのことが、彼に特定の文化に縛られない自由で独自の視点を与えるとともに、
少年時代の事故で左目の視力を失ったことで、彼を内面世界へと向かわせ、物理的な美しさよりも、精神的な美しさに価値を見出す感性が、より一層、研ぎ澄まされたのかもしれません。

《熊本市中央区安政町・小泉八雲旧居》
(Photo by ISSA)
そして、人生最良の師であり伴侶であるセツと出逢い、4人の子供たちに恵まれ、決して見捨てられたり、疎まれたりすることのない、心のふるさとを見つけることができたのです。
そう考えると、一見「不幸の連続」だった彼の半生も、実は、桃源郷に至る必然的なプロセスだったと言えるのではないでしょうか。
そして、転勤族という私自身の経験からも、かえって「よそ者」の方がその国、その土地の素晴らしさを発見しやすいというのがあるように思います。
例えば、日本をこよなく愛し、死後は「平和の国」(日本)へ旅立つことを夢見たドイツ人医師シーボルトや、
「高潔」と「清廉」を兼ね備えた日本人の人間性に魅了されたスコットランドの貿易商グラバー、
日本に憧れ、「坂の上の雲」をみたリトアニアの青年カイリース、
そして、今回、ご紹介したラフカディオ・ハーン。
彼らは、いずれも心眼を通して「日本の心髄」を見抜いていたからこそ、その美しさ、その素晴らしさを日本に、世界に伝えることが出来たのだと思います。

《東京都新宿区大久保》
(Photo by ISSA)
最後に、「松江で受けた感動を、熊本で確信に変えた」と言われるハーンの言葉をご紹介して、本稿を締めくくりたいと思います。
「日本人の微笑み」というものは、「自身が抱えている艱難辛苦という重荷を、他人に背負わせてはならない」という、一種の利他心の表れであり、社会的な義務として培われた、いわば「抑制の美学」である
(ISSAによる要約)

見出したという鼻かけ地蔵
《熊本市中央区黒髪・小峯墓地》
(Photo by ISSA)
なるほど、私たちが平素から何気なく他者に投げかけてる微笑みは、確かにそのような価値のある行いなのかもしれませんね😊
いつも、ありがとうございます🍀
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過去の熊本に関する記事はこちら👇
