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日本の心髄に぀いお語る第回

東日本倧震灜―――。私はあるオペレヌション・センタヌで被灜地の救助掻動を調敎する仕事に埓事しおいたした。
 
遅々ずしお進たない行方䞍明者の捜玢。日に日に疲匊しおいく珟堎。「芖察団ずか、できるだけ䜙蚈な人はよこすな」ず珟堎から叱責を受けるこずも。
 
そのような䞭、時の倩皇皇后䞡陛䞋・明仁さたず矎智子さたは、震灜発生盎埌から「できるだけ早く芋舞いたい」ずのお気持ちを瀺され、月末から月にかけお週連続で被灜者を芋舞われたした。
 
圓時、倚くの人がそうであったように、私もたた䞡陛䞋の真心ず人間性に魅了された䞀人でした。
 
被灜者ひずりひずりに寄り添うようにお芋舞いされ、「生きおいおくれおありがずう」などず語られた優しいお蚀葉や、被害を受けた街や枯に向かっお深々ず銖を垂れるお姿に、ずめどない感情が溢れだし、こがれ萜ちる涙が止たりたせんでした。

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もちろん、オペレヌションの珟堎からも䞡陛䞋のご蚪問に察する反発の声は皆無でした。倩皇の存圚は、日垞では殆ど意識されるこずはなくおも、囜家の危機に際しおは、これほど囜民の心を束ねる力を持っおいるのかず、皆が改めお認識させられた瞬間でした。
 
他方、時の総理が被灜者を芋舞ったずきには「䜕しに来た」ず眵声を济びせられるこずも。政府も最善を尜くしたしたが、総理には気の毒ずしか蚀いようがありたせん。
 
こればかりは、誰にも䞡陛䞋の代わりは務たらないず思いたす。しかし、このような倩皇ず政府に察する囜民の心情的な反応の違いは䞀䜓䜕なのでしょうか。歎代倩皇ず囜民の関係から振り返っおみたいず思いたす。
 
 歎代倩皇に぀いお
() å›œé€ ã‚Šã«å¥”走した倧王
初代・神歊倩皇は、東埁により初めお王暩を暹立したしたが、その埌も「埓た぀ろわぬ者」は埌を絶たず平定ぞの努力は続きたす。
 
第10代・厇神すじん倩皇は、党囜平定のために北陞・東海・西海・䞹波の四地域に人の皇族将軍四道将軍を掟遣し、 ç¬¬12代・景行けいこう倩皇は、息子の日本歊尊に熊襲や蝊倷などの平定を行わせたした。
 
第15代・応神おうじん倩皇は、埌に八幡様ずなった倩皇(泚1) ã§ã™ã€‚母・神功じんぐう皇后は、応神倩皇をお腹に宿したたた朝鮮半島に出兵し、垰囜埌すぐに筑玫囜で出産したそうです。
 
(泚1) å¿œç¥žå€©çš‡ãŒå…«å¹¡æ§˜ãšã—お信仰されるようになった経緯は定かではないが、八幡神瀟は最も倚く7,000瀟にのがる総本宮は倧分の宇䜐神宮
 
このように、興隆期の倩皇にみられたのは、軍勢を率いお「こずむけ」の粟神をもっお説埗に努め、時には歊力で平定した力匷い倧王おおきみの姿でした。
 
() è–垝の誕生
倧和朝廷が最盛期を迎える頃、倧阪堺の癟舌鳥に䞖界最倧玚の陵墓が出珟したす党長486m・高さ35m、2019幎に䞖界遺産登録。
 
これは、かの有名な第16代・仁埳倩皇の前方埌円墳なのですが、仁埳倩皇に関しおは次のような逞話が残っおいたす。

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『あるずき、仁埳倩皇が高台から町の様子をみおみたら、人里から煙が䞊がっおいないこずに気づかれたした。民が貧しいから竈の煙も立ち昇らないのではないかず心配され「これより幎間、党おの課皎をやめお民の苊しみを和らげよ」ずお発しになりたした。
 
その埌、宮䞭では培底的に倹玄され、民の暮らしが豊かになった埌も課皎を再開したせんでした。芋かねた民は自ら率先しお宮殿を立お盎し、その枩情にご恩返しをしたした。』
 
仁埳倩皇は「聖垝」ず称えられ、埌䞖の歎代倩皇が暡範ずすべき倩皇像を瀺したのでした。
 
() å„ªã‚ŒãŸæˆŠç•¥å®¶ãšã—おの顔
第21代・雄略倩皇はワカタケル倧王(泚2) ãšã‚‚いわれ、勇猛か぀優れた戊略家ずしお頭角を珟した倩皇です。䞭囜の宋曞では倭王歊ず蚘され、朝鮮半島の支配暩を認めお貰うため䞭囜に䜿者を送りたした。
 
(泚2) 438幎䜜の熊本・江田船山叀墳出土の鉄刀銘には「獲加倚支鹵倧王わかたけるのおおきみ」ず蚘されおおり、珟存する日本最叀の挢字䜿甚䟋ずされおいる。䞀方、471幎䜜の埌玉・皲荷山叀墳出土の鉄剣銘にも同じ文字が蚘されおおり、圓時の朝廷の勢力が既に九州から関東にたで及んでいたこずが明らかになった

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479幎に宋が滅亡するず、雄略倩皇は、少なくずも倭奎囜王が埌挢の光歊垝に朝貢王朝に貢物を奉呈するこずした57幎から続いおきた冊封(泚3) ã‹ã‚‰è„±åŽã™ã‚‹ã“ずにしたした。
 
そもそも「倭」ずは「いやしい」ずいうこずを意味し、倭ず呌ばれお蔑たれ、埓属的な地䜍に甘んじるこずを良しずしなかったのでしょう。
 
(泚3) äž­å›œã®æ­Žä»£çŽ‹æœã¯ã€æœè²¢ã«ã‚ˆã‚ŠæœåŸ“ã®æ„ã‚’è¡šã™å›œãšã¯äž»åŸ“é–¢ä¿‚ã‚’çµã³ã€èŠ‹è¿”ã‚Šã«äž­å›œåŒã®å›œçŽ‹ã®ç§°å·ã‚’äžŽãˆãŠããŸã€‚ãã®èƒŒæ™¯ã«ã¯ã€äž­å›œã‹ã‚‰èŠ‹ãŠèŸºå¢ƒã«ã‚ã‚‹å›œã‚„æ°‘æ—ã¯å€·ç‹„ïŒˆã„ãŠãïŒ‰ã€ã€ãŸã‚Šã€Œæœªé–‹ã®é‡Žè›®äººã€ãšã¿ãªã™äž­è¯æ€æƒ³ãŒã‚ã£ãŸ
 
雄略倩皇が最埌に特䜿を掟遣しおから玄120幎もの間、日本は䞭囜ずの亀流がなかったのですが、589幎に隋が䞭囜を統䞀するず、初の女垝ずなった第33代・掚叀倩皇は聖埳倪子を摂政ずし、600幎に遣隋䜿の掟遣を開始したす。
 
604幎に十䞃条の憲法を制定しお法埋を基本にした埋什囜家の基瀎を造るず、今床は倖亀改革に乗り出したす。

「朝貢すれども冊封されず」
 
607幎、掚叀倩皇は小野効子を代衚ずする遣隋䜿を通じお、隋の皇垝であった煬垝ようだいに「日出づる凊の倩子、曞を日没する凊の倩子に臎す。恙぀぀が無きや」ず蚘した囜曞を枡し、冊封は求めたせんでした。
 
たた、608幎の遣隋䜿では「東の倩皇、敬みお西の皇垝に癜す」ず蚘し、初めお「倩皇」ずいう蚀葉を䜿いたした。

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645幎、第36代・孝埳倩皇は日本初の元号を定め、倧化元幎ずしたした日本独自の元号も、冊封からの脱华を意味。
 
たた、叀事蚘・日本曞玀の線纂を呜じた第40代・倩歊倩皇は、囜造りには新しい郜が必芁ず考え、䞭囜の郜を暡範ずした藀原京の造営に着手し、その皇后で第41代・持統倩皇が完成させたした。
 
第42代・文歊倩皇は、701幎に倧宝埋什を完成させ、702幎の遣唐䜿を通じお䞭囜に「倭囜自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めお日本ず為す」ず通告し、囜名を「日本」に定めたこずを正匏に通告したした。
 
このように、この時代の倩皇は䞭囜皇垝ず察等な立堎を明瀺し、自らを倩皇ず名乗り、法埋を備えた埋什囜家や新たな郜を完成させ、独自の元号を採甚し、囜名を日本ず宣蚀するなど、倧囜であった䞭囜を念頭に独立囜ずしおの基盀を敎え、冊封からの脱华を衚明(泚4) ã—お毅然ずした倖亀姿勢を貫いたこずは、この頃の倩皇が先芋の明ある優れた戊略家であった蚌ではないでしょうか。
 
(泚4) åŸŒå¹Žã€å®€ç”ºå¹•府の第代将軍・足利矩満が、明ずの貿易を独占するため、朝廷に無断で「日本囜王」を名乗り冊封された䟋倖を陀き、その埌も、日本が䞭囜の冊封䜓制に組み蟌たれるこずはなかった
 
() æ”¿æ²»ã‹ã‚‰é›¢ã‚Œåžç¥­çŽ‹ãž
結果、日本は䞭囜ずは䞀定の距離を保ち぀぀良いずころをしっかり孊び、710幎に第43代・元明倩皇が平城京、794幎に第50代・桓歊倩皇が平安京に遷郜し、独立囜・日本の銖郜機胜は益々匷化されおいきたした。
 
内政に぀いおは、掚叀倩皇が聖埳倪子を「摂政」(泚5) ã«æŽ¡ç”šã—お以降、摂政を皇族が務めおいたしたが、866幎に藀原良房が初めお皇族以倖の者ずしお摂政に任呜されたした。
 
その埌、884幎に藀原基経が「関癜」に就くず、藀原の者が摂政・関癜に就くようになったのです。
 
(泚5)  å€©çš‡ã«ä»£ã‚ã£ãŠæ”¿å‹™ã‚’執る理由がある堎合を「摂政」、理由がない堎合を「関癜」ずいう
 
平安埌期の1086幎、第72代・癜河䞊皇が院政(泚6) ã‚’始めるず、摂政・関癜は次第に実暩を握るこずが難しくなり、摂関政治は終焉を迎えたす。
 
院政を敷いた癜河䞊皇や鳥矜䞊皇は出家しお僧䟶のようなお姿をされ、叞祭王ずしおの色合いを匷めおいきたした。
 
(泚6) ã€Œé™¢ã€ãšã¯ã€å€©çš‡ã®äœã‚’譲った埌の䞊皇のこずで、䞊皇が政治の実暩を握っおいるのが院政

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ただ、院政も長くは続きたせん。1192幎に源頌朝は埁倷倧将軍倩皇に任呜された軍事指揮官になるず、幕府が実暩を振るうようになり、再び倩皇は政治から遠ざかるこずになりたしたこれ以降、江戞末期の倧政奉還たで、玄700幎にわたり政治の実暩は歊士が持぀こずになった。
 
() æ”¿æ²»ãƒ»è»äº‹ãƒ»å®—教の頂点ぞ
時代は䞋っお19䞖玀、16歳の若さで即䜍した第122代・明治倩皇は、䞀転しお政治・軍事・宗教の頂点に祭り䞊げられた倩皇でした。
 
1867幎10月、埳川慶喜が倧政奉還し、翌幎月に江戞城を無血開城するず、明治倩皇は江戞城珟圚の皇居に遷郜したした。倩皇の正統性を民衆にアピヌルする必芁もあり、各地を銬車や銬で行幞・巡幞するなど、䞀般垂民が倩皇の顔を芋るこずができるようになりたした。
 
倧日本垝囜憲法は英囜などに倣っお立憲君䞻の立堎をずり、第条で「倧日本垝囜ハ䞇䞖䞀系の倩皇之ヲ統治シラス」ず謳われ(泚7) ã€å€©çš‡ãŒå›œå®¶ã®äž»æš©è€…ずされたした。
 
ただし、「シラス」ずは力で支配するこずではなく、「倩皇が囜ず民を広く知り、圚るべき姿を倩皇自らが瀺すこずで、自然ず囜が治たる」ずいう考え方であり、実態ずしお政治的に絶倧な暩力を持っおいる蚳ではありたせんでした。
 
(泚7) äº•䞊毅の草案を䌊藀博文が「統治」ず衚蚘したもので、倩皇による統治を意図したものではなかった
 
たた、倩皇は日本軍の倧元垥総叞什官ずされたした。十六葉八重衚菊、俗にいう菊の埡王の䞀般の䜿甚を制限しお皇族の王章ず芏定し、軍艊の艊銖などに付けられるようになりたした。
 
ただし、軍事面でも絶倧な暩力を持っおいた蚳ではなく、和平を垌求し぀぀も軍に抌し切られる圢で開戊するこずもあったようです。

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䞀方、新政府は祭政䞀臎を掲げお神道の囜教化を進め、神仏分離什により仏教を排陀し、党神瀟を政府の支配䞋に眮き、倩照倧埡神を祀る䌊勢神宮を党神瀟の本宗に定めたした。
 
倧日本垝囜憲法第条では「倩皇ハ神聖ニシテ䟵スヘカラス」ずされ、宗教面で倩皇は神聖䞍可䟵の珟人神あらひずがみずされたした。 
 
「君臚すれども統治せず」
 
このように、圢ずしおは政治・軍事・宗教䞊の頂点に祭り䞊げられたのですが、それでも明治倩皇は独裁者ではなく、実態ずしおは倩皇が独自に行䜿できる暩限はほずんどなかったのです。
 
圓時の匱肉匷食の厳しい䞖界で日本が独立を保぀ためには、倩皇に「暩力」を集䞭するのではなく「暩嚁」を集䞭した方が、その生存力はより高たるずいう新政府の刀断があったのでしょう。
 
1926幎に即䜍した第124代・昭和倩皇は、皇倪子の頃から各囜を歎蚪するなど倖亀的な圹割も担っおいたした。
 
したがっお、昭和倩皇は若い頃から海倖事情に粟通し、米囜ずの囜力差なども正確に認識されおいたのですが、この時代になるず軍は益々匷硬さを増し、和平ぞのご意思が蔑ろにされるこずもあったようです。
 
1940幎、皇玀2,600幎を機に神瀟局は神祇院に昇栌、日本は䞇䞖䞀系の倩皇が統治する䞇邊無比の「神囜」ずされ、戊争錓舞のために倩皇の宗教䞊の暩嚁が益々匷化されたした。
 
しかし、1945幎8月9日、発目の原爆が長厎に投䞋されるず、昭和倩皇自らがポツダム宣蚀の受諟、すなわち無条件降䌏の聖断を䞋したす。そしお8月15日正午、玉音攟送で終戊が䌝えられるこずずなりたした。
 
8月30日、マッカヌサヌが厚朚に降り立ち、皇居近くに連合囜総叞什郚GHQが蚭眮されたす。連合囜は圓初、昭和倩皇を戊犯にしお凊刑する぀もりでした。
 
昭和倩皇は、軍郚が意に反し戊争に突き進んだにも関わらず、「この戊争の責任は党お自分にある、自分の呜はどうなっおも構わないので䞀億の民を飢えさせないで欲しい、将兵たちは自分の呜什に埓っただけなので、私䞀人を凊刑しおほしい」ずマッカヌサヌに請願したのでした。
 
自身の安党を䞀切顧みるこずなく、囜民ず将兵の安党を思う気抂に感銘を受けたマッカヌサヌは、連合囜の意向に反し倩皇を擁護する方向で米本囜に働きかけたした。
 
䜕ひず぀自由がない、䜕の暩限もない昭和倩皇が軍囜䞻矩者ず連合囜に立ち向かい、この戊争を終わらせたのです。

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☞ 映画「日本のいちばん長い日」
☞ 映画「終戊の゚ンペラヌ」
 
 そしお象城倩皇ぞ
こうしお、蟛うじお倩皇制は存続されたものの、GHQは倩皇を政治・軍事・宗教から培底的に切り離し、戊埌の日本囜憲法では、倩皇は「囜民統合の象城」(泚8) ãšå†å®šçŸ©ã•れたした。
 
(泚8) è±¡åŸŽå€©çš‡ã®ãŠå‹™ã‚
● å›œäº‹è¡Œç‚ºã®ã¿ïŒˆå›œæ”¿ã«é–¢ã™ã‚‹æš©èƒœã¯ãªã„
● å€©çš‡ã®ç§çš„行為ずしおの宮䞭祭祀
● ãã®ä»–、新幎祝賀、園遊䌚、勲章受章匏、信任状奉呈匏、远悌匏、怍暹祭、囜曞類の決裁、行幞・巡幞など、様々なご公務
 
第125代倩皇、珟圚の䞊皇様は、これらのお務めを通じお垞に囜民の安寧を祈り、囜民に寄り添い続けた象城倩皇です。冒頭でも述べた被灜地でのお姿こそが、たさに囜民統合の象城なのかもしれたせん。

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2016幎8月、象城ずしおのお務めに぀いお「おこずば」を述べられおいたす。その䞭で、象城倩皇の望たしい圚り方を日々暡玢され、䌝統を守り続ける責任に思いを臎し、䜕よりもたず囜民の安寧ず幞せを祈るこずを倧切に考えお来たこずが語られ、そしお「自らのありよう」に深く心し、囜民に察する理解を深め、垞に囜民ず共にある自芚を育おる必芁を感じお来たこずを述べられたした。

平成の倩皇ご自身のお蚀葉ではあったものの、ひず぀ひず぀のお蚀葉は、たるで叀いにしえから受け継がれおきた歎代倩皇のご意思でもあるかのようでした。
 
このように、倩皇は神代からの末裔であった初代・神歊倩皇が王暩を暹立し、軍勢を率いお倩䞋平定に奔走する倧王に始たり、時には民を思う聖垝ずしお、時には政治・軍事から離れた祭祀王ずしお、そしお近代では政治・軍事・宗教の頂䞊に立ち、戊埌は囜民統合の象城ずしお再出発され、今日に至っおいたす。
 
歎代倩皇は時代の倉化に柔軟に察応し、お姿を倉えながらも垞に日本の䞭枢に君臚し続けおきたのですが、䞀貫しお神歊倩皇からの「こずむけの粟神」や、仁埳倩皇のような「慈愛の心」「質玠倹玄」を是ずしお、垞に民の安寧を祈り続けおきた倩皇のお姿は、たさに日本人の特城そのものであり、倩皇が䞇䞖䞀系であるが故に匕き継がれおきた日本の矎埳なのでしょう。
 
☞ 日本人はなぜ日本のこずを知らないのか竹田恒泰 è‘—
 
 諞倖囜の王族ずの違い
珟圚の倩皇は、倖亀儀瀌プロトコル䞊、次のように䜍眮づけられおいたす。
第䜍 倩皇・皇垝・女垝Emperor, Empress
第䜍 ロヌマ教皇Pope
第䜍 囜王・女王King, Queen
第䜍 倧統領President
第䜍 銖盞Premier
 
倩皇は、諞倖囜の囜王Kingや女王Queenずは明癜に異なりたす。倩皇は日本にしかない䞖界で唯䞀無二の存圚で、䞖界的にも倩皇の地䜍は認められたものず蚀えるでしょう。
 
䜕が異なるかず蚀えば、次の点に尜きるず思いたす。
● å€©ç…§å€§åŸ¡ç¥žãšã„う神の盎系の子孫
● ç¥žé“の最高叞祭
● åˆä»£ãƒ»ç¥žæ­Šå€©çš‡ã‹ã‚‰ç¬¬126代の今䞊倩皇たで䞇䞖䞀系
● å€©çš‡ãŒæ‹…うのは「暩力」ではなく「暩嚁」
 
垞に囜民の安寧を祈り、和平を垌求し、質玠倹玄を是ずしおきた君䞻は䞖界史䞊たれにみる存圚であり、絶倧な暩力、軍事力、煌びやかな生掻、莅沢、暪暎などずいった君䞻のむメヌゞずは、たるで「真逆」なのです。
 
 日の䞞・君が代ずの関係
第回の冒頭で、オリンピックのような囜際詊合で「日の䞞」の掲揚や「君が代」の吹奏が行われるず、日本人であるこずに誇りを感じるものだず話したした。
 
同時に、以䞋の理由から「倩皇の臣民である」こずを意識される方も少なくはないず思いたす。
 
倩皇は倩照倧埡神を祖ずし、掚叀倩皇が「日出づる凊の倩子」で始たる囜曞を隋の皇垝に枡し、文歊倩皇が囜名を「日本」に定めたした。
 
平安末期から扇や旗に「日の䞞」(泚9) ãŒäœ¿ã‚ã‚Œå§‹ã‚ã€å°‘なくずも11䞖玀初頭たでには「癜地赀䞞」の日の䞞が出珟したようです。
 
幕末にペリヌの黒船が来航するず、船印・囜暙ずしお定められ、これを明治新政府も匕き継いで、1870幎に「日の䞞」を囜旗ずしお垃告したした。
 
このように倪陜を意識した赀い日の䞞は倪陜を象城するもので、たさに「日出づる凊の倩子」が君臚する日本にふさわしいデザむンずいえるでしょう。
 
(泚9) æ³•埋䞊は日章旗にっしょうきず呌ぶ。旧海軍や海䞊自衛隊が䜿甚する日章ず旭光を意匠化した旗に぀いおは旭日旗きょくじ぀きず呌ぶ
 
䞀方、「君が代」は、10䞖玀初頭の「叀今和歌集」に「読人知らず」の和歌ずしお掲茉され、圓初は祝犏を受ける人の長寿を歌ったものでしたが、埌に「倩皇の治䞖」を奉祝する歌になりたした。
 
囜歌ずしおは、1869幎に英囜人の軍楜隊教官だったゞョン・りィリアム・フェントンが䜜曲を申し出たこずを始たり、その埌、1880幎に宮内省雅楜課が旋埋を改めお付け盎し、それをドむツ人の音楜教垫フランツ・゚ッケルトが西掋和声により線曲したものが囜歌ずしお定着したした。
 
小石が成長しお倧きな岩ずなり、苔が生えるたでに数千幎も数䞇幎もの長い幎月を芁するこずから、「倩皇を囜䜓ずした䞖が末氞く続きたすように」ずの思いを蟌めた歌なのですいずれも、1999幎の「囜旗及び囜歌に関する法埋」で正匏に日本の囜旗・囜歌ずしお法制化された。

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 危機に際しおの倩皇ず囜民の関係性
では、冒頭で問いかけた「倩皇ず政府に察する囜民の心情的な反応の違い」に぀いお、その答えに迫りたいず思いたす。
 
内閣安党保障宀で初代宀長を務めた故・䜐々淳行氏は、危機に遭っおも暎動を起こさない囜民のガバナビリティ被統治胜力、぀たり囜民の偎の統治されうる胜力に぀いお賞賛しおいたす。
 
諞倖囜では、未曜有の倧灜害に遭遇した地域では、埗おしお奪い合いや暎動が起こっおいたすが、日本ではそのようなこずは起こりたせん。
 
䞭䞖以降、ガバナンス統治胜力の䞻䜓は幕府や政府にあった蚳ですが、危機に際しおは「自然に」倩皇が囜民の心の拠り所ずしおのガバナンスを発揮され、元々、朜圚的に高い囜民のガバナビリティも呌び起される、これにより日本は幟倚の危機を乗り越えおきたのではないでしょうか。
 
このような「倩皇ず囜民の関係性」こそが第の心髄であり、囜民のガバナビリティの源泉こそが、遥か神代の囜からの末裔であるずいう「正しい歎史芳」第の心髄ず、倚様で寛容な瀟䌚を支えおきた「和の粟神」第の心髄なのです。
 
䞖の䞭がどんなに倉わろうずも、この先どのような危機に芋舞われようずも、これらの心髄を忘れなければ、日本は日本であり続けるこずが出来るのではないかず思いたす。

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おわりに
第回でも述べたように、私自身、若い頃は倖囜の文化・生掻に憧れ、䜕かず海倖を志向する傟向にありたしたが、長いこず日本や倖囜に぀いお考える仕事に携わり、実際に海倖で暮らしお倖囜ず日本を比べおいるうちに、次第に「䜕故、かくも日本だけが違うのか」ず考えるようになり、その䞭で次第に本質的な日本の玠晎らしさに気づかされおいきたした。
 
昚今、「安定的な皇䜍継承」のため、女性倩皇・女系倩皇・宮家創蚭の是非など、様々な議論が提起されおいたす。しかし、安易にロむダル・ファミリヌず同列のゎシップに螊らされおはいけたせん。
 
もし皇宀の圚り方を倉えた方がいいず感じたなら、䞀床、立ち止たっお物事の本質を慎重に考える必芁がありたす。突き詰めれば、「日本ずいう囜を存続させるか吊か」ずいうこずなのです。
 
私達は遥か神代の囜からの末裔であるずいう「正しい歎史芳」ず、倚様で寛容な瀟䌚を支えおきた「和の粟神」、そしお幟倚の危機を乗り越えおきた「倩皇ず囜民の関係性」ずいうものに思いを臎し、皇宀がいかに重芁であるか、たた、どう圚るべきかに぀いお、個人個人が真剣に考える時期に差し掛かっおいるのではないでしょうか。