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ふるさと再発見 ~ 鞠智城と健軍神社

今回の「ふるさと再発見」は、私の故郷・熊本にある国史跡の「鞠智城」(きくちじょう)と、「健軍神社」(けんぐんじんじゃ)についてのご紹介となります。

本稿でご紹介する地物の位置関係
(Created by ISSA)

鞠智城の概要
鞠智城は、「城」と言っても、私たちが一般的に想像するような、日本人同士が争い合った戦国時代のお城のイメージではなく、

それより遥か昔の7世紀後半、東アジア情勢が緊迫する中で、大和朝廷が周辺国からの侵略に備えるために築いた山城(注1) のことです。

八角形建物前を通る役人
《歴史公園鞠智城・温故創生館》
(Photo by ISSA)

(注1) この時代には、未だ堅牢な建物を城とする概念はなく、丘の上の城郭自体が「城」である

この地域には、既に5世紀前半までに大和朝廷の前身であるヤマト王権の力が及んでおり、

鞠智城は、中大兄皇子(後の第38代・天智天皇)の命で築城されました。

周囲3.5kmを土塁などで守られた、東京ドーム12個分の広大な城郭には、

鞠智城跡の全体像
《歴史公園鞠智城・温故創生館》
(Photo by ISSA)

鼓楼(ころう)と呼ばれる八角形の建物(注2) や、

八角形建物と内部・土台構造
《歴史公園鞠智城・温故創生館》
(Photo by ISSA)

(注2) 城郭内の八角形の建物は、日本国内には他に例がなく、見張り台として機能したほか、道教における「八卦」の宇宙観を表したものと考えられている

米倉(高床式の食糧倉庫)、兵舎(防人の住まい)、板倉(武器庫)のほか、

1994年から復元された建造物
《歴史公園鞠智城》
(Photo by ISSA)

70棟を超える建築物や貯水池等が整備され、ピーク時には周辺地域も含めて17,000人が暮らしていたと推定され、

出土品の調査結果や各種文献(注3) から、鞠智城は10世紀中頃まで、およそ300年ほど存続していたようです。

(注3) 各種文献にみられる記述
「大宰府をして、大野、基肄、鞠智の三城を繕治せしむ」(大宰府に、大野、基肄、鞠智の、3つの城を修理させた)

「肥後国菊池城院兵庫の鼓が自ら鳴る、同城の不動倉十一宇焼ける」(肥後国の菊池城院の兵庫の鼓が勝手に鳴り、米倉11棟が火災にあつた)

「肥後国菊池郡城院の兵庫の戸が自ら鳴る」(肥後国の菊池郡城院の兵庫の戸が勝手に鳴った)

続日本紀 (698年)
文徳実録 (879年)
三代実録 (901年)

当時の東アジア情勢
7世紀の東アジアでは、中国のや、朝鮮の高句麗・百済・新羅の三国が激しい勢力争いを繰り広げていました。

7世紀の東アジアの国々
《歴史公園鞠智城・兵舎復元建物》
(Photo by ISSA)

大和朝廷は、4世紀後半から百済との友好関係を維持していましたが、その百済は、660年に唐と結託した新羅によって滅ぼされます。

救援要請を受けた大和朝廷は、百済方面に水軍を派遣しましたが、663年の白村江の戦いで大敗し、撤退を余儀なくされました。

その後、日本国内にかくまった百済の亡命貴族に対する追撃や、日本そのものへの侵攻を恐れた大和朝廷は、福岡の大宰府を中心に西日本各地に城を築きました。

その中で、最も南方に位置したのがこの鞠智城でした。

古代山城の分布図
《歴史公園鞠智城・兵舎復元建物》
(Photo by ISSA)

前方にある大野城(福岡県大野城市)や基肄城(佐賀県基山町)に、武器や食糧を補給する兵站基地の役割も担っていたと考えられています。

676年に高句麗が滅んで新羅が朝鮮半島を統一しましたが、大和朝廷は、その後も新羅とは相容れず、10世紀頃まで古代山城群の警戒を解くことは出来ませんでした。

副次的な役割も
ただ、670年には新羅は唐との関係が悪化して戦争状態となり、侵攻を受ける可能性は低下したのですが、

それにも関わらず、698年に城が改修されていることや、3つの門が城郭の南側に作られていたこと等から、

鞠智城は、単に新羅への警戒のみならず、長年、大和朝廷に従わなかった南九州の「隼人」に睨みを利かせる役割も担っていたと考えられています。

阿蘇の神々との関わり
このように、大和朝廷は、新羅などの外国勢力や、隼人などの国内勢力と対峙する上で、肥後国を軍事上の要衝とみていたのですが、

他方で、肥後国にはこれとは別に、ある期待を寄せていました。

それは、肥後国に所在する大火山・阿蘇を創造した神々の力を借りることでした。

(1) 近くに健磐龍命を鎮座させる
鞠智城の築城に先立つこと558年、第29代・欽明天皇の命で、肥後国の中心部に健軍神社(注4) が創建され、

肥後国で最も古い神社のひとつである健軍神社
(Photo by ISSA)

初代・神武天皇の孫で、阿蘇の創造主である健磐龍命(たけいわたつのみこと)を鎮座させました。

(注4) 欽明天皇19年(558年)、阿蘇神社の大宮司の神託があり、阿蘇大神の指示で「異賊(特に新羅)を鎮退するために西に向けて社を建て、『健軍』と号せよ」と告げられた

健軍神社の社伝より
一直線に西の方角に伸びる健軍神社参道
(Photo by ISSA)

背景には、527年に大和朝廷に従わず新羅との親交を深めた北部九州の筑紫国で磐井の乱が起き、

532年以降、大和朝廷と親交があった朝鮮半島南岸の加羅諸国(注5) の一部が新羅に侵攻されるなど、

新羅と、これに結託しようとする地方豪族への警戒感の高まりがありました。

(注5) 3世紀後半〜6世紀に朝鮮半島南部に存在した小国群。一時期、「任那日本府」が置かれる等、大和朝廷が加羅諸国において実権を握っていた可能性が指摘されている

健軍神社の楼門
(Photo by ISSA)

余談ですが、健軍神社と鞠智城は、阿蘇神社の神紋である「鷹の羽紋」を通じてつながりがあります。

健軍神社の神紋は、そのルーツである阿蘇神社と同じ「鷹の羽紋」を神紋としていますが、

鞠智城の一帯は、平安時代に「菊池」と呼ばれるようになり、その後、この地の有力な武将として活躍した菊池氏が、同じく「鷹の羽紋」を家紋としていた(注6) のです。

左:阿蘇神社の神紋
中:健軍神社の神紋
右:菊池武光騎馬像
(Photo by ISSA)

(注6) 【参考】江戸末期に明治維新の原動力となった西郷隆盛は、この菊池一族の末裔であり、同じく「鷹の羽紋」を家紋としていた

(2) 石棺への馬門石の採用
同じ頃、健軍神社の南、阿蘇山の南西に位置する宇土半島では、この地で産出される馬門石(注7) が、海を越えて近畿地方に運ばれていました。

(注7) 馬門石(まかどいし)は、阿蘇が8~9万年前に大噴火した時、火砕流が冷えて固まって出来た、宇土市網津でのみ採取できる阿蘇溶結凝灰岩で、薄紅色の美しい色から「阿蘇ピンク石」とも呼ばれている

馬門石は、第26代・継体天皇(531年没)の今城塚古墳や、第33代・推古天皇(628年没)の植山古墳で、石棺に使われていたことが確認されています。

薄紅色の馬門石で出来た石棺
《道の駅 宇土マリーナ おこしき館》
(Photo by ISSA)

大王のひつぎ実験航海プロジェクト
数トンもの大王の棺を、遥々、近畿まで運搬するということは、当時の人々にとって並大抵のものではなかったことでしょう。

このことを確かめるため、2005年に社団法人熊本県青年塾の主催で「大王のひつぎ実験航海プロジェクト」という実証航海が行われました。

宇土市デジタルミュージアム

復元された古代船「海王」は、全長11.9m、最大幅2.05mの木造船で、推定重量は6トンになります。

古代船「海王」
《道の駅 宇土マリーナ おこしき館》
(Photo by ISSA)

「海王」のモデルとなった船は、宮崎県の西都原古墳群から出土した船型埴輪で、

船型埴輪
《宮崎県立西都原考古博物館》
(Photo by ISSA)

宮崎神宮に展示してある、同じ船型埴輪をモデルとして復元された古代船「おきよ丸」にも似ていると思いました。

「おきよ丸」のレプリカ
《宮崎神宮》
(Photo by ISSA)

「海王」は、石棺を載せた丸太船を曳航する形で、2005年7月24日に熊本県宇土市から出港します。

古代船には15人前後の屈強な漕ぎ手が乗り込み、海岸の地形を見ながら航海する原始的な方法で目的地を目指し、同年8月26日に大阪南港に到着します。

実証航海の様子 - 読売新聞社撮影
《道の駅 宇土マリーナ おこしき館》
(Photo by ISSA)

私 ISSA も、若い頃にこちらの学校で短艇操法を学びましたが、

長さ4m、重さ10kgもある櫂(オール)で、水をしっかり捉えて推力を発生し続けるには、

腕力で漕ぐのではなく、櫂にぶら下がるように体重をかけて、後ろに倒れ込むように漕がないといけないので、漕走しているうちに、間違いなく尻の皮がむけます😅

長さ4m、重さ10kgにも及ぶ櫂(オール)
《道の駅 宇土マリーナ おこしき館》
(Photo by ISSA)

こうした自らの経験からも、これは大変な航海であったことが容易に想像できました。

馬門石が持つ意味とは
先述のとおり、この馬門石が採れる熊本県宇土市網津は、阿蘇山からおよそ50kmほど離れているので、当時の人々が、馬門石が阿蘇山由来の石だと認識できたかは定かではありません。

しかし、「穢れ」の思想から死者を隠す価値観を有していた大和朝廷が、単に艶やかな薄紅色という外見上の理由だけで、馬門石を大王の石棺に採用したとは考えにくく、

古代船「海王」
《道の駅 宇土マリーナ おこしき館》
(Photo by ISSA)

やはり、阿蘇の神々がお住まいになる肥後国で出土した神聖なる石だからこそ、その神力に与りたい一心で、馬門石を近畿まで運ばせていたのでしょう。

薄紅色の石が海を渡る(=人目を惹く)ことで、天皇の権威を高めるねらいもあったのかもしれません。

肥後国(熊本)の果たした役割
まとめますと、当時の大和朝廷は、肥後国(熊本)のことを、

📌 大陸からの侵略者の抑止
📌 地方豪族に対する警戒
📌 阿蘇の神々による御加護

という3つの観点から、地政学的にも重要な地域とみており、肥後国は、物心両面から日本の国難において大きな役割を果たしていたのです。

健軍神社の参道
(Photo by ISSA)

百済から伝わったもの
かつて、日本の隣にあり、日本と親しくしていた百済というは国は滅亡し、歴史の表舞台から消えてしまいましたが、

このとき、百済の王族・貴族を含む数千人が日本に亡命し、その後、摂津、近江、甲斐、その他各地に移住して日本に帰化していきました。

百済の亡命貴族が持ち込んだ装飾品の数々
《歴史公園鞠智城・温故創生館》
(Photo by ISSA)
左:百済の亡命貴族が持ち込んだ菩薩立像
右:百済の亡命貴族を模した温故創生之碑
(Photo by ISSA)

4世紀後半からおよそ300年続いた百済との交流と、こうした命からがら日本に逃れて日本に帰化した一部の人々が、

仏教、寺院、仏像、漢字、儒教、製鉄、機織、馬術等の知識・技術の伝承の一端を担い、その後の日本文化の形成に大きな影響を与えました。

瓦もその一つで、鞠智城で出土した「軒丸瓦」(注7) が、彼らがこの世界に生きた証のように思えました。

(注7) 主に日本の伝統的な屋根の軒先に用いられる丸瓦のことで、鞠智城の鼓楼の屋根瓦に施されていたのは単弁八葉の「蓮華紋」である

八角形建物に施された軒丸瓦
《歴史公園鞠智城・温故創生館》
(Photo by ISSA)

この時代の日本史が好きな理由
私はどうも、律令国家形成期の日本史が好きなようです。

その理由は、私 ISSA が note のテーマとしている「日本の心髄」が形作られた、まさにその時代(注9) だからなのだと思います。

(注9) 日本の心髄が形成された時代とは

第33代・推古天皇は、聖徳太子を摂政とし、604年に「和を以って貴しとなす」から始まる「十七条の憲法」を制定し、初めて法に基づいた律令国家を創生する傍ら、

6世紀までに伝来し、当時は蕃神(異国の神)であった仏の教えを積極的に取り入れ、その後の神仏習合や日本人の宗教的価値観の下地を作った。
 
また、607年には遣隋使を通じて隋の皇帝・煬帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」と記した国書を渡し、冊封から脱却するとともに、
 
翌608年の国書では「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」と記し、初めて「天皇」という言葉を使った。
 
更に、第36代・孝徳天皇は、645年に日本初の元号(大化元年)を定め、第40代・天武天皇は、日本創世記である古事記・日本書紀を編纂させ、第41代・持統天皇は、中国の都を模範とした藤原宮を完成させ、
 
第42代・文武天皇は、702年の遣唐使を通じて、中国の王朝に「倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す」と伝え、国名を「日本」に定めた。

日本神話ゆかりの地を訪ねて(後編)」ISSA
幣立神宮
(Photo by ISSA)

この一文から重要なキーワードを列挙しますと、
● 和の精神
● 神仏習合
● 宗教的価値観
● 「天皇」という言葉
● 「日本」という国名
● 日本神話
 (古事記・日本書紀)
● 大陸からの自立
 (冊封脱却、法の制定、都の創設)
等、日本のコアな部分(心髄)は、すべてこの僅か100年の間に凝縮されていることが一目瞭然なのです。

蹴鞠に興じる鞠智城の役人たち
《歴史公園鞠智城・温故創生館》
(Photo by ISSA)

おわりに
この時代、外国勢力による侵略の脅威が高まる中、地方豪族が乱立する日本が、天皇を中心とするひとつの国家にまとまろうとしていた様は、どこか幕末の日本と似ていると思いました。

そして、こうした律令国家形成期や、明治維新期、大東亜戦争期、そして東日本大震災など、

私たち日本人は、本来、国難のときこそ天皇の下で心を一つにしてそれを乗り越えてきた誇り高き民族なのであり、

天皇の下で人々が心を一つにしたときこそ、日本人の真心が最も美しく輝いたときでもあったように思います。

2016年の熊本地震では、両陛下(当時)が被災地・熊本を見舞われました。

一人一人に膝をついて話をされるお姿に、7世紀以降の国難のときに、大和朝廷に対して大きな役割を果たした肥後国へのご恩返しという、両陛下の大御心を垣間見たような気がしました。

いつも、ありがとうございます🍀